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まったり地球での生活編
学校に行こう(前編)
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多くの中学校がそうであるように、七海の通う中学校もまた中身のない形式的な授業が行われていた。それは、学校の授業なんて将来何の役に立つんだ、などという学生にありがちな愚痴によるものではない。事実として、文字通り、形式的に授業が行われているだけなのだ。
中学三年といえば、推薦や就職を決めてしまった者を除いて、みな受験生である。私立高校の中には、一月に試験なんていう気の早い学校も少なくはない。従って、二学期までに受験範囲の勉強は修了している必要があり、三学期に入ってから新しく学ぶことは無いのである。
しかも三学期の成績は、受験に必要な内申点に影響を与えないため、志望校合格を目標に掲げる受験生にとって、それは重要になり得ない。三学期の成績はどうでもよいというのが、彼らの本音なのだ。
この事は学校側も重々承知している。
市立中学に通う生徒たちにとって、高校受験は初めての受験の場合がほとんどであり、その成否によって、今後の人生が大きく変わることは想像に難しくない。
七海の通う合歓市立第五中学校は、受験に対してはゆるゆるで、とてもじゃないが積極的とは言えない学校だった。それでも受験生に対する配慮として、三学期に入ってからは、ほとんどの授業で自習形式が採用されている。
このため、時間割で区切られた授業ごとに教師が変わるものの、彼らは自習風景を監督するだけで、教壇に居座ったまま特に口を開いたりはしない。対外的に授業という体裁は保っているが、実質として自由時間とそう違いはなかった。
だから"中身のない形式的な授業"なのである。
とはいえ、教室には受験生でない者も少なからずいる。そんな彼ら彼女らのために、教師たちは毎回課題と称したプリントを配る。が、配りはするが課題そのものの出来についてはこだわったりしない。あくまでこの課題は、受験生でない者が暇を潰せるように出されたものなので、完成させる必要性がないのだ。
教師たちは生徒たちの手前、課題と言い張ってはいるが、実のところその内訳は――パズル問題、クロスワード、クイズ……等々――といった具合であり、それはもはや娯楽と呼ぶのが適切だった。
加えて、多少のおしゃべりは許されているし、席の移動も自由だ。仲間同士でわいわいと相談しながら課題に取り組む者もいる。
そんな中、教室には空席がちらほらと目立つ。それらは、受験勉強のために欠席している神経質な生徒たちの席だった。彼らの弁によると、騒がしくて教室では勉強ができないのだそうだ。
右斜め前方にある空席をぼんやりと眺め、くるくるとシャーペンを回しながら七海は退屈そうに呟いた。
「うーん、私も受験勉強ってことにして学校休んじゃおうかな」
それほど大きな声ではなかったはずだが、前の席に座る友人の六角橋京子が耳聡く聞きつけ振り返った。
「それは無理っしょ。ナナっち推薦組じゃん」
京子の言う通りだった。七海はムー太と遊ぶ時間を最大限確保するために、二学期の早い段階で自宅から一番近い高校へ推薦を決めていた。もっとも、彼女は自分の学力よりも二ランク低い高校を選択したので、一般入試でトライしても難なく合格したことだろう。だからこそ、七海は失敗したような気分になった。
「そうなんだけどさ……こうして無駄な時間を過ごすのってすっごく不毛。私は受験生じゃないから自習する必要もないし」
それは、ムー太のことを念頭に置いた発言だった。
仕方がないこととはいえ、自宅にムー太をひとり残して登校することには罪悪感がある。寂しい思いをしているのではないかと想像するだけで、胸がきゅっと苦しくなり、一刻も早く帰宅して抱きしめてあげたくなる。退屈な授業の合間に七海が考えているのは、その事ばかりだ。
だというのに、毎日毎日、無為な授業に時間を吸い取られるのには我慢がならない。この時間をすべてムー太と触れ合う時間に回せたら、どれほど有意義だろうか。半ば本気で授業をボイコットしてやろうかと七海が考えていると、京子が不満げに頬を膨らませた。
「あー、ナナっちはまーたそーゆー冷めたこと言う!」
「私は冷めてるんじゃなくて、客観的に現実を憂いているだけなの。だって、受験勉強をするにしても、自分の家の方が集中できるでしょ。京子だって自宅なら、勉強の合間に愛犬と遊んでリフレッシュできるじゃない。この状況、誰得なのよ」
栗色のポニーテールを揺らして、京子は「ちっちっちっ」と声を出しながら大袈裟に指を振った。そして彼女は身を乗り出すと、白い歯を見せて無邪気に笑う。
「家には悪魔の囁きにも勝る娯楽がいっぱいあるっしょ。私がその誘惑に勝てると、ナナっちは思っているのかい」
自信満々に言うことか。がくっと七海は肩を落とした。
確かに、京子は長時間集中して作業することが苦手だった。家庭科の授業で、裁縫の課題を与えられた時など、早々にリタイアを決め込んでおしゃべりに花を咲かせていたぐらいである。何でも、体を動かさずに黙って作業をしていると、気が滅入ってきて叫びたくなってしまう性分らしい。そんな彼女だから、勉強机に向かって一人で黙々と勉強を進めている姿を七海は想像することができなかった。
「そんな調子で大丈夫なの、あんた……」
「何とかなるっしょー」
呆れる七海を余所に、京子はあっけらかんと答えた。続けて、彼女は真剣な顔つきで「それに」と呟き、口を噤んだ。何かを言おうとして迷っているのか、口をもごもごとさせている。二人の間に沈黙が降りる。
六角橋京子は何かを言い淀むタイプの人間ではない。
万事においてポジティブシンキング。深く考えることなどせずに、思いついたままをしゃべり尽くす。そうして築いた失言の山は数知れず。そして、三日後にはすべてを忘れ、再び同じ失敗を繰り返す。
付いたあだ名は「鶏頭拡声器」「ポジティブ王」「メトロノーム京子」なんて、一歩間違えればイジメに繋がりかねない酷いものばかり。
しかしそれですらも、本人は面白がってガハハと笑い飛ばしているのだから、京子のメンタルは相当に強い。
そんな彼女が口を閉ざして沈黙している。これはどうにも不自然だ。
もしかしたら、受験のことで何か悩みがあるのかもしれない。
だんだんと心配になり始め、七海は先を促すように「それに?」と訊いた。
すると、京子は照れ臭そうに笑い、
「中学三年生の三学期という時間は今しか無いっしょ。それなのに、ナナっちは卒業式だけ出席して卒業する気なの? そんなの寂しいっしょ。今、この時間が無駄だと思うなら、こう考えたらどうかな。中学校生活、最後の思い出を作るための時間なんだって」
一瞬、七海は呼吸を忘れた。
それは、今を全力で生きる京子らしい意見であり、清清しいほどにポジティブな提案だった。反論の余地などあるはずもない。青春を無駄に使おうとしていた自らを省みて、七海は苦笑するしかなかった。
稀にではあるが、京子にはこういう鋭いところがあった。七海には思いも寄らない角度で、物事の核心を突くような意見を言ってのけるのだ。普段のおちゃらけた姿に油断していると、ガツンと不意打ちをくらうハメになるのだが、どうやらまたしてもやられてしまったらしい。
七海が浮かべた苦笑を別のニュアンスとして受け取ったのか、京子が膨れた。
「あー、ナナっちひどいっしょー。やっぱり言うんじゃなかった」
「バカにして笑ったわけじゃないよ。京子もたまには良いこと言うんだなって思ったら、可笑しくてさ。今日はよく晴れてるけど、傘持って来るんだったかな?」
「えー!? それはそれでひどいっしょー。何その言われよう!?」
「アハハ。京子といると飽きないわ」
京子はぶーと膨れると前を向いてしまった。
怒っているわけではあるまい。長年の付き合いから七海がそう楽観していると、すぐに京子が振り返り、一枚のプリントを机の上に置いた。
「最後の問題がわからないっしょ。教えて、ナナえもん!」
「あんた……受験勉強していたわけじゃなかったのね」
「当たり前っしょ。ナナっちは私と何年付き合っているのかね?」
家では勉強できないと言い、学校でも勉強できないと言う京子。だったら、いつ勉強をするのだろうか。喉まで出掛かったツッコミを飲み込み、七海はため息をついた。わかりきった答えを聞くことほど、無駄なことはない。それこそ、何年付き合っているのか、という話になってしまう。
差し出されたプリントへ視線を落とす。
同じプリントが七海の手元にもあるのだが、興味がなかったのでまだ一瞥すらしていなかった。
問題は全部で五問。
問一から順番に目を走らせたところ、マッチ棒を使ったパズル問題のようだった。マッチ棒を使って複数の正方形が組まれており、その中から指定の本数を動かして正方形の数を変化させろ、という問題がパターンを変えて続いている。
用紙には試行錯誤の結果だろうか、鉛筆の線とそれを消しゴムで擦った跡が所々に散見していた。どうやら京子は真剣に取り組んでいたようだ。
《この子、本当に大丈夫かしら》
七海は真面目に、小学校からの付き合いである友人のことが心配になった。
浮きかけた視線をプリントへ戻す。
問一から問四までは、何とか答えをひねり出せたようだ。
京子の指も、問五を指している。七海は問題を読み上げた。
「んー、なになに。六本のマッチ棒を使って正三角形を四つ作れ?」
「どう考えても二つしか作れないっしょー」
「ただの三角形なら四つ作れそうだけど、正三角形となると……」
ダイヤと十字架を組み合わせた図形を想像しながら、七海は頭を捻る。一見、三角形は四つできそうだが、すべて直角三角形になってしまう。その上、十字部分のマッチ棒の長さが足りないので、そもそも図形として成り立たない。
「ナナえもーん、便利な道具はないのー?」
「考えてるんだから少し黙っててよ。どこぞの犬型ロボットじゃあるまいし、私は四次元ポシェットなんて便利なもの持ってな――」
言いかけて、閃くものがあった。
頭の中で、新しく図形を構築し直す。
完璧だった。間違いなくこれが正解だろう。
「なるほどね。謎はすべて解けたわ」
「えーなになに?」
「前四つの問題はウォーミングアップだとばかり思っていたけど、どうやら違うみたいね」
「どういうこと? わかるように説明してくれたまえ探偵くん」
「問一から問四までの間に植え付けられた常識、固定概念を打ち破らないと、この問題は解けないってことよ」
「意味不明。ナナっちのイジワル……」
「じゃあ、大ヒントあげる。x軸y軸だけで考えないでz軸も含めて考えなさい」
「専門用語はやめてくれたまえよ、博士くん」
「あんた、もう考える気ないでしょ?」
「うん。頭が蒸気機関車っしょー。限界、限界、もう限界!」
「もう、仕方ないわね。噛み砕いて説明するなら、平面で考えないで立体で考えるってことよ」
「立体で考えていいなんて、問題に書いてないっしょ?」
「それを言うならダメだとも書いてないわ。問一から問四までで、解答者側は無意識のうちにこの問題は平面で解くものだと、頭へインプットしてしまっているの。それが罠だとも知らずにね。だから、自分で作ってしまった常識をまず捨てないと、この問題は解けないのよ」
「ふーん、なるほどぉ。それで結局、答えはなんなんだい?」
どうやら京子は本当に、一ミリたりとも考える気がないらしい。
浅く息を吐いてから七海はシャーペンを手に取り、用紙の上へ四面体を描いた。
「一辺がマッチ棒一本に相当し、また、マッチ棒はすべて同じ長さであることから、六辺からなる四面体は必然的に正四面体となります。正四面体は四つの合同な正三角形を面とする四面体なので、問題にある正三角形を四つという条件を満たすことができます。はい、証明終わり」
京子が目を丸くして驚き、満足したのか笑顔になった。少しムー太に似ている。
「おおー! さすがナナっち。冴えてるー」
その時、五時間目の終了を告げるチャイムが教室に響き渡った。
日直に号令を掛けさせると、教師は課題の回収もせずに教室を後にした。
次の授業は体育である。
基本の五教科とは違い、実技系の授業は平常通り行われる。七海が着替えのために立ち上がると、課題プリントへの興味を失ったのか京子もそれに続いた。
女子には更衣室が割り当てられているが、移動するのが面倒なので、七海たちはいつも教室で着替えている。体操着の上はシャツの下に着てきているし、ジャージの下はスカートを着けたまま履いてしまえばいい。授業が終わった後は、今度は逆にスカートをまず履いてからジャージを脱ぐという手順なので、下着を衆目に晒す心配はない。
もっとも、六時間目が体育の時は、制服に着替え直す必要すらなく、そのまま下校することが可能だ。
着替えを終えた七海は京子と連れ立って、廊下へ出た。
乾いた冷たい空気がジャージの隙間から侵入してくる。
ぶるっと身を震わせると、七海は胸元のファスナーを五センチほど押し上げた。
他愛のない世間話をしながら、体育館へ向けて廊下を進む。
三年生の教室は一階にあるので、階段を下りる面倒は避けられる。が、七海のクラスは三年一組。教室は校舎の西端に位置しており、極東にある体育館までは最も遠い場所にあった。
振り返ってみれば、学校行事では何かと体育館を使うことが多かった。その度に長い廊下を歩いて体育館まで出向かなければならないのである。五組の生徒たちは少し歩くだけで目的地へ到着するというのに、何と不公平なことだろうか。そんな事を全校集会の度に思っていた七海だったが、もうすぐ卒業だと思うとそれも少し名残惜しい。
異変が起こったのは、廊下を半分程進んだ時だった。四組の教室を通り過ぎようかという頃、不意に凄まじい魔力の波動、その断片らしきものが七海の全身を貫くようにして通り過ぎていったのだ。
「――っ、何!?」
思わず、声を上げていた。
背筋には鳥肌が立っている。
大きな魔力の塊が突如として遠方に出現したようだった。おそらく今感じた魔力の波動は、そのUnknownが出現した時に発した余波みたいなものだろう。その存在を隠そうともしない剥き出しの魔力は、絶対の自信を持つ強者によく見られる傾向だった。
急に立ち止まったからか、京子が怪訝そうにこちらを見つめている。
考えている暇はなかった。一言、
「先、行ってて」
言って、七海は駆け出した。
向かう先は屋上。まずはその発生源を探る必要がある。
一段飛ばしで階段を駆け上がり、屋上の鉄扉を勢いよく開ける。
晴天の歓迎を受けて、太陽の光に目を細める。
魔力を感じた方向を大雑把に特定し、金網に張り付くようにして詳細を探る。
己の五感を研ぎ澄ませ、魔力をキャッチすることに集中。
七海の心配は、一人でお留守番をしているムー太の安全、ただその一点にある。
「…………よかった。私の家とは少し方向が違う」
安堵から、七海はへなへなとその場に座り込んでしまった。
しかし、すぐにある事に気が付いた。
金網に縋るようにして、鉛のように重たくなった体を何とか起こす。
「でも、この方角は……」
それは京子の家がある方角だった。
中学三年といえば、推薦や就職を決めてしまった者を除いて、みな受験生である。私立高校の中には、一月に試験なんていう気の早い学校も少なくはない。従って、二学期までに受験範囲の勉強は修了している必要があり、三学期に入ってから新しく学ぶことは無いのである。
しかも三学期の成績は、受験に必要な内申点に影響を与えないため、志望校合格を目標に掲げる受験生にとって、それは重要になり得ない。三学期の成績はどうでもよいというのが、彼らの本音なのだ。
この事は学校側も重々承知している。
市立中学に通う生徒たちにとって、高校受験は初めての受験の場合がほとんどであり、その成否によって、今後の人生が大きく変わることは想像に難しくない。
七海の通う合歓市立第五中学校は、受験に対してはゆるゆるで、とてもじゃないが積極的とは言えない学校だった。それでも受験生に対する配慮として、三学期に入ってからは、ほとんどの授業で自習形式が採用されている。
このため、時間割で区切られた授業ごとに教師が変わるものの、彼らは自習風景を監督するだけで、教壇に居座ったまま特に口を開いたりはしない。対外的に授業という体裁は保っているが、実質として自由時間とそう違いはなかった。
だから"中身のない形式的な授業"なのである。
とはいえ、教室には受験生でない者も少なからずいる。そんな彼ら彼女らのために、教師たちは毎回課題と称したプリントを配る。が、配りはするが課題そのものの出来についてはこだわったりしない。あくまでこの課題は、受験生でない者が暇を潰せるように出されたものなので、完成させる必要性がないのだ。
教師たちは生徒たちの手前、課題と言い張ってはいるが、実のところその内訳は――パズル問題、クロスワード、クイズ……等々――といった具合であり、それはもはや娯楽と呼ぶのが適切だった。
加えて、多少のおしゃべりは許されているし、席の移動も自由だ。仲間同士でわいわいと相談しながら課題に取り組む者もいる。
そんな中、教室には空席がちらほらと目立つ。それらは、受験勉強のために欠席している神経質な生徒たちの席だった。彼らの弁によると、騒がしくて教室では勉強ができないのだそうだ。
右斜め前方にある空席をぼんやりと眺め、くるくるとシャーペンを回しながら七海は退屈そうに呟いた。
「うーん、私も受験勉強ってことにして学校休んじゃおうかな」
それほど大きな声ではなかったはずだが、前の席に座る友人の六角橋京子が耳聡く聞きつけ振り返った。
「それは無理っしょ。ナナっち推薦組じゃん」
京子の言う通りだった。七海はムー太と遊ぶ時間を最大限確保するために、二学期の早い段階で自宅から一番近い高校へ推薦を決めていた。もっとも、彼女は自分の学力よりも二ランク低い高校を選択したので、一般入試でトライしても難なく合格したことだろう。だからこそ、七海は失敗したような気分になった。
「そうなんだけどさ……こうして無駄な時間を過ごすのってすっごく不毛。私は受験生じゃないから自習する必要もないし」
それは、ムー太のことを念頭に置いた発言だった。
仕方がないこととはいえ、自宅にムー太をひとり残して登校することには罪悪感がある。寂しい思いをしているのではないかと想像するだけで、胸がきゅっと苦しくなり、一刻も早く帰宅して抱きしめてあげたくなる。退屈な授業の合間に七海が考えているのは、その事ばかりだ。
だというのに、毎日毎日、無為な授業に時間を吸い取られるのには我慢がならない。この時間をすべてムー太と触れ合う時間に回せたら、どれほど有意義だろうか。半ば本気で授業をボイコットしてやろうかと七海が考えていると、京子が不満げに頬を膨らませた。
「あー、ナナっちはまーたそーゆー冷めたこと言う!」
「私は冷めてるんじゃなくて、客観的に現実を憂いているだけなの。だって、受験勉強をするにしても、自分の家の方が集中できるでしょ。京子だって自宅なら、勉強の合間に愛犬と遊んでリフレッシュできるじゃない。この状況、誰得なのよ」
栗色のポニーテールを揺らして、京子は「ちっちっちっ」と声を出しながら大袈裟に指を振った。そして彼女は身を乗り出すと、白い歯を見せて無邪気に笑う。
「家には悪魔の囁きにも勝る娯楽がいっぱいあるっしょ。私がその誘惑に勝てると、ナナっちは思っているのかい」
自信満々に言うことか。がくっと七海は肩を落とした。
確かに、京子は長時間集中して作業することが苦手だった。家庭科の授業で、裁縫の課題を与えられた時など、早々にリタイアを決め込んでおしゃべりに花を咲かせていたぐらいである。何でも、体を動かさずに黙って作業をしていると、気が滅入ってきて叫びたくなってしまう性分らしい。そんな彼女だから、勉強机に向かって一人で黙々と勉強を進めている姿を七海は想像することができなかった。
「そんな調子で大丈夫なの、あんた……」
「何とかなるっしょー」
呆れる七海を余所に、京子はあっけらかんと答えた。続けて、彼女は真剣な顔つきで「それに」と呟き、口を噤んだ。何かを言おうとして迷っているのか、口をもごもごとさせている。二人の間に沈黙が降りる。
六角橋京子は何かを言い淀むタイプの人間ではない。
万事においてポジティブシンキング。深く考えることなどせずに、思いついたままをしゃべり尽くす。そうして築いた失言の山は数知れず。そして、三日後にはすべてを忘れ、再び同じ失敗を繰り返す。
付いたあだ名は「鶏頭拡声器」「ポジティブ王」「メトロノーム京子」なんて、一歩間違えればイジメに繋がりかねない酷いものばかり。
しかしそれですらも、本人は面白がってガハハと笑い飛ばしているのだから、京子のメンタルは相当に強い。
そんな彼女が口を閉ざして沈黙している。これはどうにも不自然だ。
もしかしたら、受験のことで何か悩みがあるのかもしれない。
だんだんと心配になり始め、七海は先を促すように「それに?」と訊いた。
すると、京子は照れ臭そうに笑い、
「中学三年生の三学期という時間は今しか無いっしょ。それなのに、ナナっちは卒業式だけ出席して卒業する気なの? そんなの寂しいっしょ。今、この時間が無駄だと思うなら、こう考えたらどうかな。中学校生活、最後の思い出を作るための時間なんだって」
一瞬、七海は呼吸を忘れた。
それは、今を全力で生きる京子らしい意見であり、清清しいほどにポジティブな提案だった。反論の余地などあるはずもない。青春を無駄に使おうとしていた自らを省みて、七海は苦笑するしかなかった。
稀にではあるが、京子にはこういう鋭いところがあった。七海には思いも寄らない角度で、物事の核心を突くような意見を言ってのけるのだ。普段のおちゃらけた姿に油断していると、ガツンと不意打ちをくらうハメになるのだが、どうやらまたしてもやられてしまったらしい。
七海が浮かべた苦笑を別のニュアンスとして受け取ったのか、京子が膨れた。
「あー、ナナっちひどいっしょー。やっぱり言うんじゃなかった」
「バカにして笑ったわけじゃないよ。京子もたまには良いこと言うんだなって思ったら、可笑しくてさ。今日はよく晴れてるけど、傘持って来るんだったかな?」
「えー!? それはそれでひどいっしょー。何その言われよう!?」
「アハハ。京子といると飽きないわ」
京子はぶーと膨れると前を向いてしまった。
怒っているわけではあるまい。長年の付き合いから七海がそう楽観していると、すぐに京子が振り返り、一枚のプリントを机の上に置いた。
「最後の問題がわからないっしょ。教えて、ナナえもん!」
「あんた……受験勉強していたわけじゃなかったのね」
「当たり前っしょ。ナナっちは私と何年付き合っているのかね?」
家では勉強できないと言い、学校でも勉強できないと言う京子。だったら、いつ勉強をするのだろうか。喉まで出掛かったツッコミを飲み込み、七海はため息をついた。わかりきった答えを聞くことほど、無駄なことはない。それこそ、何年付き合っているのか、という話になってしまう。
差し出されたプリントへ視線を落とす。
同じプリントが七海の手元にもあるのだが、興味がなかったのでまだ一瞥すらしていなかった。
問題は全部で五問。
問一から順番に目を走らせたところ、マッチ棒を使ったパズル問題のようだった。マッチ棒を使って複数の正方形が組まれており、その中から指定の本数を動かして正方形の数を変化させろ、という問題がパターンを変えて続いている。
用紙には試行錯誤の結果だろうか、鉛筆の線とそれを消しゴムで擦った跡が所々に散見していた。どうやら京子は真剣に取り組んでいたようだ。
《この子、本当に大丈夫かしら》
七海は真面目に、小学校からの付き合いである友人のことが心配になった。
浮きかけた視線をプリントへ戻す。
問一から問四までは、何とか答えをひねり出せたようだ。
京子の指も、問五を指している。七海は問題を読み上げた。
「んー、なになに。六本のマッチ棒を使って正三角形を四つ作れ?」
「どう考えても二つしか作れないっしょー」
「ただの三角形なら四つ作れそうだけど、正三角形となると……」
ダイヤと十字架を組み合わせた図形を想像しながら、七海は頭を捻る。一見、三角形は四つできそうだが、すべて直角三角形になってしまう。その上、十字部分のマッチ棒の長さが足りないので、そもそも図形として成り立たない。
「ナナえもーん、便利な道具はないのー?」
「考えてるんだから少し黙っててよ。どこぞの犬型ロボットじゃあるまいし、私は四次元ポシェットなんて便利なもの持ってな――」
言いかけて、閃くものがあった。
頭の中で、新しく図形を構築し直す。
完璧だった。間違いなくこれが正解だろう。
「なるほどね。謎はすべて解けたわ」
「えーなになに?」
「前四つの問題はウォーミングアップだとばかり思っていたけど、どうやら違うみたいね」
「どういうこと? わかるように説明してくれたまえ探偵くん」
「問一から問四までの間に植え付けられた常識、固定概念を打ち破らないと、この問題は解けないってことよ」
「意味不明。ナナっちのイジワル……」
「じゃあ、大ヒントあげる。x軸y軸だけで考えないでz軸も含めて考えなさい」
「専門用語はやめてくれたまえよ、博士くん」
「あんた、もう考える気ないでしょ?」
「うん。頭が蒸気機関車っしょー。限界、限界、もう限界!」
「もう、仕方ないわね。噛み砕いて説明するなら、平面で考えないで立体で考えるってことよ」
「立体で考えていいなんて、問題に書いてないっしょ?」
「それを言うならダメだとも書いてないわ。問一から問四までで、解答者側は無意識のうちにこの問題は平面で解くものだと、頭へインプットしてしまっているの。それが罠だとも知らずにね。だから、自分で作ってしまった常識をまず捨てないと、この問題は解けないのよ」
「ふーん、なるほどぉ。それで結局、答えはなんなんだい?」
どうやら京子は本当に、一ミリたりとも考える気がないらしい。
浅く息を吐いてから七海はシャーペンを手に取り、用紙の上へ四面体を描いた。
「一辺がマッチ棒一本に相当し、また、マッチ棒はすべて同じ長さであることから、六辺からなる四面体は必然的に正四面体となります。正四面体は四つの合同な正三角形を面とする四面体なので、問題にある正三角形を四つという条件を満たすことができます。はい、証明終わり」
京子が目を丸くして驚き、満足したのか笑顔になった。少しムー太に似ている。
「おおー! さすがナナっち。冴えてるー」
その時、五時間目の終了を告げるチャイムが教室に響き渡った。
日直に号令を掛けさせると、教師は課題の回収もせずに教室を後にした。
次の授業は体育である。
基本の五教科とは違い、実技系の授業は平常通り行われる。七海が着替えのために立ち上がると、課題プリントへの興味を失ったのか京子もそれに続いた。
女子には更衣室が割り当てられているが、移動するのが面倒なので、七海たちはいつも教室で着替えている。体操着の上はシャツの下に着てきているし、ジャージの下はスカートを着けたまま履いてしまえばいい。授業が終わった後は、今度は逆にスカートをまず履いてからジャージを脱ぐという手順なので、下着を衆目に晒す心配はない。
もっとも、六時間目が体育の時は、制服に着替え直す必要すらなく、そのまま下校することが可能だ。
着替えを終えた七海は京子と連れ立って、廊下へ出た。
乾いた冷たい空気がジャージの隙間から侵入してくる。
ぶるっと身を震わせると、七海は胸元のファスナーを五センチほど押し上げた。
他愛のない世間話をしながら、体育館へ向けて廊下を進む。
三年生の教室は一階にあるので、階段を下りる面倒は避けられる。が、七海のクラスは三年一組。教室は校舎の西端に位置しており、極東にある体育館までは最も遠い場所にあった。
振り返ってみれば、学校行事では何かと体育館を使うことが多かった。その度に長い廊下を歩いて体育館まで出向かなければならないのである。五組の生徒たちは少し歩くだけで目的地へ到着するというのに、何と不公平なことだろうか。そんな事を全校集会の度に思っていた七海だったが、もうすぐ卒業だと思うとそれも少し名残惜しい。
異変が起こったのは、廊下を半分程進んだ時だった。四組の教室を通り過ぎようかという頃、不意に凄まじい魔力の波動、その断片らしきものが七海の全身を貫くようにして通り過ぎていったのだ。
「――っ、何!?」
思わず、声を上げていた。
背筋には鳥肌が立っている。
大きな魔力の塊が突如として遠方に出現したようだった。おそらく今感じた魔力の波動は、そのUnknownが出現した時に発した余波みたいなものだろう。その存在を隠そうともしない剥き出しの魔力は、絶対の自信を持つ強者によく見られる傾向だった。
急に立ち止まったからか、京子が怪訝そうにこちらを見つめている。
考えている暇はなかった。一言、
「先、行ってて」
言って、七海は駆け出した。
向かう先は屋上。まずはその発生源を探る必要がある。
一段飛ばしで階段を駆け上がり、屋上の鉄扉を勢いよく開ける。
晴天の歓迎を受けて、太陽の光に目を細める。
魔力を感じた方向を大雑把に特定し、金網に張り付くようにして詳細を探る。
己の五感を研ぎ澄ませ、魔力をキャッチすることに集中。
七海の心配は、一人でお留守番をしているムー太の安全、ただその一点にある。
「…………よかった。私の家とは少し方向が違う」
安堵から、七海はへなへなとその場に座り込んでしまった。
しかし、すぐにある事に気が付いた。
金網に縋るようにして、鉛のように重たくなった体を何とか起こす。
「でも、この方角は……」
それは京子の家がある方角だった。
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