逃亡聖女と社畜

澤谷弥(さわたに わたる)

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 ミュリエルの姿がドアの向こうに消え、部屋に一人残された別府は、途方に暮れたように呟く。

「どうしたものか……」

 視線の先には、壁際に寄せられた簡素な木のテーブルと椅子。よろよろと立ち上がり、腰を押さえながらそこへ向かう。椅子にドサリと腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。

 今日の午前中、顧客向けのデモンストレーションがあった。そのための検証データを準備するため、早朝から実験室にこもっていた。

 誰もいない無機質な部屋で、パソコンのモニターと向き合い、ログを解析するいつものルーティン。

 社会人になって十五年、中間管理職という名の雑用係だ。

 部下が「できない」「無理です」と投げ出した仕事は、結局自分で引き受ける羽目になる。

 会社に飼い慣らされ、いいように使われている自覚はある。独身で一人暮らし、家族のしがらみもないからと、つい業務を詰め込み、プロジェクトのスケジュール管理まで背負い込む。

 三六協定なんてあってないような状態だった。昨年、労基署からの指導が入り、残業管理が厳しくなったせいで、仕事はさらにやりづらくなった。

 だからこその早出だった。早朝なら出勤時間を誤魔化せる裏技がまだ残っていた。

 始業の八時半まであと二時間。缶コーヒーでも買おうと立ち上がった瞬間、足がもつれて尻餅をついた。運動不足のツケが回ってきたらしい。

「いって……」と呻きながら顔を上げると、目の前の景色が一変していた。

 実験室ではない。機械の無機質な唸りも、モニターの青白い光もない。代わりに、木の温もりに満ちた小さな部屋。窓から差し込む柔らかな光が、埃の粒子をキラキラと浮かび上がらせている。

 ここはどこだと思うのは、自然な流れだろう。だが、そこで見知らぬ女性に声をかけられたのは完全に予想外だった。しかも見るからに日本人ではない。茶色の髪を背中に流し、ヘーゼルの瞳はどこからどう見ても外国人だった。

 どこの国の人だと思ったら、ララララとか聞いたことのない国の名前を口にする。

 夢かと思った。

 だが、ぶつけた腰はじんじんと痛む。これほど痛むのに夢なわけがない。

 目の前の女性はミュリエル――リエと名乗り、聖女だと言う。どうやら別府は異世界から呼ばれたらしい。

 その時点で、別府の脳は処理能力の限界を超えそうだった。

 まるで、若手社員たちが昼休みに盛り上がるアニメやライトノベルの世界だ。半ば反射的に、『もしかして、俺は勇者とかだったりするのか?』と聞いてみた。

 異世界に召喚されたなら、国を救ったり魔王を倒したりする使命があるはず。

 そう思ったのに、彼女はあっさり『しません』と切り捨てた。

 だったらなんのために召喚されたのか。
 彼女の答えはさらに衝撃的だった。

『そもそも私が召喚したのは家畜です』

 つまり、家畜を呼ぼうとして、なぜか社畜の自分が現れたってことか? 

 別府は脱力するしかなかった。疲れ果てた心に苦笑する。

 状況を整理し、なんとか受け入れたところで、喉の渇きと空腹が一気に襲ってきた。

 そもそもコーヒーを飲もうとしていたのだ。はたして、この世界の生活水準はどのようなものか。その辺はおいおいと確認すればいいだろう。

 テーブルの上に置かれている水差しと籠。籠をのぞくと、クッキーが無造作に入っていた。これが彼女が言っていたおやつのようだ。

 水差しからグラスに水を注ぎ、飲んでみた。外国の生水は飲むなと教わったが、ここに用意されているなら大丈夫だろうと自分を納得させる。

 味は普通の水だった。薬臭さもなければ、変な後味もない。とはいえ、この後に腹痛が襲ってくる可能性はゼロじゃない。油断は禁物だ。

 おやつのクッキーの見た目は、クッキー専門店で売っているものに近い。プレーンな色のものを一つ選び、口へと運ぶ。

 これも普通にクッキーだった。ほのかな甘味がちょうどいい。

 となれば、もしかして、もしかしなくても、ここで生きていけるのではないだろうか。

 気がかりなのは、今日の顧客デモンストレーションだ。実際のデモは企画部が担当するから、別府の役割は技術的な質問への回答役。同じプロジェクトのメンバーなら、代わりを務められるだろう。

 解析中のデータは、誰かが気づいて引き継いでくれればいいが……まあ、もうどうでもいいか、と投げやりな気分になる。

 静かな部屋に、実験室のファンの音はない。熱風も感じない。

 代わりに、窓の外から鳥のさえずりが聞こえ、さわやかな風がカーテンを揺らす。

 この穏やかな空間に、別府の身体は少しずつ沈み込んでいった。椅子に座ったまま、うつらうつらと瞼が重くなる。

 やっぱり、これは夢なんじゃないか――そう思いながら、彼は眠りに落ちていった。

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