嘘月の夜

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8章

136話 死んでいく心

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 あれは、たしか俺が5歳のころだったと思う。

 

 まだ、母は仕事にも行っていて、服もアイロンがかかっていて、料理もきちんと並んでいて、家の中に“生活の形”が残っていた。

 

 ……でも。

 母の目からは、すでに生気が消えかけていた。

 

 たまに俺のことを「誰?」と呼ぶようになっていた。
 俺の名前を呼ぶより、「あなた」や「そこの子」と言うことが多くなっていた。

 

 それでも、俺は母が大好きだった。

 

 だから、ある日。
 勇気を振り絞って、父にお願いをした。

 

 「おかあさんをなぐらないで」
 「おかあさんとなかよくして」

 

 言った瞬間、空気が凍った。

 

 父——高槻冬真は、ゆっくりと振り向き、冷たい目で俺を見た。

 

 その笑みは、凍えるように薄くて、恐ろしいほどに無感情だった。

 

 「……じゃあ、お前があいつの代わりになれ」

 

 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
 でも、次の瞬間、強烈な痛みが頬に走った。
 

 床に投げ出され、身体がよじれる。

 

 「お前があんな役立たずの代わりに家を守れ」
 「俺に逆らったんだ。いい度胸してるな」
 「ガキが……調子に乗るな」

 

 次々に飛んでくる拳。足。

 大人の力で全力で叩かれる子どもの身体が、どうなるかなんて考慮もされなかった。

 

 声が出ない。痛くて叫ぶことすらできなかった。

 血がにじみ、息が詰まる。
 使用人たちは見て見ぬふり。
 母は、もう仕事に行っていて家にはいなかった。

 

 泣いても、誰も助けに来ない。

 

 それが、この家だった。

  
「あの女はだめだ。お前もあいつに似ている。はぁ。醜いものを触ってしまった。早くハニーに会いに行こう」

 その日を境に——俺は、父に逆らうのをやめた。

 

 無駄だったから。
 意味がないと悟ったから。

 

 そして、父と話すことそのものをやめた。

 話せば怒鳴られる。
 黙れば無視される。
 それなら——黙っている方がマシだった。

 

 

 

 2年後。俺は7歳になっていた。

 母は——もう、母ではなかった。

 

 身体はやせ細り、骨と皮だけ。
 目の下には深いクマができ、眠れない。
 頬はこけ、髪は束になって抜けていた。

 

 それでも、俺には母だった。

 ただの痩せた人じゃない。
 どんなに見た目が変わっても、俺にとっては母だった。

 

 母は、ほとんど俺のことを認識できなかった。

 声をかけても、「……どちら様?」と返ってくる。

 

 でも、ときどき、ほんの一瞬だけ、思い出してくれた。

 

 そのときだけは、手を握ってくれた。
 そのときだけは、名前を呼んでくれた。

 

 「れんちゃん……私の息子。私の希望。私のすべて」

 

 掠れた声で、そう言って。

 そして、ぽつりと残したのが——あの言葉だった。

 

 「どうか……自由に、生きて」

 

 俺には、どういう意味かなんて分からなかった。
 けれど、それが“願い”であり、“別れ”だったことは、なぜか直感で理解した。

 

 

 

 その数日後だった。

 

 朝起きて、母の部屋を覗くと、
 布団は乱れていて、母の姿はなかった。
 

 嫌な予感がして、屋敷の一角を走り回った。

 

 そして見つけた。

 和室で、首を吊っている母を。

 

 足元には、使い古された椅子が倒れていた。

 首に巻かれたロープは、きつく締まっていて——顔が、変色していた。

 

 それでも俺は母を母だとわかった。

 

 俺は、泣き叫んで、母の冷たい身体に抱きついた。
 返事がないのが怖くて、ゆさぶった。
 だけど、何をしても、母はもう戻らなかった。

 

 「……ごめんなさい……おかあさん……」

 
 「父からにげたせいで……」


 そう言いながら、俺は母の頬に顔を押しつけた。

 

 

 

 そこに現れたのは、父だった。

 

 冷たい目で死体を一瞥すると、鼻で笑って言い放った。

 

 「つまらん女だったな。最後まで、期待外れだ」

 

 そして、すぐに携帯電話を取り出して、別の女に連絡を入れた。

 

 「今夜、そっち行く。ようやく厄介払いが済んだ」

 

 そのとき、俺は「人間には、こんなにも心がないのか」と思った。

 父なんていなければいいと呪った。
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