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内地への帰還
二〇一空壊滅の報
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1944年9月下旬。東京の自宅で過ごした最後の夜明けは
黒田光正大尉にとって、重く、そして清々しいものだった。
彼は、立見孝六郎中佐の誘いを受け入れるという、人生最大の決断を下した。
もはや、後ろを振り返るつもりはなかった。
彼の「堅実」の哲学は、個人の生還から、本土防空という大義へと昇華されていた。
朝食を終え、黒田は光子と向かい合った。
「行ってくる、光子」
「はい、光正さん。お気をつけて」
光子の瞳は、涙をこらえているようだったが
その表情には一片の不安もなかった。彼女は
夫が「本土の盾となる」という新たな使命を背負ったことを理解し
その決意を尊重していた。
「私は、鳴尾へ向かう。そこで、立見中佐と合流し、新しい航空隊を作る」
黒田は、静かに言った。
「今回の任務は、日本の空を鉄壁に守り抜くことだ。
決して無謀な戦いはしない。必ず、生きて帰る」
「わかっています。あなたは、戦果ではなく、生還のプロですもの」
光子は微笑み、黒田の軍帽の埃をそっと払った。
「私からの願いはただ一つ。あなたの『堅実』は
あなた自身のためだけでなく
あなたが守ろうとする仲間たちのためにも使ってあげてください」
「ああ。誓おう」
黒田は、光子を強く抱きしめた。
この温もりを、再び戦場の地獄に身を投じる彼の唯一の精神的な支えとして
胸に刻み込んだ。彼は、妻の愛情という「帰るべき場所」こそが
自らの「堅実な戦術」の源泉であることを、改めて深く認識した。
自宅を出た黒田は、鳴尾飛行場へ向かう前に
横須賀の海軍人事部へ立ち寄った。
これは、正式に原隊への復帰命令を取り消し
立見中佐の特命部隊に合流する手続きを行うためだった。
人事部の廊下は、いつも以上に重苦しい空気に満ちていた。
士官たちは、皆、厳しい表情で、ひそひそと何かを話し合っている。
黒田は、手続きを終え、人事担当の田辺少佐から新しい辞令を受け取ろうとした。
しかし、田辺少佐は書類を渡し終えると、沈痛な面持ちで黒田を呼び止めた。
「黒田大尉。一つ、お伝えしなければならないことがあります」
「なんでしょうか」
田辺少佐は、声を潜めた。
「貴官の原隊であった第二〇一海軍航空隊の
最新の戦訓が先ほど入電しました。
彼らは、フィリピン方面の第一航空艦隊に転籍していましたが……」
彼は、一瞬言葉を詰まらせ、喉を鳴らした。
「セブ島での米軍機動部隊との激戦で、
甚大な被害を受けました。残存機は数機。実質、部隊は壊滅です」
黒田の全身に、冷たい衝撃が走った。彼の脳裏に、ラバウルで苦楽を共にした、無数の戦友たちの顔が浮かんだ。彼らが、トラックからフィリピンへと転戦し、最後の決戦に挑んでいることは知っていた。だが、「半壊」という言葉は、想像を絶する現実だった。
「……生存者は」黒田は、絞り出すような声で尋ねた。
「多くはありません。搭乗員のほとんどが未帰還です。」
田辺少佐は、哀れむような目で見つめた。黒田は、言葉が出なかった。
彼は、一ヶ月前に原隊復帰の辞令を受け、義理と情で苦悩した。
もし、あの時、立見中佐の誘いを断り、そのまま復帰していれば……。
黒田は、人事部を出て、冷たい石畳の上に立ち尽くした。
(私の選択は、正しかった)
彼の「堅実」な戦術が、彼自身の命を救ったのではない。
光子の助言と、立見中佐の招集が
彼を「未来のために生かす道」へと導いたのだ。
彼は、あの消耗戦に身を投じていたら、今頃、セブ島の海に沈んでいたかもしれない。
しかし、安堵は一瞬で、激しい怒りへと変わった。
「くそっ……!」
彼は、握りしめた拳を震わせた。森田一飛曹の死
そして、今、セブ島で散った全ての戦友たちの顔。
彼らは、零戦の限界を知りながら、日本の空を守るために散っていった。
(トラック、そしてセブで、私の仲間たちを屠った
敵機動部隊……その戦術、その力を、私は知っている!)
黒田の心に、個人的な「仇討ち」の戦意が、熱く燃え上がった。
彼の「堅実」な戦術は、生き残るためのものだ。
だが、その生還の目的は、敵を叩き潰すことへと繋がった。
生き残って、紫電改という、零戦とは比較にならない
「確実な火力」を持った機体に乗ること。
そして、立見中佐の提唱する「戦闘機掃討」で
本土の空に二度と敵戦闘機を近づけさせないこと。
それが、散っていった戦友たちへの、唯一の弔いである。
黒田は、人事部の建物を背にし、立ち止まることなく駅へと急いだ。
彼の足取りは、もはや迷いを一切含んでいなかった。
「紫電改三四五」。
彼は、立見の構想する新しい部隊に、自らの全てを捧げる決意を固めた。
彼は、ラバウルの地獄で得た「生きた戦訓」という名の財産と
「生き残ることへの執着」という名の熱い使命感を、本土防空の最後の砦に持ち込むのだ。
目指すは、兵庫県・鳴尾飛行場。
そこで、黒田は、立見中佐、そして後に戦闘504飛行隊を率いることになる
蜜田峰壮大尉との運命的な出会いを果たす
「堅実」の黒田と、「破天荒」の蜜田という対照的な二人のエースが
「紫電改三四五」という最後の精鋭部隊を創り上げ
本土決戦の空へと挑む、激闘の物語が、今、幕を開ける。
黒田光正大尉にとって、重く、そして清々しいものだった。
彼は、立見孝六郎中佐の誘いを受け入れるという、人生最大の決断を下した。
もはや、後ろを振り返るつもりはなかった。
彼の「堅実」の哲学は、個人の生還から、本土防空という大義へと昇華されていた。
朝食を終え、黒田は光子と向かい合った。
「行ってくる、光子」
「はい、光正さん。お気をつけて」
光子の瞳は、涙をこらえているようだったが
その表情には一片の不安もなかった。彼女は
夫が「本土の盾となる」という新たな使命を背負ったことを理解し
その決意を尊重していた。
「私は、鳴尾へ向かう。そこで、立見中佐と合流し、新しい航空隊を作る」
黒田は、静かに言った。
「今回の任務は、日本の空を鉄壁に守り抜くことだ。
決して無謀な戦いはしない。必ず、生きて帰る」
「わかっています。あなたは、戦果ではなく、生還のプロですもの」
光子は微笑み、黒田の軍帽の埃をそっと払った。
「私からの願いはただ一つ。あなたの『堅実』は
あなた自身のためだけでなく
あなたが守ろうとする仲間たちのためにも使ってあげてください」
「ああ。誓おう」
黒田は、光子を強く抱きしめた。
この温もりを、再び戦場の地獄に身を投じる彼の唯一の精神的な支えとして
胸に刻み込んだ。彼は、妻の愛情という「帰るべき場所」こそが
自らの「堅実な戦術」の源泉であることを、改めて深く認識した。
自宅を出た黒田は、鳴尾飛行場へ向かう前に
横須賀の海軍人事部へ立ち寄った。
これは、正式に原隊への復帰命令を取り消し
立見中佐の特命部隊に合流する手続きを行うためだった。
人事部の廊下は、いつも以上に重苦しい空気に満ちていた。
士官たちは、皆、厳しい表情で、ひそひそと何かを話し合っている。
黒田は、手続きを終え、人事担当の田辺少佐から新しい辞令を受け取ろうとした。
しかし、田辺少佐は書類を渡し終えると、沈痛な面持ちで黒田を呼び止めた。
「黒田大尉。一つ、お伝えしなければならないことがあります」
「なんでしょうか」
田辺少佐は、声を潜めた。
「貴官の原隊であった第二〇一海軍航空隊の
最新の戦訓が先ほど入電しました。
彼らは、フィリピン方面の第一航空艦隊に転籍していましたが……」
彼は、一瞬言葉を詰まらせ、喉を鳴らした。
「セブ島での米軍機動部隊との激戦で、
甚大な被害を受けました。残存機は数機。実質、部隊は壊滅です」
黒田の全身に、冷たい衝撃が走った。彼の脳裏に、ラバウルで苦楽を共にした、無数の戦友たちの顔が浮かんだ。彼らが、トラックからフィリピンへと転戦し、最後の決戦に挑んでいることは知っていた。だが、「半壊」という言葉は、想像を絶する現実だった。
「……生存者は」黒田は、絞り出すような声で尋ねた。
「多くはありません。搭乗員のほとんどが未帰還です。」
田辺少佐は、哀れむような目で見つめた。黒田は、言葉が出なかった。
彼は、一ヶ月前に原隊復帰の辞令を受け、義理と情で苦悩した。
もし、あの時、立見中佐の誘いを断り、そのまま復帰していれば……。
黒田は、人事部を出て、冷たい石畳の上に立ち尽くした。
(私の選択は、正しかった)
彼の「堅実」な戦術が、彼自身の命を救ったのではない。
光子の助言と、立見中佐の招集が
彼を「未来のために生かす道」へと導いたのだ。
彼は、あの消耗戦に身を投じていたら、今頃、セブ島の海に沈んでいたかもしれない。
しかし、安堵は一瞬で、激しい怒りへと変わった。
「くそっ……!」
彼は、握りしめた拳を震わせた。森田一飛曹の死
そして、今、セブ島で散った全ての戦友たちの顔。
彼らは、零戦の限界を知りながら、日本の空を守るために散っていった。
(トラック、そしてセブで、私の仲間たちを屠った
敵機動部隊……その戦術、その力を、私は知っている!)
黒田の心に、個人的な「仇討ち」の戦意が、熱く燃え上がった。
彼の「堅実」な戦術は、生き残るためのものだ。
だが、その生還の目的は、敵を叩き潰すことへと繋がった。
生き残って、紫電改という、零戦とは比較にならない
「確実な火力」を持った機体に乗ること。
そして、立見中佐の提唱する「戦闘機掃討」で
本土の空に二度と敵戦闘機を近づけさせないこと。
それが、散っていった戦友たちへの、唯一の弔いである。
黒田は、人事部の建物を背にし、立ち止まることなく駅へと急いだ。
彼の足取りは、もはや迷いを一切含んでいなかった。
「紫電改三四五」。
彼は、立見の構想する新しい部隊に、自らの全てを捧げる決意を固めた。
彼は、ラバウルの地獄で得た「生きた戦訓」という名の財産と
「生き残ることへの執着」という名の熱い使命感を、本土防空の最後の砦に持ち込むのだ。
目指すは、兵庫県・鳴尾飛行場。
そこで、黒田は、立見中佐、そして後に戦闘504飛行隊を率いることになる
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「堅実」の黒田と、「破天荒」の蜜田という対照的な二人のエースが
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