拾った人魚が犬になった(研究者アルノーの失態)

トリキ コウ

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海の魔物

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 アルノーは今日も視線を感じながら結界の前に立った。
 海辺の洞窟をそのまま利用した研究所は、波の揺れる音が反響している。

「おい、飯だ。」

 目の前にある魔物を弾く結界、その中に満たされた海水目掛けて、海藻や生魚を決して近づかないように放り込む。
 結界を通り抜けて海水にぷかりと浮かんだそれらを、恐らくあいつは直ぐには食べに来ないだろう。

「やはり警戒心が強い……。人間への敵対心の表れか。」

 アルノーは濡れた手を塩水で汚れたコートで拭い、手に持った羊皮紙へ羽根ペンで筆記し始めた。

『観察記録二日目、拾った魔物はやはり人間の敵性存在だと仮定。魔物にしては穏やかな気性だが、必要以上の接触は危険だろう。』

 アルノーが羊皮紙に目を落としている間に、目の前の海水を大きな影が横切る。

「………。」

 アルノーは観察記録初日の記述と、目の前の魔物を見比べた。

『体長およそ頭から尾部までで三メートル。上半身の人間体部分だけを見ると青い毛髪、碧眼の成人男性、下半身は黒い鱗に覆われた魚、(恐らく深海に住む魚の物と酷似していると思われる)のものだ。』

 伸ばされた白い腕が浮いた魚を掴み、そのまま口元へ運んでいく。
 骨の折れる音がした。
 頭から生魚に噛み付いたそれは、水の中に血の色を滲ませながらアルノーを感情の読めない目で見ている。

『これは間違いなく、伝承の生物、人魚だろう。』

 しかし、アルノーの目の前にいるはおとぎ話に聞く幻想的な存在では無い。
 がり、ぼき、と硬い鱗も骨も一緒くたに噛み砕いて咀嚼するこいつは、紛れも無く化物だ。

 防御結界で作った巨大な水槽に、海水とこの人魚を意識が無いうちに閉じ込めたのは記憶に新しい。

 アルノーは海を研究する人間だった。
 特に、海の中に生息する魔物を専門的に調査し、国のギルドや漁師組合に情報提供するのが仕事だ。

 クラーケンやシーサーペント、青き者と呼ばれる存在、あらゆる魔物に対して、アルノーの研究によって人間達は対抗策を得た。

 (おとぎ話の美しい存在が、これか……。)

 魚の鱗や内臓が血の色と共に海水へ溶け、散っていくのを見るととてもではないが神秘的な存在、やら美しい、やらの表現は当てはまらない。

『目は魚と同じく瞬きを必要としない。人間と同じく瞼はあるようだが、恐らく同種族同士の意思疎通に使われると推測。』

 アルノーは手元の羊皮紙に書き出していく。
 いつまでも無機質な目で表情一つ変えることなく見返してくる人魚は、得体が知れない、と言う他無かった。

 人魚が魚を咀嚼して飲み込むと、首筋から鎖骨にかけて何本か走ったエラから血の色が噴き出す。

 (やはりエラ呼吸か。と言う事は逆に陸に上がるのは難しそうだな……。)

 通常魚は水に溶けた空気をエラで毛細血管へ取り込む。
 つまりこの人魚は空気の層から直接呼吸をする事は出来ないはずだ。

『陸の脅威度は高くないと推測。恐らく体長から推定して五分程度で呼吸困難に陥るだろう。』

 エラから噴き出すのは鱗と血が大半だ。肉だけをこそいで飲み込んでいるのだろう。
 次に海藻へ手を伸ばした人魚は、匂いを嗅ぐように鼻先へ海藻を持っていき、そのまま放り出した。

「……ふん、やはり魔物だな。肉を好む、か。」

 再び食の好みを羊皮紙に書き足し、アルノーは人魚にどの程度知能があるのかを測る為、蓋付きの瓶を用意した。

「おい、良く見ろ。」

 瓶を人魚に見えるように持ち、くるくると蓋を回して開ける。
 そして、今しがた人魚が食べたのと同じ魚を瓶に詰め、蓋を閉じた。

 放り投げられた瓶が弧を描き、水音と共に結界水槽へ投げ込まれる。
 瞬きをしない無感情な瞳が瓶を追って動いた。

「このくらいはゴブリンでも出来るぞ。……さあ、どうだ? 」

 口端を上げてアルノーが挑発するように言うも、人魚はやはりぴくりとも表情を動かさない。

 (感情が無い……? 人に近い割合の脳を持つなら、言語の必要ないコミュニケーション程度はとれるとおもったが……。)

 しかし、アルノーは見誤った。
 人魚は無感情でも、知性が無いわけでも無かったのだ。

 黒くしなやかな尾が水中で翻り、前転するように人魚がくるりと身を丸める。

 次の瞬間、尾に叩き出された瓶がアルノー目掛けて飛んできた。

「ぐ……っ!? 」

 咄嗟に避け、後方の岩壁に瓶が当たって砕け散る。
 ーー魚の尾は筋肉の塊だ。攻撃手段を与えてしまったのはアルノーの完全な落ち度だった。

 (っ……こいつ……! )

 アルノーが粉々に砕け、相当な衝撃を受けたのだろう瓶から人魚へ視線を戻す。

 ーー人魚は、口を歪めて笑っていた。
 しかし目を細めるでも、声を漏らすでも無い。不気味な笑みだ。

 アルノーは毒づいた。

「……俺を殺す気だったな……? 化物め……。」

 より一層人魚を警戒し、敵意のある人間程度へと認識を改める。
 水槽へ入れるのは柔らかい物のみ、人魚を観察する距離は必ず数メートル置く、と頭にメモを取った。

「ちっ、俺も戦闘の出来る研究者ならな……。」

 アルノーは舌打ちして人魚を睨みつける。
 残念ながらアルノーには魔法の才能も、筋力も無かった。
 ギルドで能力鑑定を受けた時の屈辱が蘇るが、それは置いておこう。

 問題は、この人魚をどう御するかだ。

 睨みつけられた人魚は、長袖長ズボンを着用し、手袋をしたアルノーの、唯一露出した首辺りを眺めている。
 そして、その舌が歯列をなぞった。

 (……なるほど、人間は食料と言うわけか。)

 魔物らしい魔物の反応に、アルノーは苛立ちを感じるが深呼吸して気持ちを落ち着ける。
 相手のペースに乗れば、自分のような非力な人間ではあっという間に肉塊になって終わりだ。

『極めて敵対的である事を確認。人類を捕食対象として認識している疑いがある。』

 羽根ペンを走らせ、アルノーは挑発的に声を掛ける。

「おい、魚。お前は何故人間を食料だと思っている。」

 そう、おかしいのだ。
 陸の存在である人間、しかも上半身だけとは言え自分の姿に似た物を口に入れようとは、普通は思わない。

 にも関わらず食料だと認識している、となれば。

 (こいつ、人を食った事があるはずだ……。)

 アルノーは確信に近い予感を覚えた。
 問いかけられた人魚は、仕留められなかった獲物を一瞥して背を向け、水槽の端で地面へふわりと横たわる。

 生意気にも、昼寝でもする気らしい。

 アルノーは自分のこめかみに青筋が立つのを感じるが、落ち着け、と心の中で繰り返した。

「そちらがそう言うつもりなら、手はあるぞ……? 」

 アルノーはそう言うや否や、水槽を形作る結界を管理している魔道具に触れる。
 石板のツマミを弄ると、結界内の海水が音を立てて排出され、どんどん水位が減っていく。

 人魚も流石に飛び起き、初めて感情らしい感情の伺える顔でアルノーを凝視した。

 (憤怒、殺意、……僅かな恐れ、と言ったところか。)

 アルノーは冷静に人魚を観察し、歯をむき出しにして水槽の中からこちらへ掴みかかろうと結界を叩く姿を眺める。

「丁度いい。本当にエラ呼吸しか出来ないのか試しておこうか。」

 殺意のある人間相手だとするなら、何かを隠していてもおかしくない。
 たとえば、肺も同時に持っている、だとか。

 水槽内へ大量の泡が立ち昇り、人魚の焦りを他所にその身体が空気に晒され、尾が重さに耐え兼ねるように水の抜かれた地面へ横たわって行く。

 地面へ這いずるようにして、僅かに残る海水へ必死に首筋のエラを沈める人魚が、アルノーを凝視した。
 青い目の瞳孔が開いている。

 (本気で焦っているように見える。いや、演技か……? )

 アルノーが完全に海水を抜こうとしていることを悟ったのか、人魚はぎり、と歯を噛み締め、口を開いた。

「ゼーオ、ムォク! 」

 低く深い、海鳴りのような透き通った声だ。
 初めて言葉らしきものを口にする人魚だが、アルノーにはさっぱり何を言っているのか分からない。

 (まあ大方、罵倒だろう。)

 一応記録しておくか、と羽根ペンを走らせるアルノーに、人魚は痺れを切らしたようだった。
 次に人魚の口から漏れ出したのは、旋律。

 歌詞はない。ーーいや、聞き取れない。
 人間に聞き取れる音域外の音は耳鳴りのように聞こえ、聞き取れる声は一人のものでは無く何重にも重ねられたような複雑な物だった。

 しかしその歌を聞いた途端ぴくり、とアルノーの身体が金縛りにあったように動かなくなる。

「っ……な……。」

 アルノーは青ざめた。
 人魚の伝承には確かに美しい歌声をしているとあるが、まさかそれが人間の身体を縛るものだとは。

 (くそ……っ! やられた……! )

 追い詰めたと慢心した結果がこれだ。
 歌声に操られるように、アルノーの足が一歩結界水槽に向けて踏み出す。
 止まれ、やめろ、と力を入れようとしても無駄だった。

 剥き出しの岩肌を踏みしめ、アルノーは人魚へ引き寄せられる。
 こちらを睨み上げる人魚の目は、勝利を確信したかのように僅かに細められた。

「っ……く、そが……っ! 」

 毒づいても足は止まらず、アルノーはついに水槽の直ぐ側まで、人魚が手を伸ばせば触れられる位置まで引きずり出されてしまった。

「ガアァッ! 」

 人魚が吠えた。水かきのある手を広げ、アルノーの顔面をその手で鷲掴み、水槽へ引きずり込む。
 鋭い爪が顎関節のあたりに食い込んで皮膚が裂け、アルノーは湿った手の感触と冷たさ、そして痛みを感じながら人魚にのしかかられ、組み伏せられた。

 けたたましい水の音と、服が肌に張り付く感触。
 仰向けに寝そべってもかろうじて息が出来るくらいに水位が下がっていたのは行幸だった。
 

 人魚が手中に獲物を収め、非力な身体を触れて確かめたのか歌を止める。

「く……っ! この……っ! 離せ……っ! 」

 自由になったアルノーは、顔面を鷲掴む人魚の冷たく大きな手を引き剥がそうと、両手で腕を掴み引く。
 が、微動だにしない。
 成人男性程度と見積もった人魚の腕は、尾と同じくみっしりと筋肉が詰まっているらしかった。

 アルノーが藻掻くのをしばらく眺め、人魚は顔面から手を離す。

「貴様……、やはり肺もあるな……っ!? 」

 アルノーは解放された途端に人魚の青い瞳を睨みつけ、足を蹴り上げて逃れようとする。
 人魚の腹に確かに入った渾身の蹴りは、どっ、と音を立てた。
 ーー全く無駄ではあったが。

 蹴っても、顔面を殴っても人魚の身体は揺れもしない。
 まるで表面だけ少し柔らかい壁を殴りつけているようだ。
 それどころか、人魚はアルノーという生きの良い獲物を面白がるように観察し、鼻から息を吐いた。

 やはり、焦っているように見えたのは演技だったのだ。

 (くそ……! くそ……! 食われる……! )

 獲物を手にした捕食者が何をするか、など決まっている。
 魚を骨ごと噛み砕いた人魚の口がアルノーの露出した首に近づき、ぽたりと雫が肌に触れるのをアルノーは感じ、目を閉じた。

 がり、とアルノーがすくめた首の皮膚に容赦無く人魚の歯が立てられ、沈む。

「ぅあああっ……!! 」

 アルノーは痛みに叫び声を上げ、ぶち、と自分の皮膚が浅く裂けていく音を聞いた。
 身体は硬直し、人魚の濡れた肩を必死で押す手が震える。

 アルノーは悟った。
 ーー今、この瞬間が自分の終わりだと。

 しかし、意外にもアルノーの終わりはまだやって来ない。
 人魚はアルノーの首を浅く傷付けるとその血を口内で転がして味わい、ぴたりと動きを止めた。

「グル……? 」

 そして、恐怖に怯えるアルノーを前に首を傾げ、再び血を流す首筋へ鼻先を寄せて、傷口を舐める。
 途端に痛みと怖気が走り、アルノーは引きつった悲鳴を上げた。

「ひっ……! 」

 ドクドクと傷が脈打ち、身体中から汗が噴き出す。
 人魚はその汗の香りを確かめるように、ふんふんと鼻を鳴らしてアルノーを混乱させた。

 (な、にを、している……? )

 肉として食うのなら、このまま首をへし折るなり、噛み千切るなりすればいい。
 この化物にはそれが出来る力がある。

 今すぐ息の根を止められる訳ではないらしいと悟り、アルノーは僅かに冷静さを取り戻した。
 素早く結界の内外を跨いで倒れている自分の周囲に視線を走らせ、使える物を探す。

 しかし、人魚に近づかないようにしていたせいで、使えそうなのは精々人魚が放り出した海藻くらいだ。

「キュルキュル……。」

 不意に、人魚の喉が鳴る。
 何度も何度も繰り返し、アルノーの首筋に鼻先を突っ込んで匂いを嗅ぐ仕草をした後の行動だ。

 アルノーは目を丸くした。

「な、何だ……。」

 冷たい舌が再びアルノーの傷口を舐めるが、先程までの味わうような動作では無い。
 ーーむしろ、傷を癒そうとする獣のような。
 柔らかな舌が傷をなぞり、人魚の喉から鳴る音が弱った犬のそれを思い出させる。

「クルル……、キュ……。」

 挙句に頬擦りされ、アルノーは一瞬、思考が停止した。

「っな、何だ、何をしてる……! 」

 再起動したアルノーは、慌てて人魚を引き剥がそうと肩を全力で押す。
 相変わらず微動だにしない人魚は、口から舌をはみ出させたまま、きょとんとした顔でアルノーを見下ろした。

 そして、無機質さを一切感じさせない満面の笑みを浮かべる。

「キュルル……! 」

 そのままアルノーの顔中をまさに犬よろしく舐め回し始めた人魚に、アルノーは面食らう。

「な、や、やめろ! 汚い! ……いっ! 」

 藻掻くうちに歪められた首の傷が痛み、アルノーが顔をしかめると人魚は慌てたようにアルノーを解放した。
 驚いたアルノーが傷を押さえながら半身を起こすと、正座するかのように尾を折りたたんだ人魚が、巨大な身体を縮こませてこちらを伺っている。

 (何なんだ……一体……。)

 何処か毒気を抜かれ、アルノーは立ち上がって水槽を出た。傷の手当てをしなければならない。
 ぼたぼたと水滴が髪や服から滴るのが、妙に気になった。

「……くそ……。」

 調子を狂わされてばかりだ、と心の中で再び毒づき、アルノーは目に入った石板のツマミをひねる。
 轟音を立てて水槽内へ水が流れ込んで満ちていき、人魚はそれは嬉しそうな声を上げた。

「キュー! グルルル! 」

 にこにこと屈託の無い笑顔で結界に張り付いた人魚が、アルノーに尾を振りたくってアピールしてくる。
 ありがとうとでも言うのか、意味が分からない。

 アルノーは舌打ちして、薬箱を取りに向かった。
 

ーーーーーーーーーー


 首に軟膏型のポーションを塗り、じわじわと熱を持った皮膚が再生する音を聞きながら、アルノーは羽根ペンを構える。

『魔物に著しい変化の兆候が出る。血を摂取した途端に愛着、親愛を示すような行動に出た。要観察。』

 (……血だけを定期的に飲む為に生き餌とした? ……いいや、魚は肉だけを食べていた。)

 不可解な人魚の行動、アルノーは眉間にしわを寄せた。


 それからと言うもの、アルノーが水槽の前に姿を現すと人魚は頬が平たくなるほど結界に張り付き、尾や手を振るようになった。

 餌を与えれば直ぐ様飛びつく、放り出したはずの海藻すらアルノーが見ている前では頬張って見せる。

「本当に、何なんだ……。」

 アルノーの羽根ペンを走らせる手が止まってしまうほど、人魚の行動パターンは激変してしまった。
 これではまるきり懐いた動物だ。敵意の欠片も見つけられない。

 困惑したアルノーが試しに水槽へ近寄ると、人魚は喜びを表すように歌い始める。
 金縛りを警戒して耳栓をしたアルノーには全く聞こえないが、身体に振動がつたわるので恐らく歌っているのだろう。

 しかしあの時とは違う、やたらと穏やかな表情だ。
 目を伏せ、僅かに頬まで染めている。

『言葉だけでなく、歌は人魚同士のコミュニケーションも兼ねると推測。鳥と同じように求愛や威嚇に使用されるのだろう。』

 かりかりと筆記し、求愛、と書いてアルノーは眉を寄せた。

「……まさか、な……。」

 人魚は、アルノーの血を味わい、汗を嗅いだ。
 つまり、身体を分析していた。

 アルノーの秘められた腹の奥が、ぞくりと震える。

 (子宮の存在を感じとって、雌だと認識した……?)

 見上げた人魚は、結界に手をついてアルノーに何かを伝えようと歌い上げていた。
 アルノーは目を逸らし、耳栓をきっちりと押し込む。

「馬鹿馬鹿しい、そんな訳あるか。」

 ふい、と遠ざかるアルノーの背中に、どこか熱い視線が突き刺さっているように思えた。

 より警戒し、二度と不覚を取らないようにしなければ。
 アルノーは一人心に深くメモを取り、今後一切隙を見せるまいと人魚の伝承を調べ始める。

 曰く、血肉は不老の妙薬だとか、鱗は生涯剥がれること無く、しかし高価な宝石のようだとか、使えそうな記述は見当たらない。

「全く馬鹿馬鹿しい。不老不死何てものがあるなら、人魚一体で何人の人間がそうなるんだ?何グラム口にすれば効果が出る?中途半端に食ったら不老だけになるのか?」

 取り寄せた資料を机に放り投げ、明らかに自分の機嫌が良くないとアルノーは気付いた。
 子宮を持つ身であれば、一月に一度はこの不調に悩まされる。

 アルノーは舌打ちし、さっさと人魚の世話を済ませて今日は休もう、そう考えた。
 人魚の水槽へ魚を放り込むと、僅かに腹が痛み始めてアルノーはますます不機嫌になる。

 そもそも魔物などが存在しなければ、こうしてアルノーが研究員として働く必要もないのに、と取り留めのない考えまで浮かんできてしまい、アルノーは深呼吸した。

 (落ち着け……。これは心身のバランスが崩れている証拠だ。布団に入って腹を温める、痛み止めを飲む、……それで完璧だ。)

 アルノーの不調な様子は、どうやら人魚にも伝わっているらしい。
 しょんぼりと眉を下げた人魚は、魚に手を付けずにアルノーの腹を見ている。
 そして、何を思ったのか、鋭い爪で自らの尾をひっかき始めた。

「……何をしてる。」

 アルノーの問いかけにも答えず、人魚は真剣な顔で人間と魚の境目あたりの尾を掻きむしり、やがてばきり、とその鱗を一枚、剥がし取った。

 水中に人魚の血が溶け出す。

「な……。」

 何故自らの鱗を?狭い水槽に閉じ込められたストレス反応か?
 アルノーが思案していると、人魚は水槽越しにアルノーへ笑いかけ、手に持った鱗を差し出すように結界へ押し付ける。

 アルノーが警戒して近寄らないのを見ると、僅かに寂しげな表情をして、いつかのように鱗を水槽から尾で叩いて弾き出した。

 ふわりと弧を描く鱗が、優しくアルノーの手に落ちる。
 胸の前で鱗を受け止めたアルノーは、瓶の時との違いに目を瞬かせた。

「本当に、何なんだ……。」

 アルノーが両手で持ってやっと収まるほどの鱗は、鉱石のように硬くて、先端が黒い。
 しかし、根本に向かうにつれて透明になっていき、まるでガラスのようだ。

「……きれい、だ。」

 水槽を照らす魔道灯の光を反射するそれは、宝石のようにすら見える。
 鱗は、生涯剥がれない高価な宝石。
 その一文を思い出し、アルノーは人魚を見上げた。

 眉を下げて微笑む人魚は、アルノーが鱗を褒めた事すら分かっていないはずなのに、喜ぶように歌い出した。


 ーーーーーーーーーー



 自宅へ帰ったアルノーは、机の上に鱗を置き、羊皮紙を取り出す。

『深海魚に酷似していると記入したが、鱗の構造は鉱石に近い。紫水晶か瑪瑙が一番外見上は一致しているように見える。』

 ふと、顎に手を当てて、追記した。

『あの人魚を仮にグラス、と名付ける。』

 魔物、化物、人魚。
 個を識別する言葉が必要だろう、そうアルノーは判断した。
 鱗の根本がガラスに似ているので、グラスとする。

 アルノーは羊皮紙を置き、鱗を再び手に取る。
 煌めく輝きが、不思議と痛みや苛立ちを吸い取るように感じた。

「……不老不死の妙薬か……。鱗は、万病の薬、と言った所か……? 」

 口になどしようとも思わないので、仮の話だ。
 ユニコーンの角がエリクサーや万能薬のかわりになる話は有名だが、人魚のこれはどうなのだろう。

 アルノーは布団に寝転がり、光に鱗を翳して眺めた。
 痛みも苛立ちも消えた事で安心したのか、いつのまにか眠りに落ちていたらしい。

 翌日、目を覚ますと鱗は手元に無く、布団の隙間に落ちたかとシーツをめくっても見当たらなかった。

「くそ……、貴重なサンプルが……。」

 ここのところ失敗ばかりだとアルノーは舌打ちし、いつものように耳栓を持って少し汚れたコートを羽織り、首まで覆うシャツを着て家を出た。

 住まいは研究所近くの港町だ。
 漁師組合と連携して珍しい魔物や、材料が手にはいる海の魔物研究にはもってこいの場所であり、アルノーもこの平和な港町を好いていた。

 一点だけ、面倒な事もあったが。

「アルノー! おはよう、今朝も別嬪だな。」

「……。」

 アルノーは話しかけてきた冒険者を通り過ぎ、すたすたと歩を進める。

「おいおい! 釣れねえな! そんなとこもたまんねぇんだが……。」

 アルノーはため息をついた。
 この大柄な剣士は、アルノーが港町に来てからと言うもの、何が琴線に触れたのかよく付きまとって来る。

「いい加減にしろ、俺は男だ。」

 アルノーが冷たく言い放ち、研究所へ向かう道すがらも男は付いてくる。

「そう言うなよ、あんたのツヤッとした黒髪は街でも評判だぜ? 一回でいいから、俺の事も研究してみねえか? な? 」

「……反吐が出そうだ。」

 今日は特にしつこい。アルノーはその場で耳栓を着けた。
 うんざりとしつつアルノーが研究所へたどり着き、さっさと中へ入り男の鼻先で扉を閉める。
 扉が一度殴られたのか振動し、アルノーはこめかみを押さえた。

「何なんだ……。勘弁してくれ……。」

 あの男は、有名な遊び人だ。名前は忘れた。
 強引に見目麗しい女ばかりか男にも手を出し、よく騒動を起こしていた。

 (早く決定的な問題を起こして捕まればいいのに……。)

 心からそう思い、アルノーは生臭い息を吐きかけられて鳥肌の立った腕を擦りながら水槽のある部屋へ入った。

「グラス、飯だ。」

 気持ちを切り替えて、倉庫から魚を引っ張り出す。
 水槽に呼びかける前からグラスは結界に張り付いているが、今日は何処か上機嫌に見える。

 (何だ……?)

 にこにことアルノーを見つめ、歌うでも無く、尾を振るでも無く。
 ただ穏やかな表情を浮かべている。

 街に住む仲睦まじい老夫婦の夫が、妻を見る時に良くそんな顔をしているな、とアルノーは首を傾げた。

「……変な奴だな……。」

 アルノーが呟き、魚を水槽に投げ入れた瞬間、振動が響いた。
 部屋の空気が揺れ、扉が開け放たれたのだとアルノーは気付く。
 振り返ると、扉を閉めて中へ入ってきた剣士の男が顔を赤くして、何かを喚き散らしていた。

「おい、不法侵入だぞ。憲兵を呼ばれたいのか。」

 アルノーは耳栓をしたままそう声を出すが、男は怒り狂った表情のまま近寄って来る。
 アルノーは仕方なく男に向き合い、冷静に声を出す。

「ここには声を使って攻撃してくる魔物がいる。外に出ろ、危険だ。」

 しかし眼前に迫った男は、アルノーの忠告を無視して唾を飛ばして怒鳴り散らし、ついにはアルノーの耳栓を強引に引き抜いた。
 キイン、と鼓膜が震えて不快な感覚がする。

「いっ……! 何なんだ……! 」

「てめえ! 下手に出てりゃ調子に乗りやがって……! 」

「は……? ぐ!? 」

 男はアルノーの腕を掴んで捻り上げ、力では敵わないアルノーは研究所の地面へうつ伏せに引き倒された。

「街の連中もそうだ! 俺がどれだけ魔物から守ってやってるか考えもしねぇ!! 」

 アルノーのうなじに湿った息が掛かる。
 男が顔を寄せ、ず、と鼻の音を立てて興奮した様子で息を吸い込んだ。

「だったらよお、楽しませるくらいは義務だと思わねえか……!? なあ、研究者さんよ……! 」

 地面を見ているアルノーにも分かった。
 スラリと金属の擦れる音は、男が腰に佩いた剣を抜いた音だ。

「……っな……!? 」

 ついで、腰の辺りから布の裂ける音と共に腹回りがふっと楽になる。

 (こいつ……! 服を斬りやがった……! )

 同時に、男の口ぶりから何をする気なのか悟り、アルノーは青ざめた。
 

「や、やめろ……! 本当に捕まりたいのかっ。」

 アルノーが藻掻き、背中に一纏めにされた腕を離させようとすると、ぱさりと布がめくれ、アルノーの日焼けとは縁のない真っ白な肌が晒されていく。

「おい……、すげえな、あんた……。体まで別嬪さんじゃねえか……。」

 腰の辺り、皮膚に直接に男のヒゲがちくちくと擦れ、随分と無防備にされてしまった事を悟る。
 青ざめつつ使える物を探すアルノーの目に、水槽のグラスが映った。

 首を傾げ、にこにことアルノーを見ている。
 ーー餌がじゃれている、程度にしか思っていないのか?

 アルノーは何故か裏切られたような心地になり、酷く動揺した。

 (違う……。俺は、グラスに助けて欲しいなどと……っ。)

 腰にひやりとした剣先が触れ、尻に向けてズボンの引き裂かれていく音が響いた。

 見られてしまう。この下卑た男に。
 この体を、子宮を持つ、女の秘所を。

 アルノーの青ざめた顔が、震える口が、戦慄く。

「い、嫌だ……っ。」

「おお? 色っぽい声出るじゃねえか! ノッて来たぜ……。」

 不快な猫なで声がびりびりと布を裂く音と共に聞こえた。
 臀部が冷たい外気に晒されていく。

 アルノーは目を強く閉じ、屈辱の涙を流した。

 ーーその瞬間だった。
 べしゃり、と重い肉が地面に水と共に落ちる音がする。

「な……、何だ、こいつ……、いつの間に出やがった……!? 」

 アルノーが男の狼狽えた声に顔を上げると、全長三メートルある巨大な人魚が、這うようにして結界をすり抜けて・・・・・・・・いた。
 先程の音は、グラスが両手を付いて乗り出した音らしい。

 瞳孔が開き切り、最初に見たあの口だけを歪めた笑顔で、がりがりと尾の鱗を地面に擦りながらのたくらせ、近づいて来る。

 視線はアルノーの顔をちらりと見た後に、男へ固定された。

 男はひゅ、と息を呑み、アルノーを解放して後退る。
 血の気の引いた顔で剣を構え、グラスへ切っ先を向けた。

「魔物……、どうやって……!? 結界は通れねえはずだろ……!? 」

 アルノーは心の中で同意する。
 ギルドの実力者が複数人協力して張られた結界は、魔物を通すはずが無かったのに。

「カカ、カカカッ。」

 威嚇しているのか、笑い声を上げているのか、グラスはどう発声しているのか分からない、石を打ち鳴らすような音を喉から立てた。

 アルノーは、近所の猫が小鳥を見て上げる声を思い出す。
 獲物を狩る時の、狩猟本能をくすぐられている声。

 グラスは、男を狩る気だ。

 何が引き金なのかは分からないが、アルノーに噛み付いた時でさえあんな音は出さなかった。

 硬い鱗に覆われた尾が地面を叩き、亀裂が走る。

「こ、この……っ! 舐めるなああ!! 」

 男があまりの迫力で、僅かに引けた腰で震える剣を振り上げてグラスへ斬りかかる。
 そして、グラスの腕のたった一振りで、壁に叩きつけられた。

「がっ……!!は……。」

 背中から壁に突っ込んだ男が、どこか骨でも折れたのか、ぶるぶると震えながら苦痛の声を上げる。
 剣は手を離れ、研究室の床に転がった。

「カカカッ、カカカッ。」

 最早戦う力など残っていない死に体の男に、グラスが這い寄るのを見て、アルノーは思わず声を荒げた。

「ッ待て! 食うな……! 」

 ぴたりとグラスの動きが止まり、ゆっくりとアルノーを振り返る。
 アルノーがその青い眼球に反射すると、グラスの瞳はみるみるうちに瞳孔が狭まり、見慣れた顔に戻っていく。

「キュルル。」

 喉を鳴らし、男に興味が失せたらしくビタビタと跳ねるようにアルノーへ近寄って来た。
 場違いにもアルノーの頭には釣り上げられた魚が思い浮かび、緊張感が消え失せたような気がして仕方がない。

 アルノーを腕のなかに抱え込み、黒い尾を巻き付かせると落ち着いたらしく、グラスは上機嫌にアルノーへ頬擦りし始めた。

「……、お前……、助けて、くれたのか……? 」

「キュー、キュルルキュウ。」

 相変わらず意思疎通は難しいようだ。
 通じている気がしない問いかけに、殺意のない懐いた動物のような振る舞い。
 アルノーはそっとため息をついた。

 視線の先には、口から泡を吹いて気絶した男。

「……全く、何なんだ……。」

 ぐいぐいと頬擦りされて揺れる視界の中、アルノーはとりあえず服を着替えに帰って、憲兵に男を突き出して……と後処理を考え始める。

 グラスがアルノーの首筋へ鼻先を埋め、すんすんと鼻を鳴らすのが妙にくすぐったい。

「……離せ。お前も本当に理解不能だ……。」

 ぺし、と力なくグラスの頭をはたくと、グラスは何故か嬉しそうに喉を鳴らした。
 違う、撫でたんじゃない。
 心の中で愚痴を言いつつ、アルノーは時間をかけてグラスの手から脱出した。
 

 予備のコートを引っ張り出し、ボロボロの服を覆い隠してアルノーは一心地つく。

「キュルル。」

 振り返ると、グラスが結界を戸惑ったように触って確かめ、水槽に戻れないとでも言いたげにアルノーを見上げた。

「……お前……、どうやって出たのか分からないのか……? 」

「クルル……。」

 首を傾げ、眉を下げたグラスの姿にアルノーはめまいを覚える。
 後で羊皮紙に書き足すべき事が山積みだ。
 ひとまず結界を操る石板を操作し、水槽の上部の結界のみを無効化する。

 ふっと音もなく結界の光が消えたのを察したのか、蛇のように尾で身体を持ち上げたグラスは器用に海水の中へ帰って行った。

 そして、何事も無かったかのようにアルノーをにこにこと眺めている。

「……。」

 アルノーは言葉が出ない。
 とりあえず上部の結界も再起動し、脱走を形だけでも防いでから、憲兵団の詰所へと向かった。

 憲兵を数人研究所に連れて戻り、男を引き渡す。

「今回の行動は明確なギルド、ひいては国への侮辱行為です。ギルドは除名処分、牢屋いきは確実でしょう。これでイガールの横暴も終わりですね! しかしアルノーさん、どうやってイガールを撃退されたのですか? 」

 剣士の男が運び出されるのを尻目に、アルノーは事情聴取を受ける。
 憲兵の言葉で、アルノーは目を逸らした。

「偶然、結界機構に触れてな。グラス……そこの人魚がそいつに襲いかかったから助かった。」

 結界をすり抜けた事は伏せて経緯を素直に話すと、憲兵は目を丸くする。

「魔物が、人を助けたのですか……? 」

 不思議そうに呟く憲兵に、アルノーは俺の方がどういう事なのか聞きたい、と心の中で愚痴りながらグラスをじとりと睨む。
 当のグラスはと言えば、アルノーが自分を見たのが嬉しいらしく、黒い尾を振って上機嫌に笑った。

「何と……。どう見ても懐いていますね……。アルノーさんはモンスターテイマーの才能がおありで? 」

 モンスターテイマーとは、魔物を従属させる冒険者の職業だ。もちろん、アルノーにそんな適性は無かった。

「いや……。まあ、そんなところです……。」

 アルノーのくたびれた声に、憲兵は首を傾げて帰って行った。
 アルノーは直ぐに羊皮紙を取り出し、いつもの調子を取り戻そうとするように羽根ペンを走らせる。

『国公認のギルドが張った結界を通り抜ける力を確認。グラスは国家存亡に関わるレベルの脅威を……。』

 そこまで書いて、塗り潰す。
 ギルドの人間や、外部の人間に知られれば、恐らくグラスは即殲滅対象になる。

 (俺は……、こいつをどうしたい……? )

 そんな魔物は即処分すべきだ。以前の自分ならそうした。
 しかし、結界をすり抜ける事実を憲兵に言わず隠し、あの剣士が何か言った所で信用度の高い自分の証言が優先されるだろう事に安堵している。

 (情が、湧いたのか……? )

 いいや、そんなはずは無い。
 馬鹿馬鹿しい、魔物に心を許した人間がどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。

「……助けられた借りを返しただけだからな……。」

 アルノーは一人、呟いた。

 そして、翌日からはいつも通り、耳栓をしたアルノーはグラスに近寄ること無く観察を続ける。
 いつも通り、グラスは結界に頬を平たくなるほど押し付けてアルノーへ尾を振るし、いつも通り、アルノーは餌を投げ入れて羽根ペンを走らせる。

 変わったのは、アルノーがグラスを魔物、や人魚、と呼ばずにグラス、と呼ぶようになった事だけだった。
 少なくとも、表面上は。

 ーーしかし、転機は直ぐに訪れる。
 ある夜、アルノーは湯を沸かして風呂に入っていた。
 そして、気付いてしまう。

「な、んだ……、これは……。」

 見下げた自分の左胸、丁度心臓の上辺りに、煌めくガラスのような結晶がある。
 黒く輝くその結晶は、否応無しにグラスが渡してきた鱗を思い出させーー。

 アルノーはおざなりに身体を拭き、耳栓を掴んで直ぐに研究所へ走った。

「っお前……! グラス……! これは、どういう事だ……!? 」

 珍しく大きな音を立てて扉を閉め、目の前に現れたアルノーに、グラスは嬉しそうにまた結界へ張り付く。
 アルノーの焦りなど全く気付かぬ様子に、アルノーは大声でまくし立ててコートを脱ぎ、ワイシャツのボタンを外した。

「これだ……! 何をした……!? 」

 胸の結晶を指差し、アルノーが問いかけた瞬間、グラスは目を見開いて歓喜の声を上げる。
 そう、
 耳栓を装着しているにも関わらず、何の障害も無いようにグラスの喜びが聞こえる。

「な……。」

 そして、グラスは歌い上げ始める。
 音は胸の結晶を通して身体中に響き、アルノーの心へ直接歌の意味を叩きつけた。
 

 ーー愛おしい、愛おしい、俺のお前。
 ーー愛している、愛している、俺のお前。

 聞こえないはずの音域の音を、結晶が振動として拾い上げる。
 身体中を沸騰させるような心地のいい感覚が、愛撫のように肌を粟立たせた。

 ーー俺と愛を歌ってくれ、俺と愛を確かめてくれ。
 ーー俺は捧げる、お前に捧げる、俺の全て。

 子をあやすような、妻に語り掛けるような、女を口説くような、ありとあらゆる愛の感情が、歌としてアルノーの身体を駆け抜ける。

「ぁ、っあ……。」

 ーー愛している、愛している。
 ーーさあ、来てくれ、怖くない。

 アルノーの足は、あの時のように勝手には動かない。
 しかし何故か、アルノーはふらふらと水槽に吸い寄せられるように一歩、また一歩と近づいてしまう。

 結界に映った自分の顔を見て、アルノーは心の中で絶叫した。

 (な……っ! こ、こんな……っ! )

 間抜けに口を半開きにし、頬を染め、見開いた瞳を潤ませたその表情は、恋に溺れた男、そのものだった。

 違う、と否定しても、鼓動が煩く鳴り響き、胸郭を震わせる。
 その振動を胸の結晶が拾い上げ、増幅し、空気を震わせてグラスへ届けてしまう。

 嬉しそうに、幸せそうに微笑んだグラスが、更に高らかに歌い上げる。

 ーー嬉しい、愛おしい、俺のお前。
 ーー愛している、抱き締めたい、俺のお前。

 ぞくぞくとアルノーの身体が震え、結界越し、目の前にグラスの海のような青い瞳がアルノーを射抜いた。

 そして、結界を再びすり抜けたグラスの腕が、アルノーの両肩を優しく掴む。

 ばちゃん、と音がして、アルノーは海水で満ちた水槽の中へ引き込まれた。

 こぽこぽと、あるいはぐらぐらと、水中特有の鼓膜を震わせる音がする。
 冷たい水に引き込まれたアルノーが反射的に閉じた目を開けると、あまりにもはっきりとグラスの顔が見えた。

 人間には水の中でこんなにはっきりと見える訳がない。にも関わらずグラスのまつ毛の一本一本までが見て取れる。

 (この結晶……、俺の身体を水中に適応させている……? )

 アルノーはあまりの事態に研究者としての自我を保とうとし、分析し始めた。

 恐らく、あの鱗はアルノーが間抜けにもベッドへ持ち込んで寝た時に、身体へ何らかの方法で侵入した。
 そして、アルノーの身体を作り変え、溶け込みながら潜伏していたのだ。

 胸に結晶が現れたのは、恐らくその工程が終了した事を示している。

 (やってくれたな……! )

 息を必死に止めているアルノーの心中を知ってか知らずか、グラスはアルノーを抱きしめて優しく頬擦りした。
 未だに囁くように愛の歌を聞かされ、アルノーは勝手に震える身体に頬を染める。

 息が続かなくなり、ごぼりとアルノーの最後の空気が肺から逃げていき、水面へ登っていく。
 苦しさを覚悟したアルノーに、グラスは悪戯を成功させた子供のように無垢な笑顔で歌った。

 ーー怖くない、怖くない。
 ーー俺のお前、俺のお前、一つになろう。

 肺に海水が流れ込み、しかし苦しくならない。
 アルノーは首筋に手を当てて、エラが出来ている訳でもないと知った。

「……何だ……、どうなって……? 」

 水中で息が出来る。それどころか普通に発声できる。
 しかし、その奇跡、侵食のどちらとも言えない事象を検証する暇など無い。

 グラスはそのおおきな尾で、アルノーの身体を巻いて固定した。
 そして優しく、しかし抗えない力でアルノーの服を剥いでいく。

「な、っな……、ま、待て……、お前、まさか……っ。」

 ーー愛おしい、俺のお前、一つになろう。

 水中で揺らめくグラスの青い髪が、アルノーを囲うように広がった。

 不意に冷たい水中、冷たいグラスの身体にしか触れていないアルノーの腹に、熱く硬い物が押し付けられる。
 驚いて下を見たアルノーは、ぶわりと身体中を赤く染め、固まった。

 人魚の下半身、人間で例えると丁度股間の辺りに走る一本のスリット。
 そこから先細りの赤くつやつやした、円錐形の剛直がせり出している。

 確実に、グラスはアルノーの身体がその機能を持っている事に気付いていた。

 水中を頼りなく漂うアルノーの腕は、グラスを拒絶せず、その広い肩へそっと添えられる。
 グラスが嬉しそうに目を細め、アルノーの首筋へキスを落した。

「……違う、笑うな。俺は、……お前なんか、好きじゃない……。」

 分かっていた。
 こんなのは、ただの照れ隠しだ、と。

 グラスは、美しい。そして、恐ろしい程に大きく、強い。
 伝承に伝わるくらい美しいとされる存在だ、人間一人、恋に溺れさせるくらい人魚には容易いに違いない。

 別に、懐かれたり、体調を気遣われたり、暴漢から助けられたから、惚れたわけじゃない。

 アルノーは、誰に言うわけでもなく、心の中で嘯いた。
 

 グラスは射止めた番に容赦が無かった。
 ガバリと産まれたままの姿にされたアルノーは、足を片方だけ肩に担がれて大きくそこを曝け出させられてしまう。

「っ……!! 」

 水中では濡れているかどうかなど分かるまいと高を括っていたものの、海水とは明らかに違う僅かに白く濁った粘液が水に揺れているのが見え、アルノーは羞恥に唇を噛んだ。

 グラスが嬉しそうに指を伸ばして、揺れる粘液を弄ぶのが一層アルノーを追い詰める。

 (くそ……っ! 本当にこいつは……っ! )

 グラスと過ごすようになってから、一度も冷静な自分に戻れない。
 意趣返しにと爪を立ててやったが、グラスは番のじゃれつきを喜んで喉を鳴らした。

 しかし、その無害な動物のような態度とは裏腹に、怒張は凶悪そのものだ。
 腹に押し付けられたそれは、三メートルの体格に見合う巨大さを誇り、目算ではあれを挿入されると子宮までどころか、胃まで届くだろう。

 内臓が破裂して死亡する可能性にぞっとするも、グラスは結晶から伝わる振動でアルノーの不安を読み取ったのか、安心させるように頬を擦り寄せた。

 そして、優しい行動をしつつもその巨砲をアルノーの膣口へ押し当てる。
 びくりとアルノーの身体が緊張し、しかし容赦無く入り口へ細い先端が潜り込み始めた。

 ズルズルと、最初は僅かな圧迫感が、どんどん強くなっていく。

「ぅあ……、あ……! ま、待て、それ以上、は……っ! 」

 こつん、と子宮口を小突かれ、アルノーは無意識にグラスの肩を押し、逃れるように身をひねる。
 既に痛みより、感じたことの無い甘い感覚が身体中を駆け巡っていた。

 するりとアルノーの腰に黒く輝く尾が巻き付き、次の瞬間。
 ドンッ、と身体の奥から衝撃と音がして、尻をグラスの鱗の感触が叩いた。

「ーーーーっぁ……? 」

 刹那の合間、アルノーが目を見開き、仰け反っていた顔を僅かに下げて己の腹を見る。
 無惨に盛り上がり、内側からはっきりとグラスの形に飛び出した腹は、異様な伸縮率を感じさせた。

「っあ、……ぁ……あああああああああああ゛ッ!! 」

 アルノーの視界が明滅し、口から悲鳴が迸る。

 (い゛、痛くないっ! おがしい、おかしいっ! )

 普通なら、内臓破裂で死体に一直線なのに、アルノーはグラスの全てを飲み込み、子宮内膜まで貫かれて痛みすら感じていない。

 グラスがアルノーを巻いた尾を持ち上げると、アルノーの腹の突起が凹んで行く。
 途端に身体を支配する男根が出ていく感覚に、異様な快楽を得てアルノーは叫んだ。

「ぅ゙あっ、ああぁっ!! グラス、ぐらずっ! まっで、まっで、ぇ、っあああああああああああああッッッ!!? 」

 ドチュン、と再び根元まで飲み込まされて、アルノーは一瞬白目を剥く。
 こんなもの、人間に許された行為では無い。
 ーーなのに。

 浮遊感は、反り返り痙攣する身体は、アルノーが絶頂の快楽を味わってしまっている事を自覚させる。

 グラスは喉を鳴らして、目を細めて、アルノーの頬を撫で、背中を撫で、ーー尾を激しく上下させた。

 ボコボコと、悲惨なまでに腹の皮膚が隆起しては平坦に戻りかけ、再び突き破らんばかりに隆起する。

 鱗は、アルノーを人魚の性行為に耐えられる身体にも作り替えていた。

 ーー子を、産んでくれ。
 ーー愛おしい、俺のお前、二人の子を、産んでくれ。

 激しく揺らされ、水中から伝わる振動が水面をばちゃばちゃと揺らす。
 胸の結晶が伝えてくる生殖の要求も、アルノーには聞き取れなくなっていた。

 快楽に沈められる、溺れる、引きずり込まれる。

「ぁあ!! あ゛ぁぁああああーーッ!! 」

 アルノーに出来るのは、張り裂けるほどに声を上げ、狂ったように絶頂を繰り返す事だけだった。

 何度も視界が白み、身体が雷に撃たれたように震える。
 子宮が引き伸ばされ、乱暴に掻き回されるたびに、足がピンと張った。

「ッグルル……!! 」

 そして、狂乱の最中、最後の時は唐突に訪れた。
 ごん、と骨がぶつかる音を立ててグラスが己のすべてをアルノーに抉りこみ、硬直する。
 ぐ、と先細った性器の根本が膨らみ、管を通して爆発的な勢いで熱い飛沫がアルノーの胎内へぶち撒けられていく。

「っが、は……っ!! 」

 あっという間に丸くアルノーの腹が膨らみ、意識が途切れる程の熱と快楽がアルノーの脳を焼いた。

 聖域の肉壁を白濁の奔流が叩き、流れて満ちていく。
 グラスの身体が震え、脈打つたびにアルノーは水中へ涙を溶かして腹を膨らませた。

 グラスが満足そうに唸り、最後の一滴まで注いだ白濁を逃がすまいと、挿入したままアルノーを抱きしめる。
 身体をひくつかせ、白い闇からアルノーが戻ってくるまで、グラスは愛おしそうにアルノーの腹を撫でさすっていた。
 

ーーーーーーーーーー



 徐々に意識外戻ってくると、アルノーは自分の悲惨な様子に動揺するしかない。

 (俺の身体は、どうなってしまったんだ……。)

 あれだけ激しい行為をしたのに、今もバカでかいそれを差し入れられたままなのに、やはり痛みも無く、なんなら苦しさも最小限だ。

 グラスはすっかりといつものようにニコニコしてアルノーへ頬擦りしているし、しかし離す気は無いようで人形のようにしっかりと抱き込まれている。

「くそ……、好き放題しやがって……。」

 またも毒づくが、心からの殺意は湧いてこない。
 それどころか、この状態に幸福感すら覚えてしまっている自分にアルノーは頭を抱えた。

 恋は人を狂わせる、と言う言葉を身をもって学んだのは初めてだった。

「おい、いい加減に離せ、記録しなければ……。」

 アルノーはべしべしとお返しのように容赦無くグラスの腕を叩きまくり、グラスが不満そうに唇を尖らせるのを無視して無理やり腕を抜け出す。

 アルノーを傷付けるのを恐れているのか、そこまで強い力で抵抗はされず、アルノーはずるりとグラスの円錐を身体から引き抜いた。

「ぐ……っ。」

 ぞくりと背筋が震えるが、アルノーの頭は目に入った物で一瞬にして混乱する。

 つぽん、と真空状態から解放された己の愛路、そこからころりと一粒、黒く輝く親指大の真珠が零れ落ちたからだ。

 (は……? )

 アルノーは、水中にふわふわと漂いながら、黒い真珠を凝視する。
 光沢のある球体は、恐る恐る触れると薄い膜で出来ているようで僅かに凹み、指を離すと元通りに真円になる。

 アルノーはめまいを覚えた。
 グラスが零れてしまった真珠を悲しそうに見て、拾い上げ、おもむろに指でアルノーの秘所へ押し込んでくる。

「っ!? お、お前……、っこれ……っ! 」

 アルノーの叫び声は、研究所の中に響き渡った。

「卵じゃねえか……っ!! 」

 がっつりと注がれた白濁に混じっていたのか、それともアルノーの胎内で今まさに生成されているのか。
 アルノーの頭はぐるぐると仮説を立てては否定、対策を考える、を繰り返し、視線は忙しなく彷徨う。

「う、産むのか……? 俺が? は? 」

 アルノーの呟きは、グラスの嬉しそうな喉を鳴らす音と、水中へ溶けていった。

 ーーここから遠い未来、人魚の軍勢を従えたモンスターテイマーが、海路の安全を守ったとか、守らなかったとか。
 
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