有栖川茶房

タカツキユウト

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八杯目『リストランテ クオーリ』

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 陽は傾き、辺りはほとんど夜に染まり、街灯も点いている。
 湿気った香りに嫌な予感は薄々感じていた。
 その予感の的中を告げる雨粒に、有紗は空を見上げた。
 見上げられたのは少しの間のことで、間もなく雨脚が強くなった。
 咄嗟に新刊の小説が入った書店の袋を抱えた。だが、これでは鞄の中の本や教科書諸々が濡れてしまう。
 走って逃げ切るには雨の粒が大きすぎる。しかも、毎秒ごとに勢いを増している。
 傘は持っていない。雨宿りできそうな場所をとは思うも、すぐに良い場所が思いつかない。方角を変えて後ろに進めば有栖川茶房がある。前に進めば駅がある。
 行くか。戻るか。
 逡巡したとき、ファン、という軽いクラクションが背中に当たった。何だろうと思ったときには、真横に4WDの車が一台止まっていた。
「傘も差さないでどうしたんですか」
 車の窓を開けて声を掛けてきたのはジャックだ。
「その、持ってきてなくて……」
「この雨、豪雨になりますよ。何時間も降らないとは思いますけど、その前にあなたがずぶ濡れになってしまいます。さ、乗ってください」
「え、でも、お仕事の途中とか、帰り道なんじゃ……」
「届け物の途中ですが、そんなことよりほら、早く」
 ジャックは腕を伸ばして助手席のドアを開けてくれた。
 そこまでされてこの状況。
 断る理由は最早無い。
「お言葉に、……甘えます!」
 飛び込むように車に乗った。
 急いでドアを閉め、一息。あれこれ抱えていた腕から力を抜き、もう一息。
「大分濡れてしまいましたね。済みません。今日は私も傘の持ち合わせが無くて」
「助かりましたぁ。でも、どこかに向かってたんですよね? 適当なところで降ろしていただいて構いませんから」
 家まで送るなどと言われては流石に敵わない。
 有紗の先手に対して、
「ここからすぐの所に知り合いがやってるイタリアンのお店があるんです。そこに荷物を持っていくだけなので、ついでに雨宿りしましょう」
「あ……はい……」
 反射的に返した言葉が返事となり、車は動き出した。

   *

 数分後、到着したのは一軒のレストラン。
 有紗は一人、エンジンを切った車内からフロントガラス越しに店を眺めていた。ジャックは後部座席から一抱えのダンボールを持って店内に入っていったまま、まだ戻らない。
 彼の知り合いがやっているという店は、シンプルな洋風の外装で、隠れ家のような雰囲気もする。店と言われなければもしかしたら気付かないかも知れない。
 ――高そう……。
 雨宿り、ということは店内に入るのだろう。持ち合わせが不安だ。
 新刊のミステリと、気になっていたライトノベルに費やしてしまったため財布が軽い。
 ――でもいいなぁ、こういうところ。
 縁を頂いたのだと思えば有り難い。有栖川茶房といい、ここといい、なかなか自力で得られる縁ではない。
 雨は相変わらず強い。雷まで鳴り始めて、紛う事なき豪雨になっている。
 と、助手席のドアが開けられ、ジャックが店から借りたらしい傘を持って立っていた。
「高級な店じゃないので大丈夫ですよ。店主も粗野なので」
 不安を見透かされ、有紗は頷いただけで外に出た。

   *

 二人なのに、案内されたのはL字の角の席だった。
 促されて壁側のソファに座ると、ジャックは斜め向かいのソファに座った。
 元々五人掛けの席。案内してくれた店員が、更に二人席用の小さいテーブルを追加した。あっという間の出来事で、店員はもう背を向けて去っている。
「あの、ジャックさん。テーブル広すぎませんか……?」
 質問の答えよりも先に広げたメニューを差し出された。
「食べたい物を好きに頼んで下さい。嫌でなかったら私の皿からちょっとずつ摘んでいってもいいですから」
「えっと、でも……」
 先程の店員と入れ違いに、ジャックより一回り小さいコックと思しき男性がやってきた。髪は短髪の金髪で、雰囲気に存在感がある。
「コイツな、スゲエ食うの。一人でもこの席だから。そうじゃないと皿が載りきんないんだ」
「そ、そんなに食べるんですか!」
 確かにメニューは多く、目移りしてしまう。とはいえ、一人で六人掛けのテーブルを一杯にしてしまう程の大食漢とは。
「意外です……」
「そうですか?」
 本人は無自覚なのか、気にしていないのか。
 いつか抹茶パフェで辟易していたのは量ではなく本当にあんこが苦手だっただけなのだろう。
 ジャックは首を一つ傾げて、広げたメニューに目を落とした。本当に目線を遣っているだけといった風で、読んでいるようには見えない。通い慣れた店であろうから、注文する物は既に決まっているのかも知れない。
「俺の料理が旨いのは解るけどさぁ、それでも食い過ぎだって。食ったモン、何処に消えてんだよ。春だけじゃなくて年中だから驚くよ」
「黙れ、えい。店中の食材食い尽くすぞ」
「おまえならやりかねないから恐ェよ」
 ジャックが恐い目をしている。その目の色を盗み見ながら、有紗もメニューに目を遣った。
 店が小さいので、メニューも見開きだけで完結している。
 前菜、メイン、パスタ、ピザ、そしてデザート。写真は付いていないが、どれも美味しそうだ。
「えっとー……」
「最初は俺が適当に決めるから、後から好きな物頼んで。こいつと話してるとややこしく……あ、済みません」
 引っかかったのは何処だろう。
 一人称か。敬語が崩れたことか。それとも、言葉を遮ってしまったことか。
 どれにしろ、些細すぎる。
「私、年下だし、気にしないで下さい。私こそ、よく敬語行方不明ですもん」
「でも、そういうわけには……」
 気にしなくて良いのに、彼の中ではフランクに話すのはまだ躊躇われるらしい。
「若い男女が顔つき合わせて敬語なんてやめろよ。冷めるだろ」
「おまえはいつまでもここに突っ立ってないで仕事しろ」
「だって、注文まだ聞いてねぇもん」
「じゃあ、前菜含めて適当に持ってこい。あと、烏龍茶」
「何でだよ。ワインとかじゃねぇの?」
「車で来てるんだ」
「そんなこと言わずにさぁ、一緒に飲もうぜ?」
「それに、この店、駅から遠いんだから、彼女を送っていかないと」
「それじゃあさ、三人で飲み明かそうぜ。明日、土曜日だろ? 休みだろ?」
「おまえは明日も仕事だろ。それに、未成年を巻き込む気か」
「え、未成年なの?」
 意外そうな目を向けられたので、
「なので、私はこの、アランチャータでお願いします」
 右手を挙げつつ初めての注文。
「そんな固いこと言わないで、飲めばいいじゃん」
「不良は黙ってろ」
「は~い。引っ込みま~す」
 去っていく彼の背を見て、ジャックが溜息を吐いた。見慣れているだろうメニューに目線を落として、もう一度溜息。
 二人の仲は良さそうに見える。ただ、時々ついて行けないのだろう。経験があるのでよく解る。
「ジャックさん。あの人が店主さんですか?」
「そうです。ね、粗野でしょう」
 粗野と言うよりもフレンドリーと評する方がより正確かもしれない。
「馴れ馴れしくて嫌な思いをしてたら済みません」
「嫌じゃないですよ。宇佐木くんも最初っからタメ口だったもん」
「あいつ……」
 客と店員という関係では良くないことなのだろう。ただ、有紗は気にしていないし、あの店はあれでいい気がしている。
「ジャックさんももっと砕けていいんですよ?」
「……努力します」
 ジャックは声のトーンを落とすと、ゆっくりとメニューを閉じて、メニュー立てに立てた。
 会話が一瞬断ち切れる。
 間もなく、瑛が両手に皿を持ってやってきた。
 先ず右手の皿がテーブルに置かれた。葉物野菜のサラダだ。トマトとモッツァレラが皿の周りを飾っている。カプレーゼとシーザーサラダを足したような内容だ。
「なあ、オミ。アリスちゃん、ちゃんと紹介して?」
「紹介って……。さっき話しただろ?」
「彼女が店に入ってくる前じゃん。さっきは話、脱線しちゃったしさぁ」
 恐らく届け物を置いたときにあらかじめ話をしてくれたのだろう。
 しかし、大事なことが間違っている。
「あ、あの、有紗です!」
 名前。
 今のところ、有栖川茶房の関係者は誰一人として有紗の名前をちゃんと覚えてくれていない。
 はっきり名乗ってみたが、通じただろうか。
「俺は瑛。昼もランチやってるから、ご贔屓に~」
「営業しに来たならその皿置いて引っ込め」
「今日のオミは冷たいなぁ。アリスちゃんの手前、クールな男装ってんの?」
「皿を、置け」
「へーい」
 ことり、と左手の皿がテーブルに置かれた。これも前菜で、チーズの盛り合わせだ。
 有紗の名前が正しく伝わってないことはさておき、
「あの、ジャックさんってお名前、オミさんっていうんですか?」
 気になった。
 瑛に向けて口を曲げていたジャックはこちらを向いたときには笑みを浮かべ、
忠臣ただおみです。いつぞや言った通り、ジャックというのはあだ名のような物ですから」
「桂さんとか宇佐木くんはオミさんって呼ばないんですね」
「そう呼ぶのは瑛とあと何人かだけなんですよ。弟も臣の字が付くんであだ名としてどうかと思うんですけどね」
「へぇ。ジャックさん、弟さんいるんですね?」
 ジャックが答えるより先に瑛が口を開いた。
「ブラコンの弟がな」
「……あいつのことはいいだろ」
 どうやら、弟のことは話題にしたくないらしい。
「あと、兄貴のことも忘れてやるなよ」
「兄なんて居たかな」
「ほんと兄貴には冷たいなぁ」
 そして、兄のことは更に話題にしたくないらしい。
 それ以上掘り下げるのはやめて、有紗はチーズに手を伸ばした。
 詳しくないので断言は出来ないが、これは多分チェダーチーズ。美味しい。お酒が飲めたらさぞかし合うのだろうと思いながら今度は別のチーズを。これは知っている。カマンベールチーズだ。
「そういえば、なんでアリスちゃんは桂のことは名前で、弥生のことは名字で呼ぶんだ?」
「やよい?」
 チーズを咀嚼しながら聞き慣れない名前を反芻する。
「ああ。互いにそう呼んでるからそのせいだろう」
 独り言のように言いながら、ジャックもチーズに手を伸ばした。
 瑛は空いた手を腰に当て、
「桂だけ何でか弥生のこと名字で呼ぶんだよなぁ。理由、知ってる?」
「さあ。紛らわしい名字の奴が居るからやめればいいのに、そこは譲らないんだよな」
「やよいって、宇佐木くんのこと?」
 ジャックに尋ねたのだが、首肯したのは瑛で、
「そ。宇佐木弥生。喫茶店の黒い方。字は三月の弥生」
「へえ。宇佐木くんって、弥生っていうんだ……」
 名前については気にしたことがなかったが、いざ知ってみると、何だか可愛い。
 皆が彼を弥生と呼んでいるのなら自分も、と頭を過ぎるも、当人との間で何もきっかけがないのに急には変えづらい。それに、既に馴染んでしまっているので、今更感もある。
 機会があったら、呼んでみよう。
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