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まったり地球での生活編

小さき吸血鬼

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 夏のある日。

 学校から帰宅するとムー太がリビングでバタバタ暴れていた。
 まんまるの体をひねるようにして連続でジャンプを放ってみたり、ボンボンをわたわたと動かして何か見えないものを振り払おうとしてみたり、絨毯じゅうたんの上をゴロゴロ転がってみたり。なにやら困っている様子。

 私が帰ってきたことに気づかないほど必死なようだ。

 声を掛けようとして気が付いた。
 何かがムー太の周りを飛んでいる。黒くて小さい点のような何か。
 不規則な動きで飛び回り、獲物を死角から強襲する小さな略奪者。鋭い針を突き刺して血をすすり糧とする忌まわしき存在。

「ムー太。ぺちんとやるのよ」

 両の手を強めに叩いてぺちんと音を鳴らす。
 私の存在に気が付いたムー太は笑顔を見せ、そして勇ましく「むきゅう」と鳴いてみせると、両のボンボンをぽふんと叩いてみせた。まったく見当違いの方向に。

「違うのよムー太。拍手するんじゃないの。あそこを飛んでる蚊に向かってぺちんとやって撃退するのよ」

 今度こそ了解したとばかりにムー太は鳴いて、飛翔する黒い点に向かってボンボンをぽふんと合わせにいく。しかし、そう簡単に捉えることはできない。変則的な動きに翻弄ほんろうされ、ムー太の視線は天井のあちこちに向けて彷徨っている。

 蚊はつかず離れずの距離を保ちつつ、ムー太の隙を突いて反撃に出てくる。けれど、隙間なく生え揃ったモフモフの白毛が簡単に血を吸うことを許さない。白毛の表面に取り付いても、ムー太が暴れると針を刺すところまでいけないのだ。

 一進一退の攻防。
 何度同じことが繰り返されただろう。
 その瞬間はとうとう訪れた。

 ぽふん。
 ムー太のボンボンがついに蚊の動きを捕えた。
 辺りを注意深く見てみても、ムー太の周りを滑空する黒い点はもう見当たらない。

 一安心。

 と、そこで私は己の失策に気が付いた。
 蚊がすでに血を吸っていた場合、ムー太のボンボンが血で汚れてしまうではないか。
 すぐに確認しなければ。
 両ひざを折って腰を下ろし、ボンボンの目前に鼻先を持っていく。

「ムー太。ボンボンを離してもらえる?」

 ムー太は言われたとおりにボンボンをゆっくり離した。
 それは予想だにしなかった。赤い染みができていないか注視する私の目の前を、黒い点が高速でこちらに向かってきたのだ。その不意打ちに対し、私は背を仰け反らせて回避した。

「びっくりしたぁ」

 ムー太は目をパチクリさせて不思議そうに私を見上げている。
 小さき吸血鬼は少し離れた上空を旋回するように飛んでいる。
 途端に笑いがこみあげてきた。

「ぷっ。ふふふ。さすがムー太」

 ムー太は少し不満そうに鳴いた。頬と体が少し膨らんでいる。どうして笑われたのかわからず、それが不満らしい。

 白く柔らかな毛の生えたボンボンは蚊を殺傷することもできなかった。どころか傷一つついていないではないか。攻撃力0の攻撃。実にムー太らしい。
 あるいはそもそも、ムー太に蚊を傷つけるつもりなど最初からなかったのかもしれない。平和主義者のムー太は小さな命を摘むことさえ嫌がった。だから包み込むようにして大事に保護するように捕まえたのかもしれない。

 いずれにせよ、ムー太らしく微笑ましい。

 しかし、自力で解決できないというのは少し問題だ。私がいる時ならいいけれど、いない時に襲われたら今のやりとりをエンドレスで続けることになる。ムー太に蚊を退ける力がない以上、必ずそうなる。

 と、そこで私はあることを思い出した。

「そういえば物置に」



 ◇◇◇◇◇

 ぐるぐると細い渦を巻く緑色の物体。渦の一番外側には赤い火が灯っている。立ち上る煙。燃え尽き崩れ落ちる灰。それは蚊を寄せ付けぬ聖域を作り上げる装置である。

「要するに蚊取り線香なんだけど」

 ムー太は今、作り出された聖域――リビングの窓際――に陣取って頑なに動こうとしない。よっぽど気に入ったのか「ご飯よー」と、手招きして呼んでみてもその場から動こうとせず「むきゅう」とだけ返事を返す。心身ともに安らいだ、とでも言いたげな緩んだ顔でぽけーっとくつろいでいる。

 なんだか負けた気分になった。相手は無機物だというのに。
 悔しいけれど、ムー太を蚊から守れるのは私ではなく、蚊取り線香だったというわけだ。守護者の傍らから離れようとしないのはそのため。本来、そのポジションは私のものだったはずなのに。
 いや、こう考えてはどうか。ムー太を守ることのできる蚊取り線香を用意したのは私なのだから、ムー太を守ったのは私なのだ。

 と、負け惜しみをほざいてみる。

 しかし、やっぱり少し悔しかったので、蚊取り線香を持ってその場から移動してみた。それはつまり、聖域の有効範囲が変わるということ。有効範囲からあぶれないように、ムー太は慌てて私の後ろをぴょんぴょんついて来る。
 ご飯を食べるのだからテーブルまで移動しなければならない。だからこれは、決して意地悪などではなく、腰の重い子供を誘導するようなものだ。そう自分に言い聞かせる一方で、しかし、慌てるムー太の様子が可笑しくてつい笑みがこぼれてしまうのは、やっぱり意地が悪いからなのかもしれない。
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