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第三章

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 秦悠大から通達があった。

 引き続き監視せよ、と。

 もとより校内の監視ネットワークは活かしたままにしてあった。そして同時に気付いてもいた。

 <縁脈>が安定していない。

 時折歪みのアラートがでて、すぐ直る。思春期の生徒は柔軟だが、同時に不安定でもある。

 例えば赤ん坊は、「いないいないばあ」なんていう単純なトリックに大喜びする。子供はきっとああいうのが好きなのだろう。消えたかと思った親が、すぐに登場する。

 あれと同じだ。ちょっと、傷ついたような様子を見せたからと思うと、何もなかったように元気で走ってみせる。

 ただ逆に、本当に傷ついた時の影響が深刻になることもある。

「あの子はどっちかしらね」

 天城依里――あわや倉坂の毒牙にかかりかけた女子生徒の心の傷は、いかばかりなものだろう。

 技術科室での事件の後、彼女が自分からカウンセリングルームに来ることはなかったので、心配した慈愛は教室まで彼女に会いに行った。

「何も知りません。相談することもありません。先生みたいな女の人に、聞いてほしいことなんかありません」

 まったく相手にされなかった。

 淫行未遂事件ではあるけれど、裏では援助交際の可能性も噂されている。彼女がそうだったのかどうかは、本人が口をつぐんでいるし、その場にいた千尋と美香奈も記憶が曖昧ではっきりとしない。

 社会人ってのがこんなに仕事が多いなんて思わなかった。分量の問題じゃなくて、種類の問題だ。あっちの仕事、こっちのトラブル、頭を切り替えるだけで大変になる。しかもお手本にする師匠もいない。

 キーボードをカタカタ。

 白衣をハタハタ。

 ああ楽しいことだけをやっていればよかった、純粋な頃の自分が懐かしい。自分を形作る構造も、少しずつ歪んできているんじゃないか。

 肩胛骨あたりの筋をゴキゴキ。

 コンコン。

「ん? あ、はい。どうぞ」

 背骨の音よりもよほど上品なノックの音に返事をすると、貴崎果帆子が部屋に入ってきた。

 果帆子は優雅にお辞儀をする。

「先生、ごきげんよう。何かお悩みなのではないですか?」

「こんにちは。今日もあなたが私の悩みを聞いてくれるの?」

「ええ、そうですわ」

 慈愛は手でソファーを勧め、自分も向かい合って座った。飲み物はいるかと聞こうかと思ったが、このお嬢様に下手な物は出せないし、一人の生徒だけを特別扱いするのも良くないだろうと思った。

 果帆子は背筋を伸ばして座っている。優雅な物腰。一分の隙もない。

「そういえば、貴崎さんって、もしかしてこの学園をつくった貴崎一族の人?」

「はい。もっとも現当主の祖父は、学園の運営には口を出さない方針と決めていますから。――どうか他の方と同じように扱ってください」

「それはいいんだけどね。この学校に入ったのは、やっぱりお祖父さんの言いつけで?」

「いいえ。祖父も母も、好きにして良いと言ったのですが、私が希望して入りました。やはり勝手知ったるという部分はありますから」

「そう」

 ――。

 沈黙の間が流れる。

 勝手知ったるこの学園で、新入りの教師を前にして、彼女は何をしようというのだろうか。

「鬼は」

「え?」

「鬼は捕まりましたか?」

 まただ。この子の言っている鬼とは何だろうか? あるいは他の話題?

「……何の話かしら?」

「倉坂先生の件は残念でした。生徒からの信頼の厚い先生だったと聞いています」

「それが、勝手知ったるっていうことの意味?」

 秘匿されているはずの、倉坂の事件を実態を知っている。学校内の噂、いや噂にすらならないことも、全部掌握しているとでも言うつもりだろうか。

「どうでしょう。でも、先生のお力になれるのならば、と思いまして」

「あなたがどれだけの権力を持っているのかは知らないけれど、」

「違いますわ、先生。先ほども言いましたけれど、私の家は学園の運営には力を持ちませんから」

「それでも、勝手は知っているんでしょ?」

「ほんの少しだけ多くの情報を手に入れられるだけ、とお考えください。それよりも、鬼は捕まえましたか? 先日も言いましたよね。ゲームが始まるのです」

「それと倉坂先生と関係があると言うの?」

「先生、鬼は捕まえましたか? 。本当の鬼は誰ですか? 鬼ごっこは鬼を捕まえるものですか? それとも、鬼が誰かを捕まえるものですか? 鬼から逃げて隠れているのは誰ですか?」

 立て続けに喋る果帆子は、それでも姿勢を崩すことなく、少しだけ早口になった口調も上品な圧力を保っている。

「それは、謎掛けかしら」

「先生、私は鬼ではありません。鬼ではないから、自分で走り回ることはできないのです」

「だから私をここに呼んだというの? 私がここに採用されたのは、理由があるとでもいうの?」

「先生、どんなことにも理由はあります。因果関係、構造、そんな言い方をしてもいいでしょう。先生がここにいらしたことにも、当然理由があるのでしょう。人によっては、それを神様の思し召しと呼ぶのかもしれませんが」

「それで?」

「先生、鬼ごっこはバランスが大切です。鬼の足が速すぎると、簡単に捕まってしまいます。逃げるほうが速すぎると、今度はなかなか捕まりません。鬼と逃げ手の足の速さが同じくらいで、捕まったり捕まえ返したりしているうちに、やがてどちらも鍛えられて足が速くなるのです。簡単に捕まえてはいけませんし、簡単に捕まってもいけません。バランスを保てば、どちらもが強くなるのです」

 果帆子は立ち上がる。そして思い出したように指を頬に当てた。

「そうそう、先生、御存じですか? 日本の古い書物に出てくる八咫鴉のお話を。額が角のように尖っていて、その後の日本の伝奇に登場する、鬼の原型になったと言われています」

「……知っているわ」

 果帆子は意味ありげに微笑んで、部屋を出ていった。入ってくる時と同じように、静かで優雅な動きだった。

 彼女は八咫烏を知っている!

 そしておそらく、慈愛が八咫烏であることも、知っている。その果帆子があのような物の言い方をするのだ、慈愛がここに採用されたのには、何か理由があるのだろう。

 その理由が、貴崎家の問題なのか、八咫烏全体に関わる問題なのかは、今は分からない。下手なカマのかけかたも、ヤブヘビになりそうだ。

 ただ、八咫烏が――鬼が主役のゲームとやらが、始まろうとしているらしい。そのゲームの参加者は、いったい誰なのだろうか。

 慈愛は黙って自分の椅子に戻り、ぐるりと回す。

 背中がゴキリと鳴った。

 ゴキリ、ゴキリ。

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