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3.夜道を歩く

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 初めて動く食べ物を見てから、何日も経った。
 頭の中には、街の光景がこびりついている。
 いったい、世間では、何が起きているのか。気になって仕方がない。
 だけど、部屋から出ることができない。

 部屋の扉を開けて、外に出る。それだけで、母が反応した音がする。
 トイレに行って、部屋に戻ると、小さな溜め息が耳に届くのだ。
 居間まで行って、母の前に姿を現せば、涙を浮かべて僕を見るだろう。これまで散々母を傷付けてきたのだと、まざまざと突きつけるように。

 分かっている。たくさん心配をかけたのだ。母が悪い訳じゃない。
 だけど、壊れた僕の心には、母の痛みを受け入れる余裕などなかった。
 何にも気づかない振りをしてほしい。
 でもきっと、そんなのは無理なんだ。
 一度レールから外れた僕は、レールに近付こうとするだけで、周囲の意識を引いてしまう。

 怖い。

 だから、外に行きたいと思っても、部屋から出ることができなかった。



 静かな、静かな夜。もう、みんな眠っている。
 遠くから、犬の泣き声が聞こえる。ただ、それだけ。

 真っ暗な中、僕は部屋を抜け出した。
 玄関にある靴を使えば、きっと気付かれてしまう。騒ぎになったら、家に帰れなくなる。
 だから、買ったままクローゼットにしまっていた靴を履いて、外へ出た。
 音を立てないように注意しながら、ドアを閉める。

 僕は夜道を歩く。

「うみゃあっ!」
「うわあっ!?」

 声に驚いて振り返ると、後ろでチーズが猫に襲われていた。
 猫がチーズを認識している。
 幻覚を見ているわけではないと分かり、安心感を覚えながら、僕は首を捻る。
 これは、助けるべきなのだろうか?

「た、助けてー」

 チーズが助けを求めた。
 困惑しながらも、僕はチーズの下へ向かう。
 手で払うようにして野良猫を追い払うと、チーズがほっと胸を撫で下ろしながら立ち上がる。

「ありがとう。助かったよ。これ、お礼にどうぞ」

 差し出されて、反射的に手を出してしまった。
 掌に乗せられたのは、チーズ。

「あ、大丈夫だよ? 奥のほうから取ったから、綺麗だよ」

 手の上のチーズを凝視していた僕に、何を思ったのか、チーズはそう言い残して去っていった。

 いや、これ、どうしろと? 食べていいのか? 食べられるのか?

 色んな疑問が、頭の中を駆け巡る。

 日が昇るまでには、時間があった。でも、財布の中にあるのは、わずかな金額。
 公園に向かい、ベンチに腰掛ける。

 水が止まった噴水。その向こうにあるベンチに、三人組が座っていた。
 こんにゃく。はんぺん。しらたき。
 何かをぼそぼそと語り合っている。きっと気のせいだろう。

 僕は暗い夜空を見上げながら、手の中にあったチーズを齧る。
 チーズの味がした。

 僕が引きこもっていた三年の間に、いったい何があったのか――。
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