絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第ニ章 俺たちの夢

花火

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 有島の眩い夜景の中にアブラゼミの歯切れの悪いノイズのような鳴き声が響いていた。少し汗ばんだ額に吹き付ける夜風が心地よい。健吾が両手で構える携帯電話の画面の中には沙耶の横顔が捉えられている。

 雑居ビルの屋上にいた。沙耶は屋上の柵に両腕を重ねておき、遠くのほうを見つめている。夜の中で彼女の着ているブラウスの白と夜景の煌きが鮮やかに映えている。

 地上から夜空に向かって二本の水色のレーザー光線が伸びた。有島のシンボルであるアリー像の両目から放たれている。二つの円い光が夜空を半分ほど覆う雲を舐めるように移動し、パレットの上で混ざり合う絵の具のような複雑な光のグラデーションを作り出す。

「じゃあ、いくよ」

 健吾がそう言うと、沙耶は唇ときゅっと小さく噛んだ。仄かに走る緊張感。

「照明」

 沙耶の下に座っていた洋平が懐中電灯で沙耶の顔を照らす。

「よーい、スタート」

 洋平が端末を操作してスピーカーから音楽を流した。ギターの情緒的なイントロで始まり、そこにドラムとベースが重なる。沙耶はヴォーカルの歌い出しに合わせてリップシンクをするために口を開いた。

「ぷッ、ふふ……」

 しかし、彼女は口元に手をやって笑いはじめた。健吾は携帯電話を下ろして訊いた。

「どうした?」
「洋平が……おせんべ食べてる」

 洋平を見ると、左手に懐中電灯を持ち、右手に煎餅を持って齧っていた。バリッと音が鳴る。健吾はその煎餅を取り上げて言った。

「なにやってんだよ」
「録音してないんだから別にいいだろ」
「そういう問題じゃない。洋平には緊張感がなさ過ぎるんだよ」

 健吾は煎餅をフリスビーのように回転させて投げた。有島の夜景の中に飛んでいき、やがて小さな点になって消えた。

「よし、撮影再開だ」
「おう」

 洋平はそう言って二枚目の煎餅をバリッと齧った。

「とうッ!」

 今度は沙耶がスカートを翻してそれを蹴飛ばす。屋上の床を氷上のように滑り、遠くまで飛んでいった。

「今おまえが持っている煎餅を全部出せ」
「さっきので全部だ」
「両手を挙げろ」

 洋平が両手を挙げるとシャツの腹部のあたりが少し膨らんでいた。健吾が彼の襟から手を突っ込むとそこから出てきたのは袋に入った十枚ほどの煎餅だった。

「これは没収だ」
「夕飯まだだから腹が減ってるんだよ」
「それはみんな同じだ。撮影が終わったら嫌というほど食わせてやるから」

 健吾は携帯電話を構えて撮影を再開した。

 バンドのコンテストにエントリーする曲のPVの撮影だった。メインはいつものレンタルスタジオでの演奏風景で、その合間に有島のいくつかのスポットでの沙耶の姿を捉えたカットを挿入する。レンタルスタジオでの撮影は知人にカメラマンを頼んですでに撮影を終えており、インサートカットの撮影もこれで最後だった。以前、中国マフィアとのトラブルに巻き込まれた場所はもちろん避けていた。

 スピーカーから流れる彼らの曲はサビで直線的な縦ノリが激しくなり、最後は夜風の中に余韻を残しながら静かに幕を閉じる。沙耶はリップシンクしていた口を閉じるが、その目はまだ有島の夜景を見続けている。

「カット」

 健吾のその声でようやく彼女の表情から緊張が解けて笑顔になった。

「どうだった?」
「完璧」
「見せてよ」

 撮影した映像を音声といっしょに平面のホログラムで再生し、三人でそれを取り囲んで眺めた。照明は程よい光で沙耶の物憂げな表情を際立たせている。その背景で夜空に向けて放たれている二本のレーザー光線が水色、ピンク、オレンジ……と次々と色を変えている。

「いい感じじゃん」
「編集にはどれくらいかかるの?」

 沙耶が訊いた。撮影だけでなく編集も健吾がやることになっていた。

「三日……いや、一日でもできるかな」
「だけど、コンテストのエントリー締め切りはまだあと一週間あるだろ。そんなに焦ってやることはないさ」
「そう。スピードよりもクオリティー重視で」
「とにかく、これで撮影はクランクアップということだろ。打ち上げしようぜ。沙耶の店にでも行こうか?」
「いや、コンビニで買ってきてここで飲もう。夜景もきれいだし」
「じゃあ、俺が買ってくる。なに飲む?」

 洋平が訊いた。

「俺はバイクだからコーラ」
「私は酎ハイ」

 洋平は階段室へと入り、健吾と沙耶の二人が屋上に残された。夜風の吹き付ける音。健吾は沙耶のほうにちらと目を向ける。優しい笑みが返ってくる。

「……ねえ、どう思う?」
「え、なにが?」
「俺たち、コンテストでどのくらいまでいけるだろう」
「どのくらいってもちろん優勝でしょ? そのつもりでやってるわけでしょ?」
「そうだな。ごめん。バカな質問だった」

 そのとき、ヒュッと音が鳴り、夜空で淡いピンク色の打ち上げ花火がドンと空気を震わせて大きく弾けた。残滓を煌かせながらスッと溶けて消える。

「……きれい。花火大会?」
「今日は有島の誕生記念日……だったような気がする。有島だけ今日は祝日だ。俺たちには関係のないことだけど」
「この花火を背景にして撮りなおそうか」
「いや、それはやめておこう。映像がちょっと派手になりすぎる」
「そっか。そうかもね」

 色とりどりの花火が次々と打ち上げられ、二人のいる雑居ビルの屋上をほんの一瞬だけその鮮やかな色で染めあげる。

 沙耶は柵を両手で掴んでそれを見上げた。健吾は彼女から少し距離を置いて同じく柵を両手で掴む。そして彼女の横顔を見る。花火の光が彼女の顔をちかちかと照らしている。洋平から取り上げた煎餅を手に持っていたのを思い出し、袋から一枚出してバリッと齧った。その醤油味を噛み締めながらつくづく感じた。

 ――俺は今、青春のど真ん中にいる……。

 自分たちの作品に自信があったが、コンテストの結果がどうなるかは天の采配。うかがい知ることなんてできない。だから今この瞬間にずっと留まっていたかった。成功、失敗、希望、絶望、夢、現実……。なにも確定しておらず、故にすべての可能性が詰まっているといえる甘酸っぱい青春の時間に浸かっていたかった。

 しかし、いつまでもそこに安住しているわけにはいかない。結果がどうなるかを恐れずに前に進まなくてはならないのだ。それはバンドのコンテストのことだけではなく……。

「……ねえ、沙耶」

 煎餅を一枚食べ終えてから彼女を呼んだ。しかし、その瞬間、夜空に一際大きな花火が打ち上げられてその音の中に声がかき消される。自分の間の悪さに苦笑いした。

「沙耶」

 さっきよりも大きな声で呼んだ。

「ん?」

 彼女が顔を向けた。

「あのさ……」
「うん」
「バンドのコンテストで俺たちが優勝できたら……」

 しかし、その先が続かなかった。沙耶は彼の顔をじっと見つめて言葉の続きを待つ。その間に何発もの花火が打ち上げられて夜空を彩る。

「おう、買ってきたぞ!」

 そうしているうちに洋平が戻ってきてしまった。手に提げたレジ袋から缶を一本取り出して健吾に投げた。

「おまえはコークハイだったよな」
「俺はバイクで来てるからアルコールはダメだって言ったろ」
「なに言ってんだよ。打ち上げだぞ。明日はバイト休みなんだからバイク置いていって地下鉄で帰ればいいだろ」

 三人は屋上の床に腰を下ろしてそれぞれ酒の缶を手に持ち、プシュッとプルタブを引いた。乾杯してから夜の熱気で乾いた喉にゴクゴクと流し込んだ。

「あ、健吾」

 沙耶が彼に顔を向けて言った。

「さっきの話はなに? 優勝できたらなんとかって」
「ああ……。優勝できたらみんなでバーベキューでもやらないか」

 彼女はそれにクスッと笑う。

「なに言ってんの。バーベキューくらいいつでもやりたいときにやればいいじゃん。明日やろうか?」
「いや、明日はやめておこう。天気予報では雨らしいから」

 健吾はそう言ってからふうっと小さくため息をつき、花火の打ちあがる夜空を仰いだ。
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