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8章
140話 裏切り行為
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母が死んだあの晩、俺は泣きつかれて、何度も目を擦った。けれど、目の前の現実は、変わらなかった。
布団の中、目を閉じても、浮かぶのは母の亡骸。
白い顔。硬くなった指。ぶら下がったロープの、音。
父は、泣き叫ぶ俺を見て、吐き捨てるように笑った。
「死んで当然だ。あんな役立たずの雌が」
――その晩から、父は家に帰ってこなくなった。
代わりに俺は、高槻家へ預けられた。父の実家。旧家で、やたらと広い屋敷。けれど、そこには“家族”と呼べるものは誰ひとりいなかった。
祖父も祖母も、俺に興味がなかった。
「冬真の子か」と、うさんくさそうに見下し、最低限の食事と部屋だけを与えた。
それも、使用人が機械的に運ぶものだった。
俺が喋っても、誰も返事をしない。
家の中では常に物音を立てないよう気を使い、泣くことも怒ることも、感情を表に出すことは許されなかった。
「うるさい子は嫌われるわよ」と、祖母は一度だけ口にした。
その冷たい声が、今も耳に残っている。
俺はひとりきりになった。
学校に通うようになっても、それは変わらなかった。
教室では笑っている子どもたちがいた。母と手を繋いで迎えに来る人もいた。
楽しそうにお弁当を開き、弟や妹の話をする子もいた。
俺は、ただ静かに、机に向かっていた。
「家族」の話題が出るたびに、心臓が痛くなった。
俺の家は、もう壊れていた。
母はもういない。父はどこにいるのかも知らない。
そして、預けられた家では、俺はまるで“影”のような存在だった。
……あるとき、同級生が聞いてきた。
「連理のママは?」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……いないよ」
そう答えるのが精いっぱいだった。
でも、その子は悪気もなく言った。
「そっか……でも大丈夫! うちのお母さん、ママ友いっぱいだから、紹介してあげよっか?」
俺は笑えなかった。
声も出なかった。
ただ、その子が遠ざかっていくのを黙って見ていた。
――俺には、母はいない。
優しくて、美しくて、あたたかかった母は、もういない。
父は、あの母の死後、別の女たちと一緒にいた。
何人もの女性が屋敷を出入りしていたことを、幼いながらに覚えている。
そのときは知らなかった。
“浮気”や“不倫”という言葉も、まだ分からなかった。
ただ、直感で思った。――これは「母への裏切り」だと。
俺は、父を許せなかった。
けれど、幼い俺には、なにもできなかった。
――どうして、俺は助けられなかったんだろう。
どうして、父は俺に笑ってくれなくなったんだろう。
どうして、俺だけ、こんなに寂しいんだろう。
そんな気持ちを抱えたまま、俺は、言葉を失っていった。
感情を失くしていった。
誰とも、深く関わろうとしなくなった。
「感情なんて無駄だ。弱さの象徴だ」
あの家で、何度も言われた言葉が、今も心に残っている。
母を思い出すたび、胸が張り裂けそうになる。
けれど、母の記憶を消すことも、できなかった。
俺にとって母は、世界でたったひとりだったから。
布団の中、目を閉じても、浮かぶのは母の亡骸。
白い顔。硬くなった指。ぶら下がったロープの、音。
父は、泣き叫ぶ俺を見て、吐き捨てるように笑った。
「死んで当然だ。あんな役立たずの雌が」
――その晩から、父は家に帰ってこなくなった。
代わりに俺は、高槻家へ預けられた。父の実家。旧家で、やたらと広い屋敷。けれど、そこには“家族”と呼べるものは誰ひとりいなかった。
祖父も祖母も、俺に興味がなかった。
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それも、使用人が機械的に運ぶものだった。
俺が喋っても、誰も返事をしない。
家の中では常に物音を立てないよう気を使い、泣くことも怒ることも、感情を表に出すことは許されなかった。
「うるさい子は嫌われるわよ」と、祖母は一度だけ口にした。
その冷たい声が、今も耳に残っている。
俺はひとりきりになった。
学校に通うようになっても、それは変わらなかった。
教室では笑っている子どもたちがいた。母と手を繋いで迎えに来る人もいた。
楽しそうにお弁当を開き、弟や妹の話をする子もいた。
俺は、ただ静かに、机に向かっていた。
「家族」の話題が出るたびに、心臓が痛くなった。
俺の家は、もう壊れていた。
母はもういない。父はどこにいるのかも知らない。
そして、預けられた家では、俺はまるで“影”のような存在だった。
……あるとき、同級生が聞いてきた。
「連理のママは?」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……いないよ」
そう答えるのが精いっぱいだった。
でも、その子は悪気もなく言った。
「そっか……でも大丈夫! うちのお母さん、ママ友いっぱいだから、紹介してあげよっか?」
俺は笑えなかった。
声も出なかった。
ただ、その子が遠ざかっていくのを黙って見ていた。
――俺には、母はいない。
優しくて、美しくて、あたたかかった母は、もういない。
父は、あの母の死後、別の女たちと一緒にいた。
何人もの女性が屋敷を出入りしていたことを、幼いながらに覚えている。
そのときは知らなかった。
“浮気”や“不倫”という言葉も、まだ分からなかった。
ただ、直感で思った。――これは「母への裏切り」だと。
俺は、父を許せなかった。
けれど、幼い俺には、なにもできなかった。
――どうして、俺は助けられなかったんだろう。
どうして、父は俺に笑ってくれなくなったんだろう。
どうして、俺だけ、こんなに寂しいんだろう。
そんな気持ちを抱えたまま、俺は、言葉を失っていった。
感情を失くしていった。
誰とも、深く関わろうとしなくなった。
「感情なんて無駄だ。弱さの象徴だ」
あの家で、何度も言われた言葉が、今も心に残っている。
母を思い出すたび、胸が張り裂けそうになる。
けれど、母の記憶を消すことも、できなかった。
俺にとって母は、世界でたったひとりだったから。
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