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幸福(幸せ)

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子供の頃に、地震に遭遇した。僕が6歳の時だ。 
母親と新橋の地下ショッピング街を歩いていた。 
その頃、母親が何歳なのか気にしたこともなかったが、今、計算すると、母親は28歳だった。

離婚していたので、物心ついた時には父親はおらず、母は僕を溺愛していた。
僕も母が大好きだった。 

地震の瞬間は覚えている。 

グラグラ、とかではない。 
かすかな揺れを感じた瞬間、大音響と共に体を突き飛ばされたように跳ね上げられ、真っ暗になり、そして落ちた。

「俊ちゃん!」母親の悲鳴のような叫び声を聞きながら、先ほど立っていた床よりも低く落ちて行った。 

僕は地震の地割れに落ちたんだと思い、地底深く吸い込まれる恐怖に慄いた。 
だから、直ぐに地面にたたきつけられたとき、痛さよりも安堵の気持ちの方が強かった。
 
しばらくして、痛みが体中を襲ってきて、そして動けなかった。 

もうもうとした砂煙なのだろう。真っ暗で見えなかったが口の中がジャリジャリして息苦しかった。 

「おかあさん!」暗闇の中、叫んだが返事は無かった。 

「おかあさん!」もう一度叫んだが、やはり返事は無かった。 

どこかで非常灯が点灯しているのか、暗さに目が慣れてくると、周りの様子が見えてきた。
僕が落ちてきたと思われる天井の割れ目から、先ほどまでいた地下街が押し潰されているのが判った。
自分は足元が崩れて地下街のさらに下にある倉庫の様な部屋に落ちたことで、助かったんだと理解できた。

僕がいた部屋も押し潰されて低くはなっていたが、幸い大きな梁が斜めに崩れ、それが押し潰された天井を辛うじて支えていた。 

これだけのコンクリートが隙間なく崩れて、さっきの地下街を歩いていた人達はどうなったのだろう。 

母親は? 

「おかあさん!」もう一度叫んだが、返事はなかった。遠くから何人かのうめくような声が聞こえた。 
身体は相変わらず動かず、そのまま気を失うように寝入ってしまった。 

しばらくして、目が覚めた。どれほどの時間が経ったのかは判らなかった。ふと、自分が柔らかな膝枕の上で寝ている事に気が付いた。 

「目が覚めた?」母親の声だった。 

「おかあさん!」頭を撫でていてくれている母親の手を強く握った。 

「よかった、おかあさん、無事で!」 

「男の子ねえ、自分よりもおかあさんの心配してくれるなんて。探したのよぉ。随分長い間、一所懸命探したのよ。良かった、会えて。良かった生きていて」 

「足が痛いよ。動かない。」 

「動かさないで、折れてるの。でもきっと治るから」 

母親との会話以外、音は全くなく静寂な空間だった。
母親は、服とかが破れて汚れたり、手足に擦り傷があったが、その他に大きな怪我はなく、髪の毛も乱れておらず、きれいに見えた。 

「お腹すいた」 

「大丈夫」そういって母親はコンビニ袋を見せた。中には僕の好きな甘いコーヒー牛乳とコッペパン、クリームパンが入っていた。 

「お財布無くしたの。店員さんに言ったら、商品散乱してるし、好きなものを持って行っていいって。お金はいらないって。」 

「やさしいね。」と僕。 

「うん、やさしいね。」と母親。 

ふと、どのようにしてコンビニへ行ったのだろう、と思ったが、あまり気にしなかった。母親は僕のためならどの様な事もしてくれていた。

コッペパンを食べてコーヒー牛乳を飲んだら落ち着いた。 
また、母親の膝枕で寝ながら話をした。 

「すごい地震だったね。僕たち閉じ込められたんだね。助かるかな」

「ええ、きっと助かるよ」根拠はないだろうが、母親としてはそういわざるを得なかっただろう。 
「おかあさんも落ちたの」 

「ううん、上の階にいたの。あの穴から、俊ちゃんを見つけたとき、動いてなかったから心配したのよ。生きているのが判って、ほんとに嬉しかった。」 

母親とはしばらくの間、色々な話をした。 

「ここ出られたら、どこへ行きたい?」 

「USJに行きたい!」小学校で友達が自慢げに話をしていた、が、直ぐに家にお金があまり無い事に気が付き「あっ、でも大丈夫、行かなくても」と言った。 

「バカな子ねぇ。ごめんね。こんなに小さいのに気を遣わせて」 

「でも、大丈夫。おかあさん、USJ貯金してるから。もうすぐ貯まるから」 

「ほんと? 行きたい!」 

母親は生活の為によく働いていた。僕はそれをいつも見ていた。 

「僕は大きくなったら、弁護士になる。」 

「どうして?」 

なにも崇高な目標があったわけではなく、テレビとかで弁護士はお金を稼げるというイメージがあり、ただ、それだけで弁護士になりたかった。 

「だって、儲かるじゃない。おかあさん。僕が弁護士になったら、もう働かなくていいからね。」 

「あら、嬉しい。じゃあ、俊ちゃんが弁護士になるまでは、かあさん頑張るね。でも、俊ちゃん、本当にやりたい仕事に就いていいんだよ。」 

「じゃあ、お医者さん」 

「それって・・・」 

「うん、お金持ちになれそうだから」 

「もう、この子は・・・」そういって笑った。 

「でも、ありがとう、俊ちゃん。おかあさん、俊ちゃんの事、大好きよ」 

「僕も、おかあさん、大好きだよ」 

話しをしている間に、また、眠くなりいつの間にか寝入っていた。 

重機の音で目が覚めた。 

「助けに来てくれたんだ!」 

「良かった。助かるね。だから大丈夫って言ったでしょう?」まるで自分の手柄のように言う母親が可愛かった。 

「どのくらい経ったの」 

母親は時計を見ながら、「地震から丸一日かな」

時々、重機の音が止まった。 
誰かいないか、中の音を聞いているんだと気が付いた。 

「助けて!」母親が大きな声を出した。 

「助けて!」僕も一緒に大きな声を出した。 

「声じゃだめだ、なにか音を出さなきゃ」 

コンクリのかけらで床を叩いた。声よりは大きな音が響いた気がする。でも、聞こえただろうか? 
また、重機の音がしはじめたが、少し遠ざかった気がした。 

不安がよぎった。 

「今度、音が止まったら、おかあさん、上に行って、助けを呼んでくる」 

そういって、斜めになった梁を起用に伝って穴の方へ登って行った。 
なるほど、降りてくるときもあの梁を使ったのか、と思った。 

穴に飛びついたとき、下からスカートの中のきれいな足とパンティが良く見えた。 

「おかあさん、パンティ見えてるよ」 

「バカ」 

そう言って、上の方へ消えて行った。 

随分時間が経った気がした。 
穴の上の、大きなコンクリの破片が除かれる音と共に、こっちだ、こっちだ、という声が聞こえた。 
そして、穴から隊員が覗いて、僕を見つけ「大丈夫か?」と大きな声をかけた。 

「大丈夫です! おかあさんは? おかあさんが知らせてくれたのですか?」 

少し間をおいて 

「そうだ、おかあさんが、君がここにいると知らせてくれた」 

隊員に抱きかかえて吊り上げられ、穴を通過したとき、穴の上の床に「子供が下にいます。助けて」と血で書かれた文字が見えた。 

********** 

「子供が母親を探していますが・・・」
 
「お前、ちゃんと話しろ」 

「いやですよ。こういうのは苦手なんです」 

「お前が、母親が知らせてくれたって言ったんだろ?」 

「それはそうですが・・・、実際あのメモでわかったんですし」 

「いつ、亡くなったんだ?」 

「おそらく、地震のほぼ直後。子供を探し回ったのだと思います。近辺、這った血の跡があっちこっちに付着してます。穴から子供を見つけて、最後の力を振り絞って書いたのでしょうね。でも、子供は今さっきまで一緒にいた、と言ってます」 

「う~ん、混乱してるんだろう。でも、よく食料が手元にあったよなあ。よく、コンビニで食料を買っていたものだ。あのおかげで怪我はしてるが、元気だ」 

「それが・・・」 

「ん?」 

「あの、コンビニ、地上にありますよね。そこの店主が救助を手伝ってくれてて」 

「ああ、俺の先輩。元消防隊員。助かるよなあ」 

「えー? そうだったんですか。道理で手際がいい。早く言ってください」 

「で?」 

「ああ、あの女性の遺体を見て、あれ、この女性、地震のあと、店に来たはずだけど、と驚いてました」 

「・・・・・」 

「・・・・・」 

「何なんだろうな・・・」 

「解りません。解りませんが、でも・・・なんだか、母親の愛って、すごいなぁ、と」 

「そうだな。・・・・お前、やはり、お前があの子に伝えてこい。」 

「そうですね。・・・僕の役目ですね。母親がどれだけあの子を愛していたのかも合わせて伝えてきます」 

しばらくして、母親の遺体にすがりながら、泣き叫ぶ子供の声が響き渡った。 

**********
 
「お父さん、ミニオン、あっちだよ」手をつないでる聡が半分走りかけながら言った。 

「急がなくても大丈夫」エクスプレスパスを持っている僕は強気だった。 

妻の智子は、そんな二人を後ろから微笑みながら優しく見ていた。僕は左手を智子に差し出し手をつないだ。結局、USJ貯金は見つからなかった。
 
「智子は今年28歳だね」 

「そうよ、会社で、女性に歳尋ねると嫌われるわよ」 

「セクハラになるから訊かないさ」 

「お義母様かあさまが無くなったのも28歳ね」 

「ああ」 

「私の今の歳で亡くなるなんて、私には想像もできない。どう、私はお義母様かあさまほどでは無いにしろ、良き妻、良き母かしら」 

「理想の妻、理想の母だよ」 

「褒めすぎだわ」 

「何、話してるの」聡が話に割り込んできた。 

「おかあさんは美人だなって、話してた」 

「友達も言ってたよ。聡のお母さん、美人だなあって」 

「あら、そうかしら」まんざらでもない表情をした。 

右手を聡と左手を智子と手をつなぎ、別に誰に聞かせるでもなくつぶやいた。

「俺は何があっても、お前たちを守る。絶対に守って見せる」

智子には聞こえたのだろうか。繋いだ手の力を入れた後で、手を腕に絡めてきて、つぶやいた。 

「愛してるわ、あなたも聡も。心から」 

僕は空を見上げた。青い空が眩しい。

今、こうして愛情に包まれた何気ない日常を過ごせている。

この上ない幸せで、涙が流れてきた。

そして、言った。 

「おかあさん・・・、おかあさん、ありがとう」

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