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月が綺麗ですね【王子視点】

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 この国の第一王子であるエリックは、公務に疲れ、宮殿の敷地内にある聖なる泉で休憩を取っていた。

 その泉は大昔、妖精が見える者達が国に住んでいた頃──、それはそれは神聖な場所だと崇めていた泉だ。
 そんな聖なる泉も、その価値が分からなければただの泉。だが不思議とこの泉に来れば心が安らぐ気がする。

「さて、そろそろ戻らないとウィリアムに怒られるな……」

 王子である私の側近、そして幼馴染のウィリアム。
 あいつは小煩い真面目な男だから、私がこうして逃げ出しているのもすぐ気付いて今頃探している事だろう。
 あまり遅くなるとまたグチグチ煩いので、相棒の馬であるルークに跨がる。

 ──あぁ今日は満月だったのか。

 夜空を見上げ気が付いた。
 最近はゆっくりと月を見上げることもなかった。
 この広い空の下でちっぽけな己の存在を感じていたその時、泉の方で跳ねる水音が聞こえてきた。

 不審に思い、目を凝らすと、泉の真ん中辺りに人影が見えた。王宮の敷地内にどうやって侵入したかは分からないが、聖なる泉には例え王族でさえ、何人たりとも触れてはならない。宮殿に勤めるもの、貴族、そこそこの中流家庭でも知っていることだ。
 けれど目の前の光景は何だ。

「誰だ……!? 此処で何をしている……!!」

 声を上げると人影は驚いた様子で振り返った。
 長い髪が空中に踊って、水飛沫が月の光に反射する。
 一瞬、時が止まったようだった。その光景が美しすぎて。

「女性……?」

 逆光でよく見えない。
 ゆらゆらと漂って、此方を伺っているようだ。

「君は、だれ、なんだ……?」

 出来るだけ柔らかく語り掛け、近付こうとルークから降りた。すると慌てた様子で逃げていく。待ってくれと一応言ってはみるが、待ってはくれず。大慌てで再びルークに跨がり走らせた。
 ごめんなさいと放たれた謝罪の言葉は、まるで鈴を転がすような声だった。女性は岸から上がった。そして月は雲に隠れ、その女性も消えたのだ。


 ──それが二週間前のこと。
 ことの経緯を直ぐウィリアムに相談した。
 しかし「分かりましたから早く仕事を終わらせて下さい!」と話し半分で流され、疑問のまま。

 あれが誰なのか確かめたくて、毎日聖なる泉に足を運んだ。
 するとウィリアムも私が嘘を吐いてはいないのだと感じ、王立図書館の古い文献を持ってきて私に見せた。

「全く、世話の焼ける人です。貴方が見たのはここに記してある、妖精や聖霊か何かじゃないですか?」
「妖精に聖霊……? しかし見えるものは王族含めもう居ないのだぞ?」
「はぁ……。そもそもあの泉自体が不思議なものですから。あの場所でなら……って思いますけどね。はい、いい加減貴方はご自分の仕事をなさって下さいね」
「分かってるさ! ったく、ウィルは本当に小姑だな」
「貴方が出来ない嫁なんじゃないんですか? エリー」
「その女みたいな呼び方は止めろっ……!」

 渡された文献には妖精や聖霊などが図鑑のように載っていた。夢中でページを捲っていくと、美しい声で男性を惑わすセイレーンや人魚も居るという。
 捲れば捲るほど、あれは人間ではなかったんだと、そう思わざるおえなかった。


 だが、そうでは無いらしい。
 誰でもない、取るに足らない人間ですと、本人が言う。
 今日もきっと現れないだろうと、諦めていたのに、君はまた現れた。あのときの一瞬で終われば、こんな気持ちにもならずに済んだ。

 儚げな美しい少女だ。
 ウェーブのかかった長く美しい金の髪は、月の光で淡く緑に反射する。グレーの瞳に、愛らしくも色気のある唇、頬は桃色に染まり、あぁこれが妖精なのかと、確信した。
 でも違うと本人が言う。
 水が滴り、陶器のように白い肌が、私の瞳に焼き付いて離れない。

 瞳を開ければまた消える。
 私は小さく溜め息をついて、夜空を見上げた。
 大きく輝いていた月は薄い雲に覆われて、辺りに闇を落としていたのだった。
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