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第二章

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 行くよ行くよ、解決するよ。

 ばばん。

 弁当の入ったバッグを抱えて歩く千尋の前で、慈愛は白衣の裾をひるがえした。

 表情を見たらけだるそうなのに、歩く勢いだけはやる気充分みたいだ。なんか変な先生に関わっちゃったなと千尋は思う。

「ということで、昼休みは部室に集合ね」

 慈愛のひと声で、部員がコンピュータ部の部室に集められた。部屋の機材は判断保留ということで、電源を入れれば使える状態のままにされている。コンピュータ部の体裁は保たれているという格好だ。

 三人は持ってきた弁当を食べながら、慈愛の説明を聞いた。

「食べ終わったら、校内巡回に行くから」

「はーい、先生はお弁当は?」

「もう食べたわ」

「早弁じゃないですか」

「うっさいわね。そういう器の小ささと男のアレの小ささとが比例するっていう、」

「先生、それがセクハラって奴です」

 つまりそういう話だ。

 校長から出された条件というのは、校内で発生しているという噂がある、生徒への猥褻行為について調査して欲しいというものだった。噂では白昼に校内で援助交際が行われているらしいというものもあり、父兄も教師も問題視していた。しかし内容が内容だけに、被害者当人たちから訴えが出にくく、学校側も実態を把握しづらい。慈愛なら女性だし、カウンセラーだし、なにより着任したばかりで他の教師とのしがらみがないだろうというのが校長の言だ。

「先生、よかったですね。セクハラをする犯人が、もう見つかりました」

 梶山は弁当箱を片付けると、本を取り出した。ワインバーグの「ライト、ついていますか」だ。

「冗談言っていないで、ほら立った立った」

 同じく弁当箱を片付けた千尋と美香奈が言われるがままに立ち上がると、梶山も仕方がなく席を立つ。慈愛に急かされて、三人は部室を出た。

 今日の慈愛は、スカートではなくスリムなパンツルックだ。それに白衣とスニーカー。

 当然、相談室は休業の看板を出してある。部員を引き連れて校内を歩き回ると、否応なく目立つが、そんなことにはお構いなしに、慈愛は普通の教室を一年から三年まで順番に見て回った。

 慈愛は授業を担当しているわけではないし、相談室を実際に訪れた生徒は限られているので、最初の全校集会を除いては、頻繁に姿が目にされるものではない。その慈愛が校内を練り歩いているのだから、生徒達は興味津津だった。

 我慢できずに千尋が慈愛に耳打ちする。

「校長先生は内々に調べて欲しいって言ってませんでしたっけ」

「内々に調べてるわよ。誰にも聞いてないじゃない」

「でも目立ってますよ」

 周囲の様子を気にしてみせる。

 美香奈はと言えば、友達に呼び止められて何か話し込んでいる。

「でさー、校内エロエロ魔神を退治しようってことになって」

「お、おい、美香奈っ!」

 千尋が美香奈を引っ張って来た。しかし千尋は千尋で「何してんだ、百瀬」と頻繁に話しかけられる。

「……あんたたち、顔広いのね」

「美香奈は友達多いから」

「千尋は如才ないから」

「ところで梶山くんは?」

 三人は顔を見合わせ、お互いの背後を観察し、振り返って更に索敵。失敗。

「逃げられたわね」

「部長は歩き回るような人じゃないですから」

「事件は足で探せって言うのにね」

「事件を探す人はいませんよ」

 慈愛は憮然としながらも、どうしたものかと思案した。この調子で続けてもあまり効果は出ないように思う。

「分かれましょう。生徒じゃないと見付けられないものもあるでしょうし、逆に生徒では調べられないこともあるでしょう。一緒じゃ効率が悪いわ。これ、持っていって」

 名刺を二人に差し出した。表面加工がしてある、立派なものだ。

「もし先生か誰かに文句を言われたら、これ見せて、私の指示で調べているって言いなさいね」

「名刺見せて、意味あるの?」

「まあお守りだと思って、持っていなさいって」

 特別教室棟に続く二階の廊下で、慈愛は手を振って廊下の先に消えていった。

 美香奈と千尋は一階へ降りる。

「私たちも逃げちゃおっか?」

「でも、逃げたら部活のことバラされちゃうよ」

「真面目よねえ、もうっ」

 背中をバンバンバン。

 自分でもそう思うんだけどなと、千尋はぼやいてみたが、でもやっぱり逆らう気にはならなかった。如才ないっていう美香奈の指摘も、間違いではないのかもしれない。



「で、さあ、千尋はあの先生のこと、どう思うの?」

 唐突に美香奈が聞いた。

 二人してぽてぽてと歩きながらも、美香奈は千尋の数歩前に常にいる。二人の位置関係はいつも同じだった。

 いや違うなと千尋は思い直した。美香奈だけでなく、自分は誰とも同じ距離、同じ位置関係を取っているのかもしれない。他の人よりも数歩下がって、後をついていく。決して調和を乱さずに、決して前に出しゃばらずに。

 小学校からの付き合いになる美香奈を相手にしても、千尋は同じ距離を取っていた。

 そのことが高校生の人づきあいとして良いのかどうか分からないけれど、千尋は他の付き合い方を知らない。多分慈愛に対しても同じような位置関係になるだろう。いや、それも違うな。強いて言えば――。

「慈愛先生は、僕の一〇〇メートル先くらいを文句言いながら走っていそう」

 その言葉に美香奈は歩調を崩し、くるりと一回転。ととんとステップを踏んで、

「あー、でも分かるかも」

 にんまりと笑って見せた。

「慈愛先生って、突っ走りそうよね。黙っていれば美人なのに」

「そういう美香奈はどう思ってるのさ」

「んー、そうねー」

 遠くの友達に軽く挨拶。っと、千尋との話に戻って、

「ちょっと苦手かなー」

 苦手というのは言いすぎかなとも思ったけれど、好きというのとはやっぱり違う。

 ものすごく簡単に表現してしまえば、美香奈は女性らしい女性が苦手なのだ。

 女の人の柔らかさは嫌いじゃない。クラスの男子達がどんどんゴツくなっていくのと比べたら、女子のほうが抱きついてもふわふわしているし気持ちいい。

 だけどこれが「女の人」ってことになると、少し違ってくる。慈愛のような大人の女性に対して、同級生の男子が騒いでいるのを見ると、男子達よりも、憧れの対象になっている女性にそこはかとない嫌悪感を感じる。

 けんおかん。

 言葉にするとかなり汚い感じだ。

 そこまでの強い気持ちではないんだけどな。

「ねえ千尋、ちょっと手貸して」

 差し出された千尋の手の平の部分を、ちょっとつまんでみる。

 千尋の手は男子とは思えないくらい細くて白い。

 ついでに自分の左手もつまんでみた。千尋より少しだけ日焼けしていて、少しだけ柔らかい。

 千尋の手の堅さはどのくらいだろう。

「ねえ、噛んで、いい?」

「なんだよ、やだよ」

「冗談よ」

 千尋の手は柔らかい白パンみたいで、そこに歯をたてたら音もなく沈んでいきそうだ。自分の身体に噛みついても、痛みが麻痺してそのまま耐えてしまえるのと同じように、千尋の腕にも吸い付いてしまいそう。自分と千尋の身体は、そういう風に同じ味がする。

 慈愛はきっと柔らかすぎて、噛んだら甘くて溶けてしまうんじゃないかと思う。その甘さはやっぱり苦手だ。だけど自分もいつかはそんな甘ったるい大人の女になってしまうのだろうか。

 千尋も自分も、今のくらいが丁度良いんじゃないかと思うのに。

 二人ともが、今のままの柔らかさでいられたらいいのになあ、と。

「慈愛先生は、きっと男子にとって毒薬みたいなものなのね」

 自分はまだ、毒薬にはなりたくないや。

 一階を一周したところで、友達に声をかけられた。

「あ、美香奈だ。丁度よかった、手伝ってよ」

「何を?」

「技術科室に荷物運ぶの。力仕事なら美香奈よね」

「ここに男子がいるじゃない」

「えー、百瀬くんより美香奈のほうが頼りになるしー」

 千尋は肩をすくめる。

「手伝うよ」

「いいよ、千尋は続きを調べて。上の階とか」

 行った行ったと手で追い払い、美香奈は友達と連れだって技術科室がある共有棟のほうに歩いていってしまった。千尋はしかたなく階段に向かう。

 美香奈の言っていたことがなんとなく気になって、千尋は自分の手を噛んでみたけれど、何の味もしなかった。美香奈は何をしたかったのだろう。



 慈愛は歩きながら考えた。

 あの二人はなかなか悪くない。素直そうだし。部長はやっかいかもしれないけれど、勉強する気はあるみたいだから、少し手をかけてやれば化ける可能性がある。

 千尋という気弱そうな少年。美香奈の後ばかりついて歩いているみたいだったけれど、誠実そうではあった。誠実なのは、よいことだ。結局のところ、若いってことはどれだけ物事を吸収できるかが勝負なのだから、素直で誠実で他人の言うことを受け入れるのは基本的には大切なことだ。ただし、それに加えて他人の言葉を鵜呑みにしない神経質さも必要。千尋は、それを持っていそうに見える。

 大人の一方的な見方なのかもしれないけれど。

 自分がどうして研究室を持つことにこだわるのか、いまひとつ自身でも理解できない部分はある。学生の面倒を見るってのは、責任をしょいこむことになるわけだし。

 だけど、大学で研究を進めるのに、一人だけでやるんじゃなくて、仲間を持ちたい、持たなければならないという意識は、慈愛の頭の中にごく自然な気持ちとして存在していた。

 それは自分が研究室の先生や先輩に世話になったからかもしれないし、師匠の影響もあるのかもしれない。

「八咫鴉のさだめ、かしらね」

 特別教室棟に向かう廊下を歩きながら、慈愛はつぶやいた。

 音楽室に入り、置いてあるピアノの鍵盤の一つを指で押してみる。ポーンと乾いた音が響いた。

 昼休みの特別教室はもの悲しい。特別な用途に作られているだけに、日常の中では使われないのだ。放課後になって部活が始まれば、音楽室にも吹奏楽部員が集まるのだろうが、それはまたある種の非日常の時間だからだとも言える。つまり「ハレ」の時間、お祭りの時間だ。

 しかし同じ特別教室でも、パソコン教室には数人の生徒がいて、コンピュータを何やらいじっている。コンピュータがもはや特別なものではない証拠だとは思うが、それだけに彼らがやっているのもきっと情報を集めたり映像を眺めたりといった特別ではないことなのだろう。慈愛のように構造解析にコンピュータを使ったりは、多分しない。

 階段を上って最上階に辿り着こうとしたところで、数人の生徒の集団の影が見えて、慈愛は数段下がって頭を低くした。そっと探りを入れると、やたら背が高くてがっしりした二人の生徒が、一人の男子生徒を取り囲んでいる。周囲の生徒はスポーツマン的な筋肉質ではないが、言うなれば不良っぽい武骨さを持っている。中央の生徒は小柄で細身で、少し長めの前髪が目にかかっている。

 辺りの様子を伺って、人がいないことを確認すると、生徒達は家庭科室に入っていった。

 慈愛はそうっと顔を出し、這うようにして家庭科室の前に行く。

 真っ先に浮かんだのは、イジメでカツアゲで、おい小銭持ってないかジャンプしてみろ、ちゃりんちゃりーん、っていうパターン。

 次に別の可能性に思い至る。

 男子対男子だって、猥褻行為が成立するんじゃないかというパターンだ。

 実際男子校なんかじゃそういうことが問題になったりするって、本で読んだことがあるし、さっきの無骨が男子たちが、中性的な男の子をいたぶっている様子は容易に想像できる。うん、女子ならば、誰だってそういう想像ができるのだ。

 気配を殺して家庭科室のドアに張り付いた。中から音が聞こえないかと耳を澄ませるが、時折コトリというわずかな音がするくらいだ。中の生徒たちも聞こえないような細工をしているのかもしれない。

 慈愛はカードを取り出した。観測者のカードだ。

 カードをドアの隙間からそっと中に差し入れる。カードは室内の<縁脈>に介入し、内部空間の意味関係を伝達する。

 慈愛は統率者のカードを取り出して、額にそっとかざした。統率者のカードは、他の全てのカードから集まる情報を、額を通して慈愛に伝える。

 家庭科室を構成する要素――それはホワイトボードだったり、机だったり、キッチンシンクだったりガス台だったりする中に、慈愛は感覚の手を伸ばしていく。ひび割れたコンクリートに水が浸食していくかのようだ。その手の指先は、家庭科室の<縁脈>の中に侵入者たちの輪郭を浮かび上がらせた。

 室内には人が三人。窓側の机の影に集まっている。彼らの会話は人目をはばかるように抑えたものになっていて――。



 側頭部を剃り上げた少年が口を開いた。

「俺から始めるからな。いいよな、吉田」

 吉田と呼ばれたのは中央の小柄な少年だ。わずかにとまどいながらも、首を縦に振る。

「う、うん……でも、本当にこんな場所でするの?」

「昼休みの家庭科室なんて、誰も来ねえさ。ほら、早く開けよ」

「分かったよ……。秋元くんの次は中谷くんだから、準備しててよね」

 秋元は自らの棒を取り出した。中谷がその様子を見て、舌なめずりする。

 吉田は秋元の手を取り、その動きを導く。

「そんなに力をいれちゃあ駄目だよ。最初はもっとゆっくり動かさなきゃ」

「こ、こうか」

「そう、そう。ゆっくりと、リズミカルに、そうしないときつくなっちゃう」

「お、おい、吉田、俺にも早く教えてくれよ」

「うん、じゃあ僕の手元を見て。こうやって動かすんだ」

「こうか」

「そうそう、いい調子だよ」

 三人が丸く集まって、手を動かしていたその中が何かと言えば――。

 編み物だ。

 教室のドアがガラガラガラッと大きな音をたてて開き、慈愛が肩をいからせて飛び込んできた。

「男のくせにっ!」

 大きく一歩。

「紛らわしいことっ!」

 右手をスイング。

「しているんじゃな――――いっ!」

 車座の中央めがけて半ば身体ごと、拳をぶちこんだ。三人は驚いて更にすみのほうへと集まって縮こまる。

「あんたたち、いったいなんなの」

「男子手芸部です。……非公認ですが」

 秋元がごつい手を挙げて答えた。その手には編み棒が握られたままだ。

「なんでこんなとこで編み物してんのよ」

「俺達、本当は手芸が大好きなんすけど、やっぱり男が手芸ってのは変な目で見られるし、でも雑誌で特集が出てたんで、編み物が得意な吉田に教わろうと思って」

 慈愛が睨むと、吉田はこくこくと首を振った。そして持っていた雑誌を慈愛に見せた。「ガールズ・スプラッシュ五月号」という雑誌は確かに特集が「あの人にプレゼント! 編み物超入門」だったが、見るからに少女向けの雑誌で、ごつい男子生徒たちにはどう考えても結びつかないものだった。まあ、変な目で見られるのは仕方がないだろう。女子に見えないこともない吉田はともかくとして。

 慈愛は雑誌を受け取ってパラパラをめくる。本当に少女雑誌だ。

「こういうのって、まだ売っているのね……でも私の頃よりもすごい内容かも……そうそう、こういうのよ。男子ならさあ、こういうところをこっそり読むほうが、よっぽど健全じゃない?」

 慈愛が開いたページは「ワタシとカレのドキドキ☆体験告白」というページだった。男子生徒は一様に嫌そうな顔をする。

「そんな女の汚い話なんか、聞きたくねえよ」

「いやそれはかえって不健全だって。ほら、ちょっと読んであげるから聞きなさいよ。どれどれ――私が池袋の噴水の前で声をかけられた相手は、四十三歳のおじさんだった。もしパパが生きていたら、同じくらいの歳なのかなって思ったら興味が出てきて、一緒についていったの。一緒にファミレスで食事して、私ったらずっとお喋りしていて、でもおじさんは黙ってにこにこして聞いててくれたわ。よく高いご飯をおごってもらったか自慢している子もいるけれど、私はファミレスくらいが疲れなくて好きかも。ご飯を食べたあと、レイトショーの映画を見たわ。古いイタリア映画。ちょっと汚れた感じの映像の作り方がせつないねっておじさんは言ってた。それから二人でホテルに行ったの。おじさんはあんまりこういうところに慣れてないみたい。どうしようか迷ったんだけど、ついて来ちゃった。私ってファザコンなのかなあ。小さいときにパパが死んじゃって、ママが恋人を連れてくることはあったけど、みんな軽そうな人でパパっていう感じじゃなかった。この人は違う。パパみたい。信頼できそうな感じ。だから……だから、いいかなって思った」

「やめてくれー! そんな不潔な女の話なんか聞きたくねー!」

 男子は床でのたうち回る。慈愛は段々楽しくなってきた。

「一緒にお風呂に入るのかなって思ったけど、なんか恥ずかしそうにしてたから、私だけ先にシャワーを浴びた。期待しているのかな。ドキドキしていたかも。バスローブを着て出たら、入れ替わりでおじさんがシャワーを浴びに入った。私はベッドに座って待っていた。実はね、少し身体の芯の部分が熱く濡れていたような気がする」

「やーめーてーくーれー!」

「あんたら、そんなことじゃ女心爆発の手芸なんかできないわよ。ほーれほーれ。次、読むわよ。こっからが面白いんだから」

「何が面白いのですか」

 家庭科室の入口から声がする。汚れたジャージを着た男性が立っていた。慈愛は教師の名前をまだ全部覚えていないから誰かは分からないけれど、生徒という年齢じゃあない。服装からすると、体育か技術か、そのあたりの先生だろうか。

 男子がほとんど四つ足で男性のところまで走っていった。

「倉坂先生、あの、あの新任の先生が、俺達に、俺達にぃー!」

「やらしいことを言ったんです。セクハラです!」

「俺達、俺達汚されたっす!」

「何言ってんのよっ!」

 慈愛は大声で反論した。しかし、ジャンパーの倉坂の顔が険しくなる。セクハラと直訴されたら、教師としては黙ってられないだろう。

 ちょっと、困ったことになった、かも。



 教室に戻る前に慈愛に声をかけておいたほうがいいかと思いながら、千尋は階段を上っていた。美香奈といい、慈愛といい、自分の周りの女性には振り回されてばかりな気がするが、むしろそのほうが気が楽だ。自分が誰かを傷つけるよりも、傷つけられたほうがいい。極論だけど。

 慈愛が変な先生というポジションでいてくれるのなら、僕はおとなしい生徒というポジションでいよう。そこから一歩でも踏み出す必要はない。――そう、それでいい。

 階段を上がり最上階に出た。慈愛は上の階に向かったはずだ。途中で会わなかったから、まだこの階にいる可能性が高い。

 人の気配がする家庭科室に行こうとして、足を止めた。入口に立っているのは技術科の倉坂先生で、その奥から聞こえる声は慈愛のものだった。

 倉坂は、男子生徒の肩に手を置いたまま、慈愛を見据えていた。

「姫末先生の担当はカウンセリングだったのでは?」

 慈愛は白衣の裾をぱんぱんとはたき、胸を反らして倉坂を見る。無理して強気を装っているふうにも見える。

「そうですが、何か?」

「生徒にセクハラするのがカウンセリングですか?」

「その生徒たちはこそこそ隠れて何かしていたんです。追求しようとするのは当たり前じゃないですか。たまたま不健全なことじゃなかったから、良いようなものを」

 倉坂は男子達が手に持った編み途中のマフラーらしきものをちらりと見る。

「先生がいやらしいことを言ったと、彼らは訴えていますが」

「昨今の女性の実態について、教えてあげていただけです」

「それがセクハラだと」

 話をこっそり聞いていた千尋は、耐えられなくなった。倉坂の横をすり抜けて、二人の間に割って入る。

「先生! 何してんですか」

「や、ちょっと、変なのに捕まっちゃって」

 倉坂が口を開きかけるのを見て、千尋がとりなす。

「すいません、すいません、うちの先生が」

「今よ! 千尋くん、そこでさっきの名刺を突きつけて! このお方をどなたと心得るって!」

「先生の名刺じゃないですか。犯人がアリバイ示すのに被害者の名刺出すようなもんですよ」

「言うわね。可愛い顔してるくせに」

 我慢できなくなった倉坂が大きな声を出した。

「いい加減にしてください! 私が問題にしているのは生徒へのセクハラのことです。若い男子生徒を誘惑しようなんてことを考えているんじゃないでしょうね」

「失礼ね。こう見えてもオヤジ好きだってーの。ダンディ最高」

「不謹慎ですね」

「すいません、すいません、セクハラのことは改めて調べますから」

「そうよ、私に任しておいてよ」

「慈愛先生は黙っていて下さいって。すいません、すいません」

 もう訳が分からなくなってきた。

 訳が分からないなら、そのまま押し通してしまえ。千尋は慈愛の腕を掴むと、すいませんすいませんを繰り返しながら腰を低くして家庭科室を出た。

 平身低頭、すいません、すいません。

 脱出成功。

「ちょっと離してよ。千尋くんはそうやっていつも謝ってばかりなの?」

「今謝ったのは、先生のせいですよ」

 勘弁して欲しいとは思う。静かに暮らしたいと思っているのに、美香奈にも、慈愛にも生活を引っかき回されている。こんなポジション。そんなに簡単に受け入れてしまえるのだろうか。

 昼休みが終わりに近づいて、特別教室に生徒たちが移動し始めている。千尋と慈愛は、はたと本来の目的を思い出したが、一応下の階はほぼ見回ったから今日のところはよしとしようということなった。

 慈愛の隣を倉坂が通り抜けて階下に向かった。

 足音が大きかったのは、わざとだろうか。

 怪訝な顔をしている慈愛を放置して、千尋は教室に向かって歩き出した。そんなことよりも、昼休みが終わる前に、手を洗わなくちゃ。



 技術科室は、中学との共有棟にある。高校には正式な形での技術科の授業はないが、生活科の一部や技術系工芸系の部の活動などで技術科室の世話になることがある。そういった施設の利用効率を上げるために、中学と高校とで特殊な施設を共有している。一貫教育校ならではだ。

 だから、技術科の教員である倉坂は中学の教師であり、高校の授業は担当していない。しかし、原付の免許を取ったばかりの生徒のバイクの相談に乗ってあげたり、手芸部が工作機械を使うのを指導したりといった関係で、高校の生徒の中でも倉坂と付き合いを持つ者は多かった。特に社交的なこともないのだが、黙々と機械の操作をしたりバイクの説明をする姿は、無理して子供相手に愛想を見せようとする一部の教師と違って、好意的に受け止められたのだろう。

 技術科室は共有棟の一階にある。美香奈は友達に頼まれるがままに荷物の運搬を手伝った。手芸の材料で余った木の合板を二階から一階へ移動させるだけだが、一枚がそれなりに重いので、普通の女子には重労働だ。

 しかし美香奈はこういう労働が嫌いじゃない。

 単純作業だが結果が出るし、こういう仕事をしていると、女が弱いということを忘れられる気がする。

「はい、これで全部ね」

「あ、あと壁側にくっつけるようにしないと」

「オッケー、やっとくよ」

「本当! 私達次の授業の準備があるの」

「いいよ、任せておいて」

「ありがとう!」

 やっぱり頼られるっていうのが、好きなんだろうなと思う。

 無力じゃないっていう感覚は、満足に繋がる。充実した感覚だ。

 技術科室の壁際に材木を並べたところで、準備室から人の気配を感じた。先生が戻ってきたのだろうと思い、挨拶しておこうと顔を出してあわてて引っ込めた。

 準備室には倉坂の他に女子生徒が一人。大人しそうな眼鏡の子だ。

 二人が小声で話している内容は、あまりちゃんとは聞き取れなかったが、いかにも他人に聞かれたくないような雰囲気で、美香奈は教室の壁に背中をついて息を潜めていた。

「――放課後に、一人で来なさい。大丈夫、鍵がかかるから。お金はその後だ」

「……はい」

 思わず声が出そうになる。これって正に援助交際、いや援助交際を持ちかけている現場じゃないか。いや、本当に援交かどうかは分からないけれど、少なくとも鍵がかかる部屋に女子生徒を呼び出すなんて、不純な目的に決まっている。

 音を立てないようにすり足で移動し、技術科室から出た。

 教室まで走る。

 後ろは見なかった。千尋に教えなくちゃ、と思った。慈愛に知らせなければならないという発想は、なぜか浮かばなかった。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。次の授業に少しだけ遅刻したが、その理由の言い訳を考える頭すら回らなかった。



 少女が相手にするのは教師だけだ。市場は狭いが、色々な意味で安全である。もっとも、この理屈は彼からの受け売りだったけど。

 今日も同じ相手。これで何度目だろうか。

 教師が財布から一万円札を出すのが目に浮かぶ。しかし本当はお金は欲しくない。自分が望む対価、それは穢れ。自分を満たす穢れが、望むものだ。

 少女は準備室を出て歩き出した。

 彼に連絡しておいたほうがいいだろうか。――いや、お金のことは自分の知らないところで上手くやってくれるのだろう。

 自分はただ穢れを受け入れて、それを食べ尽くてしまえばいい。汚物に群がるハエのように。死体から湧き出る蛆のように。

 汚れて穢れて、自分の中身が空っぽでないことを実感すればいいんだ。

 噛みついて食べて、飲み込んでしまいたい。

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