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第56話
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「お母さん、」
声が小さくなってしまったのは、言いたいことが喉の奥でつっかえていたから。
本当は、「行かないで」って言いたかった。
「今日は一緒にいて」って、抱きついて泣きたかった。
でも、目の前のお母さんは、スーツ姿でスマホを耳に当てながら、もう玄関に向かっていた。
ヒールの音が、家の中に乾いた音を響かせる。
その音が、雫の胸の奥を、静かに叩いていた。
「ごめんね雫、お母さん急な仕事が入っちゃって、すぐ会社に行かないといけないの」
その言葉は、何度も聞いたことがある。
「ごめんね」も、「急な仕事」も、「すぐ行かないと」も。
全部、私の中では定型文になっていた。
でも、何度聞いても、慣れることはなかった。
そのたびに、胸の奥がきゅっとなる。
お母さんの声は優しいのに、優しさが遠くに感じられた。
「お父さん」
お母さんが行ってしまうなら、お父さんが残ってくれるかもしれない。
そう思って、希望を込めて呼びかけた。
でも、返ってきたのは
「ごめんな雫。穴埋めは今度必ずするから」
その言葉に、心がすとんと落ちた。
今度っていつ?
必ずって、何回目?
お父さんの手は、もう車のキーを握っていた。
ネクタイを締め直す仕草が、どこか遠くに感じられた。
"お願いだから、我儘なんて言わないで"
その空気を読み取るのが、いつの間にか得意になっていた。
「…分かった。雫、一人でお留守番できる」
だから、そう言うしかなかった。
あの日は、私の誕生日だったのに。
「ありがとな。雫はお利口さんで、いい子だから助かるよ」
その言葉が、決定打だった。
それは褒め言葉のはずなのに、私には静かな呪いのように響いた。
私は本当はお利口さんなんかじゃなかった。
本当は、もっと二人と遊びたかった。
一緒にご飯を食べて、テレビを見て、くだらない話をして笑いたかった。
「行かないで」って泣きたかった。
「やだ」って駄々をこねたかった。
でも、いつからか我儘の出し方も忘れてしまった。
どう言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか、思い出せなくなっていた。
我慢しすぎたのか、我慢していることにすら気づかなくなっていた。
気づいたときには、もう"いい子"の仮面が顔に張り付いていて、
それを外す方法がわからなくなっていた。
誰かに甘えることが、怖くなっていた。
"いい子"って、なんだろう。
誰にも迷惑をかけないこと?
静かにしていること?
我慢すること?
もしそれがいい子なら、
私は、ずっといい子でいなきゃいけないの?
誰かに「嫌だ」と言ったら、
誰かに「寂しい」と言ったら、
誰かに「助けて」と言ったら、
その瞬間、私は"いい子"じゃなくなるの?
でも、嫌われたくなかった。
だから、そんなふうに思ってしまう自分がおかしいのだと、自分の気持ちに蓋をした。
誰かに「雫ってこういう子だよね」と言われるたび、その言葉に合わせて、仮面を貼り付けるようになった。
静かで優しい子。
空気が読める子。
手がかからない子。
私は、そんなふうに思われるために生きてるわけじゃないのに。
そんな仮面をつけるたびに、本当の自分が、少しずつ遠ざかっていく気がした。
仮面は、最初は守ってくれた。
でも、いつの間にか、呼吸を奪うようになった。
誰かと話していても、笑っていても。
心の奥では、ずっと沈黙していた。
それなら、ひとりでいた方がいいと思うようになった。
誰かと話すとき、少しだけ笑顔を作る。
誰かに誘われたら、やんわり断る。
誰かが困っていても、手を伸ばす前に一歩引く。
それが楽だった。
誰かに合わせる必要もない。
誰かに期待されることもない。
誰かに裏切られることもない。
ひとりでいることは、寂しい。
でも、安心でもあった。
誰にも見られない場所で、誰にも触れられない心で、
静かに呼吸することができた。
それが、私の選んだ「安全な場所」だった。
声が小さくなってしまったのは、言いたいことが喉の奥でつっかえていたから。
本当は、「行かないで」って言いたかった。
「今日は一緒にいて」って、抱きついて泣きたかった。
でも、目の前のお母さんは、スーツ姿でスマホを耳に当てながら、もう玄関に向かっていた。
ヒールの音が、家の中に乾いた音を響かせる。
その音が、雫の胸の奥を、静かに叩いていた。
「ごめんね雫、お母さん急な仕事が入っちゃって、すぐ会社に行かないといけないの」
その言葉は、何度も聞いたことがある。
「ごめんね」も、「急な仕事」も、「すぐ行かないと」も。
全部、私の中では定型文になっていた。
でも、何度聞いても、慣れることはなかった。
そのたびに、胸の奥がきゅっとなる。
お母さんの声は優しいのに、優しさが遠くに感じられた。
「お父さん」
お母さんが行ってしまうなら、お父さんが残ってくれるかもしれない。
そう思って、希望を込めて呼びかけた。
でも、返ってきたのは
「ごめんな雫。穴埋めは今度必ずするから」
その言葉に、心がすとんと落ちた。
今度っていつ?
必ずって、何回目?
お父さんの手は、もう車のキーを握っていた。
ネクタイを締め直す仕草が、どこか遠くに感じられた。
"お願いだから、我儘なんて言わないで"
その空気を読み取るのが、いつの間にか得意になっていた。
「…分かった。雫、一人でお留守番できる」
だから、そう言うしかなかった。
あの日は、私の誕生日だったのに。
「ありがとな。雫はお利口さんで、いい子だから助かるよ」
その言葉が、決定打だった。
それは褒め言葉のはずなのに、私には静かな呪いのように響いた。
私は本当はお利口さんなんかじゃなかった。
本当は、もっと二人と遊びたかった。
一緒にご飯を食べて、テレビを見て、くだらない話をして笑いたかった。
「行かないで」って泣きたかった。
「やだ」って駄々をこねたかった。
でも、いつからか我儘の出し方も忘れてしまった。
どう言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか、思い出せなくなっていた。
我慢しすぎたのか、我慢していることにすら気づかなくなっていた。
気づいたときには、もう"いい子"の仮面が顔に張り付いていて、
それを外す方法がわからなくなっていた。
誰かに甘えることが、怖くなっていた。
"いい子"って、なんだろう。
誰にも迷惑をかけないこと?
静かにしていること?
我慢すること?
もしそれがいい子なら、
私は、ずっといい子でいなきゃいけないの?
誰かに「嫌だ」と言ったら、
誰かに「寂しい」と言ったら、
誰かに「助けて」と言ったら、
その瞬間、私は"いい子"じゃなくなるの?
でも、嫌われたくなかった。
だから、そんなふうに思ってしまう自分がおかしいのだと、自分の気持ちに蓋をした。
誰かに「雫ってこういう子だよね」と言われるたび、その言葉に合わせて、仮面を貼り付けるようになった。
静かで優しい子。
空気が読める子。
手がかからない子。
私は、そんなふうに思われるために生きてるわけじゃないのに。
そんな仮面をつけるたびに、本当の自分が、少しずつ遠ざかっていく気がした。
仮面は、最初は守ってくれた。
でも、いつの間にか、呼吸を奪うようになった。
誰かと話していても、笑っていても。
心の奥では、ずっと沈黙していた。
それなら、ひとりでいた方がいいと思うようになった。
誰かと話すとき、少しだけ笑顔を作る。
誰かに誘われたら、やんわり断る。
誰かが困っていても、手を伸ばす前に一歩引く。
それが楽だった。
誰かに合わせる必要もない。
誰かに期待されることもない。
誰かに裏切られることもない。
ひとりでいることは、寂しい。
でも、安心でもあった。
誰にも見られない場所で、誰にも触れられない心で、
静かに呼吸することができた。
それが、私の選んだ「安全な場所」だった。
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