上 下
45 / 103

岩魚と河童 二

しおりを挟む
 川面に浮かぶ虫は、何とか陸に泳ぎ着こうと、手足を必死に動かしている。
 けれど水に適応していない小さな体が川の流れに逆らえるはずもなく、すぐに真夜が陣取る岩のすぐそばまで流れてきた。
 その溺れる虫を狙って、岩の下から銀色の魚影が顔を出す。

「あ、さか」

 言いかけた夜姫の声が途絶えた。影が覆ったかと思えば、ばしゃりと水音が耳を打ち、水しぶきが下から噴きあがってきた。
 虫を見つけて食いついてきた岩魚を、まるで猛禽類か野生の獣のように、真夜が岩の上から腕を突っ込んで捕まえたのだ。
 その勢いで飛び散った水しぶきにより、真夜の首からぶら下がっている東袋ごと、夜姫はずぶ濡れである。

「ありゃりゃ」

 濡れた体を困ったように見下ろしていれば、すぐに千夜丸が水を吸い、乾かしてくれた。

「ちよー、ありがと」

 きゅっと抱きつく夜姫。千夜丸は嬉しそうにぽよよんっと揺れる。
 小さな種族たちが和気藹々としている間に、真夜の手には二尺を超える、大きな岩魚が握られていた。
 山鳩色の体には白い斑点がある。困ったように結ばれた口がどこかとぼけているように見えて、愛らしい。

「さかなー」

 と夜姫が手を伸ばした途端にぱかりと開いた口には、不揃いな牙が並ぶ。
 機嫌よく声を上げていた夜姫が、ちょっと怖気づいて身を引いたほどに、凶悪な口をしていた。彼らは結構獰猛なのだ。

 冷水を好む岩魚は、川の上流にしか生息していない。
 水が冷たく流れも急という、過酷な環境に適応できる魚はほとんどおらず、肉食である岩魚にとっても餌が少なく生きにくい場所である。
 それでも温かな川下へ下ることのできない彼らは、そこで生き延びなければならない。

 だからこそ、岩魚たちは食に対して貪欲だ。水中から狙えるものならば、何でも食べる。
 水中の小さな生物はもちろんのこと、川に落ちて溺れる虫も、川に入った蛙や蜥蜴も、口に入る大きさならば何でも食べるのだ。たまに鼠なんかも食べている。
 川から飛び出して空中で襲ったり、川辺に上ってびったんびったんしながら食べることもある。

 ちょっと魚の域を超えかけている気がしなくもないが、行動力溢れる個体でなければ生き伸びられないのだろう。
 真夜に捕まってしまった二尺の岩魚が送ってきた魚生を聞くことができれば、手に汗握る冒険談が出来上がるかもしれない。

「でかすぎるな。邪魔しやがって」

 この大きさまで生き延びてきた岩魚に対する尊敬も畏敬もなく、真夜は不遜な言葉を吐いた。

 海では大物が喜ばれるが、岩魚には通じない。
 一尺三寸(39センチ)を超えると不味いのだ。美食家ならば断じて手を出さない。美食家でなくても不味いだろう。
 だからといって、彼らを蔑ろに扱ってはいけない。

 厳しい生存競争を生き抜いてきた大物たちは、これから先も生き残る可能性が高い。彼らにはぜひとも、次世代に命を繋ぐことに専念してもらいたい。

 捕えた岩魚を川に戻して少し離れた岩に音もなく移ると、再び糸を付けた虫を上流に投げ飛ばす。
 今度の岩魚は早く気付いたようだ。
 魚影が目の端に映ると、真夜は糸を引いて近くまで誘き寄せ、足元で虫に食いつかせる。その瞬間に、反対の手で掴みとる。

「あう」

 ばしゃりという水音と共に、またしても夜姫はずぶ濡れになった。すぐに千夜丸が乾かしてくれるが、何度も濡れるのは楽しいものではない。

「今度は小さい。子はいらん」

 困った顔で見上げている夜姫になど気付かず、真夜は掴んだ岩魚を見て眉根を寄せた。

 岩魚は上手く育てば十年以上生きる。それだけ長く生きられるのに川の上流が岩魚だらけにならないのは、それだけ生存率が低いからだ。
 無闇に捕えれば川から岩魚が姿を消してしまう。七寸(21センチ)以下の若い岩魚も、川に返してやる。
 小さいと捌くのも面倒なので、欲は掻かないほうがいい。
しおりを挟む

処理中です...