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いぬぐるい編
薔薇の祝福
しおりを挟むアオイに手を引かれ、雨の降る庭へ出て行った王女レイチェル。
水溜りをヒールで飛ばしながらけらけらとはしゃぐ声が時折聞こえ、ホールで雑談していた怜やハモンド侯爵、レイチェルの“兄”二人までもがその声に微笑んだ。
十数分経ち、驟雨も止んで暖かい風が窓から流れ込んでくる。この時期の深夜に降る雨は冷たいはずなのに、きっとアオイがまた風と遊んでいるのだろう。
暖かな風に抱かれ、アオイを待つ怜。
今夜は彼女とダンスを一曲踊っただけだ。たったあれだけで我慢出来るわけがない。
早く戻ってこないかと待っていた怜だが、戻ってきたのはレイチェル王女ひとりだった。
「雨の中のダンスは楽しかったですか? 王女様」
「あ、れい……様、ええ、まぁ……」
厚い化粧が流れ落ち、毛先を巻いて纏めていた髪も少しの風で靡き煌めく軽やかな銀色のストレート。風で温められたレイチェルの身体。
自身の血色の良い頬が初めて、人の目に晒された。
跳ねた泥でドレスの裾は少し汚れていたけれど、悪いものも化粧と共に流れ落とした彼女は、とても美しかった。
美しい彼女は、あんなに夢中になっていた怜に話し掛けられたのに、サファイアの瞳とエメラルドの瞳は交わらない。
そもそもレイチェル自身、交わることを避けている。
「私が恐いですか?」
「っ……」
『はい』とも『いいえ』とも言わないレイチェル王女。その様子から、答えは明白だった。相変わらず感情が素直に顔に出る。思わず、「ふっ」と笑った。
「恐らく、その反応が普通なんでしょうね」
「え……?」
「ふふ、取って食ったりしませんから気にしないで下さい」
「っあ、わたし……」
感情が素直に出るから、申し訳ないと思っているのが伝わる。怜はもういちど、「気にしないで」と女が虜になる微笑みで言った。
未だ口元しか見れないレイチェルだったが、その色気のある唇で耳をぺろりと舐められた感触を思い出してしまい、エメラルドグリーンに彩られた指先が自然と自身の耳に惹きつけられた。
その行為をほんの少しの優越感で眺める怜は、「彼女はまだ外に居るのでしょうか」と問う。勿論アオイのことだ。
「ええ……、信じられないのだけど、青虫を眺めてるわ」
「ははっ、アオイらしい……!」
レイチェルの話を聞いていたハモンド侯爵も兄達も眉をひそめ首を傾げたが、狼森の名字三人は『らしいね』と揃って笑った。
「では皆さん、少々失礼致します」
怜はそう言い残し風に揺れるカーテンをくぐり抜け、庭へと出る。
雨に濡れた地面の匂い。雫で濡れた葉がランプの光によって新月の夜空と共に輝いていた。
白いツツジに囲まれ、青虫を見ているであろう彼女の名前を呼ぶと、幾重ものシルクオーガンジーの裾をはためかせ振り返る。
レイチェルと同じく雨に濡れほどけた髪は、ほんのりウェーブの掛かった見慣れた姿。それと向日葵のような笑顔。
「怜! どうしたの?」
揺れるイヤリングと、勝色のドレスに金の刺繍が、夜空の星と同じだった。
輝く葉や瞬く星空と一体となって、アオイ自身この世界の一部に見えた。
「少し、話がしたいと思って」
「話?」
こくりと頷く彼に、アオイは何故だかどきどきしてしまう。何を言われるのか、何の話かと構えていれば、にこりと微笑んで、差し出される掌。
「お嬢さん、私とダンスをしませんか」
「え──?」
アオイは驚いた。
それもそうだ。だって先程、日が超える前に踊ったのだ。
いくら日付が変わろうと、この国では、同じパーティーで二度目を踊るということは、お互いの気持ちを確認するために踊る。
それは、つまり──、
「この意味が、アオイなら分かるだろう?」
意地悪そうな微笑みに変わるが、エメラルドの双玉は真剣そのもの。
「ッ………」
ときめいて、どきどきして、心臓がうるさくて、言葉が出てこない。息が止まったような、そんな感覚。
湧き上がる熱が、頬や耳まで紅く染めていく。
自然に吹く風が、少し冷たくて、熱くなった身体には心地良い。
ぎゅっと固く瞼を閉じていても、その掌が何処にあるのか感じ取れた。
互いの指先が触れ合うと、その指を確かめるように、優しく、けれど力強く離さまいと、包まれる。
満足そうな表情は容易に想像できた。
「ほら、ちゃんと此方を見なさい」
そう言われるも、首を横に振ることしか出来ない。
恥ずかしさでどんどん熱くなって、今にも心臓が飛び出してしまいそうだ。
これが、恋というものなのか。
「ねぇ、メル……」
「なんだい、ウィンディ……」
甘い雰囲気の二人を遠くから眺めるアオイの両親。
嬉しいような、哀しいような。とても複雑な感情だった。
「あの子も、大人になったのね……」
「そうだね。いつかはそんな日が来るとは思っていたけど、子供の成長は早いもんだ」
「そうねぇ……。カイルと一緒で、もうたまにしか帰って来なくなっちゃうのかしら」
「かもしれないね」
しみじみと思い出すのは、アオイの兄、ルタ·カイルの事だ。アオイより一年程前に呪いが解けたというのに、海ばかり出て一向に帰ってこない。
いつかは親元を離れるものだと理解していても、やはり寂しいものは寂しかった。ついには娘のアオイまでもが、新しい場所へ出ていこうとしている。
「寂しいわね」
「そうだね、寂しいね」
夫婦二人、手を重ねて握り合う。
「ウィンディ……、君もいつか、また違う人を好きになるんだろう?」
重ね合わせた手を、遠くに眺め見る彼のように、優しく離さまいと包み込んだ。
いつかは、自分とは違う誰かの手を握っている。
今までも、誰かと手を重ね合わせてきたのだろう。
メルは、堪らなく悔しかった。
「……………ええ、そうね。今までと同じように」
精霊と人の差は、計り知れないほど大きい。
この星と共に生まれ、この星と共に死ぬ精霊にとって、人間の命はとても儚いものだった。
桜は儚いから美しいと人間達はいうけれど、ウィンディにとって、人間も桜みたいなものだった。
「メル……、貴方もまた、私を置いて死んでしまうのね」
「……ああ、そうだね。本当はずっと一緒に生きていたいよ」
「私もよ」
越えられない壁、埋められない差。
それでも二人は、時代の巡り合わせによって、深く愛しあっていた。
「愛してるわ」
「私も、愛しているよ」
「ふふっ! さぁ休んでいるところ申し訳ないけど、可愛いアオイのために素敵な音楽を届けてもらおうかしら」
娘の人生に祝福と彩りを加えるため、指揮者のように手を掲げたウィンディ。夫と繋いだ手は離したくないから、利き手ではない方でやるしかない。
まるで楽器を指揮するように、空気を操る。すると演奏者達が休憩している部屋の窓が開いた。
開いた窓の中からは驚いた声が聞こえ、また空気を指揮すると還暦に近いバイオリン奏者の男の背中が、風によってベランダまで押し出される。
男は背中を押す風がまるで人の手で押されているように感じられ鳥肌が立つが、白いツツジの咲く庭で静かにダンスを踊る男女の姿が目に入り、腕がなった。ロマンティックな演出ならバイオリンに任せておけ。
優雅に奏でていればなんだなんだと仲間の演奏者達が集まり、次々に重なっていく音。
美しい旋律はたった二人だけのもの。
──「はーーあ。結局くっちゃうのね、あの二人は」
王宮の屋根に腰を下ろし、ウィンディやメルと同じく甘い二人を眺めるフローラ。
美しい旋律に揺れる二人。
「あんなに、ちいさかったのに…………。ほんとうに、人間って成長が早いんだから」
口ではそう言いつつも、薔薇の花弁と妖精の粉で二人を祝福する。見ているこっちまで恥ずかしくなるようなアオイの表情は、とても初々しい。
もし、己があの男に呪いなんてかけなかったら。アオイ怜の年齢だって釣り合わなかっただろうに。
──いや。己が呪いをかけることさえも、運命のひとつだったのだ。きっとラモーナ公国が出来るずっと前から決まっていた。
アオイの父がモテるが故に戦争になったのも、そして怨みで子供に呪いをかけられることさえも、ラモーナと外の世界の時間の流れ方も、何故か満期100年のフルパワーを使い恐ろしい犬の姿にしてしまったのも、全部全部この為だった。
更に言えばアオイの母は四大精霊で、そうなるとこの星が出来る時からもう決まっていたのだ。
そして、この先もっとずっと後の子孫も、きっと同じことを言うのだ。
二人は出会う運命だった──。
愛に揺られ踊る運命の恋人たち。白いツツジが、まるで二人を照らしているようだ。
(知ってる? 白いツツジの花言葉。 “初恋”っていうのよ。ほんと。寂しいわ)
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