74 / 149
74
しおりを挟む
売店でまた飲み物を買い足して、車に乗り込むと、良はしばらく他愛もないことをしゃべっていたが、次第に口数が少なくなって、県境を越える頃にはすっかり寝入ってしまっていた。
ここ数日、良は不安や緊張を常に抱えていたのだろうし、それは今日ピークを迎えたはずだった。とうとう緊張の糸が切れたのだろうと思って、裕司も起こしはしなかった。
助手席で揺られながら眠る良の寝顔はいとけなく見えて、その表情のままに穏やかな夢を見ていてほしいと思う。覚悟していたよりずっと何事もなく、彼の母親との会談は済んだわけだが、思い返すとつい数時間前のことなのに何だか悪い夢を見たような心地がした。
何もかもが食い違って、向き合うことのできなくなった母子の空気は、息苦しくて肺の奥の方に重く溜まるようだった。渦中の良がどう感じていたのかはわからないが、逃げ出したくなって当然だと思ったし、それが正解だとも思った。
育った街を見下ろした展望台の上で良が見せた涙の意味を、裕司は訊かなかったし、これからも訊けないだろう。良が自分から話すことがあればもちろん聞くつもりだったが、こちらから促せる気はしなかった。
あの街で彼を苦しめて悩ませたものについて、簡単に踏み込んではいけないということだけが肌を刺すように伝わってきて、良が生々しい傷を抱えて生きているということが実感された。触れることが恐ろしくなるほどの、そういう傷口を一人でかばいながら、いつも平気な顔で会話をしたり笑ったりしていたのだと思うと、胸と喉が詰まって鈍く痛んだ。
今さら哀れに思うのも滑稽だとわかっていたし、彼もそんなことを望んではいないと思っても、心に無数のささくれができたような気分だった。そのひりひりと痛む不快感を耐えることはできても、無視することは難しかった。
本人が言っていた通り、彼も『普通の親』がほしかったのだろうし、高校も卒業したかったに違いなかった。そこについて、彼には何の不足もないと裕司は思う。優しくて、賢くて、もっと恵まれていいだけのものを彼は持っているのに、どうして彼の手はこんなに空っぽなのかと思わずにはいられなかった。けれどそのことについて考え始めるとやりきれなくて、何度もその思考の入り口から引き返しては嘆息した。
良が眩しいほどに若いことだけが、裕司にとっては救いだった。まだ二十歳にもならない彼は、これから何でもできるしどこにでも行けるだろう。若さゆえに迷っても、自分がそばにいる間は、道を示すことも手を引いてやることもできるはずだ。
それは幸運で幸福なことだと思うのに、ついさっき良が涙声で言ったことを思い返すと、どういうわけか苦しくなって、悲しみによく似たものがせり上がってくる感覚があった。
自分などに出会ったことが良の中で最上級の意味を持つなど間違っている、と、心の端の方で叫ぶ声があって、裕司はそれをまだなだめ切れていなかった。
良が自分といることを選んでくれたことは嬉しいし、自分も彼と出会えてよかったと思っている。それは間違いないし、揺らいだこともないけれど、彼の人生のすべての中で自分が一番になっていいはずがないと、聞き分けない己がいて、それは理屈に耳を貸してはくれなかった。
──格好悪いなぁ……。
心が目に見えなくてよかった、と、手前勝手なことを思う。良にはうらやむほど満ち足りた人生を歩んでほしいと願っている自分がいて、それは良が置かれた現実を認めたくないと主張していた。
それはとても愚かで、良に対する思いやりに欠けていて、幼稚な心だと思われたが、間違いなく自分の一部だった。
こんな醜い姿が表に出ることがあったら、良も愛想を尽かすだろうかと少し考えてみたものの、彼はそれもまた許してしまうような気がして、苦しさが増した。どうやら、むしろ愛想を尽かしてほしいというのが自分の本音らしかった。良はこれまで裕司の何もかもを受け入れてくれたから、これからも際限なく受け入れてくれるのではないかと思ったし、それが現実になるのは怖かった。
どこかでちゃんと線引きをして、苦くて不味いものはきっちりと拒んでくれないと、気付かないうちにひどいものを飲ませてしまうのではないか。そういう恐れが顔を出した。
そんなつまらない後ろ向きなことばかり考えていると、妙に時間が経つのが早くて、車窓から見える景色がいつの間にか見覚えのあるそれになって、カーナビの案内がなくとも道のりの見当がつくようになっていた。あんなに強かった太陽もビル群の向こうに隠れてしまって、空も絵の具で表現するには難しいだろうグラデーションに変わっていた。
知った場所に帰ってきたというだけで少し気が落ち着いて、まだ寝ている良の寝顔を窺って微笑うだけの余裕が生まれた。赤信号で止まった隙に、投げ出されていた良の手の甲を叩くと、うっとうしがるように手を引っ込められて、つい笑ってしまった。
「もう着くぞ、腹減ってんだろ」
そう言って腕を叩くと、言葉にならない声が返事をして、濃い睫毛の間から、黒い瞳がうっすらと覗いて裕司を見た。
ここ数日、良は不安や緊張を常に抱えていたのだろうし、それは今日ピークを迎えたはずだった。とうとう緊張の糸が切れたのだろうと思って、裕司も起こしはしなかった。
助手席で揺られながら眠る良の寝顔はいとけなく見えて、その表情のままに穏やかな夢を見ていてほしいと思う。覚悟していたよりずっと何事もなく、彼の母親との会談は済んだわけだが、思い返すとつい数時間前のことなのに何だか悪い夢を見たような心地がした。
何もかもが食い違って、向き合うことのできなくなった母子の空気は、息苦しくて肺の奥の方に重く溜まるようだった。渦中の良がどう感じていたのかはわからないが、逃げ出したくなって当然だと思ったし、それが正解だとも思った。
育った街を見下ろした展望台の上で良が見せた涙の意味を、裕司は訊かなかったし、これからも訊けないだろう。良が自分から話すことがあればもちろん聞くつもりだったが、こちらから促せる気はしなかった。
あの街で彼を苦しめて悩ませたものについて、簡単に踏み込んではいけないということだけが肌を刺すように伝わってきて、良が生々しい傷を抱えて生きているということが実感された。触れることが恐ろしくなるほどの、そういう傷口を一人でかばいながら、いつも平気な顔で会話をしたり笑ったりしていたのだと思うと、胸と喉が詰まって鈍く痛んだ。
今さら哀れに思うのも滑稽だとわかっていたし、彼もそんなことを望んではいないと思っても、心に無数のささくれができたような気分だった。そのひりひりと痛む不快感を耐えることはできても、無視することは難しかった。
本人が言っていた通り、彼も『普通の親』がほしかったのだろうし、高校も卒業したかったに違いなかった。そこについて、彼には何の不足もないと裕司は思う。優しくて、賢くて、もっと恵まれていいだけのものを彼は持っているのに、どうして彼の手はこんなに空っぽなのかと思わずにはいられなかった。けれどそのことについて考え始めるとやりきれなくて、何度もその思考の入り口から引き返しては嘆息した。
良が眩しいほどに若いことだけが、裕司にとっては救いだった。まだ二十歳にもならない彼は、これから何でもできるしどこにでも行けるだろう。若さゆえに迷っても、自分がそばにいる間は、道を示すことも手を引いてやることもできるはずだ。
それは幸運で幸福なことだと思うのに、ついさっき良が涙声で言ったことを思い返すと、どういうわけか苦しくなって、悲しみによく似たものがせり上がってくる感覚があった。
自分などに出会ったことが良の中で最上級の意味を持つなど間違っている、と、心の端の方で叫ぶ声があって、裕司はそれをまだなだめ切れていなかった。
良が自分といることを選んでくれたことは嬉しいし、自分も彼と出会えてよかったと思っている。それは間違いないし、揺らいだこともないけれど、彼の人生のすべての中で自分が一番になっていいはずがないと、聞き分けない己がいて、それは理屈に耳を貸してはくれなかった。
──格好悪いなぁ……。
心が目に見えなくてよかった、と、手前勝手なことを思う。良にはうらやむほど満ち足りた人生を歩んでほしいと願っている自分がいて、それは良が置かれた現実を認めたくないと主張していた。
それはとても愚かで、良に対する思いやりに欠けていて、幼稚な心だと思われたが、間違いなく自分の一部だった。
こんな醜い姿が表に出ることがあったら、良も愛想を尽かすだろうかと少し考えてみたものの、彼はそれもまた許してしまうような気がして、苦しさが増した。どうやら、むしろ愛想を尽かしてほしいというのが自分の本音らしかった。良はこれまで裕司の何もかもを受け入れてくれたから、これからも際限なく受け入れてくれるのではないかと思ったし、それが現実になるのは怖かった。
どこかでちゃんと線引きをして、苦くて不味いものはきっちりと拒んでくれないと、気付かないうちにひどいものを飲ませてしまうのではないか。そういう恐れが顔を出した。
そんなつまらない後ろ向きなことばかり考えていると、妙に時間が経つのが早くて、車窓から見える景色がいつの間にか見覚えのあるそれになって、カーナビの案内がなくとも道のりの見当がつくようになっていた。あんなに強かった太陽もビル群の向こうに隠れてしまって、空も絵の具で表現するには難しいだろうグラデーションに変わっていた。
知った場所に帰ってきたというだけで少し気が落ち着いて、まだ寝ている良の寝顔を窺って微笑うだけの余裕が生まれた。赤信号で止まった隙に、投げ出されていた良の手の甲を叩くと、うっとうしがるように手を引っ込められて、つい笑ってしまった。
「もう着くぞ、腹減ってんだろ」
そう言って腕を叩くと、言葉にならない声が返事をして、濃い睫毛の間から、黒い瞳がうっすらと覗いて裕司を見た。
0
あなたにおすすめの小説
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
寂しいを分け与えた
こじらせた処女
BL
いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる