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その2
しおりを挟むアパートとマンションの区別が僕にはわからない。僕の住んでいる建物がマンションなのかアパートなのか、誰かに教えて欲しいと思っている。
そのマンションだかアパートだかよくわからない建物の四階に帰ると、珍しく健児兄さんが来ていた。
「よう」
母さんの作った小松菜のごま和えでビールを飲みながら、健児兄さんが笑いかけた。
「珍しいじゃん平日に。どうしたの?」
「就職が決まったんで、報告に来たんだ」
「え」僕は慌てて言った。「ケン兄、就職すんの?」
「先におめでとうでしょうが」母さんが笑ってたしなめた。
「俺だってしますよ、就職くらい」健児兄さんが笑った。
「どこ?」
「外食産業。いなりや、って知ってる?居酒屋チェーンの」
酒を飲まない中学生でもいなりやくらい知ってる。地元で居酒屋といえばそれはいなりやのことで、なぜか国道沿いにも店がある。居酒屋は車では行けないのに、どうするのだろう、と思ったことがあるからよく覚えている。
「おめでとう」とりあえずおめでとうと言った。
「めでたくもないよ、とりあえず勤め先があるだけでもいいやな」健児兄さんが笑った。
その笑顔があんまりすがすがしい感じだったから、母も僕も黙ってしまった。
「あ、いやいや」健児兄さんは手を振った。「妥協した結果、というわけじゃないのよ。そこしかなかった、というわけじゃないしさ」
「ビールもう一本飲む?」母さんが尋ねた。
「いや、叔母さん」健児兄さんが首を振った。「泰輔と一局指して帰らないと」
「酔っぱらってるくらいでちょうどいいんじゃないの?」母が笑った。
「いやいや失礼っしょ」健児兄さんは真剣な顔で言った。
「全力で叩き潰さないと」
食事が終わると、リビングの隅から二つ折りの将棋盤を出して、ソファの上に広げて、こちらの返事も待たずに王将をぱちん、と中央に置いた。
僕は向かいに座ると駒組を始める。
「ちっとは強くなったのかよ」健児兄さんが飛車先の歩をすっと動かした。
「全然。誰とも指さないし」僕は歩をついて後手の角筋を止めた。
「友達いないのかよ」
「友達いても将棋は指さないでしょ、今時」
「ま、そりゃそうだ」健児兄さんはぱちんと音を立てて香車を動かした。「学校どうなのよ」
「普通」
「おまえらなんでも『普通』だかんな」健児兄さんは首を振った。「おまえそれ、角死ぬよ」
「あ、待った」慌てて桂馬を元に戻して、待ったは2回までだからな、と釘を刺される。
「好きな子とかいるのかよ」
「何よ突然」
「いるのかよ」
「いないよ」
はい、今ひとつ嘘をつきましたね、という顔をして健児兄さんが桂馬を打った。
「あ、待った」
「待ったは二回までな」
好きな人ならいる。同じクラスの国分さんだ。国分ちひろ。眼鏡をかけて髪が長くて、その髪をいつも後ろでくくっている。どちらかというと背は高くて大柄で、みたところ大きな猫みたいだ。クラスでは無口だけどアニメや漫画の話になるとめちゃくちゃよくしゃべる。部活は卓球部で、およそ運動部とは遠いイメージだが、噂ではそこそこ強いらしい。
国分さんは本が好きで図書委員に立候補した。僕は国分さんと一緒の委員会が良くて図書委員になった。ほかの委員会は前期後期で交代だけど図書委員だけは一年通して図書委員だから、国分さんと僕は一年間ずっと一緒だということになる。
クラスの口の悪い連中、例えばザッキーなんかは「国分?デブじゃん」みたいなことを平気で言う。国分さんは確かに今時の、華奢な女の子とは程遠いかもしれないけど、誰かの悪口を大きな声で言って笑ったりしない。
「泰輔」
気がつくと王将の上に金が打たれていた。
「…負けました」
「ほい」健児兄さんがスマホのカメラで盤面を写した。
「109勝目」
容赦ない。
「おまえ全然上達しないのなあ」
「ケン兄が強すぎるんだって」
「まあな」
健児兄さんはリュックを背負った。
「帰るの?」母さんが尋ねた。
「うん、ちょっと明日早いんで」
健児兄さんは僕の肩を小突いた。
「じゃあ、またな」
母さんに向かってご馳走様でした、と言って健児兄さんは帰っていった。
僕はプラスチックの板の上の五角形の駒を眺めていた。
母さんが洗い物をする音がする。
健児兄さんは昔から将棋が強かった。
もしもあんなことがなかったら、健児兄さんは将棋のプロになっていたのだろうか。
仮定の話に意味などない。
どうでもいいし、なんでもいい。
転校してきたばかりの頃のことは、正直もうあまりちゃんと覚えてはいない。
父が家を出て行って、僕と母が母の故郷であるこの町に帰ってきたのは小学校五年生の時で、担任も周囲も僕のことを放っておいてくれた。それはとてもありがたかった。同情されることも詮索されることも、その頃の僕には耐え難いことだったから。
それなら孤独な方がよかった。
中学校も小学校から遠い方を選んだ。僕の住むところは学区のちょうど境目だから、比較的大きな中学校と比較的小さな中学校のどちらかを選ぶことができた。僕は迷わず大きな方を選んだ。進学が有利とかそう言うことはどうでもよくて、大きい方が埋没できるからだ。しかしほとんどの生徒は逆を考えるらしく、同じ小学校から来たのはクラスでは相馬京子と神崎学くらいだ。
神崎学、通称ザッキーはいい意味でも悪い意味でも空気を読まないやつで、家が近所だったこともあって転校してきた僕の世話係みたいな形になっていたから、そのまま腐れ縁でなんとなく一緒にいる。これは推測だが、中学校に入ってから神崎と僕がずっと同じクラスなのは、僕の友達が少なすぎることを心配した先生方の配慮なのだと思っている。
正直僕にとって神崎学がそれほど近い存在なのかというとそうでもない。ザッキーは朝のホームルーム前や休み時間によく話しかけてくるけど、その話はよくわからないことが多い。僕がザッキーの話に興味がないことが半分、僕がスマホを持っていないせいで動画にもラインにもインスタにもソシャゲにも興味がないのが半分。うちにはパソコンはあるけど、スマホはない。母さんと連絡を取るためにガラケーは持ってるけど、メールと通話くらいしかできないから、ほとんど使わない。なくて困ったことは全然ない。欲しいと思うことも正直ない(いや、国分さんとは少しラインしてみたいとは思う。少しだけ)。だからザッキーもそういう話は僕には滅多に振ってこない。
だがその朝だけは少し違った。
「ウッチー」いつものように朝僕が鞄から教科書を出して机の中に入れていると、ザッキーがひそひそと僕に話しかけてきた。
「なんでウッチーはスマホ持ってないんだよ」
「え」いきなり非難されて僕は少したじろいだ。
「いや、いらない、から」
「やべえんだって」ザッキーはきょろきょろと辺りを見回して小声で言った。
「何が」
「昨日のクラスライン」
「どうかしたの」
「いや、裏の方なんだけど、そっちにさ」
ラインにも表と裏があるのか。
どうでもいいけど。
「やべえ写真が流れてきてさ」
はあ、と僕は首を傾げた。
「絶対秘密な」
と言った矢先に、担任の遠藤先生が、朝の会するぞ、みんな座れ、と言いながら入ってきた。
ザッキーは後でな、と目で言って自席に戻った。
結局僕は給食中も何か言いたげなザッキーを放置して、急いで食事を終えた。昼休み図書当番があったからだ。後で聞くから、と話したげなザッキーを目で制して、図書室へ走る。
国分さんは先に来ていた。女子なのに食べ終わるのが早い。
「ごめんごめん」
「大丈夫大丈夫」国分さんはパソコンに電源を入れる。「私が早かっただけだから」
国分さんがカウンターに座って本の貸し出し作業をしているのを遠目に見ながら僕は返架作業をした。国分さんは無駄な動きをせずにテキパキと貸し出し作業をこなしていく。時々知り合いの女子が来ると、細い目が和らいで、楽しそうな顔をする。ひとことふたこと言葉を交わして、この本いいよね、というようなことを言って次の作業に入る。
縁側で寛いでいる猫を見ているような気持ちだ。ずっと見ていられる。
「内村くんこれ借りるの?」
「うん、先輩に勧められて」
手塚治虫の「ブッダ」愛蔵版を二冊渡す。
「渋い」
「渋いかなあ」
渋いよ、わたし手塚治虫は「どろろ」しか読んだことないよ、と国分さんは本を裏返してバーコードを読ませる。
「なんか宗教的な理由?」
「まさか」僕は吹き出した。「先輩に勧められて」
「あ、そっか、そうだよね」国分さんは恥ずかしそうに首を振った。
僕は国分さんから「ブッダ」を受け取った。
「先輩っていっちゃん…大澤さん?」
「そうそう」
国分さんは大澤先輩の幼馴染なのだそうだ。家が近いらしい。
「だと思った。いっちゃんこういうの読みそうだもん」国分さんは微笑んだ。「わたしも読みたいな。終わったら借りていい?」
「うん、次の当番の時に持ってくるよ」
国分さんは大澤先輩をジョンと呼ばない。
国分さんは本が好きだ。
国分さんは可愛い。
それに気がついている人はきっと少ないけど、国分さんは本当に可愛いんだ。
ブッダ愛蔵版を二冊小脇に抱えて(鞄に入らなかったのだ)、美術室に繋がる階段を登る。僕らの中学校は美術室が校舎の外れになっていて、渡り廊下を通らないといけない。ちょっとした陸の孤島になっている。渡り廊下を渡った先に、美術の山崎先生が「年寄りを殺す階段」と呼んでいる階段を二階分登らなくてはならない。
ひとつ問題があるのは、放課後そこまで来る生徒が美術部以外にほとんどいない、ということだ。
踊り場の方から人の声がした。
黒い学生服を着た人影が三つ見えた。人影は誰かを囲んで立っている。囲まれているのは誰かはわからない。背が低いので見えない。一年かもしれない。
僕はため息をついた。
今までも何度か、不良がこの踊り場にいたことがあった。大体煙草を吸っているか溜まって話をしているか、美術室が職員室から遠いせいで、誰も見回りに来ないのをいいことに好き勝手している。
山崎先生がよく吸い殻を拾ってはため息をついて、生徒指導の先生に報告に行っているのを何度か見た。
脅しているのとは違う、妙に甘い声だった。声が何を言っているのかはよく聞こえなかったけれど、なだめるようなすかすような、説得しているような声にも聞こえた。
なんだか嫌だな、と思った。生理的に嫌だと感じたのは、その声の奥に妙に粘っこいものを感じたからかもしれない。
端的にいうと、
すごくキモい。
という感想しかない。
普段なら放置してほとぼりが冷めるまでうろうろするか、あるいは大澤先輩が不良を蹴散らすまで大人しく階下で待っているのだが、その日は少し違った。
男子生徒の声が少し大きくなった。なあ、いいだろ?と聞こえた。
黒い学生服に囲まれている人影が少しだけ見えた。
黒い癖毛にセーラー服。女子だ。
「山崎先生こんにちは!」
気がついたら僕は大きな声で叫んでいた。
やべ、という声がして、バタバタと人影が三つ降りてきて、僕とすれ違って下へ逃げていく。
僕は恐る恐る階段を登った。
踊り場の人影と目があった。
もじゃもじゃの髪の毛、低い背、じっと僕を見上げる黒い目。
星野未来だった。
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