少年が気持ちよくなる方法

三木

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 裕司は良に合鍵を渡してから、一週間以上同居しておいて合鍵を持たせていなかったのも妙な話だとおかしくなった。
 基本的に良は一人で家を出入りすることがなかったので、鍵の必要性がなかったのだが、それにしても色んなことの順番が笑ってしまうほどあべこべだった。
 とりあえずはしばらく仕事部屋にこもるから放っておいてくれていいと言うと、晩御飯は一緒に食べられるのかと訊かれた。
「ああ、うん、もしかしたら少し待たせるかもしんねえけど……」
 そう答えると、良は、別にいいよ、とあっさりとした返事をしてから、不意に顔を寄せてきてキスをした。
「仕事がんばってね」
 ああ、とか、おお、とか、裕司はそんな曖昧な返事をした。正直どんなリアクションを取ればいいのかわからなくて、良の瞳の美しさだけがはっきりと意識できていた。
 仕事部屋の戸を閉めてから、心臓がむやみにうるさいことを自覚して、深いため息をつくことしかできなかった。

 一人で気ままに暮らすことに慣れていた裕司にとって、現状維持以上のことをしようと思うと、思いの外良を気がかりに思うことが多くて、家庭を持つ男の苦労の片鱗に触れた気がした。
 子どもの運動会だとか、夫婦の記念日だとか、実家の付き合いだとか、あれこれ気にかけていたかつての同僚を思い出し、当時は何も共感してやれなくてすまなかったな、などと考えたりもした。
 そしてさっそく浮上した案件を、裕司は夕食の席で良に伝えた。
「明日ちょっと仕事で出たいんだけどな、……もしかすると、お前が起きる前に家を出ないといけないかもしれないんだが……」
 それはこれまでの良の言動を考えると、裕司には即決しかねることだった。良にとって睡眠から覚めたときの状況は精神状態に大きく影響を与えるようだったし、裕司はこの家に良を一人きりにしたことがほとんどなかった。
 良はすぐに返事をしなかったが、やがてこう訊いてきた。
「……帰り遅くなるの?」
「いや、暗くなる前には帰るつもりなんだが」
 そっか、と良は呟き、感情の読めない声で、
「わかった、気を付けてね」
と言った。
 良がどう感じているのか裕司にはよくわからなかったが、これといった感情を表さない顔を見て、たぶん何かを考えて、それを自分の中に仕舞っているのではないかという気がした。
「……出る前に起こして声かけるから」
 そう言うと、良は少しだけ微笑んだ。
「うん」
 それからしばらくは沈黙が続いた。それは裕司にとってはとても落ち着かない時間で、頭の中で良にかける言葉をあれこれと考え続けて、良が箸を置いてようやく口を開くことができた。
「なあ……俺の考え過ぎだったら全然いいんだが、いくら俺の仕事の都合だからって、お前が思ったことを言わずに我慢しなくてもいいんだからな」
 良はぱちぱちと瞬いて、いくらか驚きを表してから、首を傾けて考える顔をした。
「…………別に、我慢したつもりじゃないんだけど」
「……だったら、その、勘繰ってすまん」
 ううん、と良は首を振った。
「この家であんたの帰りを待つってしたことなかったから、どんな気持ちかなって考えたよ。……あんたの帰りが遅くなったら、すごく不安になるんじゃないかって思ったけど、よく考えたらあんたが外にいても連絡できるんだし、……連絡もつかなくて帰ってもこないみたいな状況、心配してもしょうがないなって」
 良の声は静かだったが、それを聞いて裕司は、やっぱり不安だったんじゃねえか、と思う。良はどうにも自分の感情を認識することが不得手であるように思われた。
「……良」
 裕司は迷いながら、良の手に自分のそれを重ねた。
「その……そういうことを言ってくれていいんだよ。言ってどうなるもんでもないのはそうなんだが……、……言ってくれたらお前の気持ちが少しでも想像できるようになるし……」
 歯切れの悪い言い方だな、と、裕司は自分の言葉に歯痒くなる。しかし良は、ぽつりと、あんたほんとに優しいね、と呟いた。
「ほんと言うと、……食事時に言うことじゃないなって思って、絶対ご飯まずくなるだろうなって思って言うのやめたんだ」
「……さっきの、考えたことか?」
 ううん、と良は首を振った。
「まだあんたに言ったことないこと……。……聞いてくれる?」
 当たり前だろ、とやや強い声で裕司は言った。言ってから言い方がきつかったか、と一瞬心配になったが、良は目を細めて穏やかな顔をしていた。

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