有栖川茶房

タカツキユウト

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四十七杯目『ジャバウォック』

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 サラダとデザート一つ分、そしてオレンジジュースとカプチーノのおかわりを余分に飲食したというのに、請求されたのはメニューにあるデザートセットの分だけだった。
 いくらランチタイムの残りや客に提供できない訳あり品だったとはいえ、食べたものは食べた。そう言ってその分を払おうとしたが、瑛は受け付けてくれなかった。
 瑛とやりとりをしている間に木葉は先に店を後にしていた。一人残された店内で、仕方なくデザートセットの代金のみを支払った。
 いざ帰ろうとしたところ、店の扉を開ける人がいた。
「チッス、チッス。なんか食わせて」
 入ってきたのは龍臣だった。対する瑛は憮然として、
「おまえ、扉の看板見えないわけ? あんだけ海外行ってて、Closeの単語もわかんないわけ?」
「堅いこと言うなよ。俺と瑛の仲じゃん」
「そんなに仲良かったっけ、俺たち」
「なんだよぉ。一晩飲み明かした仲じゃん」
「んなことしたことねぇだろ。俺が飲み明かしたことあるのは環とオミだけ」
「いいよなぁ。俺だって忠臣と一緒に酒くらい飲みてぇよ」
「弟と酒も飲んだことないのかよ」
「無いね~。正臣なんて一緒に飯食うのも嫌がるもん」
「嫌われてんなぁ」
「なー。なんでだろうなー」
 最後の方は最早棒読みで、実際の所それ程気にしていないようにも取れる。
 暗に帰れと言われているにもかかわらず、龍臣は店の中へと入ってきた。その彼と、目が合った。
「お。アリスじゃん。久しぶり」
「龍臣さん。あれからお加減如何ですか?」
「元気元気。あんときは助かったぜ。サンキューな」
 あの時の憔悴した顔は何処にもない。少年のように笑む彼の表情を見て安心した。
「それじゃあ、私はこれで」
 ジョリーが手を振って見送ってくれるのを背に、有紗はリストランテ・クオーリを後にした。

   *

 去って行く背中に気持ちばかり手を振ると、龍臣はカウンター席に陣取った。メニュー立てにささっているメニューを取ってぺらぺらと捲っていると、
「アリスと知り合ってたのか」
 おもむろにカウンターの中から瑛が顔を出してきた。
「この前ちょっと助けて貰った」
「助けて貰った?」
「ちょーっと変なとこ迷い込んじゃっててさ。ぱっときて救世主みたいに助けてくれたわけ。それより瑛。なんか肉!」
「だから、閉店時間だって言ってるよな」
「おまえらだって飯食うだろ?」
「もう食ったの。今何時だと思ってるんだよ。もう少しで四時だぞ。うちは基本三時から閉めてるの」
「えー。いいじゃんか~。にーくー」
「うるせぇな、もう。食ったら帰れよ?」
「やった! 瑛のそういうとこ、嫌いじゃないぜ」
「素直に好きって言えよ。で。何肉がいいんだ?」
「牛! ミディアムレアにして!」
「はいはい」
 呆れ顔に溜息までつけて、瑛は厨房へと引っ込んでいった。代わりに、ジョリーが水とお手ふきを持ってやってくる。彼は、とん、と水の入ったグラスを置くと、少しだけ首を傾げた。
「本当に見違えたね。少し前は会話もままならなかったのに」
 言いながら、お手ふきもカウンターに置いた。
 龍臣は一口水を口に含むと、
「あん時は変なとこに迷い込んでたんだよ」
「迷い込んでたって……。〝アリス〟じゃあるまいし」
「しょうがねぇだろ。事実なんだから。どれくらい居たか定かじゃねぇけど、しんどかったー」
 常識や概念がひっくり返っている世界。何の拍子かわからないが、いつの間にか迷い込んで出られなくなっていた。あの時アリスが現れなかったら今頃どうなっていたかと考えるだけで震えが上がってくる。
 こうして冷たい水を冷たく飲めるのも、あのちぐはぐな世界から抜け出せたおかげだ。
「ていうか、以前よりも更にまともになったか?」
 厨房の奥から瑛が言葉を投げてくる。
「俺が常にイカレてたみたいな言い方するなよな」
「いや、だって、知り合った頃からずっとなんか微妙に会話噛み合わなかったじゃん。桂みたいに」
「そうかぁ? 俺はまともに話してたつもりだったんだけどなぁ」
 水を飲みながら考えてみる。しかし、少し考えてはみたものの思い当たることは何一つなかった。
「な、ジョリー。エスプレッソ頂戴?」
「まったくもう、人使い荒いね。今僕ら、本当なら休み時間なんだけど?」
「悪ィな。チップ弾むからさ」
「そういうのは要らないよ。ここ、海外じゃないんだから」
 それもそうか、とポケットに突っ込んだ手を引っ込めた。こういうとき謝意を示す方法を他に知らないから困る。
 機械の駆動音がして、コーヒーのいい香りが漂ってきた。
 そうしてすぐにやってきたエスプレッソを一口、舐めるように飲んだ。独特の濃い苦みを感じる。エスプレッソはこうでなければ。あの世界のエスプレッソは砂糖を薄いコーヒーで溶いたような代物で、とても飲めたものではなかった。
 正常な世界は素晴らしい。もう二度とあんな捻れた世界になど行きたくない。とはいえ、発端がわかっていないので、気をつけるにも限界がある。とにかく、余計なものには近づかないことだと自分に言い聞かせていた。
 奥の方から肉の焼ける音と匂いがしてきた。主に嗅覚が刺激され、腹の虫が鳴き始めてうるさい。エスプレッソをちびちびと飲みながら、出来上がるのを待った。
「ね。実家にはもう帰った?」
 暇なのか、ジョリーがやってきて隣に立った。
「まーだ。でも、暫く帰ってねぇから、偶には顔見せるかなぁ」
「帰るんなら、一報入れてからの方がいいよ?」
「なんで?」
「君の部屋、楽しいことになってるみたいだから」
「はあ? 楽しいことってなんだよ?」
「さあ。それは帰ってからのお楽しみじゃない?」
「お楽しみとか言ってねぇで教えろよ」
「やーだね」
 クスクスと笑いながら、ジョリーは厨房の中に入ってしまった。
 ――勿体ぶりやがって。
 龍臣にとって、ジョリーは桂と同等くらいに扱いにくい存在だ。ワイルドカードはどうにも手に負えない。
 内心で舌打ちしながら、目線を落とす。
 ――やっぱりなんか変だなぁ。
 あべこべの世界から戻ってからというもの、心の裡にちょっとした虚無感があった。言う程大袈裟なものでもなかったが、何か変だ、という感覚だけは拭えなかった。
 胸の辺りに手を遣る。何か落としてきたような、何か失くしてきたような、喪失感にも似た妙な感覚がある。その実態を、龍臣自身はよく知らない。
「どうした。食う前から胃もたれか?」
 じゅうじゅうと音をさせている肉とライス、スープのカップを、瑛が目の前に置いた。
「そうじゃねぇよ。なんか……なんか変でさぁ」
「何が変なんだよ。やっと変じゃなくなったんだろ?」
「そういうんじゃなくて、変なとこから戻ってから、なんかすっきりしたっていうか、憑き物が落ちたっていうか」
 自分でもよく解っていないことを説明するのは難しい。
 自らの発言にもやもやしながら、フォークとナイフを手に取って、肉の端を刻んだ。
 注文通りのミディアムレア。口に放って、柔らかい歯ごたえと滲んでくる肉汁に自然と口の端が緩んだ。
「うーまい!」
「おまえにかかれば何だって旨くなるんだろうよ」
「おまえの腕がいいからに決まってんだろ。……って、なんか今、味わかんない奴みたいな言い方された?」
「してないしてない」
 瑛が首を振るので、続きを食べる。肉の付け合わせはポテト、ニンジン、コーンの三種。順に一口ずつ食べ、また肉に戻る。
 その間、ジョリーがずっと神妙な顔をしてこちらを見ていた。
 その視線を気にしつつも、龍臣は食べ続けた。やがて、ジョリーは大きく息を吸うと、
「さっきの話なんだけどさ。君、〝竜〟はどうしたの? 見当たらない気がするんだけど」

   *

 彼が入店したときから何だか軽いような気がしていた。
 彼の存在はもう少し重たかった筈だ。役割を二重に担った重さが彼にはあった筈だ。
 それが、いつの間にか無くなっていることに、彼の発言を聞いて漸く気がついた。
 〝竜〟が居ない。鏡写しの〝竜〟が。
 居たからと言って何か影響があるわけではない存在。しかし、役割として何故かある存在。彼の発言が昔からズレていたのは、その〝竜〟の所為だ。そして、とうとうちぐはぐになってしまったのは鏡の世界に迷い込んでしまったからだろう。
 ――でもあれは桂が仕舞い込んでた筈なのに……。
 一時的にでも世界が歪んだのか。歪んだ世界が彼を手招きしたのか。そうでないのなら、桂が意図して鏡を取り出したとしか思えない。
「りゅう? りゅうって、ドラゴンの竜?」
「そう。君の名前にもある〝竜〟だよ」
「そんなコト言われてもなぁ。俺、ペット飼ってねぇし」
「君がダイヤのジャックの役割を負い始めた時から一緒にあった存在だよ。君のことだから多分自覚してないんだろうけど」
「自覚? ないねぇ。でも、軽くなった気がするから、きっとそいつがいなくなったんじゃねぇの」
「そんな感じだね。およそ、別の世界にでも置いて来ちゃったんでしょ」
「その言い方だと、別に居なくても害は無いんだろ?」
「害は無いと思うけど、どう影響するかは知らないね。なんせ、役割をどこかに置いて来ちゃうなんて聞いたことないから」
「へー。じゃあ、俺はレアって訳だ」
 あっけらかんとして龍臣は肉を食べ進めている。
 不可解な点は多くあれど、龍臣が〝竜〟を失くしてきてしまったのは間違いないようだ。
 ――さて。吉と出るか凶と出るか。それとも本当に無くて良かった役割なのか。
 結論が出るのは恐らく物語が終焉を迎えるか失敗して閉じるときだろう。
 ――にしても……。
 龍臣の食べっぷりは見事なものだ。忠臣ほどとはいかないまでも、皿の上の肉や野菜が消えるのが速い。スープも既に飲み干して、今、最後の一切れを口に入れた。残ったライスも掻き込んで、皿の上は舐めたように綺麗になった。
「ぷはー。旨かった! おかわり!」
「おかわりはナシ! とっとと帰れよ」
「えー。食休みくらいさせろよぉ」
「じゃあ、食休みしたらさっさと帰れよ」
「そんじゃあ食後のカプチーノ頂戴」
「おまえなぁ」
 文句を言いながらも、瑛はカプチーノの準備をし始めた。
 ――瑛もお人好しなんだから。
 こうして休み時間はどんどん削られていくのだった。
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