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第三章

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 美香奈ちゃんは男の子みたいだねってのは、褒め言葉だと思っていた。

 実際誰よりも早く逆上がりをしてみせたり、公園に植えられていた誰も登らないような木に無理矢理登ってみせたりする度に、男子達からは賞賛の目で見られた。お母さんは「女の子のくせに困ったわね」などと言っていたが、それすらも半ば楽しげだったと思う。

 だけどいつのまにかお母さんの「困ったわね」の中に本気の心配が混じりだし、小学校も高学年になる頃には「やめなさい」に変わっていた。

 あんなに自分を尊敬していた男子達も、いつの間にか男子だけで遊ぶようになって、中学校の三年間のうちに自分よりもはるかに身長が伸びてしまった。それと太い声。

 美香奈ちゃんは男の子みたいだねってのは、いつのまにか褒め言葉でもなんでもなくなっていて、でも美香奈は女の子になりきれていなかった。

 本当は女の子になりたくなかったのかもしれない。

 なのに身体は勝手に女になっていく。木登りもできなくなったし、走っても男子に追い付けない。中学からソフトボール部に入ってみたけれど、才能がないことに気付いてしまった。男の子みたいに活発だというのと、運動神経とはまた別物だったみたいだ。

 自分が何者なのかどんどん分からなくなっていって、何者でもないような気持ちを抱えて過ごす。

 私は何者なのだろう。そして、どうして私はこんな気持ちと同居しないといけないんだろう。病気? そんな可能性も考えてみたし、雑誌に載ってたなんとかドクターの質問コーナーで、女子を好きになった女の子の悩み相談を必死に読んだりもしたけれど、そういうのとは私は違うような気がした。

 やっぱり自分が何なのか分からないまま高校生になって、時間ばかりが過ぎていった。

 千尋といて安心できるのは、彼もまた同じような不確かさを抱えているからなのかもしれない。そんなこと言ったら怒られるかもしれないけれど。

 千尋と出会ったのは、小学校三年生の時だった。当時の美香奈の遊び友達は男の子ばかり、それも夜になるまで外を走り回っているような男の子達だったから、千尋はただのクラスメイトでしかなかった。それがいつのまにか一緒にいるようになり、高校生になった今、時間の進み方に取り残された気分の自分と、違う時間で進んでいるみたいな千尋とは、何故か歩調が合っている。少なくとも美香奈はそう思っていた。

 千尋は美香奈のことを不必要に女の子扱いしないし、美香奈も千尋のことを男扱いしていない。千尋が男の子っぽくないというのもあるけれど。いずれにせよ、か弱い女の子でなければならない、という制約は、千尋の前では必要がない。そんな相手と一緒にいるのは、居心地がいい。残念なことに、そういう相手は千尋だけだったけれど。

 だから許せなかった。

 女の子だからという理由で、猥褻行為の対象になるなんて、美香奈には到底許せることではなかった。

「天城さん、呼んでくれない?」

 11HRの入口で、美香奈は手近にいた女子生徒の集団に話しかけた。大笑いしていた女子生徒たちの会話が止まり、美香奈を上から観察する目で舐めて、でもどうやら上級生らしいことが分かると、その中の一人が動きだした。

 依里は教室の中央で座っていた。隣に男子生徒が立って話しこんでいる。集団から離れた女子生徒は依里に近づいて入口の美香奈を指さした。

 依里は立ち上がり、美香奈のところまでやってきた。

「なんでしょう」

 教室の女子集団の視線が依里の背中に突き刺さっているように感じたので、美香奈は依里を廊下に引っ張り出した。

「この前のこと、なんだけどね」

「倉坂先生……ですか? 謹慎になったって」

「うん、そうなんだけど……ほら、依里ちゃん、危なかったじゃない? 危なかったのに、はっきり嫌だって言わなかったから、大丈夫かなって思ってね」

「大丈夫って?」

「嫌なことはやっぱりはっきり嫌だって言わないと、いけないと思うんだ。嫌って言えないと、危ないよ。他の先生にも変なことされたりするかも」

「平気です」

「本当? もしもの時のために、武器みたいなものを持っていたほうがいいかもよ。ほら、私なんかこんなの持ってるんだ」

 スカートのポケットから、小型のカッターナイフを取りだして、カチカチと刃を出し入れしてみせる。

「……でも」

「本当に平気? もしもの時に、ちゃんとはっきり嫌って言える?」

「……先輩は」

「え?」

「先輩は、私のせいだって言いたいのですか?」

「違うわ」

「嘘。私のほうが誘ったって思っているんじゃないですか? 私がお金を貰うために誘ったみたいに」

「違う違う。違うんだって。えーと、なんて言ったらいいのかなー、ほら、依里ちゃん、可愛いじゃない? だから目をつけられちゃうかもしれないかなーって」

「やっぱり私が悪いんだってことじゃないですか」

 言っている間も、依里は顔を上げなかった。眼鏡の向こうの視線は、終始下を向いている。

「うーん、そういうことじゃないんだけどなー」

「……いいんです。みんな私のこと、そういう目で見ているんですから」

「依里ちゃん?」

 顔を上げた依里の表情は堅かった。壁がある。強固な壁をその顔に作り、顔を持ち上げたはずなのに全く前を見ていない。

「私は自分のことを守りたいだけなんです。それがいけないことなんですか? 誰だって自分のことは大事でしょう? いいです。私が暗いのは分かってます。みんなから嫌われているのも分かってます。でもいいんです。私は私のことだけで精一杯なんです」

「依里ちゃん、私はそんなこと言ってないよ」

「先輩なんかには、私の気持ちなんて分からないでしょう? 分からなくていいです。いいですから、同情なんかしないでください。そんなヒマがあったら、他の男子のことでも考えていればいいんだわ」

 最後のほうはほとんど早口で、一方的に言うだけ言って、依里は廊下の先に走っていった。

 何を言われたのか良く分からないというのが、美香奈の感想だが、どうやら好かれてはいないようだ。まいったなという言葉と吐息を一緒に吐きだしたら、目の前の人影に気が付いた。さっき依里と話していた男子生徒だ。

「先輩……なんですよね」

「二年生だから、そうね。でも別に先輩なんて呼ばなくていいよ」

「……天城なんっすけど、何かやったんですか?」

「ううん、別に。えーと、そうそう、クラブ見学の時に一人で来ていたから、ちょっと気になっただけ」

「あいつ、家庭の事情がなんか複雑みたいなんすよ。気になっているんすけど、天城からはあんまり話してくれなくて」

「複雑って?」

「母親が、なんかしょうがない人みたいで、それに最近、変な若い男が家に出入りしているらしいし。……大人が悪いんすよ、あいつじゃなくて、大人が」

 男子にしては背が高くもなく、照れたように話す姿は親しみが持てる。どことなく千尋と雰囲気が似ているような気がしたが、千尋ほどは中性的でない。ちゃんとした男の子という感じだ。

 教室の中から女子集団がこちらを盗み見ているのが分かる。依里のことではなくて、この男子生徒のことが気になるようだ。女子に人気がありそうな子だとは美香奈も思う。

 あんまり長居するとこっちまでとばっちりを食いそうな気がしたので、切り上げることにした。

「君、名前はなんていうの?」

「手塚です」

「じゃあ手塚くんが依里ちゃんのこと助けてあげればいいわね」

「そんなんじゃないっす」

 即座に否定したが、その顔は照れているようで、それ以上に少しだけ複雑な感情を含んでいるようでもあった。

 とりあえずは、依里が全くの一人ぼっちでもないことが分かっただけで、今日のところは収獲だと思うことにしよう。

 でも、こういうのって良いことばかりじゃないんだよなあとも思う。

 女の子同士ってのが面倒臭い関係だってのは、美香奈は嫌っていうくらい知っているから。



 あの先輩は面倒臭い。女同士によくある面倒臭さだ。

 とりあえず逃げてみたけれど、行く先もなく女子トイレに入ってみた。でもそこは依里が苦手な女子たちが群れていて、個室にこもろうかと思ったけど彼女達の声を聞くのも面倒だったので外に出た。

 結局靴箱の前くらいしか、行くところがない。休み時間が終わるから、外に出ている余裕もない。

 沢田美香奈って言ったっけ、あの先輩。

 花のような人だ。今が咲き乱れる時期真っ盛りで、それでいて派手じゃない。ヒマワリだと陳腐すぎる。もっと透明感のある花だ。

 きっと周囲の人を楽しくさせることができる人なのだろう。そのことを自覚してもいるのだろう。だからきっと私のところにまでやってきたんだ。

 依里とは正反対の女子だった。もちろんそのことは依里自身分かっている。

 自分がもし助けを求めたら、美香奈は全力で救おうとするのだろう。それは彼女の本気なのだろう。

 でもいらない。

 そんな救いは必要ないし、なによりも同性に助けられるなんて、まっぴらだ。

 チャイムが鳴ったので教室に戻った。少し遅れて後ろのドアから入ってきた依里を見ても、教師は何も言わなかった。



「コンピュータ部改め姫末ゼミは、正式に活動を開始します」

 いつもはだるそうにしている慈愛が、この時ばかりは陽気と熱気を身体から発散していた。

 部室の機材は校長の許可のもと、コンピュータ部に貸出が決定した。ネットワーク環境も同じで、晴れて大手を振って使えることになる。

 部室にはいつもの三人と慈愛という組み合せだ。そう言えばここの部の顧問はどこにいるのだろう。

「あのう、先生。顧問は理科の先生なんだけど、お爺ちゃんで全然部室には来ません。若者の理科離れがどうとか言いながら顕微鏡を覗いてました」

 それは理科教師にとっても可哀相な話かもしれない。

 千尋の隣に部長が座り、その膝には白色の本を置いている。美香奈は珍しく少し距離を置いて座っていた。

 その理由を千尋は知っている。

 月に一度、美香奈は千尋と距離を取る。

 その理由に気付くようになったのがいつ頃のことなのか、千尋はもう覚えていないけれど、美香奈がそういう日傍点である時はなんとなく分かるようになっていた。

 あくまでなんとなくなので、美香奈に直接聞いたことはないし、美香奈のほうからそういう話題をしたこともない。しかし暗黙の了解として、普段千尋にやたらと接触してくる美香奈が、その数日間だけは近づいてこないことに、千尋はただ、ああそういう日なんだと思って、黙っていることにしていた。

 それに正直そのほうが――。

 ポケットの中にいれた手ぬぐいを握りしめる。

 慈愛の言葉が続いた。

「校長からOKが出たんだから、私が仕切ってもいいわよね。んー、でも一応顧問の先生に仁義は通しておこうかな。――まあそっちは私のほうでケリをつけておくわ。それよりも、ゼミよゼミ。はい、じゃあまずゼミというものについて説明します。どうせ、あんたたちも大学に行ったらゼミかなんかに入るんだから、今のうちに練習しておけるのはラッキーだと思わなくちゃね」

 ゼミという言葉は、講座そのものを指すこともあるし、研究室の中で行なわれる輪講形式の授業を指すこともある。慈愛が乗っ取ろうとしているのは、両方だ。

「輪講ってのはね、教科書とか論文とかを選んで、分担して読んで持ち回りでその内容をまとめて発表する授業のことよ。あ、もちろん読むのは全員が読むんだけど、自分の担当になったところは特に念入りに読んで、他の資料なんかも調べて前に立って説明してもらいます。その部分だけ先生役になるってことね。分かる?」

「先生が先生をやるんじゃないんですか?」

「勉強するってことは、それを他の人に伝えることでもあるのよ。仲間とか後輩とか弟子とかね。それに、一人で本を読むよりも、誰かに説明してもらったほうが頭に入りやすいし、誰かに説明したらもっと頭に入るし残るわ。効率的な勉強法だと思うけどね。だから、あなた、梶山くん」

 部長の注意を促す。

「あなたにも、もちろん発表してもらいますからね。一人で本読むだけなんて、意味がないわ。知識と理解を共有することにこそ学問の楽しみがあるのよ」

 それとゼミの醍醐味も。

 慈愛の言葉の熱気が増していく。新しい学年が始まって、さて今年は何を勉強しようかとみんなで頭をつき合わして考える時の高揚感。大学時代はお馴染みだったが、ここへ来て味わえるとは。

「じゃあ何読みましょうかね。――梶山くんが今読んでいる本は何?」

「これです」

 部長は膝の上の本を掲げて見せた。白の表紙。ミンスキーの「心の社会」だ。

「ふうん、悪くないセンスじゃない。それにしましょう。最初の二章までをみんなコピーしておいてね。何か意見は? 千尋くんは、いい?」

「みんながいいなら、僕はそれでいいです」

「美香奈ちゃんは?」

「ごめん、私、帰る」

 美香奈が鞄を手にして立ち上がった。短い言葉を残して、そのままドアの向こうに消える。

「どうしたの?」

「ごめんなさい、先生。美香奈、今日体調悪いみたいで」

「そうなの。心配ね……。ええと、まずゼミの一回目はそうね、部長の威厳ってことで、梶山くんにやってもらうわ。今週の金曜日ね。美香奈ちゃんには後で伝えておいてもらうとして、――体調悪いって大丈夫かしら」

 千尋が言いにくそうに説明する。

「大丈夫だと思います。毎月のことだから」

 そこまで言われれば慈愛も理解する。理解して、口ごもる千尋のおでこをつつき、

「マセガキね」

「……そんなんじゃ」

 下を向く千尋の髪をくしゃりと混ぜる。

「ごめん、そうね。あなたは、そういうんじゃないわね」

 千尋が乱された髪を慌てて直す。直した後に手ぬぐいで手を拭いていた。

 慈愛は白衣の襟元を正しながら、もしかして今のはセクハラになったりするのだろうかと考える。昨今の教師と生徒は、なかなか難しい。

 姿勢を正して窓の外に目を移す。二階の窓から見える桜はすっかり花を落とし、緑の若葉を身にまとっていた。

 さあ、何はともあれ、スタートだ。

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