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三、偽りであろう温かさ。
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そうして見慣れた街についたのだが、その街にはもちろんのこと姉の姿はない。どこを探しても、姉は見つからないのだ。今朝ここを出た時とは逆の薄明かりが街を包み込んでいて、地面には沢山の家屋の影が伸びていた。赤く焼ける空はまるで熱を失わんと踏ん張る子供のように元気で、それでも心なしか、先程までの暑さは和らいでいた。夜の闇には太陽でさえも勝てない。
姉の部屋を借り出すための口実には結局彼女のことを話すという選択肢は無く、俺は、一時は姉の部屋で過ごしていたい、なんて言って誤魔化してきたのだ。正直、本当に姉が死んでしまったのだということを理解してしまいそうで怖いからあそこには行きたくなかった。だがまあ、俺以外の周囲から認識されない彼女のためである。男の意地だ。
アパートに着いた俺達は心なしか重たい扉を押し開けた。つい数ヶ月前までは明るく迎えてくれた玄関は、姉の死を悲しむ様に、暗く冷たい窖の真似をしていた。一瞬その変化にたじろいで腰が抜けそうになったがなんとか冷静を保つ。恐怖によく似た、何か別の感情がふつふつと頭の中を飽和した。
そんな俺の様子になんて微塵も気づくこともなく、彼女は軽いステップを鳴らしながら部屋の中に入った。
「お邪魔します」
ペコリと頭を下げるその仕草に、なんだか俺が初めてここを訪れたときの初々しさが蘇ってきた。ああ、温かい。
「あのお、電気、つくんですか」
干渉に浸っている俺を引き上げた彼女。廊下の薄暗さが嫌なようだ。
「当たり前だろうが。はいはい、勝手につけてもいいよ、もうお前の部屋みたいなもんだ。好きに使ったら」
俺は手をひらひらさせながらそう言って、彼女より一足遅れて玄関をくぐった。入ってすぐのリビングを抜けて、姉の勉強部屋に入る。四畳くらいの広さの内二畳はベッドに、もう一畳は机幅となっていて、何とも狭苦しい窮屈な部屋である。女性の部屋だとは少しも思えないが、大学生ともなるとこれが普通なのだろうか。高校生の部屋との差が激しく理解し難い景色である。
「で、まずは風呂だよな。準備してくるから待ってて」
その狭い一畳の広さに行き場なく佇んでいる彼女をさておいて、俺は早速という様子で家事を始めようとする。
「あ、はいそうなんですけど…私も手伝いますよ、流石に任せっきりっていうのはなんだかあれなので」
彼女は苦笑しながらそう言って俺のあとに続こうとするが、客人(彼女はこれからはここに住むことになったが)に家事をさせるわけには行かない。俺は彼女を止めて、
「いいや、今まで色々あって疲れてるだろ。狭い部屋だけど、まあゆっくりしてて。ベッドとか勝手に使っていいし、タンスとか棚とか、好きに触っていいんじゃねえかな」
「そうですか。でも、帰ってきたとき、お姉さん怒りませんか?」
心配そうに尋ねてくる彼女が少ししつこく思えて、俺はもう、扉閉めながら言葉を残していく。
「大丈夫だよ、帰ってこねえから。あっちで楽しくやってるだろきっと」
言い終わるとほぼ同時に、ドアが金具をカチャンと噛み合わせて閉まった。ドアの先の彼女が困惑しているのが見ずとも分かってしまうのがなんだか心地悪い。そんな気持ちを押し静めるように風呂場に向かって、もう数カ月使われず完全に水気の飛んだ浴室を見る。所々黒くカビが生えているし、白かったはずの湯船の壁は黄色く色褪せている。間違いなく、姉はこの部屋を使って生活をしていたのだ。ちゃんと、ここにも証拠がある。
シャワーから溢れた水がさらさらと薄く湯船の肌を撫でていく。久しぶりに浴びた水が気持ち良いとばかりに浴室に心地良い音を響かせるその湯船の中で、一点に集まった水達が渦を巻きながら流れ消えていった。これから果てしない旅をして、またどこかのシャワーから出てくるのだろう。
さっと洗った湯船に栓をしてお湯をためる。冷やされた湯船の肌が暖められて、表面から湯気を上げた。もわもわと湧き上がったそれは、目で追っているうちにいつの間にか空気に融けて姿を消していった。湯船に風呂蓋を被せて、風呂の用意を終える。十五分もすれば入れるようになるだろう。
俺は部屋に戻って彼女に声をかけようとしたが、ドアの前まで来たところで静かな寝息が小さく聞こえてきた為やめておいた。この数分の間に寝付いてしまうということは、これまでの生活で散々疲れをためてきたのだろう。久しぶりに寝るベッドの感覚はどうだろうか。
あ、そういえば。好きに使って良いとは言ったが布団干してないな。ま、明日にでも干すか。風呂が溜まるまでの間は、夕食の用意でもしておこう。
リビングに来て、ベランダの窓から外に視線をやる。時刻は7時。遠くの空にまだ陽の残光が灯っているくらいだろうか。空は藍色に変化していた。
「よしっと…」
冷蔵庫からさっき家から持ってきた食材を取り出す。今夜は鶏肉とズッキーニの塩炒めだ。
まずは野菜達を軽く洗って、それから鶏肉を一口サイズに、ズッキーニはいちょう切りに、玉ねぎは薄切りにする。うむ、やはり玉ねぎのあくには勝てないか。目の表面を何層もの涙が覆うが、痛みを和らげることはなかった。ちなみに、玉ねぎには匂い成分として硫酸アリルという物質が含まれているらしく、この痛みを和らげるには予め冷やしておくか、逆に電子レンジで温めると良いらしい。今回は冷蔵庫で冷やしていたのだが全く効果がなかったので俺と同じ体質の人にはおすすめしない。
続いて、フライパンにサラダ油とみじん切りにしたにんにくを入れて熱する。べつにごま油でも良いのだが、オリーブオイルが体にいいと聞いてからは断然オリーブオイル派の俺であった。ぷくぷくとオリーブオイルの表面に気泡が浮いてくると同時に、にんにくの香ばしい香りが少しずつ部屋を充満しだした。もう少し経てば鶏肉を入れる。
と、そこで俺は一旦その場を離れて部屋へと向かう。
あれから約十五分。彼女の寝息はまだ聴こえていた。部屋の扉を開けてベッドに横たわる彼女の方を揺らす。どうやらこの寝息は、小さく開かれた桃色の唇から漏れ出していた。スカートから肌着がめくれ、肌が少しばかり露出している。全く無防備であった。
「おーい、風呂入れるぞ」
言ってすぐ、彼女の表情筋に力が宿る。
「…はい、ありがとうございます」
むにゃむにゃと寝言のように口にしながら、彼女はむくりと起き上がった。そして、その崩れた服装を見た後に俺を軽蔑しきった目で見つめるのである。
「アホか、何もしてねえよ。それに今夕食作ってる途中だから長居はできねえの。早く風呂入りな、寝間着は姉ちゃんの使っていいから」
「あ、はい分かりました」
自分のとった態度なんて忘れたかのようにけろっとそう返す彼女に心中苦笑しながら、俺は部屋をあとにした。
にんにくの香りが、もう廊下にまで達している。
フライパンに切っておいた鶏肉を入れる。今まではジュワジュワと音を立てていたフライパンが、今度はバチバチと油を弾けさせた。鶏肉がだんだんと色を変えて内部まで火が通ると、とうとう野菜たちの出番である。切っておいたズッキーニと玉ねぎをフライパンに流し入れる。バチバチと激しい争いを繰り広げていた鉄板の上が水気で彩られ、平和な空気を醸し出した。少ししたら野菜の肌が透明を帯びてきた。料理酒を少し足して、あとは軽く水分を飛ばしてやれば完成だ。味見しながら塩を足すのも忘れずに。
「よしっと…」
料理を終えて部屋が静まると、彼女がシャワーを流す音が響いて来た。俺は椅子に腰掛けて天井を仰ぐ。
にしても、
「どうすっかなあ」
その場の思いつきとはいえ、付き合ってもいない男女がひとつ屋根の下である。彼女は周囲から認識されないという前代未聞の症状を抱えているため端から見ればこの状況は俺の独り暮らしということになるのだが、実際のところはというとこれは紛れもない同棲であって。うむ、俺から提案しておいてなんだが、何か社会常識から疎外された感覚が押し迫って来るものだ。
シャワーの音を耳にこんな事を考えていたせいか、なんだか、今日一日で起こった事に脳がどっと疲労を見せていた。だんだん目から力が抜けて視界がぼやけてくる。このままぽっくり逝ってしまいそうな睡魔に襲われていた。
そんな俺を我に返らせたのは、止まったシャワーの音だ。少ししてから浴室の扉が開く音がして、彼女が体を拭く音がいやらしく耳を刺激した。いや、刺激れたのはまた別の箇所かもしれない。
「…もしかして、もう夕食の準備してますか⁉」
ふと布の擦れる音が止んだかと思いきや、聞こえてきたのはそんな彼女の声だった。その質問の答えはさっきお前の寝起きに言ったんだけどな。まあいいか。
「ああ、もう出来てるよ。早く服着て食べようぜ、腹が減った」
俺は寝ぼけていた彼女を忘れて改めてそう言った。それから無言の承知を受け取ると、すぐにまた布の擦れる音がする。どうやら腹ペコのようだ。そういえばそれで思い出したが、彼女、今まで食事はどうしていたのだろうか。まさか我慢していたなんてことは無いだろうが、まあきっと彼女の事だからどこかで盗み食いでもしていたのだろう。
そうして、一分も経たないうちじゃないだろうか、姉の寝間着に見を包んだ彼女がこちらに顔を覗かせたのは。
「何やってんだよ、早く食おうぜ」
俺は素直にそう言って彼女を素っ気なく迎える。そんな俺に不満を抱いた様子もなく、むしろ驚きといった様子でテーブルまで歩み寄った彼女は言葉を零す。
「これ、もしかして全部あなたが作ったんですか⁉」
テーブルの上に並んでいるのは、先程作った鶏肉とズッキーニの塩炒めと米、烏龍茶である。実質俺が作ったものはと言えば鶏肉とズッキーニの塩炒めのみである。だがまあ一応。
「ああ、他に誰がいるんだよ」
「い、いえ、素直に凄いなと思いまし…」
言いう途中で彼女の腹の虫が鳴く。二人苦笑して、取り敢えずまあ、彼女は俺と向かいになっている椅子に腰掛けた。目の前に座ったのは、姉ではなく初対面の少女なのだ。しかしまあ、姉の部屋で姉抜きの合掌が行われるとは思わなんだ。変わったよ、姉ちゃん。俺の中では何かが。
「いただきます」
「いただきます」
合掌して、箸を持つ。
が、俺はその箸を一度下ろして、話を切り出した。
「ところで、これは紛れもない同棲なわけだが、俺達は今日知り合ったわけで互いの知っていることといえばほぼ皆無なんだが、さて、この先不便が多いと思われる。お前、本当にそれでいいのか」
問うと、彼女は口に入れた米を飲み込んでから一呼吸置いてケロっと返答した。
「いいに決まってるじゃないですか。あなたに下心がないのなら、本当にここに住まわせて頂けると助かります」
「だから下心なんてないっての…」
にしても、そうか。彼女が最低限の遠慮しか見せないあたり、本当に苦しい生活を送ってきたのだと思う。別に俺は困らないので、了承する他なかった。まあ、現時点での話しだが。
「そうか、分かった」
言うと、彼女はニッコリと笑って、
「ありがとうございます!」
そう言って、また白米を口に入れた。
「ところで気になったんだが、お前のそれ、見えてて大丈夫なのか」
箸、米、茶碗等々、彼女はそのままそれらに触れて動かす。彼女が認識されない、また触れる事もできない透明化だと仮定すると、視認物体として存在している箸それらは空中をただ単独に浮遊する形となって人々の目に映るはずなのだが、これまで認識されなかったということはつまり、
「もしかして、触れた物にまで影響を及ぼすのか?その病気」
「そうですね、恐らくはその通りだと思われます。まあそれのおかげでこれまで騒ぎになることなく生活してこられたんですけど」
ふむ、となると、これから先の生活で特に気をつけなければならなかったポルターガイスト現象は防げるということか。
「なんだか都合の良い病気だな、認識不可性人格障害」
「なんです、煽ってるんですか」
「ちげえよ、ただ単にそう思っただけだ。お前の存在が今まで誰にも認識されなかったって辻褄が合うだろ、上手くできてるってこった」
「はあ」
そうしておかずにも手を付ける彼女。
俺にしか、その動作は認識できない。まるで実感の湧かない事だが、まあその感覚はきっと時が攫ってゆくのだろう。それまで頑張れ涼。
それから数十分、夕食を食べ終えた俺達は片付けに移ろうとしたのだが、俺が洗剤のボトルを手にとった途端に彼女がそれを奪い取った。
「何すんの」
「お風呂、入ってきてください」
「いいよ、片付けまでしてから入るから」
「私がやります」
「いいって、歯ブラシのストックもあるし歯磨いて寝ろよ」
「入ってきてください」
「……分かったよ」
全く、押しに弱い俺である。
という経緯で脱衣所まで来たのだが、ふと懐かしい香りが嗅覚を通して意識を飽和する。ああ、そうだ、これだ。姉ちゃんの髪の匂い。下着を脱いで洗濯機に放る。一瞬彼女の下着も見えた気がしたがそんな事どうだって良かった。浴室の扉を開けて、更に濃くなった姉ちゃんを感じながら、俺は密かに涙を流した。悲しいんじゃない、切ないんじゃない。ただ、温かいんだ。猛烈に、心が温みに包まれる。
ああ、ここにちゃんと、姉ちゃんは存在している。
だけど、お湯に浸かりながら震える肩を抱いたのは、自分自身だった。
姉ちゃん。
姉の部屋を借り出すための口実には結局彼女のことを話すという選択肢は無く、俺は、一時は姉の部屋で過ごしていたい、なんて言って誤魔化してきたのだ。正直、本当に姉が死んでしまったのだということを理解してしまいそうで怖いからあそこには行きたくなかった。だがまあ、俺以外の周囲から認識されない彼女のためである。男の意地だ。
アパートに着いた俺達は心なしか重たい扉を押し開けた。つい数ヶ月前までは明るく迎えてくれた玄関は、姉の死を悲しむ様に、暗く冷たい窖の真似をしていた。一瞬その変化にたじろいで腰が抜けそうになったがなんとか冷静を保つ。恐怖によく似た、何か別の感情がふつふつと頭の中を飽和した。
そんな俺の様子になんて微塵も気づくこともなく、彼女は軽いステップを鳴らしながら部屋の中に入った。
「お邪魔します」
ペコリと頭を下げるその仕草に、なんだか俺が初めてここを訪れたときの初々しさが蘇ってきた。ああ、温かい。
「あのお、電気、つくんですか」
干渉に浸っている俺を引き上げた彼女。廊下の薄暗さが嫌なようだ。
「当たり前だろうが。はいはい、勝手につけてもいいよ、もうお前の部屋みたいなもんだ。好きに使ったら」
俺は手をひらひらさせながらそう言って、彼女より一足遅れて玄関をくぐった。入ってすぐのリビングを抜けて、姉の勉強部屋に入る。四畳くらいの広さの内二畳はベッドに、もう一畳は机幅となっていて、何とも狭苦しい窮屈な部屋である。女性の部屋だとは少しも思えないが、大学生ともなるとこれが普通なのだろうか。高校生の部屋との差が激しく理解し難い景色である。
「で、まずは風呂だよな。準備してくるから待ってて」
その狭い一畳の広さに行き場なく佇んでいる彼女をさておいて、俺は早速という様子で家事を始めようとする。
「あ、はいそうなんですけど…私も手伝いますよ、流石に任せっきりっていうのはなんだかあれなので」
彼女は苦笑しながらそう言って俺のあとに続こうとするが、客人(彼女はこれからはここに住むことになったが)に家事をさせるわけには行かない。俺は彼女を止めて、
「いいや、今まで色々あって疲れてるだろ。狭い部屋だけど、まあゆっくりしてて。ベッドとか勝手に使っていいし、タンスとか棚とか、好きに触っていいんじゃねえかな」
「そうですか。でも、帰ってきたとき、お姉さん怒りませんか?」
心配そうに尋ねてくる彼女が少ししつこく思えて、俺はもう、扉閉めながら言葉を残していく。
「大丈夫だよ、帰ってこねえから。あっちで楽しくやってるだろきっと」
言い終わるとほぼ同時に、ドアが金具をカチャンと噛み合わせて閉まった。ドアの先の彼女が困惑しているのが見ずとも分かってしまうのがなんだか心地悪い。そんな気持ちを押し静めるように風呂場に向かって、もう数カ月使われず完全に水気の飛んだ浴室を見る。所々黒くカビが生えているし、白かったはずの湯船の壁は黄色く色褪せている。間違いなく、姉はこの部屋を使って生活をしていたのだ。ちゃんと、ここにも証拠がある。
シャワーから溢れた水がさらさらと薄く湯船の肌を撫でていく。久しぶりに浴びた水が気持ち良いとばかりに浴室に心地良い音を響かせるその湯船の中で、一点に集まった水達が渦を巻きながら流れ消えていった。これから果てしない旅をして、またどこかのシャワーから出てくるのだろう。
さっと洗った湯船に栓をしてお湯をためる。冷やされた湯船の肌が暖められて、表面から湯気を上げた。もわもわと湧き上がったそれは、目で追っているうちにいつの間にか空気に融けて姿を消していった。湯船に風呂蓋を被せて、風呂の用意を終える。十五分もすれば入れるようになるだろう。
俺は部屋に戻って彼女に声をかけようとしたが、ドアの前まで来たところで静かな寝息が小さく聞こえてきた為やめておいた。この数分の間に寝付いてしまうということは、これまでの生活で散々疲れをためてきたのだろう。久しぶりに寝るベッドの感覚はどうだろうか。
あ、そういえば。好きに使って良いとは言ったが布団干してないな。ま、明日にでも干すか。風呂が溜まるまでの間は、夕食の用意でもしておこう。
リビングに来て、ベランダの窓から外に視線をやる。時刻は7時。遠くの空にまだ陽の残光が灯っているくらいだろうか。空は藍色に変化していた。
「よしっと…」
冷蔵庫からさっき家から持ってきた食材を取り出す。今夜は鶏肉とズッキーニの塩炒めだ。
まずは野菜達を軽く洗って、それから鶏肉を一口サイズに、ズッキーニはいちょう切りに、玉ねぎは薄切りにする。うむ、やはり玉ねぎのあくには勝てないか。目の表面を何層もの涙が覆うが、痛みを和らげることはなかった。ちなみに、玉ねぎには匂い成分として硫酸アリルという物質が含まれているらしく、この痛みを和らげるには予め冷やしておくか、逆に電子レンジで温めると良いらしい。今回は冷蔵庫で冷やしていたのだが全く効果がなかったので俺と同じ体質の人にはおすすめしない。
続いて、フライパンにサラダ油とみじん切りにしたにんにくを入れて熱する。べつにごま油でも良いのだが、オリーブオイルが体にいいと聞いてからは断然オリーブオイル派の俺であった。ぷくぷくとオリーブオイルの表面に気泡が浮いてくると同時に、にんにくの香ばしい香りが少しずつ部屋を充満しだした。もう少し経てば鶏肉を入れる。
と、そこで俺は一旦その場を離れて部屋へと向かう。
あれから約十五分。彼女の寝息はまだ聴こえていた。部屋の扉を開けてベッドに横たわる彼女の方を揺らす。どうやらこの寝息は、小さく開かれた桃色の唇から漏れ出していた。スカートから肌着がめくれ、肌が少しばかり露出している。全く無防備であった。
「おーい、風呂入れるぞ」
言ってすぐ、彼女の表情筋に力が宿る。
「…はい、ありがとうございます」
むにゃむにゃと寝言のように口にしながら、彼女はむくりと起き上がった。そして、その崩れた服装を見た後に俺を軽蔑しきった目で見つめるのである。
「アホか、何もしてねえよ。それに今夕食作ってる途中だから長居はできねえの。早く風呂入りな、寝間着は姉ちゃんの使っていいから」
「あ、はい分かりました」
自分のとった態度なんて忘れたかのようにけろっとそう返す彼女に心中苦笑しながら、俺は部屋をあとにした。
にんにくの香りが、もう廊下にまで達している。
フライパンに切っておいた鶏肉を入れる。今まではジュワジュワと音を立てていたフライパンが、今度はバチバチと油を弾けさせた。鶏肉がだんだんと色を変えて内部まで火が通ると、とうとう野菜たちの出番である。切っておいたズッキーニと玉ねぎをフライパンに流し入れる。バチバチと激しい争いを繰り広げていた鉄板の上が水気で彩られ、平和な空気を醸し出した。少ししたら野菜の肌が透明を帯びてきた。料理酒を少し足して、あとは軽く水分を飛ばしてやれば完成だ。味見しながら塩を足すのも忘れずに。
「よしっと…」
料理を終えて部屋が静まると、彼女がシャワーを流す音が響いて来た。俺は椅子に腰掛けて天井を仰ぐ。
にしても、
「どうすっかなあ」
その場の思いつきとはいえ、付き合ってもいない男女がひとつ屋根の下である。彼女は周囲から認識されないという前代未聞の症状を抱えているため端から見ればこの状況は俺の独り暮らしということになるのだが、実際のところはというとこれは紛れもない同棲であって。うむ、俺から提案しておいてなんだが、何か社会常識から疎外された感覚が押し迫って来るものだ。
シャワーの音を耳にこんな事を考えていたせいか、なんだか、今日一日で起こった事に脳がどっと疲労を見せていた。だんだん目から力が抜けて視界がぼやけてくる。このままぽっくり逝ってしまいそうな睡魔に襲われていた。
そんな俺を我に返らせたのは、止まったシャワーの音だ。少ししてから浴室の扉が開く音がして、彼女が体を拭く音がいやらしく耳を刺激した。いや、刺激れたのはまた別の箇所かもしれない。
「…もしかして、もう夕食の準備してますか⁉」
ふと布の擦れる音が止んだかと思いきや、聞こえてきたのはそんな彼女の声だった。その質問の答えはさっきお前の寝起きに言ったんだけどな。まあいいか。
「ああ、もう出来てるよ。早く服着て食べようぜ、腹が減った」
俺は寝ぼけていた彼女を忘れて改めてそう言った。それから無言の承知を受け取ると、すぐにまた布の擦れる音がする。どうやら腹ペコのようだ。そういえばそれで思い出したが、彼女、今まで食事はどうしていたのだろうか。まさか我慢していたなんてことは無いだろうが、まあきっと彼女の事だからどこかで盗み食いでもしていたのだろう。
そうして、一分も経たないうちじゃないだろうか、姉の寝間着に見を包んだ彼女がこちらに顔を覗かせたのは。
「何やってんだよ、早く食おうぜ」
俺は素直にそう言って彼女を素っ気なく迎える。そんな俺に不満を抱いた様子もなく、むしろ驚きといった様子でテーブルまで歩み寄った彼女は言葉を零す。
「これ、もしかして全部あなたが作ったんですか⁉」
テーブルの上に並んでいるのは、先程作った鶏肉とズッキーニの塩炒めと米、烏龍茶である。実質俺が作ったものはと言えば鶏肉とズッキーニの塩炒めのみである。だがまあ一応。
「ああ、他に誰がいるんだよ」
「い、いえ、素直に凄いなと思いまし…」
言いう途中で彼女の腹の虫が鳴く。二人苦笑して、取り敢えずまあ、彼女は俺と向かいになっている椅子に腰掛けた。目の前に座ったのは、姉ではなく初対面の少女なのだ。しかしまあ、姉の部屋で姉抜きの合掌が行われるとは思わなんだ。変わったよ、姉ちゃん。俺の中では何かが。
「いただきます」
「いただきます」
合掌して、箸を持つ。
が、俺はその箸を一度下ろして、話を切り出した。
「ところで、これは紛れもない同棲なわけだが、俺達は今日知り合ったわけで互いの知っていることといえばほぼ皆無なんだが、さて、この先不便が多いと思われる。お前、本当にそれでいいのか」
問うと、彼女は口に入れた米を飲み込んでから一呼吸置いてケロっと返答した。
「いいに決まってるじゃないですか。あなたに下心がないのなら、本当にここに住まわせて頂けると助かります」
「だから下心なんてないっての…」
にしても、そうか。彼女が最低限の遠慮しか見せないあたり、本当に苦しい生活を送ってきたのだと思う。別に俺は困らないので、了承する他なかった。まあ、現時点での話しだが。
「そうか、分かった」
言うと、彼女はニッコリと笑って、
「ありがとうございます!」
そう言って、また白米を口に入れた。
「ところで気になったんだが、お前のそれ、見えてて大丈夫なのか」
箸、米、茶碗等々、彼女はそのままそれらに触れて動かす。彼女が認識されない、また触れる事もできない透明化だと仮定すると、視認物体として存在している箸それらは空中をただ単独に浮遊する形となって人々の目に映るはずなのだが、これまで認識されなかったということはつまり、
「もしかして、触れた物にまで影響を及ぼすのか?その病気」
「そうですね、恐らくはその通りだと思われます。まあそれのおかげでこれまで騒ぎになることなく生活してこられたんですけど」
ふむ、となると、これから先の生活で特に気をつけなければならなかったポルターガイスト現象は防げるということか。
「なんだか都合の良い病気だな、認識不可性人格障害」
「なんです、煽ってるんですか」
「ちげえよ、ただ単にそう思っただけだ。お前の存在が今まで誰にも認識されなかったって辻褄が合うだろ、上手くできてるってこった」
「はあ」
そうしておかずにも手を付ける彼女。
俺にしか、その動作は認識できない。まるで実感の湧かない事だが、まあその感覚はきっと時が攫ってゆくのだろう。それまで頑張れ涼。
それから数十分、夕食を食べ終えた俺達は片付けに移ろうとしたのだが、俺が洗剤のボトルを手にとった途端に彼女がそれを奪い取った。
「何すんの」
「お風呂、入ってきてください」
「いいよ、片付けまでしてから入るから」
「私がやります」
「いいって、歯ブラシのストックもあるし歯磨いて寝ろよ」
「入ってきてください」
「……分かったよ」
全く、押しに弱い俺である。
という経緯で脱衣所まで来たのだが、ふと懐かしい香りが嗅覚を通して意識を飽和する。ああ、そうだ、これだ。姉ちゃんの髪の匂い。下着を脱いで洗濯機に放る。一瞬彼女の下着も見えた気がしたがそんな事どうだって良かった。浴室の扉を開けて、更に濃くなった姉ちゃんを感じながら、俺は密かに涙を流した。悲しいんじゃない、切ないんじゃない。ただ、温かいんだ。猛烈に、心が温みに包まれる。
ああ、ここにちゃんと、姉ちゃんは存在している。
だけど、お湯に浸かりながら震える肩を抱いたのは、自分自身だった。
姉ちゃん。
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