大人になる約束

三木

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 ふはあ、と情けない声を漏らしてしゃがみこんでいる良に、裕司はくつくつと笑って、すでに軽いペットボトルを差し出した。
「ほら、もう全部飲んじまえ」
「ん……」
 良は残っていた麦茶を一気に飲み下すと、大きく息をついてのろのろと立ち上がった。
「あー、もう筋肉使ってなさすぎた」
「若いんだしすぐ戻るだろ」
「なんか肺活量減った気がするんだけど」
 言いながら、良は己の胸を撫でた。ついこの間までの暮らしぶりを考えると、今の彼は病み上がりのようなものだ。
「無理すんなよ」
 そう声を掛けると、良はしおれた顔で頷いた。以前の自分と比較すれば気落ちするのもやむを得まい。裕司は彼が運動らしい運動をしているところを見たことがないからその落差を知る由もなかったが、彼も以前は同級生と何かしらの球技なりを楽しんでいたのだろう。そう思うと、それを見られなかったことが残念だった。
「ああ、ずっと向こうの山まで見えるな」
 首を巡らせてみると、展望台というだけあって、柵の向こうは何も遮るものがなく、はるか遠くまで一望できた。
「えっ、山なんかある?」
 良はそんなことを言って、疲れを忘れたような足取りで裕司を追い越して手すりに取り付いた。
 体力が多少落ちたところで、若々しい好奇心は陰らないのだから、やはり彼は若者なのだ。仮に裕司が彼より身体を動かすことができても、彼ほど容易に気持ちを高揚させることはできなかった。
「ほんとだ、すごい、まだうちからそんな離れてないと思ってた」
 うち、と呼ぶのはこの場合実家のことだろうと推察しながら、裕司は良の隣に並ぶ。手すりに腕を乗せると、淡い色に塗られたそこは懐炉のように熱かった。
「そんなには来てねえよ。お前の学校があった辺りはあの辺かな」
 眼下はほとんど建物が密集していて、その合間合間に川や平地があり、かすむほど遠くに山の稜線が見えていた。
 ランドマークを手がかりに来た道を説明してやると、良は日射しの熱いことも忘れたように、かつて住んでいた辺りをじいと凝視して黙ってしまった。
「……良?」
 唇を薄く開けたまま、良の瞳はずっと遠くを見ていて、心がどこかに行ってしまったような顔をしていた。裕司が名前を呼ぶと、良は視線を動かさないまま、ぽつりと言った。
「あんな、ちょっとだけのとこだったんだ……」
「……え?」
「こんな、すごい広いのに、山だって見えてるのに、俺、あそこでずっと……」
 ずっと、の後は待っても続きが出てこなかった。
 街の上には、絵の具のように青い空に、真っ白な入道雲が浮いていた。誰かがいたずらに浮かべたようなその塊も、見かけよりも遠くにあるからそのように見えているのだと知識だけで知っていた。
「…………あんたんちは、もっとずっと遠いんだよね」
「そうだな、ほとんど反対側だ」
 そっか、と呟いた良の声が不意に掠れて、その横顔に目を向けると、滑らかな頬を汗ではない雫がなぞって落ちていった。
「ごめ……」
 裕司が何か言うよりも先に、良はシャツの袖でその目許をぐいと拭った。濡れた黒い睫毛が、くっきりとその目を際立たせる。
「なんでか、よくわかんないけど……」
 黒い瞳を濡らしながら、良はやはり一点ばかりを見つめていた。
「なんか、くやしくて…………」
 良は一瞬顔を歪めかけたが、目を閉じてまた瞼を上げたときには、静かなおもてに戻っていた。
 裕司には良の心情を推し量ることもできなくて、ただ、その背中に手を置いて、そっと撫ぜた。そこは熱くて、汗に湿っていて、しなやかで生きている感触がした。
「……裕司さん」
「うん」
「俺、……まだ18年しか生きてないけど、あんたに会えたのが俺の人生で一番よかったことだから……」
 大げさな、と言ってしまいたいのを飲み込んで、裕司は頷く。
「忘れないでよね……」
 そう言って良は、右手で裕司のシャツをつかんできた。その目はまだ眼下の街に縫い留められたままだ。
 うん、と苦しい喉から何とか返事をして、裕司は空や木々や、どこともつかないところを眺めていた。

 良が手すりから離れると、裕司は良の手を引いて、少しだけ増えた日陰を選んで長い階段をゆっくりと下った。
「……今日すごい天気いいね」
 もう展望台が見えなくなった頃に、不意に良はそう言った。
「布団干せたら気持ちよかったろうね」
 帰りの時間が読めなかったから、もちろん布団など干してこなかった。しかし良の口からそんな日常の言葉が出たことに嬉しくなって、裕司は笑う。
「そうだな。今度家にいるときに干そう」
「俺が寝坊したらあんたがやってくれる?」
「布団剥いでいいのかよ」
「いいよ。俺別に床でも寝れるし」
「そこまでされたら起きろよ」
 笑って言うと、良もふふと笑った。見れば、その目の縁が少し赤くて、それが暑さのせいでないことを知っているだけ、胸がざわざわと落ち着かなかった。
「腹減ったか?」
「うん」
「さっきアイス食ったのに?」
「もうそんなのなくなったし」
 平気で言ってみせる良に、裕司がつい笑い声を漏らすと、良は裕司の顔を見て、満足そうに目を細めた。
 
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