有栖川茶房

タカツキユウト

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五十七杯目『開宴』

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 不思議な体験をした翌日。
 授業が終わった有紗は店に行くかどうかで逡巡していた。二日続けていくのは正直財布が痛い。しかし、胸の裡に一抹の焦燥があるのを感じていた。
 何故そんな感覚に襲われるのかわからない。ひとつまみ程の焦燥が、逡巡の合間に無視できなくなっていた。
 ――行こう。
 決意して、店の方へを歩き出す。
 いつもの道。いつもの景色。それは店に辿り着くまでいつも通りだった。通い始めて一年と少し。あっという間だった。今は六月。動くと汗が滲むようになる季節だ。ティーソーダがそろそろ恋しくなってくる。すっとする冷たい飲み物が飲みたい。
 喉の渇きを覚えた頃、見慣れた店が現れた。英国風のシックな外観。年季の入ったアイアンのドアノブ。それをゆっくり通して、店の中に入った。
「よう、有紗」
「え……?」
 弥生に声を掛けられ、思わず眉を顰めた。一度は気の所為かと思ったが、確かに今、〝有紗〟と呼ばれた。
「〝アリス〟じゃないの?」
「うん? だって、有紗だろ?」
「まあ、そう、なんだけど……」
 どれだけ訂正しても〝アリス〟としか呼ばなかった彼が、一体どういう風の吹き回しだろう。困惑しながらいつものカウンター席に座ると、横の席にドスンと大きな音を立てて太い猫がやってきた。
「ぶなー」
「あー、てっさ。てっさはいつも通りだよね?」
「ぶーなー」
 猫の言葉は理解出来ない。肯定していると信じて、猫の頭を撫でてやる。手を動かしながら辺りを見渡すと、どうやら店主の姿が無いことに気がついた。昼休みという時間でもないのに珍しいこともある。何気なく、
「そういえば、桂さんは」
 そう尋ねると、
「誰?」
「ぶな?」
「へ?」
 思ってもみない回答が返ってきた。発音が悪くて聞き間違いでもしたのかと思い、
「桂さんだよ?」
「……知らない」
「ぶにゃぁ」
 もう一度言っても答えは変わらなかった。思わず有紗は瞠目した。得る感情は驚愕しかない。
「ええー! じゃ、じゃあ、二階のお部屋はどうなっちゃってるの?」
「二階?」
「桂さん、このお店に住んでた筈だから、お部屋がある筈だよ」
「……ちょっと見てくる」
 弥生はぱたぱたと二階に上がり、やや間を持ってからまたぱたぱたと下りてきた。心底戸惑ったような顔をして、腕組みをする。
「なんか知らねぇ部屋があった。誰か使ってたっぽい部屋」
「それ、桂さんの部屋だよ」
「だから、それ誰だよ、って」
「でも、弥生くん一人じゃお店回せないでしょ?」
「……言われてみればそう、かも。あれ。俺、今までどうしてたんだ? あれ? あれえ?」
「このままじゃ今日、休憩も取れないよ? 笑太くんに手伝って貰ったら?」
「笑太って誰?」
「嘘でしょ! ちょっと眠そうなぼんやりした男のひと……」
「ごめん。わかんね」
「嘘だ……。忘れちゃったの? どうして……」
 桂に笑太。二人の登場人物が弥生の中からすっぽりと抜けてしまっている。有紗がこの店に通い始める前からずっと一緒に居た筈の人たちの事を、たった一晩で忘れるなど有り得ない。嘘だ、という言葉に塗れている間に、弥生は電話の子機を手に取って、
「取り敢えず真白にヘルプ頼むわ。このままじゃ俺、パンクしちまう」
「あ、真白くんはわかるんだ」
「ああ、うん。昔からの知り合いだし、良く店も手伝ってくれてるし。有紗も知ってるだろ?」
「うん……」
 全員のことを忘れている訳でないことには安心した。しかし、彼が真白に電話をしている間、落ち着きを無くして意味も無く店内を眺めていた。何一つ変わらない普段通りの有栖川茶房なのに、大事な人を失くしていることに気付いているのは有紗一人。驚きを通り過ぎて、寂寥の念が強まっていった。
「それにしても、今までホントどうしてたんだ俺」
 電話を切った弥生が、頭を掻いて首を捻っている。
 ――本当に思い出せないんだ……。
 ここまで来ると、最早受け入れるしかない。
 桂と笑太は、姿形はおろか、弥生の中からは概念すらも無いのだと。
 メニューすら見る気になれず気落ちしているところに、涼やかなドアベルの音が聞こえた。入ってきたのは忠臣だった。この蒸し暑い中、きっちりとスーツを着込んでいる。
「お久しぶりです、有紗ちゃん」
 ――まただ。
 弥生だけではなかった。そのことを知り、確かめるように訊いた。
「忠臣さん……。あの……桂さんって、覚えてますよね?」
「あの……誰です?」
「忠臣さんまで……」
 この分だと本当に有紗以外誰も居ない彼らのことを覚えている人は居ない事になる。唐突に、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。一瞬気が遠くなるほどの強い衝撃だった。眩暈さえする。
 そんな有紗を他所に、不思議そうな面持ちのまま忠臣は指定席に腰掛けた。
「よお、忠臣。今日もコーヒーか?」
「話が早くて助かる。アイスコーヒーをくれ」
 弥生が忠臣を名前で呼んでいる。ずっと〝ジャック〟としか呼ばなかったのに、心境の変化という問題でもなさそうだ。
 ――もしかして、お話は終わっちゃったの?
 主催者が消え、その存在を皆が忘れ、役割の名前も無くなった。笑太の存在については説明が付けられないが、話が終わったのだとすれば、少なくとも役割の消失については理解できる。
 ――でも私は全部覚えてるのに、なんで皆は忘れちゃったの?
 一人で抱え込むには思い出が多すぎる。共有したくても出来ないことが、こんなにも辛いとは思わなかった。いっそ自分も忘れてしまえていたら良かったのか、という考えが頭を過ぎった後、有紗は必死に頭を振った。
 ――私が忘れたら、桂さんは本当に消えてなくなっちゃうもの。
 だから忘れてはいけない。この一年間は、桂も笑太も含めて実在したのだ。その思い出をなげうってはいけない。
「弥生くん。今日は弥生くんの苺のミルフィーユ頂戴?」
「いいぜ。飲み物はどうする?」
「ダージリンのファーストフラッシュで」
「オーケー。高いけどいいのか?」
「いいの。大事なメニューだから」
「う? ……そうか?」
 不思議そうな顔をしながら、弥生は準備に取りかかった。
 有紗は得意満面の顔をして、心持ち背筋を伸ばした。
 例え物語が終わっても、お茶会は続ければいい。これはその為の一杯だ。
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