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番外編・こぼれ話
Aegean Sea: July 2 宗一郎と面会した日の夜
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ヴィラの夜はとても静かだった。
時折、遠くのほうで葉ずれの音と波の音がかすかに聞こえるぐらいで。
美紅の耳はダウンタウンの騒音に慣らされているから、なおさらそう感じる。あそこでは深夜だろうが早朝だろうが、ひっきりなしに車のエンジン音やクラクション、パトカーのサイレンや犬の遠吠えまで聞こえ、下手すると銃声が響くこともあった。
ここにいると、都会の夜がどれだけまぶしく、騒々しいかがよくわかる。マンハッタンで星がほとんど見えないのは、地上が明るすぎるからだと知った。
さて、ここに来て二日目の夜はなにをしようか?
美紅にはちょっとしたアイデアがあった。
実は、ディーターが不眠症に悩んでいるらしい、という情報をアーロンから聞かされ、助けになることを思いついたのだ。
もちろん、美紅は医者ではないから不眠症を治すことはできない。これを食べたほうがいいとか、こんな生活をしなさいといったアドバイスもできない。
けど、美紅なりに様々な職種を渡り歩いた結果(そのほとんどがアルバイトだったとしても)、きっとこれは良さそうだ、という気づきのようなものがあった。
それに、彼の子供の頃の話を聞かされ、可哀想だと思ってしまったのもある。
いやいや、お金も地位も名誉もなんでも持ってる人に、私が同情する筋合いなんてまったくないんだけど……
それでも、気になって仕方なかった。
心が、その憐れみに引きずられてしまう。
ならば、このモヤモヤを晴らすべく、実行に移すべし。自分の真の気持ちをたしかめるためにも、アクションあるのみだ。
「というわけで、いいアイデアがあるの」
美紅が腰に手を当てて言うと、ディーターは首を傾げた。
「いや、なにが『というわけで』なんだよ? 不眠症と言ってもそんなに深刻なものじゃないぞ。仕事が立て込んでくると眠れなくなるだけで……。まあ、頭が高速でフル回転したまま、止まらなくなるんだろうな」
「薬とかは飲んでるの?」
「いや。あまり睡眠導入剤には頼りたくないんだ。酒と睡眠薬で早逝した友達を知っててね」
弱々しく微笑む彼に、不覚にも胸がきゅんとなった。
いつも自信満々で傲慢な男が弱っていると、やたら母性本能をくすぐられてしまう。
「君のおかげで昨晩はゆっくり眠れたしね。心配することはない」
「いいからいいから、試してみましょうよ。深く眠りたいんでしょ?」
「まあ、それはそうだが……」
「じゃ、あなたの寝室に行きましょ」
そう言うと、彼はぎょっとした。
「えっ? おいおい。なにをするつもりなんだ?」
「いいから任せて。私、ちょっと道具を取ってくるね」
「ど、道具だって!?」
なぜだか、彼はひどく慌てている。
「大丈夫だってば。先に寝室に行って待っててね」
美紅は自室に戻り、スーツケースからとっておきのアロマオイルを取り出し、濡れタオルをキッチンのレンジで温めた。
そうして寝室に行くと、彼がただならぬ緊張感をまとって棒立ちになっている。
「なにしてるの? 早く脱いで、横になってよ」
段取り悪いなと思いつつ、持ってきたボトルやタオルをサイドテーブルに並べた。
「おい。……本気なのか?」
彼の様子は怖いぐらい真剣だ。
「へ? 普通に本気ですけど」
「……ダ、ダメなんじゃないのか?」
「えっ、なにが? 別にダメじゃないけど? なに言ってるの?」
すると、彼は混乱したように頭を小さく振って言った。
「契約は、いいのか?」
「契約? 別に双方の合意があれば問題ないでしょ」
「ふむ。そうか……双方の合意。確かに君の言うとおりだな」
「追加料金とか請求しないから安心して! 私、なかなか上手いのよ。歴代のかたたちに大好評だったからね」
「うまいって、美紅! ……僕だってうまいよ」
なぜか少し恥ずかしそうに彼は言う。
「ふーん。あなたもそんなスキル持ってるんだ。いがーい!」
「当たり前だろ! 少なくとも君よりは、はるかに上のはずだ」
「へえ。言うわね。じゃ、今度伝授してよ」
「伝授? もちろん、いいとも。喜んで」
「じゃ、とりあえず今夜は私がするから。早く脱いで横になって」
「えっ? 君がしてくれるのか? 僕は横になるだけでいいのか?」
彼は目を丸くしている。
「そうよ。なにをそんなに驚いてるのよ」
「君がそうしたいと望むんだな?」
なんでいちいち念を押すわけ?
モタモタする彼にだんだんイライラしてきた。
「もう、面倒くさい男ね! とっとと横になってよ!」
「わ、わかった」
ようやく彼はいそいそと服を脱ぎ、トランクス一枚になった。
「君がそんなに積極的だなんて、知らなかったよ。まったくそんな風に見えなかったからさ」
「そう? 私、結構好きなんだよね。されるより、するほうが」
「するほうがっ?」
彼の驚きかたは、本当にいちいち大げさだ。
「うん。ほら、すごくイイ匂いがするじゃない?」
「イイ匂い……。イイ匂いがするんだな」
彼はゴクリと唾を飲み込んだ。
「本当に後悔しないな?」
わざわざ美紅の両肩に手を載せる彼に、首を傾げてしまう。
「は? 後悔なんてするわけないでしょ。後悔するとしたら、あなたのほうね」
「へ? 僕が後悔するわけないだろ」
「あっ。ちょっと、やる前にジュース飲んでくるわ。口の中が渇いてカラカラなの」
「ああ。充分に潤わせてきてくれ」
急いでキッチンへ戻り、冷蔵庫を開けてマンゴージュースを一気飲みし、ふたたび小走りで寝室に戻ってきた。
ベッドに横たわる彼を見て、思わず声を上げてしまう。
「ちょっと。なんで仰向けになってんの? 普通はうつ伏せでしょ?」
「うつ伏せ? ほんとに? すごいな」
なぜか彼は驚愕の表情でうなった。
「あまりハードなのは好きじゃないんだ。優しく頼むよ」
「もちろん。ちょっとキツめだけど、優しくしてあげる」
美紅はよいしょ、とディーターの腰の上にまたがった。ボトルからアロマオイルを両手に垂らし、軽く擦りあわせる。
ジャスミンの爽やかな芳香が立ち込めた。
ああ、すっごくいい香りだなぁ……。
ジャスミンには誘眠作用があるというから、今の彼にぴったりだと思う
手のひらをぴたりと彼の背中に当て、ぬるりと滑らせた。
「うぅ……」
彼が気持ちよさそうにうめく。
わお。なんてセクシーな体なの!
ディーターの肉体は芸術的に美しかった。さらりとした褐色の肌に包まれた筋肉は、見事に鍛え上げられ、硬く盛り上がっている。羽根をもいだような肩甲骨に、長くまっすぐな背骨、臀部は野性的に引き締まり、まるでアスリートだ。
肩の筋肉に触れると、ひんやりと冷たかった。
やはり血行が悪いらしい。血行不良は不眠の原因にもなる。
美紅は筋肉の強張りを一つ一つ解きほぐすように、力を込めて手を滑らせた。
「ああ、いい」
彼が感嘆の声を漏らす。
「気持ちいい?」
そう聞くと、彼は大人しく「うん」とうなずいた。
「ねぇ、あなたの体、すごいわね。なんのスポーツをしてたの?」
「ん……水泳」
「そうなんだ。筋肉のつきかたがすごく綺麗」
「うん」
「今度、泳いでみせてよ」
「うん」
いつもこんな風に従順なら可愛いのにね、と一人微笑む。
こうして、彼の広い背中に触るのは心地よかった。
手のひらを通して伝わってくる熱。
この手の下に皮膚があって、筋肉があって、内臓があるのかと思うと……
そこまで想像し、少し恥ずかしくなる。
……やだ。なんかこういうのって、ちょっとエロいかも。
内腿で挟んでいる彼の腰がこすれ、淫らな気分がほんのり増す。
このまま彼を仰向けに転がして、お互いの体を触り合ったりしたら……
ロマンス小説の展開なら、そのあと、硬くなった彼に触れて……
ここまで妄想して、ひくり、と下腹部の奥のほうが疼いた。
そのとき、なんの前触れもなくキャメロンの顔がドン、と脳裏に浮かんだ。
……ストップ。ダメダメ。こういうのは絶対ダメ。妄想だけにとどめよっと。
すると、されるがままだった彼がつぶやいた。
「……ん、もっと下」
「下?」
聞き返すと、彼は「うん」と言う。
「パンツ、少しずらしていい?」
「ああ」
腰から尾てい骨に向かって、ぬるぬると手を滑らせると、急激に彼の全身が強張った。
「ちょっと! 力、抜いてよ!」
「い、いや、ちょっと待て。今、抜く」
彼はおたおたと身じろぎする。力を抜こうとして、余計に力が入ってしまうようだった。
「ストーップ、ストップ。急がないで。リラーックス、ディーター」
「お、おう」
「頭をからっぽにするの。思考するのを止めるのよ。感覚に集中して。音とか、匂いとか、触覚とかに」
「わかった」
彼は首をひねり、なぜか情けない顔でこちらを見た。
「美紅」
「なあに?」
「もしかして、君がするってのはマッサージのことなのか?」
「そうよ。オイルマッサージよ。面接で特技は指圧って言ったけど、私、指圧よりバリニーズマッサージのほうが得意なの」
そう言ってから、ふと疑問が湧いた。
「逆に、なんのことだと思ったの?」
彼はまぶたを閉じたまま、返事をしない。
「ディーター?」
彼は無言でぐったり脱力したままだ。
やだ。気持ちよすぎて、もう寝ちゃったのかな? 私、才能あるかも……
とりあえずマッサージを再開する。今度は、肩から腕へ。凝っているところ、疲労しているところは、触るとなんとなくわかる。流れが滞っているから、滑りが悪くなる。
マッサージや指圧は数ある特技の一つだった。
けど、ほんとにディーターもマッサージが得意なのかな?
青白いディーターの横顔を見ていると、気の毒になる。きっと連日の激務で、とても疲れているに違いない。
この島にきてから、ずっと不思議な感覚がついて回っている。
ディーターに出会い、突然セレブな世界に突き落とされ、飛行機に乗ってこの島にきた。
すべてはただの偶然であり、お互いの利益のための契約結婚のはず。
けど、なにかそれ以上の力が働いているような。
私たちは自分の意志で決断を下しているつもりで、実は見えない大きな力に動かされているような。
思考も感情も行動も、その大きな流れを形作る断片に過ぎず、ディーターも私も、知らずに巻き込まれているような。
そんな気がしてならないのだ。なぜか。
「予感」
小さなつぶやきは空中を漂って、やがて消失した。
そんなものを信じる私は、愚かですか?
ディーターと契約したのはお金のためだけじゃない。もちろんお金も欲しいけど、それよりもっと凄いもの……きっと、なにかとてつもないことが起こりそうな予感。
この人と一緒にいたら、きっと新しいなにかが始まる。
ドキドキワクワクして、とびっきりスリリングな、愛とか恋とかセックスだけじゃない、夢も正義も真実もなにもかもを凌駕してしまう、圧倒的ななにかが……
ようやく、始まるような気がするのだ。
ずっと、それが始まるのを待っていた。
それとも、私のこの感覚は幻なのかな?
一つだけ言えることは、そのヒントになるものが、この手のひらの下で眠っているということ。
だから、今はこのぬくもりに集中しよう。
いつかはダウンタウンの狭い現実に戻らなければならないのだから。
美紅は無心で手を動かした。
ディーターが深い眠りに落ちるのを、心から祈りながら。
時折、遠くのほうで葉ずれの音と波の音がかすかに聞こえるぐらいで。
美紅の耳はダウンタウンの騒音に慣らされているから、なおさらそう感じる。あそこでは深夜だろうが早朝だろうが、ひっきりなしに車のエンジン音やクラクション、パトカーのサイレンや犬の遠吠えまで聞こえ、下手すると銃声が響くこともあった。
ここにいると、都会の夜がどれだけまぶしく、騒々しいかがよくわかる。マンハッタンで星がほとんど見えないのは、地上が明るすぎるからだと知った。
さて、ここに来て二日目の夜はなにをしようか?
美紅にはちょっとしたアイデアがあった。
実は、ディーターが不眠症に悩んでいるらしい、という情報をアーロンから聞かされ、助けになることを思いついたのだ。
もちろん、美紅は医者ではないから不眠症を治すことはできない。これを食べたほうがいいとか、こんな生活をしなさいといったアドバイスもできない。
けど、美紅なりに様々な職種を渡り歩いた結果(そのほとんどがアルバイトだったとしても)、きっとこれは良さそうだ、という気づきのようなものがあった。
それに、彼の子供の頃の話を聞かされ、可哀想だと思ってしまったのもある。
いやいや、お金も地位も名誉もなんでも持ってる人に、私が同情する筋合いなんてまったくないんだけど……
それでも、気になって仕方なかった。
心が、その憐れみに引きずられてしまう。
ならば、このモヤモヤを晴らすべく、実行に移すべし。自分の真の気持ちをたしかめるためにも、アクションあるのみだ。
「というわけで、いいアイデアがあるの」
美紅が腰に手を当てて言うと、ディーターは首を傾げた。
「いや、なにが『というわけで』なんだよ? 不眠症と言ってもそんなに深刻なものじゃないぞ。仕事が立て込んでくると眠れなくなるだけで……。まあ、頭が高速でフル回転したまま、止まらなくなるんだろうな」
「薬とかは飲んでるの?」
「いや。あまり睡眠導入剤には頼りたくないんだ。酒と睡眠薬で早逝した友達を知っててね」
弱々しく微笑む彼に、不覚にも胸がきゅんとなった。
いつも自信満々で傲慢な男が弱っていると、やたら母性本能をくすぐられてしまう。
「君のおかげで昨晩はゆっくり眠れたしね。心配することはない」
「いいからいいから、試してみましょうよ。深く眠りたいんでしょ?」
「まあ、それはそうだが……」
「じゃ、あなたの寝室に行きましょ」
そう言うと、彼はぎょっとした。
「えっ? おいおい。なにをするつもりなんだ?」
「いいから任せて。私、ちょっと道具を取ってくるね」
「ど、道具だって!?」
なぜだか、彼はひどく慌てている。
「大丈夫だってば。先に寝室に行って待っててね」
美紅は自室に戻り、スーツケースからとっておきのアロマオイルを取り出し、濡れタオルをキッチンのレンジで温めた。
そうして寝室に行くと、彼がただならぬ緊張感をまとって棒立ちになっている。
「なにしてるの? 早く脱いで、横になってよ」
段取り悪いなと思いつつ、持ってきたボトルやタオルをサイドテーブルに並べた。
「おい。……本気なのか?」
彼の様子は怖いぐらい真剣だ。
「へ? 普通に本気ですけど」
「……ダ、ダメなんじゃないのか?」
「えっ、なにが? 別にダメじゃないけど? なに言ってるの?」
すると、彼は混乱したように頭を小さく振って言った。
「契約は、いいのか?」
「契約? 別に双方の合意があれば問題ないでしょ」
「ふむ。そうか……双方の合意。確かに君の言うとおりだな」
「追加料金とか請求しないから安心して! 私、なかなか上手いのよ。歴代のかたたちに大好評だったからね」
「うまいって、美紅! ……僕だってうまいよ」
なぜか少し恥ずかしそうに彼は言う。
「ふーん。あなたもそんなスキル持ってるんだ。いがーい!」
「当たり前だろ! 少なくとも君よりは、はるかに上のはずだ」
「へえ。言うわね。じゃ、今度伝授してよ」
「伝授? もちろん、いいとも。喜んで」
「じゃ、とりあえず今夜は私がするから。早く脱いで横になって」
「えっ? 君がしてくれるのか? 僕は横になるだけでいいのか?」
彼は目を丸くしている。
「そうよ。なにをそんなに驚いてるのよ」
「君がそうしたいと望むんだな?」
なんでいちいち念を押すわけ?
モタモタする彼にだんだんイライラしてきた。
「もう、面倒くさい男ね! とっとと横になってよ!」
「わ、わかった」
ようやく彼はいそいそと服を脱ぎ、トランクス一枚になった。
「君がそんなに積極的だなんて、知らなかったよ。まったくそんな風に見えなかったからさ」
「そう? 私、結構好きなんだよね。されるより、するほうが」
「するほうがっ?」
彼の驚きかたは、本当にいちいち大げさだ。
「うん。ほら、すごくイイ匂いがするじゃない?」
「イイ匂い……。イイ匂いがするんだな」
彼はゴクリと唾を飲み込んだ。
「本当に後悔しないな?」
わざわざ美紅の両肩に手を載せる彼に、首を傾げてしまう。
「は? 後悔なんてするわけないでしょ。後悔するとしたら、あなたのほうね」
「へ? 僕が後悔するわけないだろ」
「あっ。ちょっと、やる前にジュース飲んでくるわ。口の中が渇いてカラカラなの」
「ああ。充分に潤わせてきてくれ」
急いでキッチンへ戻り、冷蔵庫を開けてマンゴージュースを一気飲みし、ふたたび小走りで寝室に戻ってきた。
ベッドに横たわる彼を見て、思わず声を上げてしまう。
「ちょっと。なんで仰向けになってんの? 普通はうつ伏せでしょ?」
「うつ伏せ? ほんとに? すごいな」
なぜか彼は驚愕の表情でうなった。
「あまりハードなのは好きじゃないんだ。優しく頼むよ」
「もちろん。ちょっとキツめだけど、優しくしてあげる」
美紅はよいしょ、とディーターの腰の上にまたがった。ボトルからアロマオイルを両手に垂らし、軽く擦りあわせる。
ジャスミンの爽やかな芳香が立ち込めた。
ああ、すっごくいい香りだなぁ……。
ジャスミンには誘眠作用があるというから、今の彼にぴったりだと思う
手のひらをぴたりと彼の背中に当て、ぬるりと滑らせた。
「うぅ……」
彼が気持ちよさそうにうめく。
わお。なんてセクシーな体なの!
ディーターの肉体は芸術的に美しかった。さらりとした褐色の肌に包まれた筋肉は、見事に鍛え上げられ、硬く盛り上がっている。羽根をもいだような肩甲骨に、長くまっすぐな背骨、臀部は野性的に引き締まり、まるでアスリートだ。
肩の筋肉に触れると、ひんやりと冷たかった。
やはり血行が悪いらしい。血行不良は不眠の原因にもなる。
美紅は筋肉の強張りを一つ一つ解きほぐすように、力を込めて手を滑らせた。
「ああ、いい」
彼が感嘆の声を漏らす。
「気持ちいい?」
そう聞くと、彼は大人しく「うん」とうなずいた。
「ねぇ、あなたの体、すごいわね。なんのスポーツをしてたの?」
「ん……水泳」
「そうなんだ。筋肉のつきかたがすごく綺麗」
「うん」
「今度、泳いでみせてよ」
「うん」
いつもこんな風に従順なら可愛いのにね、と一人微笑む。
こうして、彼の広い背中に触るのは心地よかった。
手のひらを通して伝わってくる熱。
この手の下に皮膚があって、筋肉があって、内臓があるのかと思うと……
そこまで想像し、少し恥ずかしくなる。
……やだ。なんかこういうのって、ちょっとエロいかも。
内腿で挟んでいる彼の腰がこすれ、淫らな気分がほんのり増す。
このまま彼を仰向けに転がして、お互いの体を触り合ったりしたら……
ロマンス小説の展開なら、そのあと、硬くなった彼に触れて……
ここまで妄想して、ひくり、と下腹部の奥のほうが疼いた。
そのとき、なんの前触れもなくキャメロンの顔がドン、と脳裏に浮かんだ。
……ストップ。ダメダメ。こういうのは絶対ダメ。妄想だけにとどめよっと。
すると、されるがままだった彼がつぶやいた。
「……ん、もっと下」
「下?」
聞き返すと、彼は「うん」と言う。
「パンツ、少しずらしていい?」
「ああ」
腰から尾てい骨に向かって、ぬるぬると手を滑らせると、急激に彼の全身が強張った。
「ちょっと! 力、抜いてよ!」
「い、いや、ちょっと待て。今、抜く」
彼はおたおたと身じろぎする。力を抜こうとして、余計に力が入ってしまうようだった。
「ストーップ、ストップ。急がないで。リラーックス、ディーター」
「お、おう」
「頭をからっぽにするの。思考するのを止めるのよ。感覚に集中して。音とか、匂いとか、触覚とかに」
「わかった」
彼は首をひねり、なぜか情けない顔でこちらを見た。
「美紅」
「なあに?」
「もしかして、君がするってのはマッサージのことなのか?」
「そうよ。オイルマッサージよ。面接で特技は指圧って言ったけど、私、指圧よりバリニーズマッサージのほうが得意なの」
そう言ってから、ふと疑問が湧いた。
「逆に、なんのことだと思ったの?」
彼はまぶたを閉じたまま、返事をしない。
「ディーター?」
彼は無言でぐったり脱力したままだ。
やだ。気持ちよすぎて、もう寝ちゃったのかな? 私、才能あるかも……
とりあえずマッサージを再開する。今度は、肩から腕へ。凝っているところ、疲労しているところは、触るとなんとなくわかる。流れが滞っているから、滑りが悪くなる。
マッサージや指圧は数ある特技の一つだった。
けど、ほんとにディーターもマッサージが得意なのかな?
青白いディーターの横顔を見ていると、気の毒になる。きっと連日の激務で、とても疲れているに違いない。
この島にきてから、ずっと不思議な感覚がついて回っている。
ディーターに出会い、突然セレブな世界に突き落とされ、飛行機に乗ってこの島にきた。
すべてはただの偶然であり、お互いの利益のための契約結婚のはず。
けど、なにかそれ以上の力が働いているような。
私たちは自分の意志で決断を下しているつもりで、実は見えない大きな力に動かされているような。
思考も感情も行動も、その大きな流れを形作る断片に過ぎず、ディーターも私も、知らずに巻き込まれているような。
そんな気がしてならないのだ。なぜか。
「予感」
小さなつぶやきは空中を漂って、やがて消失した。
そんなものを信じる私は、愚かですか?
ディーターと契約したのはお金のためだけじゃない。もちろんお金も欲しいけど、それよりもっと凄いもの……きっと、なにかとてつもないことが起こりそうな予感。
この人と一緒にいたら、きっと新しいなにかが始まる。
ドキドキワクワクして、とびっきりスリリングな、愛とか恋とかセックスだけじゃない、夢も正義も真実もなにもかもを凌駕してしまう、圧倒的ななにかが……
ようやく、始まるような気がするのだ。
ずっと、それが始まるのを待っていた。
それとも、私のこの感覚は幻なのかな?
一つだけ言えることは、そのヒントになるものが、この手のひらの下で眠っているということ。
だから、今はこのぬくもりに集中しよう。
いつかはダウンタウンの狭い現実に戻らなければならないのだから。
美紅は無心で手を動かした。
ディーターが深い眠りに落ちるのを、心から祈りながら。
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