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まったり地球での生活編
モフモフ怪談「廃病院の噂」(怪ノ終)
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かつてのムー太は人間を恐れていた。
漠然と畏怖していた。
危険だから近づいてはいけないと本能に刻まれていた。
けれど、今は違う。
積み重ねた経験により成長したムー太は知っている。
その認識が間違いであったことを知っている。
人間の中にも、友好的で優しい人たちがいることを知っている。
困った時には助けてくれて、いつも優しく包み込んでくれる七海。
ムー太のことが大好きで、時間の許す限り一緒に遊んでくれたサチョ。
七海大好き同盟の有志で、再会を約束して別の道を歩んで行ったアヴァン。
創造主の娘で、生まれたばかりのムー太を一番最初に可愛がってくれたエリカ。
先日訪れた中学校では、ムー太に好意を寄せてくれる女の子がいっぱいいた。
楽しい思い出の数々が、大切なことを教えてくれた。
お利口さんのムー太は学習したのだ。
人間という括りで善悪を決めてはならない。
漠然とした物差しで一括りにしてはならない。
そうと決め付けて心を閉ざしてしまえば素敵な出会いまでもを閉ざす事になる。
だから、ムー太は『幽霊』という括り、それだけで『悪』の烙印を押したりはしなかった。クロが「幽霊は怖い」といくら熱弁しようとも、そういう幽霊も中にはいるんだなぐらいに考えていた。
だというのに。
初めて遭遇した女幽霊は、クロの言う通り怖い幽霊だった。
「むきゅううう」
「にゃああああ」
白と黒のモフモフは、病室の並ぶ廊下をひた走っていた。
後ろを振り返る余裕はないが、背中に突き刺さる悪意の思念が、追っ手の存在を肯定している。ポンポンと跳ねるムー太は涙目だ。
前を駆けるクロが、振り返らずに言う。
「引き返すことができにゃい以上、別の脱出方法を考えないと駄目にゃ」
程なくして丁字路に差し掛かる。
直進するか左折するかの二者択一だ。
迷っている時間は余りない。
「とにかく、まずは階段を探してみるにゃ。こっちにゃ」
「むきゅう」
ムー太はのんびり屋さんなので、このような逼迫した状態では速やかな判断を下すことができない。代わりに指示を出してくれる頼りになる司令官へ、ムー太は感謝の印にボンボンで敬礼を返した。
左折し、真っ直ぐ進む。
窓際の通路から建物の中心部へ移動する形だ。
赤い月明かりはその中枢部に届いておらず、次第に辺りは暗闇に包まれていく。
ムー太は再び【ヒーリング】を使用し、聖光を灯した。跳ねるたびにボンボンが揺れるので、光球がランダムで暗闇を照らし、目がチカチカする。
「あった、あそこにゃ」
「むきゅう?」
クロと違ってムー太は夜目が利かない。最初の内は何も見えなかったが、言われた場所へ近づくにつれて、ボンボンに灯した聖光が闇を払い、浮かび上がるようにして開けた空間が現れた。階段の入口だ。しかしそこには、上階へと続く道が一本あるのみだった。
「にゃ……そんな馬鹿にゃ」
廃病院は三階建てだった。女幽霊はエレベーターに取り付けられた「3」のボタンを押していたので、到着した先であるこの場所は、普通に考えれば三階のはずである。ならば階段は、下へと通じていなければならないはずだ。それが反対に、上へと通じているのはどうにも奇妙な話である。
ムー太は疑問と好奇心に挟まれた。
エレベーターで上昇してきたのになぜだろう?
実はエレベーターは下降していたのだろうか?
階段を昇った先には何があるのだろう?
構造的にありえない四階だろうか?
それともここはやっぱり異世界で、常識では測ることのできない場所なのか?
無限の可能性が、階段を昇った先に広がっている気がする。
「むきゅう!」
「ダメにゃ。絶対にダメにゃ」
まるい体を縦に伸ばして、階段の頂を覗きこもうとしている姿から察したのか、クロが機先を制して止めてきた。盛り上がっているところに水を差されてしまい、ムー太はがっかりしょんぼり気分になった。
しかし、押し問答をしている時間はない。
先程、左折してきた丁字路から白い人影がぬっと現れたからである。
悪意の圧力を受け、全身の白毛が逆立った。
「こっちにゃ」
促されるまま、ムー太は再び駆け出した。
迷路のように入り組む通路を右へ左へ全力で走る。
けれども、いつまで経っても他の階段は見つからなかった。
こんなにたくさん走ったのは生まれて初めてかもしれない。ぴょんぴょんと跳ね続けるのは、エネルギー消費が激しいから大変なのである。長距離ランナーになったムー太は、すっかりお疲れモードだ。そしてとうとう限界が訪れた。
「むきゅう……」
息を切らせて立ち止まる。
前を行くクロとの距離がどんどん離れてゆき、置いてきぼりのムー太は不安になった。けれど、もう走ることはできない。後ろを振り返ったが、女幽霊はいなかった。ほっと一息つく。
闇の中にぽつんと一人。暗闇が心細さを助長する。
夜の帳が下りる中、番いが見つからない蛍はこんな気分なのかもしれない。
発光するボンボンが蛍のお尻みたいにフリフリと儚げに動く。
疲労が蓄積されており、歩くのも億劫だ。代わりに抱いてくれる人はいない。
帰るのが遅くなってしまったけれど、七海は心配しているだろうか。
途方に暮れていると、前方の暗闇から琥珀に輝く二つのビー玉が姿を現した。空中に浮かび上がるそれが近づくにつれて、ムー太はだんだんと笑顔になっていく。
「幽霊に捕まったのかと思って焦ったにゃ。どうしたっていうにゃん」
どうやら、逸れたことに気が付いて引き返して来てくれたらしい。
身振り手振りでもう一歩も動けないことをアピールすると、クロは首をがっくりと落とした。
「オマエ……体力ないにゃあ……」
「むきゅう……」
失望させてしまったようだ。
ムー太は申し訳ない気持ちになって縮んでしまう。
その様子を見たクロはため息をつき、くるりと反転すると無言のまま歩き出した。愛想を尽かされ、見捨てられてしまうのだろうか。心配になったムー太は追いかけようとしたのだけれど、跳ねる力が絞り出せずにコテンと転んだ。
涙がじわりと黒目を湿らせる。立ち止まって欲しくて「むきゅう」と鳴くと、その願いが通じたのか、病室の前でクロの歩みがピタリと止まる。そしてこちらを振り返るでもなく、黒い尻尾を波打たせながら、病室の引き戸へ近寄っていき、壁と戸の隙間に前足を引っ掛けて三分の一ほど引いてみせた。
長方形の空間が開かれる。闇に包まれた漆黒の空間だ。
そのまま中に入ると思いきや、そこでクロはUターン。
うな垂れるムー太の所へ戻ってくると、小さくまるまった背中へと回り込み、
「仕方ないにゃあ。まあ、ちょっと我慢するにゃ」
「むきゅう?」
なんだろう? と疑問に思っていると、唐突に、下から掬い上げるようにして肉球による張り手をぶちかましてきた。力のモーメントによりまるい体は回転し、不本意ながら前方へと転がされる。
「むきゅううう?」
容赦のない張り手が連続で放たれ、その都度まるい体は回転を加速させる。
「むきゅうううううう???」
雪玉みたいにゴロゴロと転がされて、ムー太は何が何だかわからない。雪だるまでも作るつもりだろうか。しかし、ムー太は雪ではない! 確かに白くてふわふわだから似ているけれど、転がされても大きくはならないのだ。
きっと、クロは何か勘違いをしている。そう思ったけれど、ぐるぐると目が回ってしまいムー太は考えるのを止めた。
気が付くと病室の中にいた。先程、戸を開けた病室に放り込まれたのだ。
戦線復帰を果たしたムー太は体を起こすと、ボンボンをプンスカと動かした。
「むきゅううう」
「感謝して欲しいところにゃ。ずっとあそこに居たら見つかっていたにゃ」
動けなくなった自分を移動させるために転がしたという事か。ようやく理解が追いついたムー太だけれど、やっぱりその方法には少し不満だった。とはいえ、助かったのもまた事実な訳で、感謝しなければならないだろう。
なにより、見捨てられていなかったことにムー太は安堵した。
「それにしても……綺麗すぎるにゃ」
病室を見回していたクロがぼそりと言った。
興味を引かれて病室を見回す。確かに、綺麗だ。床には廊下と同様に埃一つ落ちてはいないし、室内に並ぶ四つのベッドに張られたシーツは汚れのない純白で、メイキングされたばかりのように皺一つ寄っていない。花瓶に挿された紫のスイートピーは、まさに今生けられたと見紛うほどに瑞々しい光沢を放っている。
「まるで、つい先程まで誰かがいたみたいだにゃ」
「むきゅう」
「あまり、長居はしたくないにゃあ」
「むきゅう……」
「ま、そう気を落とすにゃ。少し休憩すれば動けるにゃろ?」
「むきゅう」
肩をポンと叩かれ、ムー太は元気を貰った。コクコクと頷いて同意すると、何かに気が付いたのかクロが視線を外した。丁度、背後にある病室の入口を見ているようだ。その細い首筋を怪訝そうに傾げて、
「おかしいにゃ。ちゃんと閉めたはずなんだけどにゃ」
廊下側は真っ暗なので、戸に隙間があるかの判別は一見して難しい。しかし、よくよく目を凝らしてみれば、確かに引き戸は一センチ程開いているようだった。
クロが腰を上げる。
「外に明かりが漏れてしまうからにゃ。閉めてくるにゃん」
その時、ムー太は気付いてしまった。
薄く開かれた戸の上部――視線の低いムー太たちからは死角となる位置――に、赤く充血した眼球が浮かんでいる事に。こちらを覗く血走った目には、並々ならぬ憎悪の念が宿っているようだった。
「むきゅう!?」
ムー太はとっさに【引力制御】を使用して、戸に向かって歩き出していたクロの体を強制的に引っ張った。無我夢中だったので思いっきり、だ。
あらゆる物理法則を無視してクロの体が浮き上がり、四足が空を切る。
「にゃ、にゃんだー!?」
悲鳴だけをその場に残し、引力の基点となったボンボンへ向けて、クロの小さな体が飛翔する。床に対して平行。一時的に地球の重力を完全に無視する形で実現した飛行《フライト》は、宇宙遊泳に近いものだったのかもしれない。
ともあれ、高速で飛来するモフモフを迎え入れるのは、これもまた柔らかさに定評のあるモフモフである。
ごちんっ!
衝撃吸収材の役割をムー太が担い、二匹のモフモフは勢いそのままに壁際まで転がっていった。クロと壁にサンドされる形になったものの、実は隠しステータスとして打撃耐性のあるムー太は、大してダメージを負っていない。ただ、目が回る。
女が部屋へと入って来た。
逆立ち伸びた黒髪が怨念に揺らめいている。
床を素足で踏むペタペタという音が一定のリズムを刻み、近づく。
「にゃ、にゃに事にゃー!?」
意識を取り戻したクロが女の存在に気が付き、叫んだ。
女は病室の中央に差し掛かろうかというところ。
後退しようとするクロのお尻に押されて、ムー太の体は転がった。
「むきゅううう?」
もしも、この場にいるのがクロ一人だったなら、素早い動きでかく乱し、障害物のベッドを上手く使って脱出できたかもしれない。けれども、ムー太にそんな器用な真似はできないし、仮にできるのだとしても、今はお疲れモードなので無理だ。
幸い、クロは見捨てるような真似はしなかった。それゆえ必然的に後退のペースはムー太に合わせる形となり、じわじわと病室の角へと追い込まれていく。
ムー太の背が冷たい壁に当たり、それ以上の後退が不可となる。逃げ場がなくなった事を察すると、クロは全身の毛を逆立てて「シャー」と女幽霊に向けて威嚇を始めた。その背中と密着する形で触れ合っているムー太へ、小刻みな震えが伝わってくる。物知りで頼りになるクロだけれど、やっぱり女幽霊の事は怖いのだ。それでも勇敢に立ち向かう姿に、ムー太は感銘を受けた。
「むきゅう!」
怯え一辺倒だったムー太は、己を奮い立たせて一歩を踏み出した。クロの横へと並び立ち、ボンボンをガオーッと立たせて威嚇する。傍から見れば可愛らしい仕草だけれど、本人は大真面目《シリアスモード》である。
女幽霊が音もなく間合いを詰め、間近に迫る。
枯れ木のように痩せ細った白い腕をムー太の頭上へ伸ばしてきた。
けれど、ムー太は怯まない。頼りになるクロと一緒に懸命に吠えた。
「むきゅうううっ!」
「シャーーーーー!」
女の指がヒトデのようにぐわっと開き、覆いかぶさるようにして降ってくる。捕食されてしまう、と本能が警鐘を鳴らした。しかし、ムー太は勇敢だった。恐怖に負けたりしなかった。幽霊の攻撃を防ごうと、ボンボンを振り乱す。
そして、とうとう女の指先がボンボンを捉えた。その時だった。
パンッ!
大きな破裂音が病室に響き渡る。
女の身体が大きく揺らぎ、バランスを崩して尻餅をついた。
何が起きたのかすぐにはわからなかった。
クロも唖然としている。
「ギャアアアアアアアアアアアアア」
刹那の間を空けることなく悲鳴が上がる。
それは一目見て、すぐにそうだとわかる異変だった。ボンボンを掴もうと伸ばしていた女の右手首から先が、火傷を負ったみたいに赤く腫れていたのである。痛みが走るのか細い右腕がガクガクと暴れ、その時生じた振動が、庇うように添えられた左手を伝わり、両肩を震わすに至っている。
「むきゅう???」
女の顔が苦悶に歪み、更なる怒りを眼球に込めてムー太のことを睨み付けてきた。極限にまで見開かれた目玉から一筋の赤い涙が垂らされる。
血、だ。
頬を伝った赤い線は最終到達点である顎へと達し、一つにまとまり雫となって床へと落ちる。その落下を契機としてか、女の体に更なる異変が生じた。
バキボキと嫌な音を立てて、女の手足があらぬ方向へ捩れ曲がっていく。見る見るうちに全身の皮膚が腐り始め、腐食した眼球がボロリと落ちた。長く伸ばされた黒髪は根元から抜け落ちて、床へと広がり黒檀《こくたん》の絨毯を形作る。
もはや、生者としての体裁を完全に欠いたその物体は、床を這う様にして近づいてくる。
「にゃ!? すごい霊気にゃ……あれに触ったらマズイにゃ」
今までとは比べ物にならない程、大きな悪意。あらゆる負のエネルギーが詰められた邪悪な何かをムー太も肌で感じていた。チリチリと身を焦がされ、否が応でも鳥肌が立ってしまう。けれども。
「むきゅう!」
「にゃ、待つにゃ!? 近寄ったらダメって言ってるにゃん」
それは無謀な一歩ではなく、勇気のある一歩だった。
怪我をしている人を放っておけなかった。もしかしたら彼女は、怪我をしているから苦しくて辛くて、周囲に当り散らしているだけなのかもしれない。野生の魔物だって、手負いともなれば形振り構わず暴れるものである。ならば、怪我を治療してあげれば機嫌も良くなるのではないか。他人に悪意を向けたりせず、お話できるようになるのではないか。ムー太はそう考えたのだ。
そして勝算は十分にあった。
人畜無害そうな愛くるしい姿と、へっぽこな性格によって常日頃より忘れがちになるが、マフマフは高度魔法文明を滅ぼすほどの力を秘めた生物兵器なのである。完全体には程遠いとはいえ、ムー太はすでに、浮遊都市の動力源となっていた核の力を一つ継承している。
そして扱う魔力量に比例して、マフマフに標準実装された魔法はその性質を大きく変える。例えば、米粒のような魔力しか持ち合わせていなかった時は【引力制御】を使っても、果実を持ち上げるぐらいが関の山だったが、力を得た今なら、三トントラックを持ち上げるぐらい訳ないだろう。
「むきゅう!」
勇ましく鳴いたムー太は、ボンボンに魔力を集中させると【ヒーリング】を最大出力で使用した。刹那、ボンボンに灯っていた純白の聖光が、その輝きを一瞬で爆発拡散させて周囲の闇を押し流す。
それは、以前のように擦り傷を治す程度の低級な魔法ではなかった。一流の聖職者が使う回復魔法をも凌ぎ、瀕死の重傷を負った者でさえも復活させてしまう程の、超高レベルの神聖魔法に相当した。
浄化の光が病室を真っ白に染める。
負のオーラを纏った女幽霊を聖光が優しく包み込む。
その効果は絶大だった。見る見るうちに女の傷は塞がり全身が治癒されていく。
治療を受けるのが嫌なのか、彼女は体を激しく揺すって抵抗した。
しかし、しばらくするとその抵抗も止み、穏やかな表情に戻った女幽霊が唇の動きだけで「ありがとう」と言った――気がした。
激しく明滅した聖光は収束し、元のボンボン提灯に宿る微弱の光に落ち着く。
そして、怪我が完治したはずの女幽霊の姿も消えていた。
「むきゅう???」
治療が失敗したのだろうか?
ムー太は納得がいかない。病室をいくら見回しても彼女の姿はなかった。
「浄化……したのかにゃ。オマエ、スゴイじゃにゃいか」
「むきゅう?」
「幽霊っていうのはにゃ、この世に未練を残して死んでいった人間の思念みたいなものにゃん。だから基本的に、さっきの奴みたいに悪霊になる場合が多いんだにゃ。それを浄化して清め、成仏させるにゃんて真似は並の霊能者では不可能にゃ」
「むきゅう!? むきゅう……?」
それはつまり、自分があの女幽霊を消滅させてしまったという事なのだろうか。助けてあげるつもりだったのに、反対に苦しめてしまったのだろうか。ムー太はショックから縮んでしまった。
「何を落ち込んでいるにゃ? 成仏できてあいつも笑っていたにゃろ」
「むきゅう?」
「本来、この世に留まることは良くない事なのにゃ。ましてや悪霊ともなれば、存在するだけで苦痛なんじゃないかにゃ。その苦しみから解放されたからこそ、あの幽霊も最後に微笑んで消えていったんじゃないかにゃ」
「むきゅう!」
確かに、彼女は微笑を浮かべていた。穏やかな顔でお礼を言われた気がした。
ムー太はほっと安堵し、同時に学習した。
親しい友人の死後、その人と再会しようとするのは良くない事なのかもしれない。もしも七海が命を落としてしまい、幽霊になった彼女と出会ったら、浄化してあげるべきなのだろうか。
でもやっぱり、それでも一緒に居たいと思う。姿形が変わってしまっても、七海とずっと一緒に居たいと思う。彼女が浄化される事を望んだら、その時は……。
ちょっぴり大人になったムー太は悲しそうに鳴いた。
◇◇◇◇◇
数日後。
曇り空の昼下がり、六角橋家の庭先でクロはのんびりと過ごしていた。
欠伸をかみ殺し、ぐしぐしと顔を洗う。
「それにしても、先日は酷い目に遭ったにゃ」
恐怖体験を思い出し、背筋をぶるっと震わせる。
あの夜。女幽霊が消え去ると、その呪縛から解放されたのか病室が本来あるべき姿に戻っていた。床に積まれた埃の山、破れたベッドシーツ、枯れて茶色に変色したスイートピーの花。窓枠に掛かっていたカーテンはすでに存在しておらず、外から差す月明かりが室内を優しく照らしていた。
禍々しい赤い光ではなく、元の柔らかい黄色の光である。
逃走中にいくら探しても見つからなかった二階へと通じる階段は、その後、驚くほどあっさり見つかった。しかしその反面、四階へと通じる階段は消えており、ムー太は納得がいかないようだった。
もう十分に恐怖を味わい、早くその場から逃げ出したかったクロは、心霊体験ツアーをお開きにしようと提案した。けれど、ムー太はまだまだ探索したい様子だったので、強制的に転がして出口まで引っ張って行ったのだった。
二度目の大きな欠伸を我慢して、クロは代わりに苦笑を漏らす。
その時、背後から声を掛けられた。
「むきゅう」
こんなヘンテコな鳴き声を上げる奴は一人しかいない。
もう二度と廃病院には付き合わないぞ、そう決意を込めて振り返る。と、そこにはやっぱり、フワフワした丸い奴がいた。控えめにボンボンを振っているのは忠告を守っての事だろう。
「久しぶりにゃ。元気だったかにゃ?」
「むきゅう!」
「にゃ?」
奇妙な事に気が付いた。
テニスボール大のボンボンの先に何か細い物が付着している。陽を反射して光る半透明の糸のようだ。その先端に風船でも付いているのか、糸は真っ直ぐ天へと向かって伸びている。
糸を辿るようにして視線を上げると……。
「にゃっ!?」
半透明の女の子が浮いていた。
あどけない顔のパーツを破顔させて、彼女は口を開く。
「あら、電話に出てくれたのは猫さんだったのね。ウフフ、タベチャイタイ」
廃病院での電話を思い出し、全身の黒毛が恐怖に逆立った。けれど、ムー太は暢気なもので、女の子に同意するように「むきゅう!」と元気よく鳴いた。
終わっていなかった怪異を目の当たりにして、クロの視界は真っ暗になった。同時に、思う。ムー太には敵わないかもしれない、と。
そして、力いっぱい叫びを上げた。
「にゃあああああああああああああ!? もう勘弁してくれにゃー」
漠然と畏怖していた。
危険だから近づいてはいけないと本能に刻まれていた。
けれど、今は違う。
積み重ねた経験により成長したムー太は知っている。
その認識が間違いであったことを知っている。
人間の中にも、友好的で優しい人たちがいることを知っている。
困った時には助けてくれて、いつも優しく包み込んでくれる七海。
ムー太のことが大好きで、時間の許す限り一緒に遊んでくれたサチョ。
七海大好き同盟の有志で、再会を約束して別の道を歩んで行ったアヴァン。
創造主の娘で、生まれたばかりのムー太を一番最初に可愛がってくれたエリカ。
先日訪れた中学校では、ムー太に好意を寄せてくれる女の子がいっぱいいた。
楽しい思い出の数々が、大切なことを教えてくれた。
お利口さんのムー太は学習したのだ。
人間という括りで善悪を決めてはならない。
漠然とした物差しで一括りにしてはならない。
そうと決め付けて心を閉ざしてしまえば素敵な出会いまでもを閉ざす事になる。
だから、ムー太は『幽霊』という括り、それだけで『悪』の烙印を押したりはしなかった。クロが「幽霊は怖い」といくら熱弁しようとも、そういう幽霊も中にはいるんだなぐらいに考えていた。
だというのに。
初めて遭遇した女幽霊は、クロの言う通り怖い幽霊だった。
「むきゅううう」
「にゃああああ」
白と黒のモフモフは、病室の並ぶ廊下をひた走っていた。
後ろを振り返る余裕はないが、背中に突き刺さる悪意の思念が、追っ手の存在を肯定している。ポンポンと跳ねるムー太は涙目だ。
前を駆けるクロが、振り返らずに言う。
「引き返すことができにゃい以上、別の脱出方法を考えないと駄目にゃ」
程なくして丁字路に差し掛かる。
直進するか左折するかの二者択一だ。
迷っている時間は余りない。
「とにかく、まずは階段を探してみるにゃ。こっちにゃ」
「むきゅう」
ムー太はのんびり屋さんなので、このような逼迫した状態では速やかな判断を下すことができない。代わりに指示を出してくれる頼りになる司令官へ、ムー太は感謝の印にボンボンで敬礼を返した。
左折し、真っ直ぐ進む。
窓際の通路から建物の中心部へ移動する形だ。
赤い月明かりはその中枢部に届いておらず、次第に辺りは暗闇に包まれていく。
ムー太は再び【ヒーリング】を使用し、聖光を灯した。跳ねるたびにボンボンが揺れるので、光球がランダムで暗闇を照らし、目がチカチカする。
「あった、あそこにゃ」
「むきゅう?」
クロと違ってムー太は夜目が利かない。最初の内は何も見えなかったが、言われた場所へ近づくにつれて、ボンボンに灯した聖光が闇を払い、浮かび上がるようにして開けた空間が現れた。階段の入口だ。しかしそこには、上階へと続く道が一本あるのみだった。
「にゃ……そんな馬鹿にゃ」
廃病院は三階建てだった。女幽霊はエレベーターに取り付けられた「3」のボタンを押していたので、到着した先であるこの場所は、普通に考えれば三階のはずである。ならば階段は、下へと通じていなければならないはずだ。それが反対に、上へと通じているのはどうにも奇妙な話である。
ムー太は疑問と好奇心に挟まれた。
エレベーターで上昇してきたのになぜだろう?
実はエレベーターは下降していたのだろうか?
階段を昇った先には何があるのだろう?
構造的にありえない四階だろうか?
それともここはやっぱり異世界で、常識では測ることのできない場所なのか?
無限の可能性が、階段を昇った先に広がっている気がする。
「むきゅう!」
「ダメにゃ。絶対にダメにゃ」
まるい体を縦に伸ばして、階段の頂を覗きこもうとしている姿から察したのか、クロが機先を制して止めてきた。盛り上がっているところに水を差されてしまい、ムー太はがっかりしょんぼり気分になった。
しかし、押し問答をしている時間はない。
先程、左折してきた丁字路から白い人影がぬっと現れたからである。
悪意の圧力を受け、全身の白毛が逆立った。
「こっちにゃ」
促されるまま、ムー太は再び駆け出した。
迷路のように入り組む通路を右へ左へ全力で走る。
けれども、いつまで経っても他の階段は見つからなかった。
こんなにたくさん走ったのは生まれて初めてかもしれない。ぴょんぴょんと跳ね続けるのは、エネルギー消費が激しいから大変なのである。長距離ランナーになったムー太は、すっかりお疲れモードだ。そしてとうとう限界が訪れた。
「むきゅう……」
息を切らせて立ち止まる。
前を行くクロとの距離がどんどん離れてゆき、置いてきぼりのムー太は不安になった。けれど、もう走ることはできない。後ろを振り返ったが、女幽霊はいなかった。ほっと一息つく。
闇の中にぽつんと一人。暗闇が心細さを助長する。
夜の帳が下りる中、番いが見つからない蛍はこんな気分なのかもしれない。
発光するボンボンが蛍のお尻みたいにフリフリと儚げに動く。
疲労が蓄積されており、歩くのも億劫だ。代わりに抱いてくれる人はいない。
帰るのが遅くなってしまったけれど、七海は心配しているだろうか。
途方に暮れていると、前方の暗闇から琥珀に輝く二つのビー玉が姿を現した。空中に浮かび上がるそれが近づくにつれて、ムー太はだんだんと笑顔になっていく。
「幽霊に捕まったのかと思って焦ったにゃ。どうしたっていうにゃん」
どうやら、逸れたことに気が付いて引き返して来てくれたらしい。
身振り手振りでもう一歩も動けないことをアピールすると、クロは首をがっくりと落とした。
「オマエ……体力ないにゃあ……」
「むきゅう……」
失望させてしまったようだ。
ムー太は申し訳ない気持ちになって縮んでしまう。
その様子を見たクロはため息をつき、くるりと反転すると無言のまま歩き出した。愛想を尽かされ、見捨てられてしまうのだろうか。心配になったムー太は追いかけようとしたのだけれど、跳ねる力が絞り出せずにコテンと転んだ。
涙がじわりと黒目を湿らせる。立ち止まって欲しくて「むきゅう」と鳴くと、その願いが通じたのか、病室の前でクロの歩みがピタリと止まる。そしてこちらを振り返るでもなく、黒い尻尾を波打たせながら、病室の引き戸へ近寄っていき、壁と戸の隙間に前足を引っ掛けて三分の一ほど引いてみせた。
長方形の空間が開かれる。闇に包まれた漆黒の空間だ。
そのまま中に入ると思いきや、そこでクロはUターン。
うな垂れるムー太の所へ戻ってくると、小さくまるまった背中へと回り込み、
「仕方ないにゃあ。まあ、ちょっと我慢するにゃ」
「むきゅう?」
なんだろう? と疑問に思っていると、唐突に、下から掬い上げるようにして肉球による張り手をぶちかましてきた。力のモーメントによりまるい体は回転し、不本意ながら前方へと転がされる。
「むきゅううう?」
容赦のない張り手が連続で放たれ、その都度まるい体は回転を加速させる。
「むきゅうううううう???」
雪玉みたいにゴロゴロと転がされて、ムー太は何が何だかわからない。雪だるまでも作るつもりだろうか。しかし、ムー太は雪ではない! 確かに白くてふわふわだから似ているけれど、転がされても大きくはならないのだ。
きっと、クロは何か勘違いをしている。そう思ったけれど、ぐるぐると目が回ってしまいムー太は考えるのを止めた。
気が付くと病室の中にいた。先程、戸を開けた病室に放り込まれたのだ。
戦線復帰を果たしたムー太は体を起こすと、ボンボンをプンスカと動かした。
「むきゅううう」
「感謝して欲しいところにゃ。ずっとあそこに居たら見つかっていたにゃ」
動けなくなった自分を移動させるために転がしたという事か。ようやく理解が追いついたムー太だけれど、やっぱりその方法には少し不満だった。とはいえ、助かったのもまた事実な訳で、感謝しなければならないだろう。
なにより、見捨てられていなかったことにムー太は安堵した。
「それにしても……綺麗すぎるにゃ」
病室を見回していたクロがぼそりと言った。
興味を引かれて病室を見回す。確かに、綺麗だ。床には廊下と同様に埃一つ落ちてはいないし、室内に並ぶ四つのベッドに張られたシーツは汚れのない純白で、メイキングされたばかりのように皺一つ寄っていない。花瓶に挿された紫のスイートピーは、まさに今生けられたと見紛うほどに瑞々しい光沢を放っている。
「まるで、つい先程まで誰かがいたみたいだにゃ」
「むきゅう」
「あまり、長居はしたくないにゃあ」
「むきゅう……」
「ま、そう気を落とすにゃ。少し休憩すれば動けるにゃろ?」
「むきゅう」
肩をポンと叩かれ、ムー太は元気を貰った。コクコクと頷いて同意すると、何かに気が付いたのかクロが視線を外した。丁度、背後にある病室の入口を見ているようだ。その細い首筋を怪訝そうに傾げて、
「おかしいにゃ。ちゃんと閉めたはずなんだけどにゃ」
廊下側は真っ暗なので、戸に隙間があるかの判別は一見して難しい。しかし、よくよく目を凝らしてみれば、確かに引き戸は一センチ程開いているようだった。
クロが腰を上げる。
「外に明かりが漏れてしまうからにゃ。閉めてくるにゃん」
その時、ムー太は気付いてしまった。
薄く開かれた戸の上部――視線の低いムー太たちからは死角となる位置――に、赤く充血した眼球が浮かんでいる事に。こちらを覗く血走った目には、並々ならぬ憎悪の念が宿っているようだった。
「むきゅう!?」
ムー太はとっさに【引力制御】を使用して、戸に向かって歩き出していたクロの体を強制的に引っ張った。無我夢中だったので思いっきり、だ。
あらゆる物理法則を無視してクロの体が浮き上がり、四足が空を切る。
「にゃ、にゃんだー!?」
悲鳴だけをその場に残し、引力の基点となったボンボンへ向けて、クロの小さな体が飛翔する。床に対して平行。一時的に地球の重力を完全に無視する形で実現した飛行《フライト》は、宇宙遊泳に近いものだったのかもしれない。
ともあれ、高速で飛来するモフモフを迎え入れるのは、これもまた柔らかさに定評のあるモフモフである。
ごちんっ!
衝撃吸収材の役割をムー太が担い、二匹のモフモフは勢いそのままに壁際まで転がっていった。クロと壁にサンドされる形になったものの、実は隠しステータスとして打撃耐性のあるムー太は、大してダメージを負っていない。ただ、目が回る。
女が部屋へと入って来た。
逆立ち伸びた黒髪が怨念に揺らめいている。
床を素足で踏むペタペタという音が一定のリズムを刻み、近づく。
「にゃ、にゃに事にゃー!?」
意識を取り戻したクロが女の存在に気が付き、叫んだ。
女は病室の中央に差し掛かろうかというところ。
後退しようとするクロのお尻に押されて、ムー太の体は転がった。
「むきゅううう?」
もしも、この場にいるのがクロ一人だったなら、素早い動きでかく乱し、障害物のベッドを上手く使って脱出できたかもしれない。けれども、ムー太にそんな器用な真似はできないし、仮にできるのだとしても、今はお疲れモードなので無理だ。
幸い、クロは見捨てるような真似はしなかった。それゆえ必然的に後退のペースはムー太に合わせる形となり、じわじわと病室の角へと追い込まれていく。
ムー太の背が冷たい壁に当たり、それ以上の後退が不可となる。逃げ場がなくなった事を察すると、クロは全身の毛を逆立てて「シャー」と女幽霊に向けて威嚇を始めた。その背中と密着する形で触れ合っているムー太へ、小刻みな震えが伝わってくる。物知りで頼りになるクロだけれど、やっぱり女幽霊の事は怖いのだ。それでも勇敢に立ち向かう姿に、ムー太は感銘を受けた。
「むきゅう!」
怯え一辺倒だったムー太は、己を奮い立たせて一歩を踏み出した。クロの横へと並び立ち、ボンボンをガオーッと立たせて威嚇する。傍から見れば可愛らしい仕草だけれど、本人は大真面目《シリアスモード》である。
女幽霊が音もなく間合いを詰め、間近に迫る。
枯れ木のように痩せ細った白い腕をムー太の頭上へ伸ばしてきた。
けれど、ムー太は怯まない。頼りになるクロと一緒に懸命に吠えた。
「むきゅうううっ!」
「シャーーーーー!」
女の指がヒトデのようにぐわっと開き、覆いかぶさるようにして降ってくる。捕食されてしまう、と本能が警鐘を鳴らした。しかし、ムー太は勇敢だった。恐怖に負けたりしなかった。幽霊の攻撃を防ごうと、ボンボンを振り乱す。
そして、とうとう女の指先がボンボンを捉えた。その時だった。
パンッ!
大きな破裂音が病室に響き渡る。
女の身体が大きく揺らぎ、バランスを崩して尻餅をついた。
何が起きたのかすぐにはわからなかった。
クロも唖然としている。
「ギャアアアアアアアアアアアアア」
刹那の間を空けることなく悲鳴が上がる。
それは一目見て、すぐにそうだとわかる異変だった。ボンボンを掴もうと伸ばしていた女の右手首から先が、火傷を負ったみたいに赤く腫れていたのである。痛みが走るのか細い右腕がガクガクと暴れ、その時生じた振動が、庇うように添えられた左手を伝わり、両肩を震わすに至っている。
「むきゅう???」
女の顔が苦悶に歪み、更なる怒りを眼球に込めてムー太のことを睨み付けてきた。極限にまで見開かれた目玉から一筋の赤い涙が垂らされる。
血、だ。
頬を伝った赤い線は最終到達点である顎へと達し、一つにまとまり雫となって床へと落ちる。その落下を契機としてか、女の体に更なる異変が生じた。
バキボキと嫌な音を立てて、女の手足があらぬ方向へ捩れ曲がっていく。見る見るうちに全身の皮膚が腐り始め、腐食した眼球がボロリと落ちた。長く伸ばされた黒髪は根元から抜け落ちて、床へと広がり黒檀《こくたん》の絨毯を形作る。
もはや、生者としての体裁を完全に欠いたその物体は、床を這う様にして近づいてくる。
「にゃ!? すごい霊気にゃ……あれに触ったらマズイにゃ」
今までとは比べ物にならない程、大きな悪意。あらゆる負のエネルギーが詰められた邪悪な何かをムー太も肌で感じていた。チリチリと身を焦がされ、否が応でも鳥肌が立ってしまう。けれども。
「むきゅう!」
「にゃ、待つにゃ!? 近寄ったらダメって言ってるにゃん」
それは無謀な一歩ではなく、勇気のある一歩だった。
怪我をしている人を放っておけなかった。もしかしたら彼女は、怪我をしているから苦しくて辛くて、周囲に当り散らしているだけなのかもしれない。野生の魔物だって、手負いともなれば形振り構わず暴れるものである。ならば、怪我を治療してあげれば機嫌も良くなるのではないか。他人に悪意を向けたりせず、お話できるようになるのではないか。ムー太はそう考えたのだ。
そして勝算は十分にあった。
人畜無害そうな愛くるしい姿と、へっぽこな性格によって常日頃より忘れがちになるが、マフマフは高度魔法文明を滅ぼすほどの力を秘めた生物兵器なのである。完全体には程遠いとはいえ、ムー太はすでに、浮遊都市の動力源となっていた核の力を一つ継承している。
そして扱う魔力量に比例して、マフマフに標準実装された魔法はその性質を大きく変える。例えば、米粒のような魔力しか持ち合わせていなかった時は【引力制御】を使っても、果実を持ち上げるぐらいが関の山だったが、力を得た今なら、三トントラックを持ち上げるぐらい訳ないだろう。
「むきゅう!」
勇ましく鳴いたムー太は、ボンボンに魔力を集中させると【ヒーリング】を最大出力で使用した。刹那、ボンボンに灯っていた純白の聖光が、その輝きを一瞬で爆発拡散させて周囲の闇を押し流す。
それは、以前のように擦り傷を治す程度の低級な魔法ではなかった。一流の聖職者が使う回復魔法をも凌ぎ、瀕死の重傷を負った者でさえも復活させてしまう程の、超高レベルの神聖魔法に相当した。
浄化の光が病室を真っ白に染める。
負のオーラを纏った女幽霊を聖光が優しく包み込む。
その効果は絶大だった。見る見るうちに女の傷は塞がり全身が治癒されていく。
治療を受けるのが嫌なのか、彼女は体を激しく揺すって抵抗した。
しかし、しばらくするとその抵抗も止み、穏やかな表情に戻った女幽霊が唇の動きだけで「ありがとう」と言った――気がした。
激しく明滅した聖光は収束し、元のボンボン提灯に宿る微弱の光に落ち着く。
そして、怪我が完治したはずの女幽霊の姿も消えていた。
「むきゅう???」
治療が失敗したのだろうか?
ムー太は納得がいかない。病室をいくら見回しても彼女の姿はなかった。
「浄化……したのかにゃ。オマエ、スゴイじゃにゃいか」
「むきゅう?」
「幽霊っていうのはにゃ、この世に未練を残して死んでいった人間の思念みたいなものにゃん。だから基本的に、さっきの奴みたいに悪霊になる場合が多いんだにゃ。それを浄化して清め、成仏させるにゃんて真似は並の霊能者では不可能にゃ」
「むきゅう!? むきゅう……?」
それはつまり、自分があの女幽霊を消滅させてしまったという事なのだろうか。助けてあげるつもりだったのに、反対に苦しめてしまったのだろうか。ムー太はショックから縮んでしまった。
「何を落ち込んでいるにゃ? 成仏できてあいつも笑っていたにゃろ」
「むきゅう?」
「本来、この世に留まることは良くない事なのにゃ。ましてや悪霊ともなれば、存在するだけで苦痛なんじゃないかにゃ。その苦しみから解放されたからこそ、あの幽霊も最後に微笑んで消えていったんじゃないかにゃ」
「むきゅう!」
確かに、彼女は微笑を浮かべていた。穏やかな顔でお礼を言われた気がした。
ムー太はほっと安堵し、同時に学習した。
親しい友人の死後、その人と再会しようとするのは良くない事なのかもしれない。もしも七海が命を落としてしまい、幽霊になった彼女と出会ったら、浄化してあげるべきなのだろうか。
でもやっぱり、それでも一緒に居たいと思う。姿形が変わってしまっても、七海とずっと一緒に居たいと思う。彼女が浄化される事を望んだら、その時は……。
ちょっぴり大人になったムー太は悲しそうに鳴いた。
◇◇◇◇◇
数日後。
曇り空の昼下がり、六角橋家の庭先でクロはのんびりと過ごしていた。
欠伸をかみ殺し、ぐしぐしと顔を洗う。
「それにしても、先日は酷い目に遭ったにゃ」
恐怖体験を思い出し、背筋をぶるっと震わせる。
あの夜。女幽霊が消え去ると、その呪縛から解放されたのか病室が本来あるべき姿に戻っていた。床に積まれた埃の山、破れたベッドシーツ、枯れて茶色に変色したスイートピーの花。窓枠に掛かっていたカーテンはすでに存在しておらず、外から差す月明かりが室内を優しく照らしていた。
禍々しい赤い光ではなく、元の柔らかい黄色の光である。
逃走中にいくら探しても見つからなかった二階へと通じる階段は、その後、驚くほどあっさり見つかった。しかしその反面、四階へと通じる階段は消えており、ムー太は納得がいかないようだった。
もう十分に恐怖を味わい、早くその場から逃げ出したかったクロは、心霊体験ツアーをお開きにしようと提案した。けれど、ムー太はまだまだ探索したい様子だったので、強制的に転がして出口まで引っ張って行ったのだった。
二度目の大きな欠伸を我慢して、クロは代わりに苦笑を漏らす。
その時、背後から声を掛けられた。
「むきゅう」
こんなヘンテコな鳴き声を上げる奴は一人しかいない。
もう二度と廃病院には付き合わないぞ、そう決意を込めて振り返る。と、そこにはやっぱり、フワフワした丸い奴がいた。控えめにボンボンを振っているのは忠告を守っての事だろう。
「久しぶりにゃ。元気だったかにゃ?」
「むきゅう!」
「にゃ?」
奇妙な事に気が付いた。
テニスボール大のボンボンの先に何か細い物が付着している。陽を反射して光る半透明の糸のようだ。その先端に風船でも付いているのか、糸は真っ直ぐ天へと向かって伸びている。
糸を辿るようにして視線を上げると……。
「にゃっ!?」
半透明の女の子が浮いていた。
あどけない顔のパーツを破顔させて、彼女は口を開く。
「あら、電話に出てくれたのは猫さんだったのね。ウフフ、タベチャイタイ」
廃病院での電話を思い出し、全身の黒毛が恐怖に逆立った。けれど、ムー太は暢気なもので、女の子に同意するように「むきゅう!」と元気よく鳴いた。
終わっていなかった怪異を目の当たりにして、クロの視界は真っ暗になった。同時に、思う。ムー太には敵わないかもしれない、と。
そして、力いっぱい叫びを上げた。
「にゃあああああああああああああ!? もう勘弁してくれにゃー」
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