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五十六杯目『有栖』
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「少し、昔話をしようか」
おもむろにそう切り出した桂の眼には生気が宿り、理性の色を感じた。
弥生もてっさも居ない静まりかえった異世界の店内で、桂と二人きり。真正面で相対していて、恐怖とは違う寒気を背筋に感じた。
不意に、寝息のような音を聞いて、ソファ席の方を振り返った。そこには絵本の中に出てくるような翼を持ったドラゴンが一匹、すやすやと眠っている。
「ドラゴン……?」
「眠っているし、彼は特に害は無いから」
彼の声音は凛としていてはっきりしている。いつものようにふわついた様子は今の彼には何処にも存在しなかった。
――桂さん、なんだか生きてるみたい……。
そう感じた自分に有紗は驚いた。まるで今までの桂が死人であるかのような感覚を無意識に得ていたということになる。
そのことに再び背筋を震わせ、有紗はフォークを置いた。
向き合わなければならない。何故かそう思った。
「昔話、ですか」
「そう。大昔の話」
桂はこちらを見据えてくる。視線を逸らすまいと、精一杯受け止めた。
「或る術士の家系があってね。国の厄災をその身に負う術士の家系でね。そこに、兄と妹が居たんだ。妹は身体が弱くて負荷に苦しんでいたし、兄は精神が弱くて負荷に苦しんでいたんだ」
相槌は頷くだけにして、唐突な話を一言一句聞き逃すまいと口は結んでいた。
「或る日、白い八重椿の傍で、妹が真っ赤に染まって倒れてたんだ。血飛沫で、八重椿も赤くなっててね。本当に真っ赤だったんだよ。赤くて、紅くて……。そのことに兄が気付いたのは、彼女の婚約者が絶叫したのを聴いてからだったんだ。それから数日後、婚約者は彼女が大事にしてた白い猫と一緒に真っ赤になっちゃった。部屋一面、赤の模様を描いてね」
有紗は固唾を呑んだ。
竜の吐息もいつの間にか小さくなり、その所為もあってか余りにも周りが静かすぎて、自分の呼吸音すらうるさい。息を潜めて、図らずも話の内容を想像する。
「彼女や彼の死因よりも他のことを、兄は思ったんだよ。何もしてあげられなかった、って」
瞬きすら殆どしていなかった桂が、少しだけ目を伏せた。自然と視線が外れ、彼は僅かに別の世界を見る。
「元々心が弱かった兄は心のたがが外れてしまったんだよ。文字通り彼と猫の骨を拾って、術を掛けた。永遠の輪廻の中でいつまでも楽しく居られる夢に生きるように」
「お兄さんは、どうなったんですか?」
「二人を見守りたかったから、まじないの中に自分も入れちゃったんだよ。ただ楽しく過ごせるように、見守っている為に」
「そう、ですか」
何の為の昔話なのかは話を聞き終わってもわからなかった。ただ思うのは、その輪廻とはもしかしたら辛く哀しいものなのではないか、ということ。誰も楽になれない。永遠の繰り返し。初めは良くても、きっといつか笑顔は作り物になる。そうなったら、最早狂うしかない。
それを考えたとき、ふと、いつぞや鏡の中で見た目の笑っていない弥生のことを思い出した。背筋がぞっとするような、あの死んだ眼差し。
それでいて一人正常だった桂。
――もしかして、この世界って……。
こじつけるのは早い、とも思う。何しろ桂は、何の昔話なのかを言っていない。
「桂さん」
「なに?」
「桂さんは今、楽しいですか?」
「どうだろうね。楽しい筈なんだけどね」
「ずっともてなす側として頑張ってるけど、桂さんも席についていいんですよ?」
「うん?」
「カウンターの中に居たら、同じ目線に立てないじゃないですか」
「でも僕は、店主だからね」
そう言って、桂は薄い笑顔を作る。風が吹いたら消えてしまいそうな儚い笑顔に見えて、有紗は僅かに眉根を詰めた。
そんな顔をして欲しいのではない。
「なんて言ったらいいんだろう……」
二人はきっと、見守っていられるよりも一緒に笑いたい筈だから。哀しみと苦しみしかない生涯だったとしても、終わっても尚、笑う為に廻る必要はない筈だから。誰かの笑顔の為に、誰かが苦しむ必要はない筈だから。
「桂さんも、楽になっていいんですよ?」
「楽に……?」
「解放されていいんですよ? 笑顔はもう、充分にこのお店に満ちてますから」
「そう……なのかな」
戸惑った様子で桂は眉尻を下げている。
こういう時、説得する為の言葉を選ぶのは得意ではない。出来ることは、ただ思ったことを口にすること。飾れないのなら、素直でいる方が断然いいと、そう信じて有紗は笑って見せた。
「桂さんもこっち側に来て一緒にお茶しましょう? 皆でテーブル囲んで、紅茶飲みましょう?」
笑って欲しい。そう思うからこそ表した笑顔。
一瞬驚いたような顔をした桂は、ゆっくりと口角を上げると、漸く笑顔を見せた。それは泣き顔にも近い笑顔で、
「そう、だね。今度、そっちに行くよ」
僅かに震えた声でそう言った。
初めて見る桂のそんな表情に、有紗はどう反応していいかわからず笑顔のまま少し顎を引いた。
――良かった。笑ってくれて。
抱くのは安堵。思わず息をふっと吐いて肩から力を抜く。
その時、ぱたぱたと二階から足音が近づいてくるのが聞こえた。
――弥生くん、かな?
気が逸れた、その瞬間にまた頬に冷たい感覚を得ると、一瞬の閃光が見えた後、また同じ景色を目にした。閃光の前後で桂の口元が動いたような気がしたが、最早それは確かめようもない。
――あれ? 何か、変わった?
気になってティーカップの側面を触ると、触れられる程度に熱を感じた。後ろを振り返っても竜の姿はない。
――戻ってきた?
確信が得られず、恐る恐るケーキをフォークの先に取って舐めてみた。甘酸っぱいレモンカードの味がして、すべてが元通りになったことを知る。
目の前の桂も、今は機嫌の良さそうな顔をしてゆらゆらと揺れている。表の世界の桂に間違いない。
「おー、アリス、来てたのか。いらっしゃい」
いつも通りの弥生が声を掛けてくる。余りにいつも通り過ぎて返答の言葉を発することを忘れてしまった。
――さっきのは、何だったんだろう……。
空間がごっそり入れ替わったような不思議な体験だった。白昼夢を見たと言われれば頷いてしまうかもしれない。
本当にこれは現実なのか。疑い始めるとキリが無かった。実際の所、レモンメレンゲケーキが美味しいから現実、という曖昧な判断基準しか無い。その判断基準も、最後の一口になってしまった。
「レモンメレンゲケーキ食ってるのか。流石、お目が高い。今日張り切って仕入れて良かったぜ」
嬉しそうにそう言って、弥生は破顔した。
この笑顔は現実のものだろう。そう信じて、残りのケーキを口に放り込んだ。ぬるくなり始めた紅茶も、一気に飲み干す。
「ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ」
いつものように声を出しながらてっさが二階から下りてきた。
「ぶなー!」
こちらも嬉しそうに一声鳴くと、隣の席にドスンと乗ってきた。首を捻ってお強請りをしてくるのに応えて、両手で撫で回してあげた。ふわふわの毛に手が埋まる。そろそろ今年もサマーカットの季節だろうか。見るからに暑そうだ。
黒いぶちが所々にある白い猫は、今日もご機嫌でふさふさの尻尾を振っている。
桂の昔話を思い出しながら、有紗は猫を撫で続けた。ふと気になって、黒い模様の所を指先でさすってみた。消えるわけはない。そうとわかっていたのに、ついやってしまった。
――まさかね。
ぶちを気にするのはやめて、額から背中に掛けて大きく手を動かす。
「アリスちゃ~ん。そろそろ紅茶終わるけど、おかわり如何?」
「そうだなぁ。今度はミルクティーでください」
「アリスちゃんは本当にミルクティーが好きなんだね~」
「うん。大好き」
接し慣れた声と動作を見て、本当に戻ってきたのだと漸く実感した。
「ぐろろろろろ」
不細工に喉を鳴らしているのを感じながら、有紗はぼんやりとカウンターの中を眺めていた。
桂。弥生。てっさ。
皆いつも通り。皆穏やかな顔をして。皆お茶会の中。
当たり前の、非現実。
その場所こそが有栖川茶房なのだと、そう思った。
おもむろにそう切り出した桂の眼には生気が宿り、理性の色を感じた。
弥生もてっさも居ない静まりかえった異世界の店内で、桂と二人きり。真正面で相対していて、恐怖とは違う寒気を背筋に感じた。
不意に、寝息のような音を聞いて、ソファ席の方を振り返った。そこには絵本の中に出てくるような翼を持ったドラゴンが一匹、すやすやと眠っている。
「ドラゴン……?」
「眠っているし、彼は特に害は無いから」
彼の声音は凛としていてはっきりしている。いつものようにふわついた様子は今の彼には何処にも存在しなかった。
――桂さん、なんだか生きてるみたい……。
そう感じた自分に有紗は驚いた。まるで今までの桂が死人であるかのような感覚を無意識に得ていたということになる。
そのことに再び背筋を震わせ、有紗はフォークを置いた。
向き合わなければならない。何故かそう思った。
「昔話、ですか」
「そう。大昔の話」
桂はこちらを見据えてくる。視線を逸らすまいと、精一杯受け止めた。
「或る術士の家系があってね。国の厄災をその身に負う術士の家系でね。そこに、兄と妹が居たんだ。妹は身体が弱くて負荷に苦しんでいたし、兄は精神が弱くて負荷に苦しんでいたんだ」
相槌は頷くだけにして、唐突な話を一言一句聞き逃すまいと口は結んでいた。
「或る日、白い八重椿の傍で、妹が真っ赤に染まって倒れてたんだ。血飛沫で、八重椿も赤くなっててね。本当に真っ赤だったんだよ。赤くて、紅くて……。そのことに兄が気付いたのは、彼女の婚約者が絶叫したのを聴いてからだったんだ。それから数日後、婚約者は彼女が大事にしてた白い猫と一緒に真っ赤になっちゃった。部屋一面、赤の模様を描いてね」
有紗は固唾を呑んだ。
竜の吐息もいつの間にか小さくなり、その所為もあってか余りにも周りが静かすぎて、自分の呼吸音すらうるさい。息を潜めて、図らずも話の内容を想像する。
「彼女や彼の死因よりも他のことを、兄は思ったんだよ。何もしてあげられなかった、って」
瞬きすら殆どしていなかった桂が、少しだけ目を伏せた。自然と視線が外れ、彼は僅かに別の世界を見る。
「元々心が弱かった兄は心のたがが外れてしまったんだよ。文字通り彼と猫の骨を拾って、術を掛けた。永遠の輪廻の中でいつまでも楽しく居られる夢に生きるように」
「お兄さんは、どうなったんですか?」
「二人を見守りたかったから、まじないの中に自分も入れちゃったんだよ。ただ楽しく過ごせるように、見守っている為に」
「そう、ですか」
何の為の昔話なのかは話を聞き終わってもわからなかった。ただ思うのは、その輪廻とはもしかしたら辛く哀しいものなのではないか、ということ。誰も楽になれない。永遠の繰り返し。初めは良くても、きっといつか笑顔は作り物になる。そうなったら、最早狂うしかない。
それを考えたとき、ふと、いつぞや鏡の中で見た目の笑っていない弥生のことを思い出した。背筋がぞっとするような、あの死んだ眼差し。
それでいて一人正常だった桂。
――もしかして、この世界って……。
こじつけるのは早い、とも思う。何しろ桂は、何の昔話なのかを言っていない。
「桂さん」
「なに?」
「桂さんは今、楽しいですか?」
「どうだろうね。楽しい筈なんだけどね」
「ずっともてなす側として頑張ってるけど、桂さんも席についていいんですよ?」
「うん?」
「カウンターの中に居たら、同じ目線に立てないじゃないですか」
「でも僕は、店主だからね」
そう言って、桂は薄い笑顔を作る。風が吹いたら消えてしまいそうな儚い笑顔に見えて、有紗は僅かに眉根を詰めた。
そんな顔をして欲しいのではない。
「なんて言ったらいいんだろう……」
二人はきっと、見守っていられるよりも一緒に笑いたい筈だから。哀しみと苦しみしかない生涯だったとしても、終わっても尚、笑う為に廻る必要はない筈だから。誰かの笑顔の為に、誰かが苦しむ必要はない筈だから。
「桂さんも、楽になっていいんですよ?」
「楽に……?」
「解放されていいんですよ? 笑顔はもう、充分にこのお店に満ちてますから」
「そう……なのかな」
戸惑った様子で桂は眉尻を下げている。
こういう時、説得する為の言葉を選ぶのは得意ではない。出来ることは、ただ思ったことを口にすること。飾れないのなら、素直でいる方が断然いいと、そう信じて有紗は笑って見せた。
「桂さんもこっち側に来て一緒にお茶しましょう? 皆でテーブル囲んで、紅茶飲みましょう?」
笑って欲しい。そう思うからこそ表した笑顔。
一瞬驚いたような顔をした桂は、ゆっくりと口角を上げると、漸く笑顔を見せた。それは泣き顔にも近い笑顔で、
「そう、だね。今度、そっちに行くよ」
僅かに震えた声でそう言った。
初めて見る桂のそんな表情に、有紗はどう反応していいかわからず笑顔のまま少し顎を引いた。
――良かった。笑ってくれて。
抱くのは安堵。思わず息をふっと吐いて肩から力を抜く。
その時、ぱたぱたと二階から足音が近づいてくるのが聞こえた。
――弥生くん、かな?
気が逸れた、その瞬間にまた頬に冷たい感覚を得ると、一瞬の閃光が見えた後、また同じ景色を目にした。閃光の前後で桂の口元が動いたような気がしたが、最早それは確かめようもない。
――あれ? 何か、変わった?
気になってティーカップの側面を触ると、触れられる程度に熱を感じた。後ろを振り返っても竜の姿はない。
――戻ってきた?
確信が得られず、恐る恐るケーキをフォークの先に取って舐めてみた。甘酸っぱいレモンカードの味がして、すべてが元通りになったことを知る。
目の前の桂も、今は機嫌の良さそうな顔をしてゆらゆらと揺れている。表の世界の桂に間違いない。
「おー、アリス、来てたのか。いらっしゃい」
いつも通りの弥生が声を掛けてくる。余りにいつも通り過ぎて返答の言葉を発することを忘れてしまった。
――さっきのは、何だったんだろう……。
空間がごっそり入れ替わったような不思議な体験だった。白昼夢を見たと言われれば頷いてしまうかもしれない。
本当にこれは現実なのか。疑い始めるとキリが無かった。実際の所、レモンメレンゲケーキが美味しいから現実、という曖昧な判断基準しか無い。その判断基準も、最後の一口になってしまった。
「レモンメレンゲケーキ食ってるのか。流石、お目が高い。今日張り切って仕入れて良かったぜ」
嬉しそうにそう言って、弥生は破顔した。
この笑顔は現実のものだろう。そう信じて、残りのケーキを口に放り込んだ。ぬるくなり始めた紅茶も、一気に飲み干す。
「ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ」
いつものように声を出しながらてっさが二階から下りてきた。
「ぶなー!」
こちらも嬉しそうに一声鳴くと、隣の席にドスンと乗ってきた。首を捻ってお強請りをしてくるのに応えて、両手で撫で回してあげた。ふわふわの毛に手が埋まる。そろそろ今年もサマーカットの季節だろうか。見るからに暑そうだ。
黒いぶちが所々にある白い猫は、今日もご機嫌でふさふさの尻尾を振っている。
桂の昔話を思い出しながら、有紗は猫を撫で続けた。ふと気になって、黒い模様の所を指先でさすってみた。消えるわけはない。そうとわかっていたのに、ついやってしまった。
――まさかね。
ぶちを気にするのはやめて、額から背中に掛けて大きく手を動かす。
「アリスちゃ~ん。そろそろ紅茶終わるけど、おかわり如何?」
「そうだなぁ。今度はミルクティーでください」
「アリスちゃんは本当にミルクティーが好きなんだね~」
「うん。大好き」
接し慣れた声と動作を見て、本当に戻ってきたのだと漸く実感した。
「ぐろろろろろ」
不細工に喉を鳴らしているのを感じながら、有紗はぼんやりとカウンターの中を眺めていた。
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