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9章
162話 彼岸花
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俺は、着替えたかった。
胸元に染みついたコーヒーのしみと、熱でひりつく感覚をどうにかしたかった。
けれど――そんな時間は与えられなかった。
父が先に歩き、俺はその背中を追う。
文化祭の喧騒から離れた中庭。木々の間を渡る風が、ざわざわと葉を揺らす。
賑やかな声が遠ざかり、ここだけが異様に静かだった。
……悔しい。
何もできないなんて。
こいつの前では、ただ息をして立つことすら難しい。
どうして俺は、こんなやつと血を分けているんだ。
母を殺した罪。
どうにかして、それを暴き出して償わせたい。
それが俺の唯一の願いで、確かな憎悪だけが燃えている。
父はふいに足を止め、中庭に咲いていた赤い花を見下ろした。
――彼岸花。
「……」
しゃがみ込み、根元から茎をつかんで、あっさりと引き抜いた。
鮮やかな赤い花弁が風に散り、地面に落ちる。
「学校のものだろうが、構うものか」
そう言いながら、むしり取った花弁を一枚ずつ指で引き裂いていく。
花びらが風に乗って飛んでいく様子を、父は楽しげに眺めていた。
「あいつも……こんなに儚い女だった。遊び甲斐のない、本当につまらないやつだった」
俺の喉が震えた。
言葉が出ない。
ただ拳を握り締め、血が滲みそうなほどに爪を食い込ませる。
「信じられないかもしれんが、俺はあいつに一目惚れしたんだ」
父は目を細め、どこか懐かしむように笑った。
「確か、他大学との同窓会パーティーでな。あいつはひときわ美しかった。純粋で、無垢で……」
その表情が歪む。口角が吊り上がり、目の奥は冷たく光っていた。
「あいつを壊したかったんだ」
俺の心臓が止まるかと思った。
政略結婚だと聞かされていた。
確かに、それもあったのだろう。
だが、こいつは最初から母を壊す気で近づいた。殺すつもりで。
血の気が引いていく。
背中に冷たい汗が流れた。
「本当はな。お前以外にも兄弟を作ろうとしたんだ」
父は千切った花弁を、ひらひらと落としながら続ける。
「あいつはなかなか妊娠しなかった。だから俺も手を尽くしたさ。だが、どうやら密かに薬(避妊薬)をやっていたようだ」
薬――。
まさか。
母が自ら、不妊治療の過程で飲まされた薬以外の何かを……?
「おかげで、お前しか産まれなかった。あいつとはな……本当に、不妊の女で苦労したよ」
その言葉に含まれた「含み」に、俺は息を呑んだ。
――まるで、父には俺以外にも子供がいるかのように。
心臓が早鐘のように鳴る。
いや、苦労したのは母だろうが。
痛みに耐え、孤独に怯え、命を削って……それでも俺を産んだのは、母だ。
「……」
俺の唇は動かない。声は出ない。
ただ内側で膨れ上がる怒りが、喉を焼き尽くしそうだった。
父は笑い、最後の花弁を引き裂いた。
「可哀想だったな。まさか、自殺だなんて」
――その言葉で、俺の視界は真っ赤になった。
こいつは笑っている。母を嘲り、踏みにじり、今なお玩具にしている。
許せない。絶対に。
だが――俺の口は閉ざされたまま。
終始、俺は何も言えなかった。
ただ、握り締めた拳に憎悪を込め、風に散る赤い花弁を見つめるしかなかった。
胸元に染みついたコーヒーのしみと、熱でひりつく感覚をどうにかしたかった。
けれど――そんな時間は与えられなかった。
父が先に歩き、俺はその背中を追う。
文化祭の喧騒から離れた中庭。木々の間を渡る風が、ざわざわと葉を揺らす。
賑やかな声が遠ざかり、ここだけが異様に静かだった。
……悔しい。
何もできないなんて。
こいつの前では、ただ息をして立つことすら難しい。
どうして俺は、こんなやつと血を分けているんだ。
母を殺した罪。
どうにかして、それを暴き出して償わせたい。
それが俺の唯一の願いで、確かな憎悪だけが燃えている。
父はふいに足を止め、中庭に咲いていた赤い花を見下ろした。
――彼岸花。
「……」
しゃがみ込み、根元から茎をつかんで、あっさりと引き抜いた。
鮮やかな赤い花弁が風に散り、地面に落ちる。
「学校のものだろうが、構うものか」
そう言いながら、むしり取った花弁を一枚ずつ指で引き裂いていく。
花びらが風に乗って飛んでいく様子を、父は楽しげに眺めていた。
「あいつも……こんなに儚い女だった。遊び甲斐のない、本当につまらないやつだった」
俺の喉が震えた。
言葉が出ない。
ただ拳を握り締め、血が滲みそうなほどに爪を食い込ませる。
「信じられないかもしれんが、俺はあいつに一目惚れしたんだ」
父は目を細め、どこか懐かしむように笑った。
「確か、他大学との同窓会パーティーでな。あいつはひときわ美しかった。純粋で、無垢で……」
その表情が歪む。口角が吊り上がり、目の奥は冷たく光っていた。
「あいつを壊したかったんだ」
俺の心臓が止まるかと思った。
政略結婚だと聞かされていた。
確かに、それもあったのだろう。
だが、こいつは最初から母を壊す気で近づいた。殺すつもりで。
血の気が引いていく。
背中に冷たい汗が流れた。
「本当はな。お前以外にも兄弟を作ろうとしたんだ」
父は千切った花弁を、ひらひらと落としながら続ける。
「あいつはなかなか妊娠しなかった。だから俺も手を尽くしたさ。だが、どうやら密かに薬(避妊薬)をやっていたようだ」
薬――。
まさか。
母が自ら、不妊治療の過程で飲まされた薬以外の何かを……?
「おかげで、お前しか産まれなかった。あいつとはな……本当に、不妊の女で苦労したよ」
その言葉に含まれた「含み」に、俺は息を呑んだ。
――まるで、父には俺以外にも子供がいるかのように。
心臓が早鐘のように鳴る。
いや、苦労したのは母だろうが。
痛みに耐え、孤独に怯え、命を削って……それでも俺を産んだのは、母だ。
「……」
俺の唇は動かない。声は出ない。
ただ内側で膨れ上がる怒りが、喉を焼き尽くしそうだった。
父は笑い、最後の花弁を引き裂いた。
「可哀想だったな。まさか、自殺だなんて」
――その言葉で、俺の視界は真っ赤になった。
こいつは笑っている。母を嘲り、踏みにじり、今なお玩具にしている。
許せない。絶対に。
だが――俺の口は閉ざされたまま。
終始、俺は何も言えなかった。
ただ、握り締めた拳に憎悪を込め、風に散る赤い花弁を見つめるしかなかった。
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