嘘月の夜

fireworks

文字の大きさ
5 / 9
8章

140話 裏切り行為

しおりを挟む
 母が死んだあの晩、俺は泣きつかれて、何度も目を擦った。けれど、目の前の現実は、変わらなかった。

 布団の中、目を閉じても、浮かぶのは母の亡骸。
 白い顔。硬くなった指。ぶら下がったロープの、音。

 

 父は、泣き叫ぶ俺を見て、吐き捨てるように笑った。

 

 「死んで当然だ。あんな役立たずの雌が」

 

 ――その晩から、父は家に帰ってこなくなった。

 

 代わりに俺は、高槻家へ預けられた。父の実家。旧家で、やたらと広い屋敷。けれど、そこには“家族”と呼べるものは誰ひとりいなかった。

 

 祖父も祖母も、俺に興味がなかった。
 「冬真の子か」と、うさんくさそうに見下し、最低限の食事と部屋だけを与えた。
 それも、使用人が機械的に運ぶものだった。

 

 俺が喋っても、誰も返事をしない。
 家の中では常に物音を立てないよう気を使い、泣くことも怒ることも、感情を表に出すことは許されなかった。

 

 「うるさい子は嫌われるわよ」と、祖母は一度だけ口にした。
 その冷たい声が、今も耳に残っている。

 

 俺はひとりきりになった。

 

 学校に通うようになっても、それは変わらなかった。

 教室では笑っている子どもたちがいた。母と手を繋いで迎えに来る人もいた。
 楽しそうにお弁当を開き、弟や妹の話をする子もいた。

 

 俺は、ただ静かに、机に向かっていた。
 「家族」の話題が出るたびに、心臓が痛くなった。

 

 俺の家は、もう壊れていた。
 母はもういない。父はどこにいるのかも知らない。
 そして、預けられた家では、俺はまるで“影”のような存在だった。

 

 ……あるとき、同級生が聞いてきた。

 

 「連理のママは?」

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。

 

 「……いないよ」

 

 そう答えるのが精いっぱいだった。
 でも、その子は悪気もなく言った。

 

 「そっか……でも大丈夫! うちのお母さん、ママ友いっぱいだから、紹介してあげよっか?」

 

 俺は笑えなかった。
 声も出なかった。
 ただ、その子が遠ざかっていくのを黙って見ていた。

 

 ――俺には、母はいない。

 優しくて、美しくて、あたたかかった母は、もういない。

 

 父は、あの母の死後、別の女たちと一緒にいた。
 何人もの女性が屋敷を出入りしていたことを、幼いながらに覚えている。

 

 そのときは知らなかった。
 “浮気”や“不倫”という言葉も、まだ分からなかった。
 ただ、直感で思った。――これは「母への裏切り」だと。

 

 俺は、父を許せなかった。
 けれど、幼い俺には、なにもできなかった。

 

 ――どうして、俺は助けられなかったんだろう。

 どうして、父は俺に笑ってくれなくなったんだろう。

 どうして、俺だけ、こんなに寂しいんだろう。

 

 そんな気持ちを抱えたまま、俺は、言葉を失っていった。
 感情を失くしていった。
 誰とも、深く関わろうとしなくなった。

 

 「感情なんて無駄だ。弱さの象徴だ」

 あの家で、何度も言われた言葉が、今も心に残っている。

 

 母を思い出すたび、胸が張り裂けそうになる。
 けれど、母の記憶を消すことも、できなかった。

 

 俺にとって母は、世界でたったひとりだったから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

包帯妻の素顔は。

サイコちゃん
恋愛
顔を包帯でぐるぐる巻きにした妻アデラインは夫ベイジルから離縁を突きつける手紙を受け取る。手柄を立てた夫は戦地で出会った聖女見習いのミアと結婚したいらしく、妻の悪評をでっち上げて離縁を突きつけたのだ。一方、アデラインは離縁を受け入れて、包帯を取って見せた。

私は貴方を許さない

白湯子
恋愛
甘やかされて育ってきたエリザベータは皇太子殿下を見た瞬間、前世の記憶を思い出す。無実の罪を着させられ、最期には断頭台で処刑されたことを。 前世の記憶に酷く混乱するも、優しい義弟に支えられ今世では自分のために生きようとするが…。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を

さくたろう
恋愛
 その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。  少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。 20話です。小説家になろう様でも公開中です。

地味な私を捨てた元婚約者にざまぁ返し!私の才能に惚れたハイスペ社長にスカウトされ溺愛されてます

久遠翠
恋愛
「君は、可愛げがない。いつも数字しか見ていないじゃないか」 大手商社に勤める地味なOL・相沢美月は、エリートの婚約者・高遠彰から突然婚約破棄を告げられる。 彼の心変わりと社内での孤立に傷つき、退職を選んだ美月。 しかし、彼らは知らなかった。彼女には、IT業界で“K”という名で知られる伝説的なデータアナリストという、もう一つの顔があったことを。 失意の中、足を運んだ交流会で美月が出会ったのは、急成長中のIT企業「ホライゾン・テクノロジーズ」の若き社長・一条蓮。 彼女が何気なく口にした市場分析の鋭さに衝撃を受けた蓮は、すぐさま彼女を破格の条件でスカウトする。 「君のその目で、俺と未来を見てほしい」──。 蓮の情熱に心を動かされ、新たな一歩を踏み出した美月は、その才能を遺憾なく発揮していく。 地味なOLから、誰もが注目するキャリアウーマンへ。 そして、仕事のパートナーである蓮の、真っ直ぐで誠実な愛情に、凍てついていた心は次第に溶かされていく。 これは、才能というガラスの靴を見出された、一人の女性のシンデレラストーリー。 数字の奥に隠された真実を見抜く彼女が、本当の愛と幸せを掴むまでの、最高にドラマチックな逆転ラブストーリー。

離婚した彼女は死ぬことにした

はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。 もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。 今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、 「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」 返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。 それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。 神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。 大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。

処理中です...