嘘月の夜

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8章

137話 他殺

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 ——母は、自殺なんかじゃなかった。

 

 その事実を知ったのは、中学三年の冬だった。

 雪がちらつく朝、祖父母の残した古い書類の中に混じっていた、ある一枚の紙。
 それが、すべての始まりだった。

 

 俺の母・高槻沙華は、寝たきりになっていた。

 首を吊って死んだ、というのが表向きの“自殺”の原因だった。
 だが、当時の俺はまだ七歳。状況を把握する力も、周囲に疑問を向ける勇気もなかった。

 

 けれど、あの日、その紙を見てしまった。

 法医学的検死報告書のコピーだった。

 

 ・首に巻かれていたロープの高さ
 ・踏み台となっていた椅子の位置
 ・母の体重と脚力、筋力の明らかな不均衡
 ・そして、母の足の痣と裂傷

 

 ——これは、自分で椅子に登った人間の痕跡ではない。

 

 もっと言えば、そもそも母は歩くことも立つこともできなかった。

 筋力は失われ、骨はもろく、栄養失調による低体温と脱水状態。

 

 「自ら命を絶てる状態ではなかった」

 

 では、誰が?

 

 答えは、ひとつしかない。

 ——父・高槻冬真。

 

 
 冬真は、母に日常的に暴力を振るっていた。

 それだけではない。
 「完璧な妻」を育てる実験をしていた。

 

 何年も前、父が部屋でつぶやいていた言葉を思い出す。

 

 「人間はね、感情というノイズを失えば、どこまでも機械のように従順になれる。理性が上回れば“生体装置”になる」

 

 その研究対象が——母だった。

 

 立花沙華は名家の出身だった。
 才色兼備、品位と知性を兼ね備えた女性。

 

 だが、父はそれを「素材」として扱った。
 「どれだけ追い詰めれば、精神は壊れるか」

 「愛情という回路を切断すれば、人間はどうなるのか」

 

 実験は成功した。母は壊れた。

 

 声を出せなくなり、目の光を失い、感情を殺した。

 それでもまだ生きていた母に、最後の一撃が下された。

 

 


 ——それは、あの日。

 

 和室の畳に母は寝かされていた。
 酸素も点滴も与えられず、まるで“自然死を待つだけの存在”として放置されていた。

 

 そこへ、父がやってきた。

 

 「ようやく……」

 

 呟いたその声に、母は弱々しく反応した。

 

 「……と……ま……さ……」

 

 喉から出たのは声とは呼べないものだった。
 けれど、確かに母は生きていた。必死で、生きようとしていた。

 

 父はその姿に、笑った。

 

 「やっとお前を殺せる」

 

 母の身体を持ち上げ、和室の梁にロープをかける。

 椅子を用意し、立たせる。

 まともに立てない母の脚が小刻みに震えていた。

 

 それでも、父は迷わなかった。

 

 最後に聞こえたのは、母のかすかな声。

 

 「……あ、ぅ……」

 

 椅子を、蹴飛ばした。

 

 ロープがきつく締まり、身体が宙に浮く。
 口が大きく開かれ、酸素を求めてあえぐ。

 

 父は腕を組み、その様子を見下ろしていた。

 

 「やっと終わるな。くだらない実験材料だったよ」

 

 数時間後、母は完全に息絶えた。

 


 そしてその夜、父は俺に言った。

 

 「明日から、貴様の教育をやり直す。あの女のは“失敗作”だった。だが——お前は、壊せる」

 

 俺は、言葉を失った。

 母の遺書には、わずか一行だけ残されていた。

 

 「連理を頼みます」

 

 けれど、その言葉は、父の手で封じられた。

 以降、俺への教育は加速した。
 人間らしい感情を見せるたび、殴られた。
 母の話をすることは、絶対の禁忌となった。

 

 

 いま——俺はそれを知ってしまった。

 母は、父に殺された。

 意図的に、計画的に、冷酷に。

 

 なのに、父は堂々と生きている。
 誰からも裁かれず、“研究者”として尊敬されすらしている。

 

 吐き気がした。

 涙は出なかった。ただ、怒りも悲しみも、どこか遠くにあった。

 

 俺の中で、なにかが静かに音を立てて崩れた。

 

 ……ああ、もう。
 このままじゃ、全部が父の手の中だ。

 

 俺は、母の遺書の言葉を見つめ直す。

 

 「連理を頼みます」

 

 この願いは、もう誰にも渡せない。

 だから——俺が、俺を守るしかない。
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