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第五章

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 千尋は前に出て、プロジェクタのスクリーンにレーザーポインタを当てた。

「――前の章で出て来た、『作り屋』ですが、これは……えっと、単に要素を寄せ集めただけではありません。ネットワークのようにエージェントが結合されていないと、うまく働きません。人間のコミュニティと同じで、ただ集めただけでは、全体が何をするのかが分からないからです。それぞれの部分が他の部分とどのようにインタラクト……ええと、対話? するのかを知る必要があります。……これって、構造になっているってことなんでしょうか。でも脳細胞の構造を知るのは、とても大変です。

 次に、新説論者と還元論者というのが出て来ます。還元論者ってのは、ええと、古い考えの上に説明を重ねようとする人で、新説論者ってのは、従来の考えを捨てて新しい仮説ばかり立てたがる人のこと、です。これは、良く分からなんですが、学説か何かを作る人のことなんでしょうか。普通は還元論者が正しいけれど、例えば物理法則を積み重ねても、脳の働きが分かるわけではないので、こういう場合は上のレベルで働くような新しい考え方を付け加える必要があります。……上のレベルってのは、うーん、良く分かりませんでした。

 で、要素を集めた全体というのは、その部分を足し合わせたものを超えることがあります。例えば絵というのは、それを構成する線の集まりを超えて作品となります。こういう場合、心のエージェント同士の間に何が起こるかを説明する必要があります。

 その次の、箱と壁のところは、分かりませんでした。

 それで、人間は機械かどうかという話については、これに反論する人もいるけれど、そもそも機械の意味するところ……パソコンの性能とか、が、日に日に変化していくので、この比較は適切ではないそうです。ただ、自分がどんな機械なのか分かれば、自分のすばらしさをもっと認めることが違いない、らしいです。……これで、合ってますか?」

「はいはい、そんな自信なさそうなこと言わないの。物事を理解するって、そういうもんじゃないでしょ? ……順番にいくわね。最初の上のレベルなんだけど、なんて言えばいいのかな。パラダイムって分かる? より抽象度が高いパラダイムを導入する必要があるってことなんだけど」

「分かるような、分からないような」

「……。そ、そう。それじゃあ次の箱と壁のところなんだけど。つまり、箱って板から作られるじゃない? 板ってのは自分が箱の一部だなんて知らないわけよ。だけど、隣の板をくっついて、あの形になると始めて箱という役割りを果たすってこと」

「それも、構造なんですか?」

「そう。板と板との関係性が、箱という構造を成立させているってところかしらね。構造を知るためには、板になってその一部になるだけではなくて、それより一段高いレベルで構造を見れるようにならないといけないのよ」

 似たようなことを、果帆子が言っていたっけ。ちょっと違う? いずれにせよ、千尋には少し難しいように感じた。

「やっぱり、分かるような、分からないような、です」

「……いいわ。ご苦労様。次の範囲と担当を決めておくわね。ええと、次は美香奈ちゃんね。いい?」

 話を聞いていた美香奈が頷いた。

「じゃあ、俺はこれで」

 と、梶山は荷物をまとめると、速やかに部室を出て行ってしまう。呼び止める隙も見せないくらい。

「ああっ。今度こそはプロジェクタの片付けをさせようと思ったのに。もう」

 慈愛は困ったように千尋のほうを見る。そんなことになるだろうと思っていたので、千尋は既に自発的に片付けを始めていた。

「悪いわね」

「いいですよ。こういう仕事、嫌いじゃないです。前と同じところにしまっておけばいいんですよね」

「ええ」

 美香奈が立ち上がり、千尋の袖を引っ張った。慈愛のほうを向く。

「慈愛先生、待ってください」

 慈愛は「きたか」という顔をした。

「ちゃんと説明してください。私にも、あと千尋にも」

「分かっているわ。ちゃんとそのつもりはあるから、そんな恐い顔をしないで」

「恐くなんかないです」

「そう?」

 とりあえず慈愛は椅子を引いた。二人の生徒も、その前に並んで座る。

「落ち着いて聞いてね。これは長い話だから」



 自分の身体から角と翼が消えてしまった後、美香奈はこれは一瞬だけの夢なのか、それともずっと続く現実なのか、どちらか分からない感覚を持ちつづけていた。

 ついさっきまでみなぎっていた力と比べて、なんと今の自分の力は小さなものだろう。

 慈愛に追い立てられるように家に帰され、もやもやしながらの夜が過ぎて、学校に行くしか高校生にはすることがないので、いつものように学校に来た。

 学校が嫌になっているなんてことはないけれど、あんなことがあったばかりで嫌にならないってのも、少しおかしいのかな、などと思ってしまう。

 だから千尋の顔を見たら安心した。

 今日もまた、千尋に会えたと。

 たとえ自分に秘密ができたとしても、千尋と一緒なら大丈夫だと。

 自分の身に起こったことの説明は、千尋と一緒に聞きたかった。

 慈愛の前に二人、椅子を並べて座る。

 なのに千尋は距離を置いた。並べて一〇センチの距離の椅子を、わざわざ置きなおして一五センチにする。たった五センチなのに、その距離が恨めしい。

「その前に、美香奈ちゃんのことを話してくれないかしら。昨日と、一昨日の夜のこと。それとも覚えてない?」

 美香奈は努めていつもと同じように答えた。

「はーい、先生。えっと、昼間は頭が重い感じが続いていたんですけど、昨日のアレで少しは思い出しましたよ」

「じゃあ教えて。あ、無理はしなくていいからね」

「ええとですね。まず一昨日のご飯の後、依里ちゃんと古賀先生を追いかけてからなんですけど、十字路の先で依里ちゃんを見付けました。古賀先生も一緒で、私は先生に後ろから羽交い締めにされたんです。

 逃げ出そうとしてもがいていたら、お腹を殴られました。殴られるっていう感じよりも、内臓を掴まれるって感じだったと思います。

 その後しばらくの記憶は本当になくなっています。三〇分くらいだと思いますけど。気がついたら、家に帰る途中で、その後はずっと頭の中がはっきりしませんでした。

 昨日はやっぱり朝から変で、教室にいてもそわそわしていて落ち着かなくて、休み時間に外に出たら倉庫のところで、その……変なことされている依里ちゃんを見て……私、本当は助けてあげなきゃいけないのに、何もできなくて……身体が動かなかったんです。助けなくちゃって分かっていたのに……ごめんなさい」

「いいのよ、続けて」

「昼休みになって、依里ちゃんが私のクラスに来ました。古賀先生が呼んでいるって言われました。話があるって。……さっきのことかなって思いましたけれど、断れませんでした。依里ちゃんに悪いとか、依里ちゃんが替わりにひどいことされそうとかっていうんじゃなくて、……断りたくないって感じたんです……変なのに。そんなの変だって、今なら分かるのに、その時は逆らおうって気にならなかったんです。 ……なんでだろ。分からないです。

 依里ちゃんについて行ったら倉庫で、中に入ったら真っ暗で、気が遠くなってしまって、目を開けたら慈愛先生が戦ってました。あとは……先生が知っている通りです」

 美香奈は下を向いた。千尋との一五センチ、それが五センチ縮まるだけでも、もうちょっと気分が楽になるのになと思いながら。

 慈愛が静かに言った。

「一昨日の夜に古賀先生が美香奈ちゃんを襲った時に、何か暗示のようなものをかけたんでしょう。そのせいで美香奈ちゃんは、天城さんの言うことに逆らえなかったのだと思うわ。決して美香奈ちゃんが悪いわけじゃない。気にしては駄目よ」

「……はい」

「古賀先生はどうしたんですか?」

 千尋が聞いた。

「退職よ。学校を辞めたそうだけど、その後どうするのかは聞いていないわ」

「警察に届けなくてもいいんですか?」

「必要ないわ。そんなことしたら、何のための学校か、分からないじゃない」

「でも、退職ってことは、無事なんですよね。あの時、美香奈にメッタ斬りにされていたのに」

「あの力はね、本当に人を切ったり刺したりするための力じゃないのよ」

 美香奈が顔を上げる。

「じゃあ、何なんですか。私のあの力は何のためのものなんですか?」

「そうね、説明してあげるわ。あなたと私の力のこと、私達の仲間のことを」

 慈愛は口を開いた。



 日本の神道と皇室は切っても切れない関係にある。

 皇室が綿々と受け継がれてきたように、神道もまた綿々と受け継がれてきた。歴史の流れの中では仏教と交わり離れということもあるにはあったが、結局どの時代の権力も、皇室への一定の敬意を失わなかったように、神道もまた権威をもって続いてきた。

 しかし人々には知られていない、もう一つの神道がある。それが裏神道である。

 正式な名称はない。表の神道に対する裏の存在として、仮に裏神道と呼ばれている。

 裏神道を支える集団は漢波羅と呼ばれる。漢波羅は、秦氏、賀茂氏、忌部氏が三大勢力である。これら御三家は、表の神道の成り立ちと発展にも強く関わっている。更に言えば、これらの一族は元を辿ると渡来人、しかも朝鮮半島や中国を飛び越して、古代ヨーロッパから流れ着いた者達であるという説があるが、現在の漢波羅はそのことを特に重要視していない。いずれにせよ、表の神道が出来上がるのと平行して裏神道も成立し、現代に至るまで、影から日本の政治経済に影響を及ぼしてきた。

 漢波羅は八咫烏と呼ばれる秘密部隊を持つ。漢波羅そのものは影の存在であるため、実社会に対しての手出しはすべて八咫烏が行っていた。

 八咫烏は、古代日本の書物に登場する三本足のカラスのことである。書物に登場するのは、賀茂建角身命かものたけつぬみのみことという神の化身で、神武天皇の東方征伐で道案内役を勤めたと言われている。そして、角という文字が名前に含まれるように、日本の伝承に出てくる「鬼」の原形であったとも言われている。

 漢波羅においては八咫烏は一人ではない。組織である。

 八咫烏は変身能力を持つ。その姿は、光る角と漆黒のカラスの翼として顕現する。能力を発動した八咫烏は、常人をはるかに越えた身体能力を持ち、<縁脈>を視る力を持つ。<縁脈>とは人や物の間に発生した構造である。これが歪み汚れると、<綻澱>が生まれる。<綻澱>を消去するのが八咫烏の使命の一つである。そのために、八咫烏は各人の特性に合わせた「武具」を操る。武具は実在する道具を変化させたものが多い。例えば慈愛であればカードだし、美香奈の場合は巨大化したカッターナイフだった。

 八咫烏になれる人間は多くない。多くはないが、日本という狭い国の中で混血が進んだ結果、八咫烏の血の影響下にある人間は不確定に存在していた。例えば、普通の女子高校生だった美香奈が覚醒できたように、だ。

 八咫烏になるためには、上位の八咫烏の弟子になる必要がある。能力の低い八咫烏は、師匠である八咫烏の力によってのみ変身できる。今の美香奈は、慈愛の力がなければ、八咫烏に変身はできない。

 八咫烏には階級がある。八咫烏の中で、特に力を持つ一二人は、十二鴉と呼ばれ、指導的な役割を果たしている。その中でも更に大鴉と呼ばれる三人がおり、八咫烏の、ひいては漢波羅のリーダーとなっている。

 では、慈愛は漢波羅なのか?

 否である。

 漢波羅は裏神道とその権威を維持することだけを目的としている。人々のためには動かない。漢波羅という組織のためだけに行動する。その独善的な思想を否定し、漢波羅を抜け出た八咫烏がいる。

 彼らは自らを鴉外衆と呼んだ。

 八咫烏としての能力は持っているが、漢波羅のやり方には従わない。鴉外衆は衆人に紛れて生活しながら、ゆるい連携をもって結ばれていた。

 鴉外衆の頭領は、元十二鴉の秦悠大である。

 慈愛もまた、他の鴉外衆と同じように、秦悠大と連絡をとりながら、必要に応じて八咫烏の使命である<綻澱>の除去を行っていた。

 この学園の中で連続して起こった教師の不祥事は、いずれも<綻澱>に取り憑かれた人間が起こしたものである。



 美香奈は話を聞きながら、自分の手のひらを握ったり開いたりを繰り替えした。

 昨日の感触を思い出す。刃の柄を握った、あの感触。力強い、心強い感触。

「はーい、先生。つまり私は、八咫烏になったってことなのね。そして先生の弟子になったってことなのね」

「そうなるわね。本当はちゃんと本人の意志を確認しないといけないの。あんな形になってしまって、ごめんなさいね」

「でも先生は私を助けてくれたのよね。それで私は悪い先生をやっつけられたのよね」

 自分の力を思い出す。すごい力だった。あれが本当に自分の力なんだ、と。

 同時に、古賀に斬りつけた時の感触も思い出した。鈍い手応え。肉に食い込み、更に刃で切り裂く、私の力傍点

「あのね、美香奈ちゃん。八咫鴉の力は、特別じゃないの。特別な力を、特別な人が、特別な目的だけに使おうとしたら、それって漢波羅と同じことになってしまうわ。それでいいの?」

「その……違いがよくわからないから」

「違うわ。全然、違う」

「そうなんですか」

「あなたは八咫烏になったと同時に、私の弟子になったの。つまり、鴉外衆の仲間になったってことなのよ。鴉外衆はあくまで人の側に立つ者達の集まりなの。力を持ったからと言って、普通の人であることをやめては駄目よ」

「うん。それは分かってます。だって、先生がいないと、変身できないんでしょ? だったら悪いことには使えないよね」

 千尋のほうを見たら、心配そうな顔をして見つめていたので、笑ってみせた。

 ――千尋、私は力を手に入れたよ。これで男の人にも負けないよ。

 しかし千尋は、美香奈の気持ちを知ってか知らずか、ふいと顔を背けてしまう。

 千尋は分かってくれないのだろうか。

 これでもしかしたら――千尋を守ることもできるかもしれないのに。

 慈愛のスマホが鳴った。電話をとってしばらく話すと、「すぐ行きますよ」と言って切った。

 千尋が聞く。

「どうしたんですか?」

「教員の懇親会が始まるんだって。出席するなんて言ったっけ?」

「昨日出席するって答えてましたよ」

「ああそう。そっかー。じゃあ出ないわけにはいかないか。……うーん、美香奈ちゃん、これから時間ある?」

「え? 大丈夫ですけど」

「じゃあ、さ。ちょっと天城さんの家に寄ってみてくれないかしら。彼女、今日は休んでいるんだけど、どんな調子かなって様子だけでも見てきてほしいの。カウンセラーとしては一度ちゃんと会って話す時間をとるけれど、それは体力が回復してからのほうがいいだろうし」

「あ、先生、それなら僕が」

 千尋が慈愛の言葉を遮った。

「千尋くん? でも、男の子よりは同性のほうがいいと思うのよ」

「美香奈だと、かえって気を使うと思うんです。天城さんが呼び出したせいで、美香奈が危険な目にあったのだし」

「うーん。そうねえ。……まあ、いいか。千尋くんなら大丈夫かしらね。じゃあ行ってきてくれる? 本当に様子を見るだけでいいから。おうちの人から具合を聞くだけでもいいからね」

「はい」

 千尋は荷物をまとめて部室を出て行った。

「千尋くん、どうしちゃったのかしらね」

「……わかんないです」

 後にプロジェクタが残っているのに気がつく。慈愛が苦笑いしながら美香奈に言った。

「ごめん。これ片付けてくれない?」

「……いいですけど」

 美香奈が少し不満そうな声を出してみたのは、本当は千尋に聞かせてやりたかった。

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