少年が気持ちよくなる方法

三木

文字の大きさ
上 下
57 / 97

57

しおりを挟む
 久々に会う仕事仲間も、大人同士のどうということもない世間話も、業務用品で構成されたオフィスの設備も、裕司に懐かしさとある種の恋しさを抱かせた。
 総合的に考えるとオフィスでの勤務は自分に合っていなかったし、今の環境に特段の不満もなかったが、仕事をするために調えられた空間と、個人ではなかなか手が出せない最新の設備の利便性はやはり魅力的だった。そして人間の心理は都合よく、多くを美化して裕司の記憶をくすぐった。
 大きな案件を終えた後に同僚と飲みに行くのは楽しかったし、早く上がれた日に一人で遊びに行くのも好きだった。
 独立して長いが、今でも時折、うちに来ないかと声をかけてくれる者がある。それは有り難いことだったし、何らかの事情で一人で立ち行かなくなったときにまだ行き場があると思えることは精神的にも助けになった。
 そんなことを考えながらも、裕司は気持ちのどこかが急いているのを否定できなかった。独り身で、いつも自分の好きなように時間を使ってきたけれど、今日ばかりは早く家に帰りたかった。
 家に帰って何がしたいというわけではない。ただ、帰って良を安心させたかったし、自分が安心したかった。
 昼過ぎにスマホを見ると、良からテキストメッセージが届いていた。
『ちゃんと起きてご飯食べたから』
 なんでそこで終わるんだよ、と裕司は一人で苦笑した。食べたから何だと伝えたかったのか。食べたから心配しないで、なのか、食べたから褒めてほしい、なのか。
 いずれにしても、良は良で裕司に心配されていることを察しているのだと思うと、胸に満ちるものがあった。
 特に伝えるべきことも思い付かなかったが、何も返さないのも愛想がないと思って、帰りに何か買っていった方がいいものはないかと送った。すると良からは、
『別に』
という短い返事の後に、付け足すように、
『何か思い出したら言う』
と返ってきた。
 普段から愛想のない態度が常だったが、文字だとますます愛想がないなと思って、それがやけにおかしかった。彼らしいと思ったし、この無愛想さの裏で彼が彼なりに気を遣い、色々と考えているのだろうと思うとなおさらだった。
 いくつかの折衝と交渉の手応えは悪くなく、自宅の最寄り駅に着いた頃には西日がこれから街を照らそうとしている頃合いだった。良からの連絡は特になく、アイスでも買って帰れば彼が喜ぶかもしれないと思っても、寄り道をする気にはなれなかった。
 西日の中を真っ直ぐに帰って、玄関を開けて、ぎこちなくただいまと声をかけたが、返事はなかった。良の靴はあったので、聞こえなかったのかと思いながらリビングに入ると、良はいつものソファで寝ていた。
 ちゃんと着替えて、寝癖も一度は直したようだったが、寝息の穏やかさも静かさも朝によく見るそれで、裕司はつい笑ってしまう。よく寝るやつだな、と思いながら、不安で膝を抱えているよりは寝ていてくれた方がよほど気が楽だった。
 近付いて顔をよく見ようとして、裕司は止まる。良の頬に涙の跡があった。
 一瞬息を詰めて、無意識に手を伸ばそうとして、やめた。良の寝顔は安らかで、眠りを妨げるのは気が引けた。
 裕司はそっと良のそばを離れて、部屋に上着を仕舞いに行き、手を洗ってうがいをした。そして台所でコーヒーを淹れて、良から少し離れたところに腰を下ろして、ノートパソコンを開いた。
 部屋はとても静かで、時折外の車道の音が聞こえるほかは、タイピングの音だけが響いていた。良はそこにいるのを忘れてしまえるほど静かで、眠りは深いようだった。
 カップの中のコーヒーがなくなって、立ち上がるのが億劫でいるうちに仕事に集中してしまって、いくらも経った頃に、不意に良の声がした。
 目を向けると、良はソファの上で半身を起こして、裕司を見て目をしばたたかせていた。
「え……なに、いつ帰ったの」
 また寝癖をつけてそんなことを言うので、裕司は笑った。
「一時間ちょっと前かな」
 良はぽかんとして、時計と裕司を見比べた。
「……なんで起こしてくれなかったの」
 それは残念なような、途方に暮れたような、そんな声音だった。裕司を責めたいわけではなく、かといって簡単に諦め切れないような、複雑な感情が滲んでいた。
「……気持ちよさそうに寝てたからな」
 言って、裕司はパソコンを閉じる。そして立ち上がって、良の隣に座り直した。
 うっすらと残る涙の跡に、おそらく良は気付いていないのだろうと思われた。
 何を見つめられているのかわからないという顔をした良を、裕司はおもむろに抱き寄せる。すんなりと抵抗なく腕の中に収まるのが愛しくて、同時にひどく切なかった。
「……ごめんな、待たせて」

しおりを挟む

処理中です...