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6話
夜会の余韻は、まだ広間の隅々に残っていた。
ざわめきは次第に和らぎ、楽団が慎ましやかな旋律を奏で始める。けれど先ほどまでの華やぎとは違う。まるで嵐が通り過ぎた後の海のように、どこか静かで、澄んでいる。
レイラは別の令嬢たちに囲まれていた。慰めというより、称賛に近い視線を向けられている。
私はひとり、バルコニーへと続く柱廊にもたれた。
冷たい夜気が、火照った頬を撫でる。
「……お見事でした」
不意に、穏やかな声が背後から届いた。
振り返ると、見知らぬ青年が立っている。落ち着いた濃紺の礼服。柔らかな栗色の髪。派手さはないが、目を引くのはその瞳の誠実な光だった。
「失礼ですが……?」
「ジュリアスと申します」
彼は丁寧に一礼する。
「お名前だけは、以前から存じておりました」
ジュリアス。
確かに、どこかで耳にしたことのある名だ。だが直接言葉を交わした記憶はない。
「今宵のこと、一部始終を拝見しておりました」
「……そうでしたか」
恥ずかしさよりも、不思議と落ち着きがあった。
「あなたは、誓いではなく行動を見るべきだと仰った」
彼は静かに続ける。
「その言葉に、胸を打たれました」
私はわずかに首を傾げる。
「それは、レイラ様への助言ですわ」
「ええ。ですが……僕自身にも向けられているように感じたのです」
“僕”。
その一人称が、どこか幼さを含みながらも誠実に響く。
「突然で失礼を承知で申し上げます」
ジュリアスはまっすぐ私を見る。
「僕のことを、信用できるかどうか。どうか、見ていていただけませんか」
思わず瞬きをした。
「……どういう意味でしょう」
「言葉ではなく、行動で示したいのです」
彼の声は、決して大きくない。それでも確かな意志が宿っている。
「僕は、あなたに好意を抱いています」
夜風が、強く吹き抜けた。
胸が、小さく跳ねる。
けれど困惑の方が勝っていた。
「なぜ、私に……? 私は、婚約を破棄されたばかりですのよ」
「存じております」
彼は迷わない。
「それでも、です」
その視線は、どこまでも穏やかだった。
返す言葉を探していると、背後からくすりと笑う声がする。
「やはり」
振り向くと、レイラが立っていた。
「アリアナ様。ジュリアス様は、以前からあなたを目で追っていらしたのです」
「レイラ様……?」
「わたくし、気づいておりましたわ。舞踏会でも、庭園でも」
ジュリアスが少しだけ気まずそうに視線を落とす。
「余計なことを」
「余計ではありません」
レイラは私の手をそっと握る。
「この方は、誓いを軽々しく口にする方ではございません」
私は戸惑う。
あまりに急な展開。けれど、胸の奥に広がる感情は、恐れだけではなかった。
期待。
――いいえ、まだ早い。
「ジュリアス様」
私はゆっくりと向き直る。
「私はもう、誓いに縋りたくはありません」
「分かっています」
「そして、簡単に誰かを信じることも、怖いのです」
「当然です」
彼は穏やかに頷く。
「ですから、時間をください」
その言葉は、どこまでも静かだった。
「僕は急ぎません。あなたが僕を見て、判断してくださるまで」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ああ、と私は思う。
これが“軽くない言葉”なのだろうか。
レイラがそっと囁く。
「アリアナ様。信じようとすることは、間違いではありませんわ」
私は目を閉じ、深く息を吸った。
これまでの私は、誓いに縋った。
今度は、目を開いて見極めたい。
「……分かりました」
私はジュリアスを見る。
「あなたを、見させていただきます」
彼の瞳が、柔らかく細められる。
「ありがとうございます」
それだけ。
愛しているとも、永遠とも言わない。
けれどその慎ましさが、今の私には心地よい。
まだ、婚約の約束はない。
未来がどうなるかも分からない。
けれど――信じようとすることは、きっと罪ではない。
私はもう、誓いの言葉に酔わない。
その代わりに、相手を見つめ、自分の心を見つめる。
今度こそ。
今度こそ、幸せを掴みたい。
ざわめきは次第に和らぎ、楽団が慎ましやかな旋律を奏で始める。けれど先ほどまでの華やぎとは違う。まるで嵐が通り過ぎた後の海のように、どこか静かで、澄んでいる。
レイラは別の令嬢たちに囲まれていた。慰めというより、称賛に近い視線を向けられている。
私はひとり、バルコニーへと続く柱廊にもたれた。
冷たい夜気が、火照った頬を撫でる。
「……お見事でした」
不意に、穏やかな声が背後から届いた。
振り返ると、見知らぬ青年が立っている。落ち着いた濃紺の礼服。柔らかな栗色の髪。派手さはないが、目を引くのはその瞳の誠実な光だった。
「失礼ですが……?」
「ジュリアスと申します」
彼は丁寧に一礼する。
「お名前だけは、以前から存じておりました」
ジュリアス。
確かに、どこかで耳にしたことのある名だ。だが直接言葉を交わした記憶はない。
「今宵のこと、一部始終を拝見しておりました」
「……そうでしたか」
恥ずかしさよりも、不思議と落ち着きがあった。
「あなたは、誓いではなく行動を見るべきだと仰った」
彼は静かに続ける。
「その言葉に、胸を打たれました」
私はわずかに首を傾げる。
「それは、レイラ様への助言ですわ」
「ええ。ですが……僕自身にも向けられているように感じたのです」
“僕”。
その一人称が、どこか幼さを含みながらも誠実に響く。
「突然で失礼を承知で申し上げます」
ジュリアスはまっすぐ私を見る。
「僕のことを、信用できるかどうか。どうか、見ていていただけませんか」
思わず瞬きをした。
「……どういう意味でしょう」
「言葉ではなく、行動で示したいのです」
彼の声は、決して大きくない。それでも確かな意志が宿っている。
「僕は、あなたに好意を抱いています」
夜風が、強く吹き抜けた。
胸が、小さく跳ねる。
けれど困惑の方が勝っていた。
「なぜ、私に……? 私は、婚約を破棄されたばかりですのよ」
「存じております」
彼は迷わない。
「それでも、です」
その視線は、どこまでも穏やかだった。
返す言葉を探していると、背後からくすりと笑う声がする。
「やはり」
振り向くと、レイラが立っていた。
「アリアナ様。ジュリアス様は、以前からあなたを目で追っていらしたのです」
「レイラ様……?」
「わたくし、気づいておりましたわ。舞踏会でも、庭園でも」
ジュリアスが少しだけ気まずそうに視線を落とす。
「余計なことを」
「余計ではありません」
レイラは私の手をそっと握る。
「この方は、誓いを軽々しく口にする方ではございません」
私は戸惑う。
あまりに急な展開。けれど、胸の奥に広がる感情は、恐れだけではなかった。
期待。
――いいえ、まだ早い。
「ジュリアス様」
私はゆっくりと向き直る。
「私はもう、誓いに縋りたくはありません」
「分かっています」
「そして、簡単に誰かを信じることも、怖いのです」
「当然です」
彼は穏やかに頷く。
「ですから、時間をください」
その言葉は、どこまでも静かだった。
「僕は急ぎません。あなたが僕を見て、判断してくださるまで」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ああ、と私は思う。
これが“軽くない言葉”なのだろうか。
レイラがそっと囁く。
「アリアナ様。信じようとすることは、間違いではありませんわ」
私は目を閉じ、深く息を吸った。
これまでの私は、誓いに縋った。
今度は、目を開いて見極めたい。
「……分かりました」
私はジュリアスを見る。
「あなたを、見させていただきます」
彼の瞳が、柔らかく細められる。
「ありがとうございます」
それだけ。
愛しているとも、永遠とも言わない。
けれどその慎ましさが、今の私には心地よい。
まだ、婚約の約束はない。
未来がどうなるかも分からない。
けれど――信じようとすることは、きっと罪ではない。
私はもう、誓いの言葉に酔わない。
その代わりに、相手を見つめ、自分の心を見つめる。
今度こそ。
今度こそ、幸せを掴みたい。
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