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第三章
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「慈愛さんの! ちょっと良いトコ、見てみたい!」
コールをしているのは慈愛、青島ビールが注がれたコップを掲げているのも慈愛である。
千尋たち他の三人は、椅子に座って小さくなっていた。
「先生、非常識ですよ」
「高校生にお酒飲ませるほど、非常識じゃないわよ」
「でも高校生の目の前でお酒飲むくらいには、非常識じゃないですか」
「これでも我慢したほうなのよ」
慈愛曰く、居酒屋はまずいだろうと思って、街の中華料理屋を選んで入ったとのこと。それも定食屋じゃなくて、ちゃんと単品なりコースなりで注文する店だ。当然青島ビールも常備している。|麻覇羅蛇《メtハラジャ}という中華料理なのかインド料理なのか分からないその店は、ガラスで区切られた厨房で髭と眼鏡の料理人が鍋をふるい、色白で妙に肉感的なウェイトレスが注文を取りにきた。千尋達は注文を全部慈愛に任せることにして、黙っていた。
小籠包に大根餅と、次々と料理が運ばれてくる。
「はいはい、食べてね食べてね。若いんだからね」
「はーい、先生、こういうお店によく来るんですか」
「よくってことはないけれど、ちょっと食事に力を入れた宴会にしようかなってときは、中華料理屋も候補に入れるわね」
「こんな高級そうなお店、入ったことないです」
「なーに言ってんの。私が生徒を連れてくるくらいなんだから、そんな高いお店じゃないって。心配しないで食べなさい。ほら、小籠包とか熱いうちに。ひと口で食べて口のなか火傷して、口の上の裏側の皮がむけるくらいの勢いで」
「はふいです、はふいです」
「そーら、しょうろんぽう、しょーろんぽー」
梶山だけはなるべく慈愛に関わらないように、隅のほうで空心菜の炒め物を食べていたが、うっかり唐辛子ごと食べてしまいあわてて水を飲んでいた。
そんな、夜の街に慣れていない、謎の集団。
慈愛はピータン豆腐をつまみながら、喉に残るビールの香りを楽しみつつ、子供たちを眺めていた。六人用のテーブルを四人で占拠し、美香奈と千尋が向かい合わせに座り、梶山は慈愛の向かい、一番奥に座っている。
慈愛の目は、子供を見る目だった。彼女は何を思いながら、自分達生徒を見ているのだろうかと、千尋はふと疑問になる。後輩? まさか弟? 自分は慈愛から見たら、相当な子供なのだろうな。
「ところで、先生は、大学で何を勉強してたんですか?」
「認知構造学よ。このゼミのテーマでもある、ね」
「認知構造学科ってのがあるんですか」
「ないわよ。そうね、たとえば文学部にシェイクスピア学科はないでしょ? それと同じように、専門の名前と学科の名前は必ずしも同じじゃないのよ。学科っていう括り方の中で、さらに細かく専門が分かれているっていう感じかしら。だから大学選ぶ時には、学科の名前だけじゃなくて、先生が何を専門にしているかも調べたほうがいいわよ」
「じゃあ先生の学科は?」
「心理学。と言っても、認知構造学は計算機科学との接点も近いけどね。認知工学とか、部分的には行動科学とか」
「何を勉強してたんですか?」
慈愛がビールをクイとあおる。どこから話せばいいかと思案する。
「世の中のすべては構造から出来ている、ってのが認知構造学の基本的な考え方ね。たとえば脳味噌の中のニューロンの結合から、血液の循環器系、そして人間同士のつながりや、国家間の関係まで。全部、構造よね。だから人間が世の中の事象を認知して理解するってことは、その構造を認識することと同じようなものなの。
同じような考え方は、例えば言語学にもあるわ。体系って考え方なんだけど、ある言葉の表出――いわゆるシニフィエによって表されるシニフィアンは、それが指し示すものが何でないかによって定められているっていう考え方。その何でないかが集まることでお互いの意味を補完しあっていることになるってわけね。なんかインチキくさいけど。
この前提になっているのは、言葉の意味と表現との間の関連性に関する、恣意性っていう考え方なんだけど、これには反論する人もいてね。ええと、『おっぱい』って言葉があるでしょ」
千尋が噴き出した。
「何言いだすんですか」
「あら別にいいじゃない。別にいやらしい話題じゃないんだから。ほら、言ってごらんなさい、おっぱい」
「嫌ですよ」
「じゃあ梶山くん」
「先生、それセクハラです」
「じゃあ沢田さん」
「チチ」
「今日日の女子高生は、味気ないわねぇ」
「先生、話を進めてください」
「乳首を英語で言うと、ニップルなんだけど、おっぱいもニップルも、どっちもPの発音が入っているでしょ? 唇を使って発音する音。これは唇を使って母乳を飲んでいたことに起因するのではないか、身体性を伴う場合は言語の恣意性は必ずしも成立しないのではないかって言いだした人がいてね。あ、これ私の大学の時のゼミの同期の人だったんだけど」
「その人はそういう研究をしてたんですか?」
「まあね。そんで、じゃあ他の言語はどうなのかって聞かれて、答えられなくて、外国に旅立って行ったわ。おっぱいを探す世界の旅に。そして戻ってこなかった」
「大学ってのは変な人ばっかりですね。先生も含めて」
「梶山くんは、もうちょっと素直な口のききかたを覚えたほうが良いと、先生は思います」
「善処しますよ」
「はーい、先生、それで構造がどうとかってのは?」
「そうそう。ここで言う構造ってのは、ネットワーク的なものよね。だったら、その構造をコンピュータ上に構築することもできるんじゃないかっていうのが、私達がやっていたことね」
「セマンティック・ネット?」
「そ、古くはそういう種類のものよ。もっとも、同じようなことを考える人は他にもいて、色々な人がいれば色々な考え方が出てくるもので。構造を作り出す仕組みそのものを解き明かそうとする生成構造学派や、実際に存在している構造を解析しようとする構造解析学派とか、流派に分かれていたりはするんだけど」
「先生は?」
「私は構造解析学派かな。でももっと、実用寄りかも。師匠の影響だけどね」
「師匠って、大学の先生なんですか?」
「ううん。それとは違う、もう一人の師匠よ」
最後のピータンを、箸に乗せるようにして口に運ぶ。
「実学主義なのよね。どんな学問でも、最終的に世の中の役に立たないと意味がない。それが一年先か、百年先かは、直接か、間接かは分からないけど。そういう考え方が、私は好き。権力なんかも同じよ。世の中の役に立てられない力なんか、持っていてもしょうがない。力を持ったら人々のために使わなきゃ駄目よ。自分たちのために使うだけなんて、あんな奴ら、認められないわ!」
慈愛の口調が激しくなったのに驚いて、千尋が顔を上げた。
「せ、先生、何かあったんですか」
「ああ……ごめん。ちょっと、昔にね。気にしないで」
「気にしますよ」
「千尋くんは、他人のことを気にしてばかりね」
「そんなこと……」
「知るは力なりって、昔の人が言っていたわ。構造をね、視れるようになると、世の中のことも多少は分かるわよ。どう?」
「はーい、先生。それって、女の私でも分かるようになるってこと?」
「別に性別は関係ないわ」
「ふうん。千尋はどう思う?」
「どうって言われても、分からないよ。そうですよね、部長?」
梶山は鶏肉をもぐもぐと咀嚼しながら、「分からない」という部分には肯定も否定も加えずに、
「世の中のことが分かるってのは、いいかな」
三人それぞれの感想だ。慈愛はなんだか楽しそうな顔をして、残ったビールを飲み干してから、メニューに手を伸ばした。
「私、締めにお粥食べるけど、みんなもどう?」
「はーい」
追加のオーダーを出して、ふと思い出したように、
「そうそう、さっきの話だけどね」
「さっきのって、どの話ですか?」
「おっぱいの話」
「はあ」
「あの人が言っていた説って、嘘だから。他の言語では別にPの発音なんか入っていないし、そもそもおっぱいの『ぱい』は古い朝鮮語で『口で吸う』っていう意味だからね。まあ唇に関係していなくはないけど」
「旅に出た人がかわいそうですね」
「男の子は旅に出るものよ。でもみんなは、おっぱい探しの旅に行ったりしないでね」
「行きませんよ」
「沢田さんもね」
「チチの話なんか、興味ないです」
変な顔をして美香奈のことを見る慈愛の表情に、千尋はこの二人はどちらも女性なんだよなあと当たり前のことに感心した。とても同じ性別には思えなかったのだ。
人数分運ばれてきた中華粥を食べようと、レンゲに手を伸ばす。
中華粥は予想以上に熱くて、口の中を火傷した。
コールをしているのは慈愛、青島ビールが注がれたコップを掲げているのも慈愛である。
千尋たち他の三人は、椅子に座って小さくなっていた。
「先生、非常識ですよ」
「高校生にお酒飲ませるほど、非常識じゃないわよ」
「でも高校生の目の前でお酒飲むくらいには、非常識じゃないですか」
「これでも我慢したほうなのよ」
慈愛曰く、居酒屋はまずいだろうと思って、街の中華料理屋を選んで入ったとのこと。それも定食屋じゃなくて、ちゃんと単品なりコースなりで注文する店だ。当然青島ビールも常備している。|麻覇羅蛇《メtハラジャ}という中華料理なのかインド料理なのか分からないその店は、ガラスで区切られた厨房で髭と眼鏡の料理人が鍋をふるい、色白で妙に肉感的なウェイトレスが注文を取りにきた。千尋達は注文を全部慈愛に任せることにして、黙っていた。
小籠包に大根餅と、次々と料理が運ばれてくる。
「はいはい、食べてね食べてね。若いんだからね」
「はーい、先生、こういうお店によく来るんですか」
「よくってことはないけれど、ちょっと食事に力を入れた宴会にしようかなってときは、中華料理屋も候補に入れるわね」
「こんな高級そうなお店、入ったことないです」
「なーに言ってんの。私が生徒を連れてくるくらいなんだから、そんな高いお店じゃないって。心配しないで食べなさい。ほら、小籠包とか熱いうちに。ひと口で食べて口のなか火傷して、口の上の裏側の皮がむけるくらいの勢いで」
「はふいです、はふいです」
「そーら、しょうろんぽう、しょーろんぽー」
梶山だけはなるべく慈愛に関わらないように、隅のほうで空心菜の炒め物を食べていたが、うっかり唐辛子ごと食べてしまいあわてて水を飲んでいた。
そんな、夜の街に慣れていない、謎の集団。
慈愛はピータン豆腐をつまみながら、喉に残るビールの香りを楽しみつつ、子供たちを眺めていた。六人用のテーブルを四人で占拠し、美香奈と千尋が向かい合わせに座り、梶山は慈愛の向かい、一番奥に座っている。
慈愛の目は、子供を見る目だった。彼女は何を思いながら、自分達生徒を見ているのだろうかと、千尋はふと疑問になる。後輩? まさか弟? 自分は慈愛から見たら、相当な子供なのだろうな。
「ところで、先生は、大学で何を勉強してたんですか?」
「認知構造学よ。このゼミのテーマでもある、ね」
「認知構造学科ってのがあるんですか」
「ないわよ。そうね、たとえば文学部にシェイクスピア学科はないでしょ? それと同じように、専門の名前と学科の名前は必ずしも同じじゃないのよ。学科っていう括り方の中で、さらに細かく専門が分かれているっていう感じかしら。だから大学選ぶ時には、学科の名前だけじゃなくて、先生が何を専門にしているかも調べたほうがいいわよ」
「じゃあ先生の学科は?」
「心理学。と言っても、認知構造学は計算機科学との接点も近いけどね。認知工学とか、部分的には行動科学とか」
「何を勉強してたんですか?」
慈愛がビールをクイとあおる。どこから話せばいいかと思案する。
「世の中のすべては構造から出来ている、ってのが認知構造学の基本的な考え方ね。たとえば脳味噌の中のニューロンの結合から、血液の循環器系、そして人間同士のつながりや、国家間の関係まで。全部、構造よね。だから人間が世の中の事象を認知して理解するってことは、その構造を認識することと同じようなものなの。
同じような考え方は、例えば言語学にもあるわ。体系って考え方なんだけど、ある言葉の表出――いわゆるシニフィエによって表されるシニフィアンは、それが指し示すものが何でないかによって定められているっていう考え方。その何でないかが集まることでお互いの意味を補完しあっていることになるってわけね。なんかインチキくさいけど。
この前提になっているのは、言葉の意味と表現との間の関連性に関する、恣意性っていう考え方なんだけど、これには反論する人もいてね。ええと、『おっぱい』って言葉があるでしょ」
千尋が噴き出した。
「何言いだすんですか」
「あら別にいいじゃない。別にいやらしい話題じゃないんだから。ほら、言ってごらんなさい、おっぱい」
「嫌ですよ」
「じゃあ梶山くん」
「先生、それセクハラです」
「じゃあ沢田さん」
「チチ」
「今日日の女子高生は、味気ないわねぇ」
「先生、話を進めてください」
「乳首を英語で言うと、ニップルなんだけど、おっぱいもニップルも、どっちもPの発音が入っているでしょ? 唇を使って発音する音。これは唇を使って母乳を飲んでいたことに起因するのではないか、身体性を伴う場合は言語の恣意性は必ずしも成立しないのではないかって言いだした人がいてね。あ、これ私の大学の時のゼミの同期の人だったんだけど」
「その人はそういう研究をしてたんですか?」
「まあね。そんで、じゃあ他の言語はどうなのかって聞かれて、答えられなくて、外国に旅立って行ったわ。おっぱいを探す世界の旅に。そして戻ってこなかった」
「大学ってのは変な人ばっかりですね。先生も含めて」
「梶山くんは、もうちょっと素直な口のききかたを覚えたほうが良いと、先生は思います」
「善処しますよ」
「はーい、先生、それで構造がどうとかってのは?」
「そうそう。ここで言う構造ってのは、ネットワーク的なものよね。だったら、その構造をコンピュータ上に構築することもできるんじゃないかっていうのが、私達がやっていたことね」
「セマンティック・ネット?」
「そ、古くはそういう種類のものよ。もっとも、同じようなことを考える人は他にもいて、色々な人がいれば色々な考え方が出てくるもので。構造を作り出す仕組みそのものを解き明かそうとする生成構造学派や、実際に存在している構造を解析しようとする構造解析学派とか、流派に分かれていたりはするんだけど」
「先生は?」
「私は構造解析学派かな。でももっと、実用寄りかも。師匠の影響だけどね」
「師匠って、大学の先生なんですか?」
「ううん。それとは違う、もう一人の師匠よ」
最後のピータンを、箸に乗せるようにして口に運ぶ。
「実学主義なのよね。どんな学問でも、最終的に世の中の役に立たないと意味がない。それが一年先か、百年先かは、直接か、間接かは分からないけど。そういう考え方が、私は好き。権力なんかも同じよ。世の中の役に立てられない力なんか、持っていてもしょうがない。力を持ったら人々のために使わなきゃ駄目よ。自分たちのために使うだけなんて、あんな奴ら、認められないわ!」
慈愛の口調が激しくなったのに驚いて、千尋が顔を上げた。
「せ、先生、何かあったんですか」
「ああ……ごめん。ちょっと、昔にね。気にしないで」
「気にしますよ」
「千尋くんは、他人のことを気にしてばかりね」
「そんなこと……」
「知るは力なりって、昔の人が言っていたわ。構造をね、視れるようになると、世の中のことも多少は分かるわよ。どう?」
「はーい、先生。それって、女の私でも分かるようになるってこと?」
「別に性別は関係ないわ」
「ふうん。千尋はどう思う?」
「どうって言われても、分からないよ。そうですよね、部長?」
梶山は鶏肉をもぐもぐと咀嚼しながら、「分からない」という部分には肯定も否定も加えずに、
「世の中のことが分かるってのは、いいかな」
三人それぞれの感想だ。慈愛はなんだか楽しそうな顔をして、残ったビールを飲み干してから、メニューに手を伸ばした。
「私、締めにお粥食べるけど、みんなもどう?」
「はーい」
追加のオーダーを出して、ふと思い出したように、
「そうそう、さっきの話だけどね」
「さっきのって、どの話ですか?」
「おっぱいの話」
「はあ」
「あの人が言っていた説って、嘘だから。他の言語では別にPの発音なんか入っていないし、そもそもおっぱいの『ぱい』は古い朝鮮語で『口で吸う』っていう意味だからね。まあ唇に関係していなくはないけど」
「旅に出た人がかわいそうですね」
「男の子は旅に出るものよ。でもみんなは、おっぱい探しの旅に行ったりしないでね」
「行きませんよ」
「沢田さんもね」
「チチの話なんか、興味ないです」
変な顔をして美香奈のことを見る慈愛の表情に、千尋はこの二人はどちらも女性なんだよなあと当たり前のことに感心した。とても同じ性別には思えなかったのだ。
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