水、風、音

いのんちゅ

文字の大きさ
3 / 3

幻想曲

しおりを挟む
僕は4歳からピアノを弾いていたらしい。ピアノを始めた時の記憶はなく、物心ついた時から、気がつくとピアノを弾いていた。意識がある間は常にピアノを弾いていたような気がする。
それが母に強要されてなのか、自分の意思でなのかはもうはっきりと覚えていない。
達成感という言葉を知らない時分の、出来ない曲が出来るようになっていく達成感と、それを見聞きして喜ぶ母、堅物な父がコンクールで賞を取ると硬い口角を緩め喜んでいたことが印象的に記憶に残っている。

十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人。

そんな言葉の多分に漏れず、僕も10歳までは神童だった。
それも当然の話だった。
僕は誰よりも早くピアノをしていたし、そこそこ練習もしていた。当時同年代の子よりもやっていた。だからうまかった。しかしそんな輝かしい栄光の時代も、それこそ10歳を超えたあたりからは崩れ始めた。
僕よりも早くピアノの始め僕より練習しているやつ。両親が音楽家で英才教育を施されるやつ。才能。

僕の家も決して貧乏なわけではなかったと思う。
恐らく僕のためだけに、両親は家に防音機能のある部屋と、グランドピアノとは言わないが、ちゃんとしたピアノを用意してくれた。
週4回そこそこに名のある先生が教えに来てくれたし、両親に頼めばレッスンが休みの日でも来てくれる人がいた。
10歳の時まではそれが最上の環境だと疑いもしなかった。同級生に家にピアノがある子は稀だったし、ピアノをこれだけきちんと習っている子もいなかった。
実際今思い返しても恵まれていたと思う。
それでも上には上がいる。
全国コンクールでのことだった。

「グランドピアノが家にある」
「学校を休んで練習していた」
「音楽家の母に毎日教えてもらっている」

そんな話を聞き、実際に彼らの演奏を聞き、環境の差に、覚悟の違いに、レベルの差に、才能の差にショックを覚えた。
僕が今までいかにぬるま湯で時を過ごしてきたかよくわかってしまった。

しかしそれでも僕にはピアノしかなかった。
ピアノに全てをかけた気になっていて、ピアノに全力を注いでるつもりになっていた。
そういったアイデンティティの喪失。
それでも中途半端に片足を突っ込んでしまったために、僕の世界はピアノを中心に回っていた。
ピアノ以外の人とのコミュニケーションを知らず、今更それをやめて別の道を考えることは出来なかった。
怖かったのだ。

そこからは泥沼だった。焦燥感に駆られた集中力散漫な練習をひたすら続けては結果を得られず、非効率な練習を繰り返す悪循環に陥っていた。
高校2年生の時だ。僕は唐突にピアノを弾くことをやめた。
何か切っ掛けがあったわけではない。中学生からずっと地続き行っていた、そんな焦燥の日々に、ふっと糸が切れてしまったのだ。ピアノをやめて改めて感じた自分の空っぽさに、虚無感という言葉では足りない白過ぎる感情。
挫折という言葉は適切ではないような気がした。僕は挫折と呼べるほどにピアノにかけていたのだろうか。いっそ燃え尽きるほどの挫折感だったならば、どれだけ良かっただろう。

僕は人生をかけたつもりで挫折すらすることが出来なかった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...