有栖川茶房

タカツキユウト

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三十一杯目『Kのチェス盤』

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「ね。宇佐木くん。今日、定休日にしよう?」
 開店直前、桂がとんでもないことを言い出した。
 一瞬何を言われたかわからなかった弥生は、テーブルに載っている椅子を降ろす作業の手を止め、カウンターの中に立っている桂に向き直った。
 暴言の主は、いい笑顔でそこに立っている。
「はぁ? 何言ってんの? これから店開けるんだろうが」
「ねー、いいでしょ? 定休日にしよう? 定休日」
「大体な、定休日っていうのは決まった曜日とかに定期的に休むことをいうんであって、今日休むとしたら臨時休業!」
「定休日! 定休日!」
「聞いちゃいねぇし……」
 手を叩いて音頭を取り出しそうな桂は、既に休みを勝ち取ったかのような体だ。
 一方で弥生には懸念がいくつかあった。例えば、今、桂の正面にあるショーケースの中身。日持ちするものや持ち越してもいいものがあると同時に、期限が今日中のものもある。
「仕入れたケーキはどうするんだよ」
「僕らで食べちゃおう」
 またとんでもないことを言う。
「今日期限のだけでも食える量じゃねぇだろ」
「お茶と一緒なら大丈夫だよぉ」
「どういう理屈だよ」
 ジャックじゃあるまいし、と弥生は目を細めて桂を見た。どんなに目線を遣ったところで発言が撤回されることはなかった。
 弥生はテーブルに手を置いて、溜息を一つ吐いた。
 雇われ店主が乱心している現状、最終的な判断は自分の手に委ねられていると思うと若干気が滅入った。桂という曲者を説得しきれる気がしない。
「で、休業してどうするんだよ。俺、帰っていいわけ?」
 投げやり気味に訊くと、桂は至極嬉しそうに笑い、
「ちょっと待っててねー」
 そう言って二階へ上がっていった。
 上を見上げて待っていると、程なくして桂は何かを抱えて戻ってきた。
「じゃーん。チェスセット、買っちゃった。というわけで、チェスしよう、チェス」
「臨時休業してチェスって……。店開けながらでも出来るじゃん」
「邪魔されたくないのー」
「そんな白熱した勝負になるわけないじゃん。だって俺、ど素人だぜ?」
「大丈夫。僕も素人だから」
「素人が何を思い立ってチェス盤と駒のセット新調したんだよ。確か、古いの持ってたよな?」
「新しいので宇佐木くんと勝負したかったんだもん」
「新しいのでやらなきゃいけない理由がねぇよ」
 色々と破綻していて、最早突っ込む気力も尽きかけている。
 逡巡するが故に店内を眺め回す。頭に浮かぶのは、ケーキのこと、身内――特に妃が来たらどうするのかとか、長い一日を本当にチェスをして潰す気なのか等々。湧き上がってくる不安材料は山ほどある。
 最後にチェス盤を抱えた桂を見て、
「はー。いっか。じゃ、休み休み」
 面倒になった。
「やったー! 定休日!」
「臨時休業だって言ってんのに」
 店主は文字通り小躍りしている。店員は降って湧いた休みを喜べずにいた。
 カウンターの上にチェス盤を置き駒を並べ始めている桂を前に、弥生は憮然として立っていた。
 そこへ、二階から足音が降りてきた。
「あれ、どうしたの? お店、開けないの?」
 眠そうな目をした笑太だ。
「桂がチェスやるから臨時休業にするんだって」
「さっき持って行ったのってチェスだったんだ。店開けながらでもできるじゃん、そんなの」
 笑太は弥生と同意見のようだ。
 二人分の視線を受けながらも、桂は何一つ気にする様子も無く駒を並べていく。赤と白という変わった配色の駒だ。
 駒を一通り並べ終わると、桂は一つ手を打って、
「さ! 宇佐木くん、やろう? 笑ちゃんもやる?」
「俺は見てるだけでいいや。それより、本当にいいの? 勝手にお休みにしちゃって」
「看板はCloseにしてあるし、鍵も掛けてあるから誰も入ってこないよ!」
「張り紙とかも出さないんだ……」
「だって書くの面倒なんだもん。こっそりお休みしてるわけだし、別に要らないんじゃない?」
「こっそりって……。休むなら堂々と休もうよ」
「よしっ。始めるよ。宇佐木くん先手でいいよ」
 何も覆ることなく桂主催のチェス大会が始まった。

   *

 ――今日は何が食べられるかなぁ。
 軽い足取りで有紗は道を歩いていた。向かっているのは勿論、有栖川茶房。
 店に辿り着くと、いつものようにアイアンのノブを押した。

 りん。りりん。

 一歩中へ入ると、いつもより照明が暗めで、壁際の席の椅子はテーブルに上げられたままだ。そして、カウンター席では奥から桂、笑太、弥生がテーブルの上を見つめて何かやっているところだった。その三人の視線が、ドアベルの音を合図に一斉にこちらに向いた。
「アリスちゃん。どうやって入ってきたの?」
 そう尋ねてきたのは桂だ。
 どう、と言われても、
「普通にドア開けただけなんだけど……。もしかして、今日ってお休み?」
 店の中の状態が、明らかに客を迎える体制ではない。
 慌てて一旦表に出て扉を見れば、看板はCloseになっている。
「わっ。ごめんなさい。看板、全然見てなかった!」
「おかしいなぁ。鍵、掛けといた筈なんだけど……」
 訝しい顔をして桂は首を傾げている。
 鍵をこじ開ける技術は持ち合わせていないので、その点は信用して貰いたい。
「掛けたつもりでいただけだったりして」
「それって怖くない? だって、下手したら一晩中開いてたって事でしょ?」
「ヤだな、それ。桂、気をつけろよ」
 弥生と笑太の視線を浴びても、まだ桂は首を曲げたままだ。
「おかしいなぁ」
「おかしいとか言ってないで、客が来たんだから臨時休業終わりっ」
「続きは後でやればいいじゃない」
 首を口を曲げたままの桂を残して、弥生と笑太が立ち上がった。
 カウンターの上にあるのは試合途中のチェス盤。
「チェスやってたの?」
 駒の動かし方さえわからない有紗にとって、盤上の局面がどういったものなのかさっぱりわからない。ちょっと覗いてみただけで、有紗はいつものカウンター席に着いた。
 何を食べようか、とケーキの入ったショーケースの中を覗いてみる。
 そこに、覚えのあるケーキが入っていた。
「あ。レモンドリズルケーキある! この間のティーパーティーの時、美味しかったんだよね」
「お、じゃあ、今日はそれにするか?」
「うん、お願い」
 ティーパーティーの時は小さめに切られていたそれが、今日は一人前分にカットされている。前回食べ足りなかったのでこれは嬉しい。
「桂もほら、いい加減首傾げてないでお茶、淹れろよ」
「うーん。おかしいなぁ」
「お茶淹れないならコーヒー淹れちゃうぞ」
「それは駄目ェ!」
「そんなにコーヒー淹れられるの嫌なのかよ」
 椅子から飛び上がってカウンターに入った桂を見て、弥生が僅かに不満そうな顔をしている。
 笑太は一旦立ったものの、やることが無いのかまたカウンター席に着いて頬杖をついていた。
「笑太くんいるの珍しいね」
「いつもは厨房にいるか二階にいるからね。今日は桂がチェスやってサボるって言うから見てたんだ」
「サボるなんて人聞き悪いなぁ。定休日にしようって言っただけじゃない」
 と、桂は言うものの、おかしな箇所が一箇所。
「でも、急に休んだら臨時休業なんじゃ?」
「有紗にまで言われてる」
「だって、定休日ってやってみたかったんだもん」
 どういう経緯があったか有紗の知るところではないが、桂が定休日というものに憧れのようなものを抱いているのだけはわかった。
 テーブル席の椅子が上がったままという異様な空気の中、ケーキと紅茶を待つ。
 先にやってきたのはレモンドリズルケーキ。スポンジの生地の上にアイシングがかかった、レモンの香りがふんわりするケーキだ。
「はい、今日はニルギリだよ」
 続いて紅茶が出された。
「現地の言葉で『青い山』っていう意味で、『紅茶のブルーマウンテン』っても言われてるんだよ」
「へぇ」
 桂の蘊蓄もそこそこに、有紗は出された紅茶をひと啜りした。癖も無く、何にでも合いそうな味のように思う。
「いただきまーす」
 有紗はレモンドリズルケーキにフォークを入れた。柔らかそうに見える生地は存外しっかりしていて、フォークを入れた途端、じゅわっとシロップが染み出てくるような感覚がする。
 口の中に入れると、生地はほろりと崩れ、アイシングとシロップがじわりと染み出てくる。レモンピールが香って、口の中が爽やかだ。
「うーん! やっぱりこれ、美味しい! いくらでも食べられちゃいそう」
「この手の焼き菓子ってあんまり出さないからな。今日も、ケーキ屋の店主が気が向いたからって作って置いていった奴だし」
 と、弥生。
「そのケーキ屋さんに行けば置いてあるかな?」
「あの店、基本的にフランス菓子だからなぁ」
「このケーキは?」
「イギリス菓子」
「そうなんだぁ」
 食べたいときに食べられないのは残念だ。
 二口目のケーキを食しながら、ふと思う。
「でも、有栖川茶房って英国風なんじゃないの?」
「そこ、気付いちゃった?」
「気付いちゃった」
 初めから英国領にフランスは侵攻気味だったということか。
「やっぱりケーキの内容ちょっと見直して、俺も勉強するかなぁ……」
 弥生もその点については気になっていたらしい。腕組みをして、ショーケースの中を眺めている。
 頑張れ英国。フランスを押し返せ。
「わぁ。これで一層有栖川茶房が〝らしく〟なるね!」
 満面の笑みの桂に対して、弥生は渋い顔だ。
「簡単に言ってくれるなよ。食い物系、全部俺がやってるんだからな」
「いつもありがとねー」
「ホントにそれ、感謝してる? なあ」
「してるよ~」
 そう言って、桂はくねくねしている。どれほどの感謝の表現かはわからないが、今日はなかなかの捻り具合だ。
 ケーキが少しずつ減っていってしまう。
 食べているから仕方のないこととはいえ、こんなにも名残惜しいケーキは久しぶりだ。
 ケーキと紅茶と交互に食し、ケーキの延命を図る。
 とはいえ、いずれ無くなるケーキ。
 無くなるからこそいいのだけれど。
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