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第五章

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 部室を出た千尋は、トイレに駆け込んだ。

 手を洗う。石鹸をつけて、念入りに、何度も何度も手を洗う。

 美香奈の顔……すごい顔をしていた。嬉しそうな、至上の喜びを得た顔だ。

 昨日の戦いを思い出す。荒々しく古賀を切り裂く美香奈の顔は、大きく歪んでいた。見開いた目に左右に広がった口。叫びつづけるその声は、怒りの中に歓喜が混じっていた。古賀をいたぶることに、快楽を感じている叫びだった。

 力を得た美香奈の顔は、戦いを求める戦士の顔だ。

 恐い。そんな美香奈が、恐ろしい。

 そしてなによりも――醜い。

 汚い、汚い。そんなことを思う自分の心すらも、汚い。

 だから離れたい。近づきたくない。そんなことを思う自分の衝動すらも、汚い。

 汚れているのが美香奈なのか自分なのかすらも分からなくなって、ひたすら手を洗った。すべての汚れが、指の先から染み出して雫になり、水道の水と一緒に流れてしまえばいいのにと思いながら。

 白いままのはずの石鹸の泡を見つめているうちに、段々と色が濃くなっていくような感じがする。泡と泡の境界で作られた網目にそって、薄墨色の汚れが絡み付いて移動する。慈愛が言っていた、<縁脈>の網の目。こびりつく<綻澱>。

 これもまた、人の間に発生する汚れの一つなんだろうか。

 倉庫の中の、あの空間。<綻澱>と言う名前の汚物が充満した、狭い小屋の中。あの中でも千尋は以前と同じ感覚に襲われていた。忘れてしまいたい過去の記憶を浮かびあがらせる、血の感覚。手から離れない、赤い赤い、血の記憶。汚れているのは、やはり自分なんじゃないだろうかと、不安で不安で、しかたがない。

 泡が全部流れて消えたあとも、水が手を伝うのに任せていた。

 流れる水道水を見ていたら我慢できなくなって、その水を頭からかぶった。後頭部に当たった水が、頬と前髪に伝わって流しに落ちる。

「こんなの……青春ドラマじゃないか」

 ふいに馬鹿らしくなって頭を上げた、肩に水が滴り落ちてくるのを、あわてて手ぬぐいで拭う。髪の毛を手で絞ってから、手ぬぐいを拡げて頭を拭いた。

 やっぱりこんなのは、自分らしくないと千尋は思う。



 慈愛から受け取ったA4の紙には、依里の家の地図が書かれていた。簡略化した図と、ネットの地図から切り出したような市街地図に、目的地のマーク。幸いにも、千尋の家とそれほど方向はずれていない。

 歩道を歩きながら千尋は、そういえば自分は依里とちゃんと話をしたことがなかったことに気づいた。今更といえば今更すぎる。しかしこの数日というもの、彼女が巻き込まれた境遇を考え、それをすぐそばで見てしまっていることを思い出すと、まったくの他人とも思えない。

 彼女はどうして、あんな風に道を踏み外してしまったのだろう。

 被害者に向かってどうしてなんてのは、禁句に決まっているのだが、彼女のクラスでの女子の馬鹿にした態度や、その後の男子生徒の心配そうな態度を見てしまうと、なんとなく理由が分かってしまう。

 天城依里からは、女の匂いがする。

 千尋にはそれが分かる。

 多分の他の人も分かるのだろう。

 それを理由に、彼女にだって責任があったなんてことを言うつもりはない。そもそも自分には人を裁く権利も権力もないし。

 だけど、男性教師達が依里を餌食にした理由、依里に引き寄せられた理由は、やっぱり理解できてしまうのだ。

 同時に、千尋自身は絶対にそういう種類の匂いに惹かれないことも。

 国道から脇道に入ると、ところどころに田んぼが残る風景に変わる。

 この水田はいったいどれだけの生産性を上げているのだろうかと疑問になるが、視界の中に緑があるというだけでも、存在する意義はあると思う。

 ほとんど農道かと思うような、民家の駐車場との境が分からない道を抜けると、依里の家があった。

 長屋、と言えばいいのだろうか。平屋が四棟繋がっている。ところどころ崩れた漆喰の壁と、錆びたトタンの屋根。建物の周囲は庭とは呼べない、ただの砂利。玄関の前には、小さなプランターに葱のような植物が生えている。

 玄関の脇の新聞入れに貼ってある表札を、右から順番に調べていく。名前を出していない家もあったが、幸いに「天城」と書かれた家は見つかった。左から二番目の、日の当たらない部屋だ。

 玄関のチャイムを押したら、室内のピンポンという音が外まで大きく聞こえてきた。同時にハイハイという声がして、玄関が開く。

 出てきたのは中年の女性だった。

「はい、どなた?」

「あ、あの、天城さんの学校の二年の、百瀬千尋といいます。カウンセラーの先生が部活の先生で、天城さんの様子を見てくるように言われて……」

「カウンセラーの先生って、昨日依里を送って下さった先生ですよね。まあまあ」

 化粧っ気のないその女性は、家の奥に向かって依里を呼んだ。

「お母さん、なに」

 と答えながら出てきた私服の依里は、制服の時以上に地味な印象なのに、制服よりも幾分ルーズな首回りが妙な色気を出している。

 千尋の顔を見ると、明らかに迷惑そうに目をした。

「なんですか」

「あ、慈愛先生が心配していたから」

「先生は」

「用事があって来れないんだ。だから代わりに僕が」

「ありがとうございます。でも、私は大丈夫です」

「う、うん。そうみたいだね」

 玄関で話す二人に向かって、依里の母親が言った。

「上がってもらいなさいよ。わざわざ来てくれたんだから」

「でも……」

「あ、僕は」

「いいから、どうぞ上がってくださいな。依里の先輩なんでしょ? 本当に依里がいつもお世話になって。いま、お茶いれますから、ね」

 千尋が困って依里を見ると、依里は「入ってください」とぶっきらぼうに言う。なんとなく逆らえなくて、千尋は靴を脱いだ。

 玄関からすぐが小さな台所になっていて、その奥に二部屋が繋がっている。片方はテレビとテーブルがあって居間になっているようだ。もう一つの部屋は、ふすまの間から勉強机が見えたので、依里が使っているのかもしれない。テレビは二〇インチもないくらいの小さなものだ。テーブルの角のところにクレヨンの落書きがこびりついていた。

 千尋は、勧められるがままに居間のテーブルに正座をした。すりきれた畳の屑が制服のズボンにつくのが気になったが、努めて平静を装う。

 依里の母親が「こんなもんしかないですけどねえ」と言いつつ、お茶と羊羹を出してきた。

「ありがとうございます」

 と言ってはみたものの、暗い台所からぬっと現れた母親のひび割れた指で運ばれた皿に、どうしても手をつける気にならなかった。

 依里と母親もテーブルに座り、奇妙な三人の構図が出来上がる。

 依里の母親は、顔に皺を作ってニコニコしながら、学校での依里の様子を千尋に聞いてくる。そんなこと、千尋は知りはしないのだが、適当な相槌を打っておいた。

 依里はそれをつまらなそうに聞いていた。

 これもまた人の縁、<縁脈>、人の構造なのかと、慈愛に聞いてみたい。

 膝の上で握った手の平の中に、汗が滲むのを感じる。手を洗いたい。ここの家の流しじゃ駄目だ。どこか他の場所で手を洗いたい。

「依里は見ての通り大人しいでしょ? 暗い子って思われているんじゃないかって心配なんですよ。父親がいないから、それで内向的になっているんじゃないかって心配なんです。母親の私がしっかりしていればいいんでしょうけれど、私もほら……外に出るタイプの人間じゃないものですからね」

「はあ」

「部活にも入っていいのよって言ったんだけど、入ろうとしないんですよ。でも安心です。先輩ができたなんて、ねえ。本当によろしくお願いしますね」

「お母さん、やめて」

「あら、こういうのは大事なのよ」

 依里は羊羹をつまみながら、千尋のほうに視線を投げた。

「食べないんですか?」

「あ、うん、えっと」

「そうそう、先輩の百瀬さんにこういうことを聞くのは変なんでしょうけど、依里と仲のいい男の子っているんですか?」

「やめてって」

「いいじゃない。依里が教えてくれないんだから。いえ、あのね、最近依里が女の子っぽくなってきたんじゃないかって思うんですよ。百瀬さんもそう思いません? だから、好きな人でもできたんじゃないかって」

 依里は黙って羊羹をかけらを口に運ぶ。

「天城さんのこと、気にかけている人はいると思います」

 嘘ではない。クラスの男子は、依里のことを心配そうに尋ねていた。それ以上に、気にかけていない同性が多そうではあったが。

「あらあら、そうなんですか」

「やめてよ……」

 依里が小さくつぶやいた。

 母親はそんな依里を優しそうに見つめていたが、千尋はその表情よりも手入れのされていない爪のほうが気になっていた。女の人の爪はあんなに白くてギザギザしているものだっただろうか。

 玄関でガチャという音がした。急に母親の表情が硬くなる。

「あ、あの、百瀬さんはおうちの方が心配するんじゃあ」

 突然の態度の変わり方ではあったが、千尋もそろそろ限界だったので、

「はい、そうですね。長々とお邪魔しちゃって」

 もっともらしい言い訳をしつつ立ち上がった。玄関が開く音と、ぶつぶつと念仏のように何かを唱える声が聞こえてくる。良く聞くと「やってられねえ」と繰り返していた。

「依里も先輩を送ってあげて。ね?」

 依里も立ち上がり、先にたって歩き出した。千尋がそれに続く。玄関から入ってきたのはまだ若い男で、やけに派手なシャツと無精髭が不潔そうに見えた。

「何だよ、男かよ? ハッ、やるな。小娘のくせに」

 依里は無視して通り過ぎる。その尻を男が鷲掴みにした。

「メスだなあ、おい。おかえりなさい、くらい言えねえのかよ!」

 依里は何も言わず、玄関のサンダルに足を引っ掛けた。千尋はとりあえず男に会釈だけして横を通り抜ける。

「ハンッ! ガキが色気づきやがってよぉ」

 背中から浴びせられる声が気になりつつも、依里の後をついて家を出た。

 玄関を閉める間際に、男の怒鳴る声とそれをなだめる母親の声が聞こえた。母親は何度もごめんなさいを繰り返しているようだった。

 サンダルの音をペタペタとさせながら、依里が歩く。

 田んぼの脇を走る県道をしばらく歩き、小さな公園に差し掛かったところで千尋がいった。

「あ、天城さん。僕の家、こっちだから」

「……聞かないんですか?」

「え?」

「先生から様子を見てくるように言われたんですよね。私の家のこと、先生に報告するんですよね。あの人が誰なのか、聞かないんですか?」

 さっきの服だけは派手な男のことだ。

「聞いたら、教えてくれるの?」

 依里が振り向いて挑発的に言った。

「いいですよ。教えてあげます」

「ご、ごめん。ちょっとその前に、そこの公園入っていい?」

「はぁ?」

 ごめんごめんと言いながら、千尋は公園の中に入って水飲み場を探した。依里は不審そうに後をついてきた。



 手を洗う。

 習慣となったように、手を洗う。

 公園の水飲み場の水を全開にし、千尋は手を洗った。

 手ぬぐいを取り出して水を拭き取る。

「先輩、羊羹食べませんでしたよね。どうしてですか?」

「え? あ……お腹いっぱいだったから」

「ふうん」

 公園のベンチに依里が座る。少し距離をおいて、千尋も座った。

「お父さんがいないって言っていたよね。あの男の人は、お兄さん……じゃなさそうだね」

「母の恋人です」

「そ、そうなんだ」

「あんなの、人間のクズですよ。お母さんは、あんなののどこがいいんだか。……先輩、教えてあげますよ。お母さんはね、あんな男に入れ込んでいるんです。あんな男に殴られて怒鳴られて、それでも離れることができないんですよ」

 依里が鼻を鳴らす。自分の母親を軽蔑するみたいに。

「先輩、教えてあげますよ。うちのこと、教えてあげます。私が寝ている隣の部屋で、『俺以外に、あんたみたいなおばさん相手にする奴なんかいるわけねえだろ! 』って言いながら、お母さんに覆いかぶさっているんです、あの男。言うこときかないと、暴力をふるって。機嫌が悪いと、私のことも殴るんです。私が逆らわないって知っているから。クズよ、あんなのクズだわ」

 言葉と裏腹に、依里の口調に怒りはなく、ただひたすら蔑んでいた。母親を、そして自分を。

「あんな男に依存して生きるお母さんも、やっぱりクズなのよ。あんなのに捨てられたら生きていけないなんて。そして……そのお母さんに依存している私も、やっぱりクズなのよ。クズなんです……私……。先輩から見ても、私、クズですよね?」

 千尋はどう答えていいか分からなかった。美香奈ならこういう時に慰める言葉を見つけてくるのだろうけれど、自分にはそんな器用なことはできない。

 それよりも――。

 さっき洗ったばかりの手に、再び汗が滲んできた。

 依里がさらけ出す家庭の事情は、千尋には汚らわしいとしか思えなかった。

 耳を塞いでいたい。聞かずにすませたい。何も聞かなければ、何も知らないですむ。そうすれば自分は綺麗な場所にいつづけることができる。

 千尋の意に反して、依里の言葉は続いた。

「でもこんな私でも、必要だって言ってくれたんです。あの人がいれば、私は大丈夫、生きていけます。あの人――古賀先生がいれば。古賀先生が私に優しくしてくれれば、私は救われるんです。だからカウンセラーの先生には大丈夫って言っておいてください。古賀先生は私に優しくしてくれるから、先生が想像しているようなやましいことじゃないからって」

「そんなのおかしいよ!」

 千尋は立ち上がった。

 依里の言っていることは矛盾している。男に依存する母親を否定しながら、自分だって男に依存しているじゃないか。しかも、あんな、あんな――。

「あんな淫行教師に騙されちゃ駄目だよ。あんな先生はいなくなって良かったんだ」

「いなく……なった?」

 断ち切ったはずの古賀の<縁脈>は、またここに残っていた。依里の心から、か細い一本が切れずに残っていたのだ。

「古賀先生は学校を辞めたよ。慈愛先生が言っていた。どこに行ったのかは知らないって」

「嘘!」

「本当だよ。もう、学校の誰も、古賀先生のことなんか気にしていないんだ。だから天城さんも忘れなきゃ。あんな先生との関係なんか、断ち切らなきゃ」

「嫌よ! いい加減なこと言わないで! 古賀先生が私のこと、捨てるはずないもの!」

「嘘じゃない。古賀先生は悪い人だったんだよ。だから、美香奈が断ち切ったんだ。古賀先生と周囲との関係を。だから古賀先生は、もういない」

「みかな……あの先輩なの……あの先輩が、古賀先生を……」

 公園の空気がブルンと震えた。公園の<縁脈>、公園という空間の構造が、大きく震動した。

 千尋は空間がひっくり返ったような衝撃を受ける。以前と同じ、何かが――いや、全てが間違っている、あの感覚だ。

 そして千尋は見た。

 依里の周囲に広がる網――<縁脈>を。依里によってその形を歪められた、<縁脈>のネットワークを。

「ヤダ……ヤダ……ヤダ……一人はヤダ……助けて……助けてよ……、助けてよ!」

 依里が叫ぶと同時に、<縁脈>が墨の色に変わった。

 ――<綻澱>!



 家について着替えを終えて、漫画でも読もうかとベッドに寝転がった時だった。

 美香奈の中で、ズンと重い鼓動がした。

 昨日の感覚に似ている。慈愛の説明を思い出し、<縁脈>の活動と結びつけた。

 つまり昨日と同じような、<綻澱>の蓄積、そして暴走が起こっていることになる。

 なんでそんなことが私に分かるのか? それは八咫烏になったから。

 私は力を手に入れた。<縁脈>を感知し、それを断ち切る力を得た。

 <縁脈>を操作し、<綻澱>を除去するのが八咫烏の仕事だと言うのなら、私はそれをしなければならないんだ。私は力を使わなければならないんだ。

 呼吸を整えた。

 身体の奥から沸き上がる衝動と、頭で考える理屈とは、ずれていないはずだ。

 行かなきゃ。

 漫画をベッドに放り投げ、スカートから楽なホットパンツに着替える。

 ポケットの中のカッターナイフを確認し、玄関に立てかけてあったソフトボールのバットを握る。

「どこ行くの? もうすぐ、ご飯よ」

 母親の声に、玄関で靴の紐を結びながら、

「仕事。先に食べてて」

 と答えた。

 そう、これが私が得た、仕事なはず。



 慈愛が会場である居酒屋に入ったら、もう既に宴会はたけなわとなっていて、座席があるんだかないんだか分からない状態になっていた。

 とりあえずビールを注いでもらい、幹事の教師が、

「それでは、姫末先生を歓迎して、かんぱーい!」

 と言うのに合わせてコップを掲げる。両隣の人と、カチンとコップを合わせて、一口飲んだ。

 やれやれという気分になる。

 高校生の生徒達との新歓コンパと違い、教員の飲み会は、なんというか――羽目が外れている。

 高校生は大人しいものなのに、いったいどこで理性を失うような酒の飲み方を覚えるのだろうか。……ああ、大学だな。

 同じ大学でも、慈愛の周囲はわりと大人しいほうだったと思うのだが、それでも飲んで騒いでっていうのは何度も経験している。もうちょっと体育会系っぽい集まりだと、もっと大変なことになると聞いたことがある。そういうところを経て大人になった人達は、きっとお酒を飲んだら全てを忘れて騒いでいいと思い込んでしまうに違いない。

 隣の男性教師が話しかけてきた。

「いやいやいやいや、姫末先生、うちの学校はどうですか」

「面白いところだと思いますね。うん、面白いです」

「面白いですか。それは何よりです。うちの男性教師陣はどうですかね」

「先生方、ですか?」

「そうそう、旦那にしても良いような男はいましたか。いや、私が言うのもなんですが、うちの若い先生達は、結構いい男が揃っていると思うんですけどねえ」

「はあ。いえ、そういう目では見てないので、なんとも」

「先生! それはいけません、いけませんよ。聞けば先生は、大学院を出ているから、もう三〇が目前だそうじゃないですか。いけません、いけません。早く良い相手を見つけないと」

 これはまた、絵に描いたようなおっさん教師だな。慈愛は相手に気づかれないようにため息をついた。

「いえ、私はあまり若い方よりも、それなりの年齢で落ち着いた方のほうが……」

「そうなんですか! ああ、それはいい、それはいいですな。それじゃあ先生、私なんかいかがですか。女房子供はおりますが、それを前提として貰えるのなら、それなりに満足させて」

「い、いえ、結構ですから。はい」

 と、遠くで校長が手招きしているのに気がついた。校長まで宴会に出席とは、予想していなかったが、ちょっと嬉しい。

「すいません、校長先生に呼ばれてしまったので」

 人の間を抜けるようにして、一旦通路に出て、テーブルの隅に座っていた校長のところに行った。校長は慈愛にだけ聞こえるように、小声で話し出した。

「ああ、お疲れさま。お願いしていた、調査の件なんですが」

 忘れてた。

 倉坂の件はともかく、古賀の件は完全に裏から手を回して処理していたので、彼が問題の犯人だったとは報告していない。

 慈愛が答えあぐねていると、校長が続けた。

「分かってますよ。古賀先生なんですね」

「校長先生、どうしてそれを」

「貴崎のお嬢様から内々に話を聞きました。姫末先生を、ねぎらって欲しいとおっしゃっていましたよ」

 貴崎果帆子。貴崎家の直系の娘。ただ、道楽で慈愛を構っているのではないのかもしれない。

「ですから、今日はお疲れ様会と思って、楽しんでください」

「……はい。ありとうございます」

 今ひとつ釈然としないまま、校長から離れる。再び通路に出たところで、スマホの振動に気づいた。タップして着呼して、喧騒から離れたところまで移動する。電話の相手は、秦悠大だった。

「はい」

「送ってもらった<縁脈>の解析が終わった。<綻澱>の根源は、お前が処分した教師達ではない」

「では、何なんです?」

「女だ。それも、若い女。――心当たりはあるか?」

「…………あります」

 それと同時に、ポケットに入れていた観測者のカードが脈を打つ。繁華街の各所に置いておいたカードのネットワークが反応しているのだ。

 古賀の痕跡から繋がっている<縁脈>の先にいる、若い女。

 慈愛はハンドバッグを掴んだ。

「すいません、急用が出来ました!」

 同僚の教師達が何か言うのを完全に無視して、居酒屋から飛び出した。

 この「縁」の、続く先へ。




 市街地をほぼ見渡せる丘に、一台の車が停まっている。

 車から降りて立っているのは一人の男だ。芥子色の作務衣に、茶色のベストを羽織っている。ゆったりとした構えで立っているが、隙はない。

 その他に運転手と、車の後部座席に一人。

 作務衣の男は、長い杖を持っていた。正確にはそれは杖ではなく、男の身長を越える棒の先に、数十センチの横木が固定されていた。T字型を成している。

 後部座席の男が言った。

「やれるのか」

 老人の声だった。低く、老いてなお力を失わない声だ。

 作務衣の男が答える。

「今回は、とりわけ強い<綻澱>を熟成させました。準備の段階から、よく手を回してあります。強い<綻澱>です。一人の少女にまつわる物語から生まれた、儚くて、か弱くて、繊細で、透明で、純粋で、これ以上ないくらい醜悪な<綻澱>です。心柱も介入したくてたまらないようで、ほれ、このように震えていますよ」

「結構だ。やりたまえ」

 作務衣の男は穏やかな笑いを浮かべたまま、目を閉じた。「それでは」と小さく答えると、T字の杖を三〇センチほど持ち上げ、力を込めて地面に突き刺した。

 土を割く音がし、杖の先端が地面に埋まる。

 ブンッ!

 同時に杖を始点とし、<縁脈>が街へと伸びる。視る能力を持った者にしか見れないはずの<縁脈>が、確かに杖を始まりとして伸びて行った。

 男の持つ杖が激しく左右に震動する。その動きは、男の手の中で中和されるかのように消えていく。男の足元は揺るがない。

「動かせるのか」

 老人が問う。

「問題ありません。これでこそ心柱を鍛えられるというものです。――やはり心柱は、野に放ってこそのもの! 漢波羅の社の奥に眠らせておくなど、もったいない!」

 <縁脈>は空間を切り裂いて進み、そこに沿うようにして、穢れが集まってくる。

 <縁脈>の操作と、<綻澱>の発生。

 杖の震動と男の動きは、絡まりあいながら勢いを消す。軽妙な舞踊のようだ。

 男の表情は、どこまでも穏やかさを崩さない。

 他の二人の男は、厳しい顔で街を見下ろしていた。

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