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岐路
決断の瞬間
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昭和十六年十月、日本はまさに選択の淵に立たされていた。
首相官邸の最も奥まった場所にある大会議室は、
その日の緊張感をそのまま映し出すかのように、重苦しい静寂に包まれていた。
磨き上げられた長机には、陸海軍の最高首脳、内閣の閣僚たちが居並び、
全員が硬い表情で、これからなされるであろう議論の行方を見守っていた。
室内の空気は澱み、重厚なカーテンが陽光を遮る中でも、
それぞれの額に滲む汗が、この場の尋常ならざる熱気を物語っていた。
この日の議題は、南方に軍事行動を起こすか否か、
そして、もし行動を起こすならば、対米英蘭との関係をどうするか、
という国家存亡に関わる重大なものだった。会議は既に数時間に及び、
主流を占める強硬派の意見が、徐々に大勢を占めつつあった。
彼らの主張は単純明快だった。
「今を逃せば機会はない。乾坤一擲、米国を叩き、
資源を手に入れ、一気に優位な講和を結ぶべし」というものだ。
しかし、その場には、彼らの熱狂とは異なる、
冷徹な現実を突きつける声も存在した。高倉義人海軍少佐、
野上誠一郎陸軍中佐、そして倉沢美智子外務省条約局員は、
それぞれの立場から、これまで練り上げてきた提言を携え、
この最高意思決定の場へと臨んでいた。彼らは正式な会議の席ではなく、
事前に、あるいは会議の休憩中に、穏健派の要人や、
あるいは首相や海軍大臣といった個別の最高責任者に対し、
直接働きかけを行うという、極めてリスクの高い方法を選択していた。
その日、及川海軍大臣の執務室で、高倉義人は、
改めて自身の分析報告書と、そこに込められた日本の未来への警鐘を、
大臣に語りかけていた。
「…大臣。私の分析が示す通り、アメリカの工業力は、
我が国とは比較になりません。彼らは、一年足らずで
我が国の全保有空母を上回る数を建造し、数ヶ月で戦艦を、
そして膨大な量の輸送船を、まさしく海に『沸かす』ことができるのです。
もし、開戦劈頭に真珠湾攻撃を行えば、確かに一時的な打撃は与えられます。
しかし、それがアメリカ国民の徹底的な怒りを買うことは避けられません。
彼らは必ず、その物量を背景に、想像を絶する復讐を挑んでくるでしょう」
高倉の声は、決して感情的ではなかったが、その一言一言には
数字が物語る冷酷な現実と、そこから導き出される
破滅への予見が込められていた。大臣の顔には、
その話を聞くにつれて、深い苦悩の影が差していた。
彼は高倉の報告書を何度もめくり、数字の羅列に目を凝らしている。
「…しかし、では、何もせずこのまま座して死を待てと?」
大臣の声には、疲労が滲んでいた。
「決してそうではありません、大臣」
高倉は力強く答えた。
「武力行使は不可避でしょう。しかし、その目的を明確に限定すべきです。
南方資源地帯の確保に全力を注ぎ、そこを速やかに、確実に制圧する。
そして、確保後は、そこを死守するのではなく、国力に見合った現実的な
防衛ラインを設定し、それ以上の無謀な拡大は避ける。そして、何よりも
その成果を外交的カードとして、早期講和に持ち込むことです。短期決戦で
アメリカの戦意を挫くという幻想は捨てるべきです。彼らを追い詰めすぎず、
あくまで交渉のテーブルに着かせることを最終目標とすべきです」
その頃、首相執務室では、野上誠一郎が、
東条陸軍大臣と、南方作戦に関する兵站の困難さを力説していた。
野上は、決して声を荒げることはなかったが、
その言葉には、大陸で血と汗を流した兵士たちの現実が凝縮されていた。
「…大臣。地図上では、マレー半島も、蘭印も
点にしか見えないかもしれません。しかし、そこには広大なジャングルがあり
湿地帯があり、疫病の危険があります。そして、何よりも
そこに兵力と物資を輸送し続けるための、絶望的な距離と
補給線の脆弱性があります。我々は、大陸ですら兵站に苦しみました
太平洋を越え、何千キロもの距離を、敵の潜水艦や航空機の脅威に晒されながら
膨大な物資を輸送し続けることなど、現実的には不可能です」
野上は、陸軍の現状の輸送能力
そして燃料の備蓄量を具体的な数字を挙げて説明した。
「確保した後の戦線維持は、更に困難を極めます。
もし、アメリカが本格的に反攻に転じた場合、
我々の輸送船は次々と海の藻屑となるでしょう。兵士は飢え、
弾薬は尽き、やがては無益な玉砕を強いられることになる。
精神論で腹は満たされません。物資がなければ、兵士は戦えません。
どうか、この現実を直視していただきたい」
野上の言葉は、陸軍大臣の顔に、深い疲労と、
隠しきれない不安の色を刻みつけた。彼自身も
陸軍内部の兵站の甘さや、大陸戦線の泥沼化に頭を悩ませていたが、
ここまで具体的に、そして絶望的に現状を突きつけられたことはなかった。
そして、内大臣の執務室で、倉沢美智子は、
国際情勢と外交の最前線から見た日本の孤立を、静かに、しかし情熱的に訴えていた。
「…内大臣閣下。現在の国際情勢は、
我々が楽観できるものでは決してありません。アメリカは、
我が国の中国大陸での行動に対し、最早、経済制裁という段階を超え、
我々を『侵略国家』と見なしています。彼らの国民感情は極めて硬化しており、
もし、我々が直接的な攻撃を加えるようなことがあれば、
彼らは徹底的な報復を誓うでしょう。外交チャンネルは、
今、まさに細い糸一本で繋がっているようなものです」
倉沢は続けた。
「軍部からの『外交で時間稼ぎをしろ』という指示は
矛盾しています。時間稼ぎをする一方で、裏では南進の準備を進め、
しかも外交官には一切の妥協を許さない。これでは、
我々は単なる偽りの交渉役でしかありません。
もし、開戦せざるを得ないとしても、外交の扉は決して
完全に閉ざすべきではありません。戦いの目的が限定され、
無用な挑発が避けられるのであれば、将来的に講和への道を探る外交努力は、
不可欠です。戦争が外交の延長であるならば
外交なくして戦争を終えることはできません」
彼女の言葉は、内大臣の心に深く響いた。
天皇陛下に最も近い立場である彼は、常に日本の未来、
そして皇室の安泰を案じていた。そして、陛下自身が、
いたずらに戦火を広げることには慎重な姿勢を示していることも知っていた。
倉沢の提言は、外交という軟着陸の可能性、
あるいは戦争を限定的にするための唯一の道を示しているように思えた。
その日の大本営政府連絡会議は、終盤に差し掛かっていた。
最終的な決定が下されようとする中、これまで発言の機会を与えられなかった
あるいは自ら控えめにしていた者たちにも、焦りの色が広がり始めていた。
「総長、大臣方! このままでは、帝国は自滅の道を歩むことになります!」
突如、沈黙を破って立ち上がったのは、富永恭二少将だった。
彼の顔は紅潮し、声は怒りに震えていた。
彼らは、高倉たちによる水面下での働きかけが、
一部の指導層に影響を与え始めていることを察知していたのだ。
「私は、一部の『弱腰』な意見に対し、断固として反論します!
我々は、今、まさに民族の存亡をかけた戦いに臨もうとしているのだ!
米国の物量がどれほどであろうと、それは精神力、
我が国体が持つ無敵の魂の前には無意味である!
『一撃講和』の機は今を措いて他にない! ハワイを叩き
米太平洋艦隊を壊滅させれば、奴らは恐れをなし
必ずや講和を求めてくる! 彼らの魂は脆い!」
富永は、テーブルを叩きつけんばかりの勢いで叫んだ。
「一部には、ハワイへの攻撃を避けるべきだなどという、
臆病な意見もあると聞きました! それは、帝国軍人の魂を捨てたも同然だ!
『非国民』と罵られても文句は言えん! 今、躊躇すれば
帝国は永遠に米英蘭の経済的隷属に甘んじることになるのだ!
我々がこのバスに乗らないとすれば、一体いつ乗るのだ!?」
彼の言葉は、会議室に激しい反発の波を起こした。
強硬派の将校たちが次々に「そうだ!」「富永少将の言う通りだ!」
と賛同の声を上げた。彼らの目には、高倉たちが必死に訴えかけた現実の数字も
兵站の悪夢も、外交の限界も映っていなかった。
彼らが見ているのは、「勝利」という幻影と、それを得るための
「精神力」という万能薬だけだった。部屋の空気は一触即発の様相を呈し
罵声にも似た声が飛び交い始めた。
その激論の中、近衛首相は、顔色一つ変えず、
しかしその内では深い葛藤を抱えていた。強硬派の熱狂、
富永少将の迫力ある主張は、彼自身の焦燥感を煽る。
しかし、同時に、高倉たちがもたらした冷徹な数字、
野上が訴える兵站の現実、そして倉沢が指摘する外交の隘路は、
彼の心を深く突き刺していた。このまま無計画に全面戦争に突入すれば、
日本がどのような未来を迎えるか、漠然とした不安が彼の胸中を占めていた。
陛下もまた、いたずらに戦火を拡大することには常に懸念を示されている。
首相は、ゆっくりと、しかし確固たる調子で発言した。
「…静粛に。皆の意見はよく分かった」
そして、彼は重い口を開いた。その言葉は、
それまでの激論とは対照的に、静かで、しかし明確な決断を示唆するものだった。
「南方の資源確保は、帝国の生存にとって喫緊の課題であり
もはや武力行使も視野に入れざるを得ない段階にあることは理解する」
富永たちは、勝利を確信したかのように顔を見合わせた。
しかし、首相の言葉はそこで終わらなかった。
「しかし、その目的を明確に限定する必要がある。
いたずらに戦線を拡大し、無用な敵意を招くことは、
帝国の国益に反する。故に、対米英蘭への武力行使は
あくまで南方資源地帯の確保に限定する」
首相は、一呼吸置いた。
「…第一撃において、アメリカ本土、そしてハワイへの直接攻撃は行わない。
フィリピン、マレー、蘭印への攻撃に集中し、速やかにこれらを制圧する。
真珠湾奇襲は、行わない。その後の戦局において
アメリカが徹底抗戦の意思を明確に示し
かつ我が方の戦略的要衝を脅かす場合を除き、無用な挑発は避けるものとする」
この言葉に、会議室は一瞬、水を打ったように静まり返った。
富永は信じられないといった表情で固まり、
他の強硬派の顔にも同様の驚きと、隠しきれない不満の色が浮かんだ。
「な、何を…」富永の口から、呻きのような声が漏れた。
首相は構わず言葉を続けた。
「そして、対米交渉のチャンネルは、完全に閉ざさない。
戦局の推移を見極め、しかるべき時が来れば、
外交を通じて講和の道を探ることを忘れてはならない。
戦争の目的は、あくまで帝国の自存自衛と
共栄圏の確立であって無益な消耗戦を続けることではない」
この決定は、完全な開戦回避ではない。
しかし、史実の日本が選択した道とは、決定的に異なるものだった。
真珠湾攻撃を第一撃としないという方針は、
アメリカ国民の間に爆発的な憎悪を生み出すことを避け、
その後の戦争の性格を大きく変える可能性を秘めていた。
目的を限定し、講和を見据えるという視点も、これまでの軍部の思想とは一線を画していた。
会議は、その日のうちに、この方針で進むことが決定された。
富永恭二やその周辺の強硬派は、
最後まで憤懣やるかたないといった表情を隠さなかったが、
首相の最終的な決断と、
それに続く海軍大臣、陸軍大臣、内大臣らの承認によって
彼らの反論は押し切られた形となった。
高倉義人、野上誠一郎、倉沢美智子は、それぞれの場所で、この決定を聞いた。
完全な平和への道ではない。むしろ、
これから血と汗が流される厳しい戦いが待っている。
しかし、彼らが訴え続けた現実が、わずかではあるが、
最高指導者の心を動かしたのだ。破滅的な総力戦への道を避け、
より限定的で、講和を目指すという方針が打ち出されたことは、
彼らにとって、一縷の希望だった。だが、彼らの胸中には、
同時に、この決定がどれほどの困難を伴うか、
そしてこれから訪れるであろう激動の時代への重い覚悟が、
静かに、しかし深く刻まれていた。彼らは、自らが歴史の歯車をわずかに、
しかし確実に動かしたことを自覚しながら、
これから始まる戦いの行方に、複雑な思いを抱いた。
首相官邸の最も奥まった場所にある大会議室は、
その日の緊張感をそのまま映し出すかのように、重苦しい静寂に包まれていた。
磨き上げられた長机には、陸海軍の最高首脳、内閣の閣僚たちが居並び、
全員が硬い表情で、これからなされるであろう議論の行方を見守っていた。
室内の空気は澱み、重厚なカーテンが陽光を遮る中でも、
それぞれの額に滲む汗が、この場の尋常ならざる熱気を物語っていた。
この日の議題は、南方に軍事行動を起こすか否か、
そして、もし行動を起こすならば、対米英蘭との関係をどうするか、
という国家存亡に関わる重大なものだった。会議は既に数時間に及び、
主流を占める強硬派の意見が、徐々に大勢を占めつつあった。
彼らの主張は単純明快だった。
「今を逃せば機会はない。乾坤一擲、米国を叩き、
資源を手に入れ、一気に優位な講和を結ぶべし」というものだ。
しかし、その場には、彼らの熱狂とは異なる、
冷徹な現実を突きつける声も存在した。高倉義人海軍少佐、
野上誠一郎陸軍中佐、そして倉沢美智子外務省条約局員は、
それぞれの立場から、これまで練り上げてきた提言を携え、
この最高意思決定の場へと臨んでいた。彼らは正式な会議の席ではなく、
事前に、あるいは会議の休憩中に、穏健派の要人や、
あるいは首相や海軍大臣といった個別の最高責任者に対し、
直接働きかけを行うという、極めてリスクの高い方法を選択していた。
その日、及川海軍大臣の執務室で、高倉義人は、
改めて自身の分析報告書と、そこに込められた日本の未来への警鐘を、
大臣に語りかけていた。
「…大臣。私の分析が示す通り、アメリカの工業力は、
我が国とは比較になりません。彼らは、一年足らずで
我が国の全保有空母を上回る数を建造し、数ヶ月で戦艦を、
そして膨大な量の輸送船を、まさしく海に『沸かす』ことができるのです。
もし、開戦劈頭に真珠湾攻撃を行えば、確かに一時的な打撃は与えられます。
しかし、それがアメリカ国民の徹底的な怒りを買うことは避けられません。
彼らは必ず、その物量を背景に、想像を絶する復讐を挑んでくるでしょう」
高倉の声は、決して感情的ではなかったが、その一言一言には
数字が物語る冷酷な現実と、そこから導き出される
破滅への予見が込められていた。大臣の顔には、
その話を聞くにつれて、深い苦悩の影が差していた。
彼は高倉の報告書を何度もめくり、数字の羅列に目を凝らしている。
「…しかし、では、何もせずこのまま座して死を待てと?」
大臣の声には、疲労が滲んでいた。
「決してそうではありません、大臣」
高倉は力強く答えた。
「武力行使は不可避でしょう。しかし、その目的を明確に限定すべきです。
南方資源地帯の確保に全力を注ぎ、そこを速やかに、確実に制圧する。
そして、確保後は、そこを死守するのではなく、国力に見合った現実的な
防衛ラインを設定し、それ以上の無謀な拡大は避ける。そして、何よりも
その成果を外交的カードとして、早期講和に持ち込むことです。短期決戦で
アメリカの戦意を挫くという幻想は捨てるべきです。彼らを追い詰めすぎず、
あくまで交渉のテーブルに着かせることを最終目標とすべきです」
その頃、首相執務室では、野上誠一郎が、
東条陸軍大臣と、南方作戦に関する兵站の困難さを力説していた。
野上は、決して声を荒げることはなかったが、
その言葉には、大陸で血と汗を流した兵士たちの現実が凝縮されていた。
「…大臣。地図上では、マレー半島も、蘭印も
点にしか見えないかもしれません。しかし、そこには広大なジャングルがあり
湿地帯があり、疫病の危険があります。そして、何よりも
そこに兵力と物資を輸送し続けるための、絶望的な距離と
補給線の脆弱性があります。我々は、大陸ですら兵站に苦しみました
太平洋を越え、何千キロもの距離を、敵の潜水艦や航空機の脅威に晒されながら
膨大な物資を輸送し続けることなど、現実的には不可能です」
野上は、陸軍の現状の輸送能力
そして燃料の備蓄量を具体的な数字を挙げて説明した。
「確保した後の戦線維持は、更に困難を極めます。
もし、アメリカが本格的に反攻に転じた場合、
我々の輸送船は次々と海の藻屑となるでしょう。兵士は飢え、
弾薬は尽き、やがては無益な玉砕を強いられることになる。
精神論で腹は満たされません。物資がなければ、兵士は戦えません。
どうか、この現実を直視していただきたい」
野上の言葉は、陸軍大臣の顔に、深い疲労と、
隠しきれない不安の色を刻みつけた。彼自身も
陸軍内部の兵站の甘さや、大陸戦線の泥沼化に頭を悩ませていたが、
ここまで具体的に、そして絶望的に現状を突きつけられたことはなかった。
そして、内大臣の執務室で、倉沢美智子は、
国際情勢と外交の最前線から見た日本の孤立を、静かに、しかし情熱的に訴えていた。
「…内大臣閣下。現在の国際情勢は、
我々が楽観できるものでは決してありません。アメリカは、
我が国の中国大陸での行動に対し、最早、経済制裁という段階を超え、
我々を『侵略国家』と見なしています。彼らの国民感情は極めて硬化しており、
もし、我々が直接的な攻撃を加えるようなことがあれば、
彼らは徹底的な報復を誓うでしょう。外交チャンネルは、
今、まさに細い糸一本で繋がっているようなものです」
倉沢は続けた。
「軍部からの『外交で時間稼ぎをしろ』という指示は
矛盾しています。時間稼ぎをする一方で、裏では南進の準備を進め、
しかも外交官には一切の妥協を許さない。これでは、
我々は単なる偽りの交渉役でしかありません。
もし、開戦せざるを得ないとしても、外交の扉は決して
完全に閉ざすべきではありません。戦いの目的が限定され、
無用な挑発が避けられるのであれば、将来的に講和への道を探る外交努力は、
不可欠です。戦争が外交の延長であるならば
外交なくして戦争を終えることはできません」
彼女の言葉は、内大臣の心に深く響いた。
天皇陛下に最も近い立場である彼は、常に日本の未来、
そして皇室の安泰を案じていた。そして、陛下自身が、
いたずらに戦火を広げることには慎重な姿勢を示していることも知っていた。
倉沢の提言は、外交という軟着陸の可能性、
あるいは戦争を限定的にするための唯一の道を示しているように思えた。
その日の大本営政府連絡会議は、終盤に差し掛かっていた。
最終的な決定が下されようとする中、これまで発言の機会を与えられなかった
あるいは自ら控えめにしていた者たちにも、焦りの色が広がり始めていた。
「総長、大臣方! このままでは、帝国は自滅の道を歩むことになります!」
突如、沈黙を破って立ち上がったのは、富永恭二少将だった。
彼の顔は紅潮し、声は怒りに震えていた。
彼らは、高倉たちによる水面下での働きかけが、
一部の指導層に影響を与え始めていることを察知していたのだ。
「私は、一部の『弱腰』な意見に対し、断固として反論します!
我々は、今、まさに民族の存亡をかけた戦いに臨もうとしているのだ!
米国の物量がどれほどであろうと、それは精神力、
我が国体が持つ無敵の魂の前には無意味である!
『一撃講和』の機は今を措いて他にない! ハワイを叩き
米太平洋艦隊を壊滅させれば、奴らは恐れをなし
必ずや講和を求めてくる! 彼らの魂は脆い!」
富永は、テーブルを叩きつけんばかりの勢いで叫んだ。
「一部には、ハワイへの攻撃を避けるべきだなどという、
臆病な意見もあると聞きました! それは、帝国軍人の魂を捨てたも同然だ!
『非国民』と罵られても文句は言えん! 今、躊躇すれば
帝国は永遠に米英蘭の経済的隷属に甘んじることになるのだ!
我々がこのバスに乗らないとすれば、一体いつ乗るのだ!?」
彼の言葉は、会議室に激しい反発の波を起こした。
強硬派の将校たちが次々に「そうだ!」「富永少将の言う通りだ!」
と賛同の声を上げた。彼らの目には、高倉たちが必死に訴えかけた現実の数字も
兵站の悪夢も、外交の限界も映っていなかった。
彼らが見ているのは、「勝利」という幻影と、それを得るための
「精神力」という万能薬だけだった。部屋の空気は一触即発の様相を呈し
罵声にも似た声が飛び交い始めた。
その激論の中、近衛首相は、顔色一つ変えず、
しかしその内では深い葛藤を抱えていた。強硬派の熱狂、
富永少将の迫力ある主張は、彼自身の焦燥感を煽る。
しかし、同時に、高倉たちがもたらした冷徹な数字、
野上が訴える兵站の現実、そして倉沢が指摘する外交の隘路は、
彼の心を深く突き刺していた。このまま無計画に全面戦争に突入すれば、
日本がどのような未来を迎えるか、漠然とした不安が彼の胸中を占めていた。
陛下もまた、いたずらに戦火を拡大することには常に懸念を示されている。
首相は、ゆっくりと、しかし確固たる調子で発言した。
「…静粛に。皆の意見はよく分かった」
そして、彼は重い口を開いた。その言葉は、
それまでの激論とは対照的に、静かで、しかし明確な決断を示唆するものだった。
「南方の資源確保は、帝国の生存にとって喫緊の課題であり
もはや武力行使も視野に入れざるを得ない段階にあることは理解する」
富永たちは、勝利を確信したかのように顔を見合わせた。
しかし、首相の言葉はそこで終わらなかった。
「しかし、その目的を明確に限定する必要がある。
いたずらに戦線を拡大し、無用な敵意を招くことは、
帝国の国益に反する。故に、対米英蘭への武力行使は
あくまで南方資源地帯の確保に限定する」
首相は、一呼吸置いた。
「…第一撃において、アメリカ本土、そしてハワイへの直接攻撃は行わない。
フィリピン、マレー、蘭印への攻撃に集中し、速やかにこれらを制圧する。
真珠湾奇襲は、行わない。その後の戦局において
アメリカが徹底抗戦の意思を明確に示し
かつ我が方の戦略的要衝を脅かす場合を除き、無用な挑発は避けるものとする」
この言葉に、会議室は一瞬、水を打ったように静まり返った。
富永は信じられないといった表情で固まり、
他の強硬派の顔にも同様の驚きと、隠しきれない不満の色が浮かんだ。
「な、何を…」富永の口から、呻きのような声が漏れた。
首相は構わず言葉を続けた。
「そして、対米交渉のチャンネルは、完全に閉ざさない。
戦局の推移を見極め、しかるべき時が来れば、
外交を通じて講和の道を探ることを忘れてはならない。
戦争の目的は、あくまで帝国の自存自衛と
共栄圏の確立であって無益な消耗戦を続けることではない」
この決定は、完全な開戦回避ではない。
しかし、史実の日本が選択した道とは、決定的に異なるものだった。
真珠湾攻撃を第一撃としないという方針は、
アメリカ国民の間に爆発的な憎悪を生み出すことを避け、
その後の戦争の性格を大きく変える可能性を秘めていた。
目的を限定し、講和を見据えるという視点も、これまでの軍部の思想とは一線を画していた。
会議は、その日のうちに、この方針で進むことが決定された。
富永恭二やその周辺の強硬派は、
最後まで憤懣やるかたないといった表情を隠さなかったが、
首相の最終的な決断と、
それに続く海軍大臣、陸軍大臣、内大臣らの承認によって
彼らの反論は押し切られた形となった。
高倉義人、野上誠一郎、倉沢美智子は、それぞれの場所で、この決定を聞いた。
完全な平和への道ではない。むしろ、
これから血と汗が流される厳しい戦いが待っている。
しかし、彼らが訴え続けた現実が、わずかではあるが、
最高指導者の心を動かしたのだ。破滅的な総力戦への道を避け、
より限定的で、講和を目指すという方針が打ち出されたことは、
彼らにとって、一縷の希望だった。だが、彼らの胸中には、
同時に、この決定がどれほどの困難を伴うか、
そしてこれから訪れるであろう激動の時代への重い覚悟が、
静かに、しかし深く刻まれていた。彼らは、自らが歴史の歯車をわずかに、
しかし確実に動かしたことを自覚しながら、
これから始まる戦いの行方に、複雑な思いを抱いた。
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