彼岸の使い

ハジメユキノ

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選ばれし者

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もう、ダメかな…。
俺は背中を丸め、夕暮れ迫る黄昏時に小さな湖の畔のベンチで夕日が落ちていくのを眺めるでもなく見つめていた。
「ワン!」
やたらと愛想を振りまく耳の垂れた犬が、白っぽい服を着たひょろっと背の高い男と、いつの間にか目の前に立っていた。
「あなた、死のうとしているのですね?」
背の高い男は、どこまでも澄んだ瞳でベンチに座った俺に話しかけた。
「何故他の人を巻き込もうとするんですか?」
「えっ?」
さっきまで嘆いていた俺は、もう家族を失って一人ぼっちだった。幸せだった日々はもう自分の手から砂のように零れ落ち、二度と戻らない。
「誰も気にしてくれる人がいなくなってしまったから?」
何なんだ。俺の心を読んでいるのか?気味が悪い…。
「この子があなたを選んだんです」
「ワン!」
ハッハッと舌を出して、目をキラキラとさせ、嬉しそうに俺を見る犬…。昔からずっと犬を飼っていたな…。一番最初に飼った子に似てるな。夏に家に来たから、ナツ。俺と散歩行くのが好きだったな…。
「ナツ…」
「ワン!」
「えっ?」
「この子はあなたは人を救うと言うんだ。でも。今のあなたは体から目から黒い嫌な気を発している…。」
背の高い男が、ベンチに座った俺の肩に手を置いた。
次の瞬間、刃渡り20センチを超えるサバイバルナイフのような刃物を通行人に突き立てたり切りつけたりしている男の姿が…。俺だった。でも、もう取り戻せないほどに人ではなくなった自分の姿。誰も彼もが化け物を見るような目で俺を見ていた。そんな目で見るな!
ハッと気がつくと、おれはさっきと同じベンチに座っている…。でも、手には肉体にナイフがめり込んでいく感触、切り裂いたときの皮と肉の感触の違いを覚えていた。
「嫌だ!俺は…俺はそんなことしたくない!」
「一人で死ぬのは怖いから、人を巻き込む?」
「俺にはもう、何も遺されていない。もう死ぬしかないんだ!」
男はこう言った。
「借金が原因?」
「なぜそれを…」
この男は何で俺のことを知っているんだ?人の心を読めるのか?
「あなたが人でなくなることを選ぶならば仕方ありません。でも、死んでも苦しみは続く。そして苦しみは永遠にあなたを蝕み、食い尽くす。死んだらまた、一日前に戻り、同じ苦しみを与えられる…。地獄絵を見たことはありますか?」
「昔お寺で…。修学旅行だったかな?でも、そんなの作り話だろ」
「本当にあるとしたら…どうしますか?あなたは今、片足を突っ込んでいるんですよ」
俺の足許に真っ赤なマグマが火を噴いた穴があき、長いかぎ爪を持った鬼が俺の足を掴もうと手を伸ばしていた。
「うわぁ!」
尻餅をつくと、地面に開いていたはずの穴が消えていた。
「い、今の…あんたは一体…」
「私?あなたが毎日やって来る所から来たんですよ…」
俺が毎日行くところ?
「あなたに毎日のように会っている内に、私の連れがあなたに興味を持ちましてね」
「ワン!」
愛想の良い犬がニコニコと俺を見ていた。
「あなたは優しい魂を持っているから何とかしてあげてとね…」
ペロッと俺の手を舐めた。
「あなたの悪い気はどうにもならないよと言ったんですがね…」
クウンと懇願するように犬は連れの男を見つめていた。
「どうしますか?引き返すなら、今ここで誓って下さい」
俺の顔を見つめる瞳は、生半可な嘘など通用しないと感じた。
「その通り。生半可な嘘など通用しません。よく分かりましたね…」
怖い…。
「これはあなたの魂がかかった最後の関門なんですよ。この子はあなたなら人を救う存在になる。自分と一緒に私に仕えられるのはこの人しかいないと聞かないんですよ…」
俺がこの犬に気に入られ、そしてこの男に仕える?とてもまともな話ではないはずなのに、俺は迷っていた。この申し出を断ったら、俺はもう人でなくなってしまう。逃げ惑う人達を笑いながら次々と殺していく化け物に…。あれは幻なんかじゃない。まだ人の体に刃物を突き立てた嫌な感触が残っていた。
俺はナツにそっくりな犬に、俺を大好きだと見つめる瞳に選ばれたことに狼狽していた。こんなに澄んだ瞳に俺は選ばれたっていうのか?あんなひどいことをしようとしていた俺を…。
顔が濡れていた。雨が降っているわけでもないのに。
膝が地に落ち、這いつくばるようにして涙を流す俺の顔を撫でるように犬は舐めていた。泣かないでと寄り添っているように感じた。
「不思議な人だ。さっきまであなたの周りを覆い尽くしていた黒い気が、霧が晴れるようになくなっている…。何をしたんです?」
「何?何も…」
「ワン!」
うれしいと聞こえた。
「おやおや、お前の力じゃあるまいな?」
「クウン…」
「ずるはしていないね?」
犬は男をジッと見つめていた。その瞳には一点の曇りもなかった。
「どうやらあなたの涙に秘密があるようですね。もしかすると…それが分かっていたのかい?」
犬は黙って男を見つめ、次に俺の顔を見て尻尾を振った。
「いいですか?あなたの魂は私が握っていることはお忘れなく」
俺は気付いたら、湖畔に一人ベンチに座っていた。男の姿はなく、犬も消えていた。
とにかく家に帰ろう。もう日も落ちたし、寒くなってきた。借金のことは兄貴に頭を下げてみよう。仕事も探して何とか立て直さないと…。
そんなことを考えている自分に気付き、笑えてきた。
人間、死ぬ気になれば何でも出来るって言うけれど、本当だな。小さいときにクリスマスに流れていたクリスマスキャロルみたいだ。スクルージ爺さんは行いを改めないと地獄に落ちてこんな目に遭うんだぞと、死んだ金貸し仲間に見せられて改心する。そして、良い行いをすると、周りの目も変わってくる。自分が優しくなると、相手も優しくなる…。
しかし、あの男は何者だったんだろう…?あの連れていた犬も。
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