心の面影

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1章 いびつなこころ

1話 絶望へようこそ

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1話 絶望へようこそ
 世界が終わった音。平穏が崩れた音。あのときから終わりの見えない長い夢が始まった。
 うららかな春の陽気。太陽の光が雪を溶かしていく。鳥のさえずりと柔らかな風に誘われ、眠りにつく。蕾は膨らんだだろうか。花の絨毯で、街が彩られる日はそう遠くない。花吹雪が舞い、踊り、気まぐれに空を泳ぐ。
 椅子に座り、デスクの上の紙の束に目を通す。必要であればサインを書き、判子を押し、ときには破る。単調な作業の繰り返し。静かな空気を破る足音、遠くの騒ぎ声。目の前のドアが乱暴に開けられ、ひとりの使用人が頭を下げた。
「失礼いたします!」
「どうしましたか。そんなに慌てて。何かあったのですか?」
 ペンを置き、おもりを紙の上にのせる。風のせいで目に前髪が入り、さっと払う。
 使用人の男性。息が荒く、顔はりんごの皮のように真っ赤だ。膝に手をつき、垂れてきた汗を片手で拭う。普段とは違う大きな声と荒い息遣いに、思わず手を止めて見つめた。
「奥様が……!」
「何ですか……? ノナが何か?」
 痰が詰まったのか、咳き込む男性。息をするのも苦しそうで、立つのもやっと。開けられたドアから聞こえる声がさらに大きくなり、男性の声をかき消す。何かしらの騒ぎが起き、ノナが巻き込まれたのだろうか。
「ううう……! とにかくついてきてください!」
「はい」
 部屋を出て廊下に立つとわかる。屋敷はこんなに騒がしかったか? 何人もの人の声が縦横無尽に交錯する。よくわからないが、急ぎ足で男性の後ろについていった。
「説明するには……ううっ、とても……耐えられません……!」
 声が近づき、温かな春の陽気が遠ざかる。廊下に敷かれたカーペットを蹴り、風のように走った。左手に応接室、会議室、私室、右手は吹き抜けの階段とホール、正面玄関。
「ノナに何かあったのですか?」
 3階の突き当りまで走ったが、ほかの使用人も皆同じところに向かっている。人が左に偏りすぎだ。持ち場と仕事を忘れて、惨劇を確かめようとしている。男性は西側の階段へと走り、駆け足で下る。揺れる背中を見つめ、耳を澄ました。
「はい。それが……うううっ」
 嗚咽混じりに話そうとした。だが、気楽に話せなかった。
 そうこうしているうちに、2階に到着した。足が止まる。集まった人のせいでよく見えないが、1階と2階の踊り場が現場らしい。
「旦……那様を……お連れっ……!」
 男性は仕事を果たし、ばたりと床に倒れた。近くにいた別の使用人が彼を助け、声をかける。喧騒がはるか遠くに聞こえた。立っているのに、足が地面についていない。まるで浮かぶ風船。あらゆる感覚が落ちる。触れられない。目に見えない。聞こえない。
 ――絶望へようこそ。
 だれかが手招いた。絶望、地獄、世界の崩壊。
 目の前の光景が信じがたいほどに現実味を帯びる。
 ――ああ、これは……絶望だ。
「目を開けてください!」
「奥様! お気を確かに!」
「旦那様!」
「お医者様は!?」
「今呼んでるわ!」
 使用人をかき分けて前に進む。身を乗り出して、上から状況を確かめる。見てはいけない呪い。触れてはいけない誘い。
「……どうして」
 妻がうつ伏せで倒れているなんて、そんな。そんなわけない。あれはノナではない。別物だ。
 ノナは苦しそうに顔を歪め、唇をきゅっと結んでいる。顔の半分しか見えない。ミルクティーに似た色の髪が乱れ、風に揺れる。手は間に合わなかったのか、ありえない方向に曲がってしまった。お腹は潰れ、瞬きすらもしない。本当に動けないようだった。
「奥様は奇跡的に一命を取り留めましたが、後遺症が残るでしょう。そして――」
「……」
「残念ながら、お腹の中のお子様は……」
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