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まったり地球での生活編

学校に行こう(中編)

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「むきゅう?」

 開口一番、ムー太は疑問系で鳴いた。
 キョロキョロ、と辺りを窺うが目当ての人物は見当たらない。

「むきゅう???」

 見知らぬ廊下にムー太は立っていた。リノリウムの床は冷たくて、どことなく素っ気無い感じがして寂しい印象を受ける。前を見ても後ろを見ても、細長い空間が続いているだけで、どちらに進めば良いのかわからない。
 右手には、等間隔に横開きのドアが設けられており、その上部には文字の書かれたプレートが掲げられていた。そこには三年四組と書かれているのだが、ムー太は読むことができない。

「むむきゅ、むきゅう?」

 七海はどこへ行ったのだろうか?

 ムー太は消えた髪飾りを追って、サンダースとクロの二人に出会った。そして髪飾りを取り戻した後、肝心なことに気が付いた。あろうことか帰り道がわからなかったのである。そこで賢いムー太は閃いた。フレンズゲートを使えば、七海の元へ帰れるのではないか、と。

 思いついたら即行動。それがムー太の性格だから、すぐさまゲートを開いた。
 そしてその時は、間違いなくゲートの先に七海の姿があった。そうだ。今、ムー太が立っているこの場所に彼女はいたのだ。

 だが、クロに別れを告げるため、ゲートから目を離した隙に彼女は忽然と姿を消してしまった。安心の象徴であるその姿が見えなくなると、途端、ムー太は不安になってきた。そして、慌ててゲートを潜ったのが、つい先程の出来事。冒頭へと繋がるわけである。
 抱きしめてもらうつもりだったのに、期待が外れてムー太はがっかりだ。

「むきゅう……」

 もう一度、ゲートを開くべきだろうか。
 しかし、フレンズゲートの魔力消費は激しく、連続しての使用は不可能である。とすれば、自力で七海を探すほかないだろう。おそらくこの建物のどこかに彼女はいるはずなのだから。

 決意を込めて勇ましく鳴こうとした時、三年四組の引き戸がガラガラと開けられて、中から三名の女子生徒が出てきた。ムー太はとっさにお地蔵さんの術を使って、ぬいぐるみのフリをしようとしたのだけれど、疑問系に体を傾けていたので、ころんと横に倒れてしまった。

 冷たい床にほっぺをり合わせ、体の自由を失った不安定な状態に晒されてもなお、頑なにムー太はお地蔵さんの術を使い続けた。
 しかし、それは客観的に見て、どう考えても不利な状況だった。屋外のそれも道端に捨てられている薄汚れたぬいぐるみを拾おうとする物好きは、確かに少ないだろう。けれど、屋内のそれも学校の廊下とくれば事情は大きく違う。

 その理由は三つ。
 まず第一に、それなりの頻度で清掃が行われている学校の廊下では、屋外のように薄汚れたぬいぐるみだと認識されずらい。第二に、ここは学生たちのテリトリーなので、誰の物だかわからない落し物を拾いあげるのに心理的な抵抗が生じない。そして第三に、相手は可愛い物好きな女子学生、それも三人組だという点にある。

 案の定、女子生徒たちはぬいぐるみに扮するムー太の前でその足を止めた。

「あれ、誰かの落し物?」ボーイッシュな風貌の少女が、ムー太を拾い上げた。
「ぬいぐるみのようね」お嬢様風の少女が、ムー太を覗き込むようにして言った。
「わー、カワイイー!」やたらとハイテンションな少女が、歓声を上げた。

 彼女たちはムー太を持ち上げて、代わる代わる順番に眺めては抱き心地などの感想を述べていった。その際、バケツリレーのように軽快なパス回しをされて、ムー太はちょっぴり目が回る。

「ん、今少し動いたような」
「あら、桃香も見たのね。私もよ」
「えー、じゃあこれ本物ぉ!?」

 三人の視線が一斉にムー太の頭上へ降り注いだ。
 知らない人たちに熱心に見つめられて、どうしたらいいのかよくわからないムー太は困惑気味だ。視線のプレッシャーから逃れたくて、堪らずにムー太は「むきゅっ」とボンボンで目元を覆った。

「おおー、やっぱりそうじゃん」
「これが噂のマフマフね。初めて見るわ」
「わっほーい、モフモフだー!」

 ムー太はマフマフという種族の魔物である。厳密にいうと少し違うのだが、少なくとも前に住んでいた異世界では、そういうことになっていた。
 しかし、なぜ彼女たちはマフマフの事を知っているのだろうか。もしかしたら、七海に教えてもらったのかもしれない。ムー太はそのように考えた。

「むむきゅ、むきゅう?」

 七海はどこにいるの? と、訊いたつもりだった。
 しかし、残念ながら質問の意図は伝わっていないようだった。体を傾けたムー太の愛くるしい姿を目撃した三人組は、身悶えするように体を抱いて騒ぎ出し、こちらの質問に答えてくれる様子はない。彼女たちは口々に、

「ぞくっときたね。これは女殺しの仕草ですよ! どう思いますか静音さん」
「そうね。母性本能ってやつかしら? ぐっと胸が熱くなるのを感じたわ」
「おりゃー! モフモフモフモフーッ!!」

 うっとりと恍惚の表情を浮かべる女子が二名。シャンプーをする時みたいに、シャカシャカと撫でてくる女子が一名。前者は良いけれど、後者は毛が逆立ってしまうのでムー太は迷惑だ。

「むきゅううう」

 ボンボンを振り乱し、ムー太は遺憾の意を表明。
 続けて、体をぶるぶると震わせて脱出を試みる。
 が、ボーイッシュ少女がしっかりとムー太を抱いていたので逃げられなかった。

「おい、美加。やりすぎだ、嫌がってるだろ」
「あらあら、乱暴はいけませんよ。美加さん」
「うー! ごめん、ごめん!」

 二人の代弁に感謝し、ムー太は同意するように頷く。そして、シャンプー娘の頬をぽふぽふと叩き、注意喚起をしておくことも忘れない。ひとまず、これで大丈夫だろう。ムー太は額の汗を拭う仕草をしてみせた。
 その悩殺ポーズに女子生徒三名はメロメロだ。と、

「やっべ。休み時間終わっちゃうよ」
「そうですね。では参りましょうか」
「レッツゴー冬カレー! イェーイ」

 中央に立ったお嬢様風の少女が歩き出すと、その両サイドにボーイッシュ少女とシャンプー娘が続いた。そして、それがあたかも当然であるかのように、ムー太はボーイッシュ少女に抱かれたまま連行されていく。

 人間に捕まったという認識はなかった。
 魔物に対して友好的な人間も、少なからず存在することを今では知っているからだ。それにこのまま、七海のところへ案内してくれるのかもしれない。ムー太はそのように考えて、大人しく丸まっておくことにした。

 一階の渡り廊下を進み、別館と思われる建物に入る。
 階段を上り、到着したのは二階にある大きな部屋だった。
 室内には、奇妙なことに台所がいっぱい置いてある。
 初めて見る珍妙な光景に、ムー太は思わず身を乗り出した。

「むきゅう!」

 お利口さんのムー太はちゃんと知っている。
 台所とは、料理を作るための設備である。そして台所には、火を操る【コンロ】という装置と、水を操る【水道】という装置が、標準装備されているものなのだ。このどちらかが欠けている場合、それは台所とは呼べない。なぜなら、洗面所には【水道】があるけれど、あそこを台所とは呼ばないからだ。

 広い教室には、複数のテーブルが等間隔に敷き詰められていた。その一つ一つには、コンロが二口ずつ埋め込まれており、テーブルを挟んで反対側には水道と流し台も設置してある。それはまさに、ムー太の知る台所に相違ない。
 しかしなぜ、こんなにもたくさんの台所が密集しているのだろうか。ムー太の常識では、台所とは一家に一台と相場が決まっている。七海の家だってそうだし、アニメの中でも複数が存在した例はない。

 よくよく辺りを観察して見ると、ステンレス製のテーブルの上には、台所ごとにそれぞれ違う食材が置かれていた。彩りの豊かな野菜、食べ応えのありそうな厚めの肉、甘い香りのするフルーツ等々。
 そして、一つの台所につき男女のグループが三~四人配置についていて、何やら忙しげに動き回っている。ある者は食材を切り刻み、またある者は火が掛けられた鍋の中に具材を放り込んでいる。

 ただ残念なことに、その中から七海の姿を見つけ出すことはできなかった。

 慌しく動き回る生徒たちの合間を縫って、ムー太を有するボーイッシュ少女たちは、教室の後方にある台所へと移動した。そして到着と同時に、ムー太はポンっと台所の上へ置かれた。すぐ隣には、赤黄緑といった彩りの良い野菜たちが並んでいる。まさかとは思うが、ムー太も食材の一部なのだろうか。

「むきゅう?」

 疑問系で鳴いてみると、隣の台所にいた女子たちがムー太の存在に気がついたようだった。歓声をあげながら群がってきた少女たちは、好き勝手に自慢の白毛を撫で回してくる。次から次へと繰り出される千手観音攻撃に、ムー太はたじたじだ。
 その騒ぎに気がついた他の生徒たちも続々とその輪に加わり始め、ファンに取り囲まれるアイドルのようにムー太は揉みくちゃにされた。そうして騒ぎがが一巡したところで、お嬢様風少女がパンパンと手を叩いて皆を諌めた。

「ほらほら、火を使っているのに目を離しては危険ですよ。あまり度が過ぎては谷村先生に叱られてしまいます」

 その一言で、握手会はお開きとなった。
 一瞬にしてクラスのアイドルにまで登り詰めたムー太はほっと息をつく。
 女子生徒たちはぞろぞろと散会していき、残ったのは例の三人組。

「よっしゃ、うまいもん食わせてやるからな」
「うふふ。お料理は淑女の嗜み。フルコースをご賞味あれ」
「イェーイ! それ、冬カレー♪ ほりゃ、冬カレー♪」

 ここは台所だから、何かを作ってご馳走してくれるというのだろうか。腹ペコのムー太は目を輝かせ、期待を込めて体を膨らませた。

 彼女たちは手際よく配置につくと、早速料理を開始。
 シャンプー娘が水洗いした野菜を運び、お嬢様風少女が横から流れてきた大小異なる野菜たちを同じ大きさに切り飛ばし、ボーイッシュ少女が均一にカットされた具材をフライパンで炒めていく。一連の流れ作業は洗練されていて無駄がない。ベルトコンベアーを思わせる見事な連携プレイだった。
 ムー太は素直に感心して、ボンボンを叩いて拍手を送る。

 包丁が差し込まれると、さして力を入れている様子もないのに野菜が綺麗に真っ二つに割れる。それは見ていて爽快感があり、ムー太はだんだんと楽しい気分になる。お嬢様風少女に張り付いて、その見事な包丁さばきに見入っていると、不意に黒目がじんわりと痛くなってきた。
 なぜだかわからないけれど、悲しくもないのに涙が溢れてくる。目元をぐしぐし擦ってみても、楽になるどころか次第に悪化していくようだった。

「むきゅううう?」

 何者かから見えない攻撃を受けている。
 そう判断したムー太は、攻撃をやめてほしくてボンボンを振り乱す。
 それでもやっぱり、目のしゅぱしゅぱは取れなかった。
 涙がポロポロと零れ落ちる。
 強制的に泣かされてムー太は訳がわからない。
 流れ出る涙をボンボンで吸い取る作業に追われていると、その姿を見たシャンプー娘が笑い声を上げた。

「わー! この子、玉ねぎで涙流してる。おっもしろー!!」

「玉ねぎだけは何度経験を積んでも慣れませんからね。わたくしも目が潤んで仕方がありません。まったく困ったものです」

 ため息混じりにそう言ったお嬢様風少女を見上げると、彼女の目元にも涙が浮かんでいた。心なしか先程よりも、彼女の体とまな板までとの距離が開いているように見える。まるで、まな板の上にある野菜を嫌っているかのようだ。

 と、そこでムー太は閃いた。
 このしゅぱしゅぱの原因は、まな板の上に乗せられた【玉ねぎ】と呼ばれる野菜にあるのではないだろうか。そうだ。きっとあの野菜は、身を守るために無差別攻撃を仕掛けてきているに違いない。
 何千年という歳月を生きた植物は意思を持つようになる。以前、浮遊都市の地下で七海の帰りを待っていた時、イゼラにそう教わったことがある。【玉ねぎ】と呼ばれたあの野菜も、そうして進化した希少種なのかもしれない。どのような魔法を使っているのかは不明だが、包丁を突き立てられたので怒っているのだ。

 しかし大事なことは、この見えない無差別攻撃をどのようにして防ぐのか、その手段である。経験豊富と思われるお嬢様風少女は、【玉ねぎ】からできるだけ距離を取ろうとしていた。
 もしかしたら、この辺りに攻略のヒントがあるのかもしれない。
 例えば、爆発系の魔法は、爆心地に近いほど殺傷力が高いのだと教わったことがある。【玉ねぎ】が放つ謎の攻撃も、爆発と同じ放射線状のものだったとしたら、距離を取ることは防衛手段として有効だろう。
 ムー太は了解して、体をもじもじさせながら、怒り狂う【玉ねぎ】を刺激しないようにゆっくりと後退を始めた。

「きゃはは。嫌がって身をよじってる! かーわーいーいー」

 つんつんとお尻をつつかれて後退が止まる。そしてあろうことかシャンプー娘は、一欠片の【玉ねぎ】をつまみ上げると、ムー太の顔へと近づけてきたではないか。その暴挙にムー太はびっくり。けれど、彼女に悪気はないらしく、終始笑顔のまま迫ってくる。それが逆に怖い。

「むきゅううう」

 踵を返して、ムー太はボーイッシュ少女の元へと逃げ出した。少し七海と雰囲気の似ている少女だ。きっと彼女ならば、助けてくれるに違いない。
 狭い台所でのことだから到着するのに三歩と掛からなかった。
 が、頼みの綱だったボーイッシュ少女は恐ろしい形相でムー太を睨みつけ、コンロのつまみを回して火を止めると、斧でも振るうかのように片手を持ち上げ、一喝すると同時に手刀を振り下ろした。

「走り回るなっ!」

「痛ぁっ!?」

 ゴンッと鈍い音がした。
 ムー太はとっさにボンボンで目を覆っていたので、インパクトの瞬間は目撃していない。目を開けると、シャンプー娘が頭を押さえて目を白黒とさせているところだった。その瞳には薄っすらと涙が滲んでいるが、これは玉ねぎによるものではないだろう。

 ボーイッシュ少女は腕を組んで仁王立ちすると、赤く充血する目を光らせてつっけんどんな口調で言った。

「こっちは火使ってんだ。危ないだろ」

「うえーん! 桃ちゃんがぶったぁー」

 哀れ、叱られたシャンプー娘は退却していった。
 どうやら、自分が怒られたわけではないらしい。ようやくその事に気がついたムー太は、ほっと安堵する。そのまあるい頭を優しく撫でて、ボーイッシュ少女がぶっきらぼうに続ける。

「火は危ないからな。あまり近寄るんじゃねーぞ」

 物知りなムー太は知っていた。
 ゆらゆらと変幻自在に姿を変える炎はとても興味深い存在だけれど、決して触ってはいけない危険なものなのだ。七海が言うには、炎に触ると【火傷】という怪我を負うらしい。それはとても痛くて苦しいもので、その傷が全身に広がると死に至るのだそうだ。
 死ぬということは、記憶をなくしてしまうということだ。死ぬということは、七海とお別れするということだ。この幸せを、楽しい毎日を、捨てるということだ。

 いかなる理由があったとしても、彼女と別れるのはもう二度と御免だった。だから好奇心を刺激されても、決して触ったりはしない。それになぜだか、炎に直接触ったことはないはずなのに、ムー太は【火傷】の感覚を知っているような気がする。その感覚は、夢の中へふわーっと溶け込んでいくような感覚だ。痛みを伴わないので、もしかしたら、ムー太の勘違いなのかもしれない。

「よーし、いい子だ」

 ムー太がこくりと頷くと、ボーイッシュ少女は満足げに笑い、フライパン片手に炒めものを再開した。その姿をムー太は少し離れた所から眺める。
 不意に、目の前を白い雪が降り始めた。いや、それは塩と呼ばれる調味料であることをムー太は知っている。照明を反射してキラキラ輝く塩の粒は美しかった。その光景に見惚れていると、

「むきゅんっ」

 唐突にくしゃみが出た。
 無性に鼻がむずむずする。

「むきゅんっむきゅんっ」

 連続でくしゃみが出た。
 いつの間にか降りしきる白い雪は、黒い雨へと変わっている。
 今度は一体、何が起きたのだろうか。
 鼻を啜り上げていると、頭上からボーイッシュ少女の笑い声が聞こえてきた。

「うはは。コショウでくしゃみが出るのは、万国共通か」

 何のことだかムー太にはさっぱりわからないが、なんとなくボーイッシュ少女の仕業であるような気がした。とすると、この黒い雨が原因なのかもしれない。死の象徴である漆黒の黒は、禍々しい魔力を放っているような気さえしてくる。

 気分は最悪だった。
 目はしゅぱしゅぱ。鼻はむずむず。
 三人組を含め周りの生徒たちは、くしゃみを連発するムー太を見て笑っている。

「むきゅう……」

 こんなにも苦しんでいるというのに、誰一人として助けてはくれない。それがとってもムー太は不満だった。この場に七海がいないことが残念でならない。彼女だけはいつだって自分の味方なのだ。

「むきゅう!」

 そうだ! 七海を探している途中だった。
 早急に彼女を発見し、抱きしめてもらおう。
 彼女の胸の中は、この世で最も安全な特等席なのだ。逃げ込んでしまえば、もう何者もムー太を苦しめることができない。すべての問題は解決するのである。

 ムー太は決意すると、台所を飛び降りて転げるようにして走り出した。後ろから、ボーイッシュ少女の困惑した声が追いかけてくるが、前だけを見据えるムー太は振り返らない。その先には、両手を広げた七海の姿が見えるような気がした。
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