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一、出会いが全ての始まりだった。

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 五月、春なのに焼けるように熱くて、気温も三十度を超えた猛暑日のこと。最後の桜の花が花弁を落とした。
 それは、高校二年の俺に訪れた別れで、余りにも現実味の無い、淡い、不確かで、理解し難い、そんな曖昧な出来事だった。
 数ヶ月程前から膵臓の病気で入院していた姉が、つい数時間前にこの世を去った。余命宣告はされていたし、姉の体も徐々に衰弱していっていたのは分かっていた。しかし、これは俺たち家族に対する姉の最期までの気遣いだったのかもしれないが、姉の話す言葉や雰囲気、表情は、今まで通りのそれそのままのようだったから、少なくとも俺は、姉がこうも簡単に死んでしまうなんてことは微塵も考えていなかった。
 特に放課後なのだが、姉の入院していた病室を訪れるとほぼ毎回姉は起きていて、本当にこの人は病気なのだろうか、何かのドッキリではないのだろうかと周囲の人間を疑ったことも多々ある。
 そんなこんなで俺を少しばかり人間不信にしていた姉は、見舞いによった俺に沢山色々な話をしてくれた。
 自分は死んでしまうけれど、すずかは自分無しで生きていけるとは思えない、だとか、そう言ったかと思いきや、自分が死んだあと、お父さんと二人でお母さんを支えてあげてね、なんて使命を授けられたり。
 ちなみに、涼というのは俺の名前だ。女っぽい、とクラス替えの度に関わった人に言われるが、正直俺もそう思っているので言い返す言葉が出てきたことが無かった。真夏なのに嫌に涼しかった日に、熱を灯すかのように産声を上げたことがこの名前の由来のようだが、もっと他につけようがあったのではないかと思う。勇ましい産声ってことで、いさむとか。何故よりによって気温の方をとったのだろう。
 で、そんな姉も寝てばかりいると精神の病む時が何度かあって、そんな時姉が決まって話してくれたことがあった。これだけは何か悪い呪文のように脳裏に張り付いて離れない。
 それは『独りぼっちの世界で生きたい』というものである。この世界ではもう死んでしまってもいいから、次生きるならば独りぼっちの世界がいい、と。姉は俺と比べると人付き合いが上手く、短い生涯だったにしては大人と背を並べるくらいには顔が広かった。だから、もう人と関わることに疲れたのだと言っていた。だけどそんなことは叶わないから、知人とは離れて、どこか遠いところを転々としながら生活できたらいいと解決策まで導き出して、それはそれは楽しそうに暗い話をしていたものだ。自分だけが知らない景色を見ているというのが、その時の姉にとっては望ましい状況だったらしい。
 ちなみに、さっきは悪い呪文呼ばわりしたが、実は俺は、この話が割りと好きだった。自身の死を目の前にしている人間が見ている欲望の世界は、平然と我儘を漏らしながら生きている俺達が見ている欲望の世界とは違うように思えたから。なんだか姉の場合は、本当に生きることに疲れたが、それでもどこか、まだ生きるということに愛しみを抱いているように感じ取れたのだ。
 姉は時々憂うように、見舞いに来た俺や母さんたちの顔を見つめた。それはなんだか、母さんの微笑みなんかよりも安心感のある、優しくて、柔くて、儚い、そんな生温かい何かを伝えているようで、俺達はそれを受け取る度に目の奥をじんわりと温めた。
 姉が時折、悲しそうに語ることがあった。
 自分が死んだ後も、この世界は何事も無かったかのように過ぎていく。そんな当たり前のことを考えていると、自分がこの世界の中で本当にちっぽけな存在であることを知らしめられるようで、なんだか虚しくなる、と。
 確かに今日は晴れていて、焼けるように熱くて。姉の死なんて、彼女自身が言った通りこの世界に何の影響も及ぼしてはいなかった。
 それが俺にも、納得いかなかった。
 そうして俺は思い立ったように一時的に、約十七年間で知り尽くしたこの街を離れた。ここは、家から六駅分程の街にある神社で、何故こんな所に来たかというと、姉が言っていた『独りぼっちの世界』とやらを体験したかったからである。あまり見慣れていない街。知らない景色や知らない人に囲まれた環境というのは、どうだろう、姉の言っていた世界観の代わりに値するのだろうか。
 静かに日に焼かれる石畳の参道を、ガスンガスンと靴の踵で擦りながら進んで行く。こんな気温で景色だけ見れば、蝉なんかが鳴いているような気がしてくる。実際はカラッとした冷たい音が気温に反して包み込んでいるというのに。
 ふと空を見上げて姉の姿を探した。天から見守ってくれているのだとしたら、どうかその姿を見せてはくれないだろうか。にわかに吹いた風が少し強めに頬を撫でては過ぎてゆく。周囲の木々がざわざわと雑談を始め、グループからはぶられた葉が虚しくも宙を待った。それを受け止めた小さな池が、何かに感化されたように水面を揺らす。その底には、枯れた葉が何枚も重なっていた。
 そんな風がこの時、俺に何かを運んでくれたのだ。
 ほのかに嗅覚を触れた柑橘類の香りは、あたかも人間が隣で肩を並べているかのような現実的な距離感を思わせた。俺は訝しく思いながら辺りをくるくると見回した。目についたのは静まった木々の雑談と、車道を走る軽自動車、誰かが手放した風船。
 そして、何度も見たはずのその右隣に、身長は俺の方くらいの小柄な少女はいた。
 一瞬ゾッとしたが、確かに少女である。ついさっきまで誰もいなかったのに、まるでずっとそこにいたかのようにその少女は自然だった。いいや、俺からしたら圧倒的に不自然なのだが、その少女が俺を、そうさせていた。
「なあ、いつからいたの」
 尋ねても、少女は微動だにしなかった。また風が吹いて、少女の髪が揺れる。ふわふわと軽く踊った髪からは、先程の柑橘類の香りが放たれた。間違いない。あの瞬間から、彼女はずっとここにいたのだ。木々が今度は小さな声で話し始めた。
「お前、あの少女に気づいてたか」
「お前こそどうなんだよ」
「いや、彼女はいなかったよ。そう、いなかった」
 俺はもう一度彼女に尋ねる。
「なあ、おい、聞いてるか。いつからそこにいたんだ」
 すると彼女はハッとしたように、ぼんやりと何かを見つめていた目に力を入れた。自分に話しかけられていることにやっと気がついたようだ。
「私……なわけ無いか」
 だが、彼女はそう言いながらまたさっきよりも視線を落とし、悲しそうに頬を釣り上げた。この子、学校でいじめでも受けているのだろうか。そんなことを心配に思った。
「お前、お前であってるから」
 言いながら彼女の肩をチョンと突いて応答を期待する。ピクリと肩を震わせて、まるであり得ないものでも見たような表情になった少女は、俺の方を見た。そうしてなんだか、恐怖と安心とが混じったような何とも微妙な、くしゃっとした表情になって、口を開く。
「もしかして…私、に言ってるんですか」
「だからそう言ってるだろ」
 あり得ないとばかりに口に手を当て、溢れんばかりの感情を必死に抑えている彼女。何が彼女をそうさせているのか。なんだか大きな問題を抱えていそうだ。
「で何、そんなに俺関わりづらい?」
 はいって答えられたら流石にメンタル崩壊だ。姉が死んで、独りぼっちの世界(今はまだ分からないが)に来て、初対面の相手に関わりづらいと言われる。そんなことがあろうことか。俺は唾を飲み込んだ。
 はいって答えられたら泣いてやる覚悟だ。
「……はい」
 頬を伝った雫がしょっぱかった。きっと汗が染み出したのだろう。
「そうか、それじゃあな」
 一人でいるか弱い少女に気を使わせまいと、俺は俺の考えるべきことを考えるべく、歩を進めた。
 すると、何ということだろうか。何故か少女は、行き去ろうとする俺の右袖を摘んでこう言ったのだ。
「違うんです、文字通りのはいではなくてですね」
 慌てた様子でそういう彼女。それに対し俺は、
「ああ、大丈夫。気遣わなくて大丈夫だよ、そういうの慣れてるから」
 否、全く持って嘘である。
 言いながら止まろうとしない俺の袖を未だに摘んでいる彼女は、てくてくと俺の後を続きながら言った。
「聞いて、頂けませんか。訳を……」
 触れればさっと崩れて風に流されていきそうな、そんなか細い声音だった。気になって向けた視線の先には、涙ぐみながら縋るように俺の目を見つめる彼女がいて、押しに弱い俺はまた色々と考えてしまった。
 でも、初対面の俺に聞いてほしいってことはつまり、
「家族とか知り合いには、話せないようなことなんだな」
 そういうことなのだろう。
 こくっと小さく頷く彼女を確認して、なんだ友達がいないだとかそう言った相談だと思った。
「分かった、とりあえず日陰に移動しよう」
 すると彼女はやっと袖を摘んでいた指から力を抜いて、重力に従ってその腕がぶらりと落ちた。
「はい、ありがとうございます」
 やっと何かを見つけた。そんな希望みたいなのを感じているように、彼女の目の奥に光を見た気がした。
 静かに焼かれる石畳の参道のど真ん中を堂々と歩く二人の影は、丁度足元に短く伸びていた。
 ああ、姉の死はやはり、この世界に何も影響を及ぼしてはいないのだ。
 それにしても、姉が死んでからすぐ、こんな出会いがあっても良いのだろうか。姉の望む世界を求めてたどり着いた場所で相反した出会いがあったこと、これは何か、姉から託された重大な使命なのかもしれない。
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