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第二章
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病院に閉じこもっているあいだに季節は秋を迎えた。今年も九月いっぱいまでは残暑が厳しかったようだが、十月に入ってから気温は下がりつつある。昼間は暖かいが、朝夕は冷える。樹生は薄手のカーディガンを羽織って、外泊の支度を済ませた。
母の言っていた通り、昼前に父が車で迎えに来てくれた。父はこれまでも週末の度に見舞いに来てくれてはいたが、「調子はどうだ」と訊ねるだけでほとんどはリハビリの様子をじっと見ているだけでしかなかった。父とはもともと会話は多くない。今更キャッチボールを望んでいるわけじゃないが、病院から家までの道すがら、FMもBluetoothも繋げていない静かな車内で、会話もなく二人きりというのは息苦しいものがあった。ちなみに母は準備と後片付けがあるからと二日前に一足先に帰宅している。
「……足の型を採ったんだって?」
気まずいのは父も同じなのか、絞り出すように聞かれた。
「ああ、うん。……でも完成まではしばらくかかるって」
「しばらくってどのくらいなんだ」
「チェックソケットっていう仮の仮の義足を作って、それでリハビリしてから仮義足を作るって」
「仮ってことは、本当の義足ではないってことか?」
「訓練用の義足だからちゃんとしたモノだよ。断端の形が整うのに大体一年半くらいかかるらしいから、それが整って二本目に作る義足が本義足って言うらしいよ」
この辺りの説明は母から既に聞いているはずだ。わざわざ樹生に同じ説明をさせるほど、父も話題に困っていると見える。
「……耐用年数があるらしいな。壊れたりしたら修理も必要だろう」
「そりゃ……まあ、たぶん……ソケットが合わなくなったら都度調整しなきゃいけないらしいし……。一生使うもんだし」
「不便になるな」
父は何気なく事実を言っただけかもしれない。確かに定期的に調整をしなければいけないのは面倒なことだ。まだ義足をつけていないので履き心地は分からないが、以前のようにサクサクと歩くことは難しいかもしれない。それでも父の言葉は樹生の心を重くするのに充分な言葉だった。
父との会話はそれで終わった。やっぱり父のことは苦手だ。
最後に家にいたのは八月の夏真っ盛りだった。セレクションに行く直前の慌ただしい朝。部屋はあの日のままなのだろうか。空白の二ヶ月を想像して、改めて生きて帰って来たのだと実感する。まるで復員兵のような気持ちで自宅のドアを開けた。
「樹生、おかえり!」
真っ先に出迎えたのはもちろん母だ。外泊とはいえ長期間入院していた息子がやっと家に帰って来た喜びを抑えきれんとばかりの笑顔だった。まだ義足のない樹生は松葉杖をついている。母は玄関にあらかじめ置いてあった椅子に樹生を座らせ、松葉杖の先をウェットティッシュで丁寧に拭いた。
「滑らないように気を付けて」
「大丈夫だって」
続いてリビングからやってきたのは兄である。正月ぶりだろうか。茶色に染められた髪が大人びていて、少し痩せたのかもともとシャープな頤がさらにすっきりしたように思う。スッと通った鼻筋に濃い眉。我が兄ながら顔が良い。両親のいいところをすべて奪っていったような男だ。少しくらい弟に残してくれてもよかったのに。
「どうよ、具合は」
事故後、初対面だというのになんとも味気ない挨拶である。兄はずかずかと樹生に近付くと、垂れ下がっているズボンの裾を無遠慮に握った。
「ほんとに足、ないんだ。どこまで残ってんの? 太腿か?」
兄は清々しいほどデリカシーがない。思ったことをそのまま口にするし、繊細な話題もオブラートに包むということをしない。こういうところが樹生は苦手だ。韓流アイドルのような整った見た目をしているだけになおのこと感じが悪い。
「大樹、やめなさい」
手伝ってあげて、と母に言われて兄が樹生の腕を取ろうとしたが、樹生は身をよじって断った。下手に補助されてもかえって歩きにくいし、これみよがしに甲斐甲斐しく世話をされるのは嫌だからだ。
「自分で歩けるから」
「うーわ、可愛くない奴」
兄は笑いながらそう言って、あっさりリビングに引っ込んだ。後から入って来た父も「行けるか?」と一言訊ねるだけで手を貸そうとはしない。頷いたら兄に続いて樹生を通り過ぎていった。
「本当に手伝わなくていいの? 家の中は段差も多いから……」
「だからそれに慣れるために外泊したんじゃないか。作業療法士さんにもオッケーもらってるし」
リビングから兄が叫ぶ。
「なんでもかんでも手ェ出したらリハビリにならないだろ、甘やかすなよ」
そういうことなのだが、兄に言われるのはどうしてか癪に障る。
思えばサッカー漬けの毎日だった頃、家の中での主な会話の相手は母だった。母は樹生のサッカーに協力的で、練習日は必ず送迎をしてくれていたし、エネルギー補給用におにぎりとバナナを毎回持たせてくれた。練習から帰ったらすぐに食べられるように晩御飯を用意してくれて、ドロドロのユニフォームを寝る前に洗濯してくれる。サポートしてくれるぶん母との会話は多かった。
一方、父は基本的に仕事第一で、家事をすることはたまにあったが、樹生のサッカーに関してはノータッチだった。試合にも来ないし、送迎をしてくれたこともない。嫌な感じだな、とは思っていたが諦めてもいた。父は、スポーツよりも勉強に力を入れて欲しいようだったから。まともに勉強もせずサッカーに明け暮れる樹生に協力する気などなかったのだろう。樹生は樹生で応援してくれない父とは関わりたくなかったから、父とは食事の時間をずらしたりして避けてきた。だから父とは会話が少ない。
兄は――、小さい頃は仲が良かったような気がするが、兄の高校受験が近くなった辺りから距離ができた。横でゲームをしているだけでうるさいと怒鳴られたし、庭でリフティングをしていたら出て行けとも言われた。それから兄のことも避けるようになって、気付いたら兄は第一志望の高校、大学に進み、父の期待通りに成長して家を出ていった。
最後に四人で食卓を囲んだのはいつだったっけ。樹生があらかじめ母にリクエストしておいたすき焼きをつつきながら、そんなことを考えた。
「どう、樹生。美味しい?」
「すげー久しぶりに肉食べた」
「俺はしゃぶしゃぶのほうがよかったんだけど」
そのくせ兄は一番大きい肉をかっさらっていく。
結局この日は一日のほとんどをリビングで過ごした。紅茶とお菓子を囲んでみんなで仲良く談話――というわけにはいかず、それぞれがスマートフォンなりタブレットなりをいじりながら自分のペースで時間を潰した。母はもっと家族でお喋りを楽しみたかったようだが、デリカシーゼロの兄と淡白な父と思春期の樹生では難しいことだった。それでも振り返ってみれば悪くはなかった。
最初は父と兄と同じ空間にいることすら苦痛だった。兄は少しでも気に入らないことがあるとすぐに怒るし、父はガミガミ言わなくとも不満があると無言の圧力をかけてくるような人間だ。嫌な気持ちになったら部屋に引っ込もうと思っていたが、存外に彼らは穏やかだった。なんなら樹生が床で自主トレをしていたら父はおもむろにマットを敷いてくれたし、トイレに行こうとしたら「手が欲しかったら言えよ」と兄が声を掛けてくれた。椅子の足に松葉杖が引っかかって転びそうになった時も積極的に手は出さないものの「大丈夫か」と気にしてくれた。今まで自ら避けていたから微塵も思わなかったが、父も兄も優しいところがあるのかもしれない。そう思うとせっかくだから自室に籠もらず一緒に過ごしてみようかという気になったのだった。
そんな比較的平和な日中からのすき焼きだ。今度古谷に外泊のことを聞かれたらなかなか良かったと伝えようと樹生は思った。
病院に閉じこもっているあいだに季節は秋を迎えた。今年も九月いっぱいまでは残暑が厳しかったようだが、十月に入ってから気温は下がりつつある。昼間は暖かいが、朝夕は冷える。樹生は薄手のカーディガンを羽織って、外泊の支度を済ませた。
母の言っていた通り、昼前に父が車で迎えに来てくれた。父はこれまでも週末の度に見舞いに来てくれてはいたが、「調子はどうだ」と訊ねるだけでほとんどはリハビリの様子をじっと見ているだけでしかなかった。父とはもともと会話は多くない。今更キャッチボールを望んでいるわけじゃないが、病院から家までの道すがら、FMもBluetoothも繋げていない静かな車内で、会話もなく二人きりというのは息苦しいものがあった。ちなみに母は準備と後片付けがあるからと二日前に一足先に帰宅している。
「……足の型を採ったんだって?」
気まずいのは父も同じなのか、絞り出すように聞かれた。
「ああ、うん。……でも完成まではしばらくかかるって」
「しばらくってどのくらいなんだ」
「チェックソケットっていう仮の仮の義足を作って、それでリハビリしてから仮義足を作るって」
「仮ってことは、本当の義足ではないってことか?」
「訓練用の義足だからちゃんとしたモノだよ。断端の形が整うのに大体一年半くらいかかるらしいから、それが整って二本目に作る義足が本義足って言うらしいよ」
この辺りの説明は母から既に聞いているはずだ。わざわざ樹生に同じ説明をさせるほど、父も話題に困っていると見える。
「……耐用年数があるらしいな。壊れたりしたら修理も必要だろう」
「そりゃ……まあ、たぶん……ソケットが合わなくなったら都度調整しなきゃいけないらしいし……。一生使うもんだし」
「不便になるな」
父は何気なく事実を言っただけかもしれない。確かに定期的に調整をしなければいけないのは面倒なことだ。まだ義足をつけていないので履き心地は分からないが、以前のようにサクサクと歩くことは難しいかもしれない。それでも父の言葉は樹生の心を重くするのに充分な言葉だった。
父との会話はそれで終わった。やっぱり父のことは苦手だ。
最後に家にいたのは八月の夏真っ盛りだった。セレクションに行く直前の慌ただしい朝。部屋はあの日のままなのだろうか。空白の二ヶ月を想像して、改めて生きて帰って来たのだと実感する。まるで復員兵のような気持ちで自宅のドアを開けた。
「樹生、おかえり!」
真っ先に出迎えたのはもちろん母だ。外泊とはいえ長期間入院していた息子がやっと家に帰って来た喜びを抑えきれんとばかりの笑顔だった。まだ義足のない樹生は松葉杖をついている。母は玄関にあらかじめ置いてあった椅子に樹生を座らせ、松葉杖の先をウェットティッシュで丁寧に拭いた。
「滑らないように気を付けて」
「大丈夫だって」
続いてリビングからやってきたのは兄である。正月ぶりだろうか。茶色に染められた髪が大人びていて、少し痩せたのかもともとシャープな頤がさらにすっきりしたように思う。スッと通った鼻筋に濃い眉。我が兄ながら顔が良い。両親のいいところをすべて奪っていったような男だ。少しくらい弟に残してくれてもよかったのに。
「どうよ、具合は」
事故後、初対面だというのになんとも味気ない挨拶である。兄はずかずかと樹生に近付くと、垂れ下がっているズボンの裾を無遠慮に握った。
「ほんとに足、ないんだ。どこまで残ってんの? 太腿か?」
兄は清々しいほどデリカシーがない。思ったことをそのまま口にするし、繊細な話題もオブラートに包むということをしない。こういうところが樹生は苦手だ。韓流アイドルのような整った見た目をしているだけになおのこと感じが悪い。
「大樹、やめなさい」
手伝ってあげて、と母に言われて兄が樹生の腕を取ろうとしたが、樹生は身をよじって断った。下手に補助されてもかえって歩きにくいし、これみよがしに甲斐甲斐しく世話をされるのは嫌だからだ。
「自分で歩けるから」
「うーわ、可愛くない奴」
兄は笑いながらそう言って、あっさりリビングに引っ込んだ。後から入って来た父も「行けるか?」と一言訊ねるだけで手を貸そうとはしない。頷いたら兄に続いて樹生を通り過ぎていった。
「本当に手伝わなくていいの? 家の中は段差も多いから……」
「だからそれに慣れるために外泊したんじゃないか。作業療法士さんにもオッケーもらってるし」
リビングから兄が叫ぶ。
「なんでもかんでも手ェ出したらリハビリにならないだろ、甘やかすなよ」
そういうことなのだが、兄に言われるのはどうしてか癪に障る。
思えばサッカー漬けの毎日だった頃、家の中での主な会話の相手は母だった。母は樹生のサッカーに協力的で、練習日は必ず送迎をしてくれていたし、エネルギー補給用におにぎりとバナナを毎回持たせてくれた。練習から帰ったらすぐに食べられるように晩御飯を用意してくれて、ドロドロのユニフォームを寝る前に洗濯してくれる。サポートしてくれるぶん母との会話は多かった。
一方、父は基本的に仕事第一で、家事をすることはたまにあったが、樹生のサッカーに関してはノータッチだった。試合にも来ないし、送迎をしてくれたこともない。嫌な感じだな、とは思っていたが諦めてもいた。父は、スポーツよりも勉強に力を入れて欲しいようだったから。まともに勉強もせずサッカーに明け暮れる樹生に協力する気などなかったのだろう。樹生は樹生で応援してくれない父とは関わりたくなかったから、父とは食事の時間をずらしたりして避けてきた。だから父とは会話が少ない。
兄は――、小さい頃は仲が良かったような気がするが、兄の高校受験が近くなった辺りから距離ができた。横でゲームをしているだけでうるさいと怒鳴られたし、庭でリフティングをしていたら出て行けとも言われた。それから兄のことも避けるようになって、気付いたら兄は第一志望の高校、大学に進み、父の期待通りに成長して家を出ていった。
最後に四人で食卓を囲んだのはいつだったっけ。樹生があらかじめ母にリクエストしておいたすき焼きをつつきながら、そんなことを考えた。
「どう、樹生。美味しい?」
「すげー久しぶりに肉食べた」
「俺はしゃぶしゃぶのほうがよかったんだけど」
そのくせ兄は一番大きい肉をかっさらっていく。
結局この日は一日のほとんどをリビングで過ごした。紅茶とお菓子を囲んでみんなで仲良く談話――というわけにはいかず、それぞれがスマートフォンなりタブレットなりをいじりながら自分のペースで時間を潰した。母はもっと家族でお喋りを楽しみたかったようだが、デリカシーゼロの兄と淡白な父と思春期の樹生では難しいことだった。それでも振り返ってみれば悪くはなかった。
最初は父と兄と同じ空間にいることすら苦痛だった。兄は少しでも気に入らないことがあるとすぐに怒るし、父はガミガミ言わなくとも不満があると無言の圧力をかけてくるような人間だ。嫌な気持ちになったら部屋に引っ込もうと思っていたが、存外に彼らは穏やかだった。なんなら樹生が床で自主トレをしていたら父はおもむろにマットを敷いてくれたし、トイレに行こうとしたら「手が欲しかったら言えよ」と兄が声を掛けてくれた。椅子の足に松葉杖が引っかかって転びそうになった時も積極的に手は出さないものの「大丈夫か」と気にしてくれた。今まで自ら避けていたから微塵も思わなかったが、父も兄も優しいところがあるのかもしれない。そう思うとせっかくだから自室に籠もらず一緒に過ごしてみようかという気になったのだった。
そんな比較的平和な日中からのすき焼きだ。今度古谷に外泊のことを聞かれたらなかなか良かったと伝えようと樹生は思った。
応援ありがとうございます!
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