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55.広場はがらんとして
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セノ卿の家人達はいつの間にか消えていた。セノ卿が逃げだす時に四方へ散って逃げたらしい。僅かばかりの残った人々が騎乗すると、広場はがらんとしてまるで初めから誰もいなかったように見えた。燃えカスは土の下に埋め、天幕を張った柱の穴は埋められて、石を転がし草を戻して、探しに来た人々が、すぐには、ここを起点に移動したとは分からないような処置だった。
「知ってて見ればすぐにわかることなのですがな。追いにくいようにと。まあ、気休めみたいなものですわ」
ゼ大臣補佐はそう言った。
セノ卿とゼ大臣補佐はともに長く旅を続けていたらしい。あの若造ではすぐに見破られてしまいますがの。その部下が優秀なものばかりであるとは限りませぬからな、とどこか懐かしそうに語っていた。
騎乗したアーヘルゼッヘ達は、街道を途中でそれた。道のない草原を行く。よく知っている者がいるらしく、草に見えない隠れた岩や、枯れた溝を上手に避けて行く。どこまでも同じ景色が広がっているのではないかとアーヘルゼッヘが思い始めたころだった。唐突に、草原が、平面から斜面に変わりはじめて、潮騒が耳に付きだした。かと思うと、眼前に夜空と海が広がっていた。
海の上に群青色の空がどこまでも広がっている。丸いまっ白い大きな月が、海に顔を沈めかけ、海上に航跡のような白い光を投げかけていた。草原が途切れた。むき出しの土に代わった。蹄の音が耳をつく。馬の荒い息使いと、鐙のがちゃがちゃ言う音がやけに大きく聞こえてくる。
崖に沿うように道が生まれ、一人二人と馬を下りると、岩を背に手綱を引いて歩きだす。アーヘルゼッヘも馬を下りた。パソンだけが騎乗のまま、馬の世話に飛んできた若い男がパソンの手綱を手に取った。誰ひとり声を上げず、足もとの石が転がる音を聞きつつ、崖を下る。
「下の漁師に話をつけてございます」
どこからともなく現れた痩せた男が、アーヘルゼッヘの前を行くゼ大臣補佐の正面へ駆け上がってきてささやいた。広場を片づけている間に先行した者らしい。
「親族が東部に嫁いでいます。まず、大事ないかと」
とささやくと、ゼ大臣補佐がすかさず答える。
「船がいたむやもしれぬ。心付けは手厚くいたせ」
「はっ。喜ぶかと」
と頭を下げると、下げた姿勢のまま、崖の向こうへ姿を消した。
アーヘルゼッヘ達が崖の最後の勾配を下りると、茂みの間から古ぼけた石積みの小屋が見えた。馬を進めていくと、かやぶき屋根の全貌が見えてくる。小さな小屋だ。屋根に煙突があるだけで部屋の中は一杯ではないかと思う。窓は板戸で、押し上げられてつっかえ棒で止まっていた。明かりがない。真っ暗だ。馬を引いて回りこむと、扉があいていて、肩にショールを巻いた女が立っていた。
不安そうな面持ちで海を見ている。見ると、海辺に平底の船が三艘も岸に引き揚げられていて、ゼ大臣補佐の家人が見て回っていた。海辺の家は、この家だけで、小さな入江は、この家の庭のようにも見えた。見上げると絶壁で、空が青く切り取られて見える。
「申し訳ありません。船は必ず返します」
パソンがいつの間にか馬を下り、女性の前へ進み出ると、その手をとって掲げながらささやいた。女性はパソンを見て、目を見開いて、自分の手を慌てて隠そうと身じろいだ。しかし、パソンは強く手を握りしめたまま、
「礼を申します。本当にありがとうございます」
とさらに力強くささやいた。
「め、めっそうもございません」
と女性は言うと、手を振りほどこうとして、半泣きになる。
「姫巫女さま。手が汚れますだ。はなしてくだせえ」
「何を言っているのです」
と驚いたような声だった。
「そんな綺麗な手で、おらの手を握ったら汚れます」
「綺麗な手ではありませんか。しっかりとしていてふくよかで。わたくしは好きですわ」
と何のてらいもなく満足そうに自分の手の中の手を握りしめて言うと、女性はほおを赤らめた。
「知ってて見ればすぐにわかることなのですがな。追いにくいようにと。まあ、気休めみたいなものですわ」
ゼ大臣補佐はそう言った。
セノ卿とゼ大臣補佐はともに長く旅を続けていたらしい。あの若造ではすぐに見破られてしまいますがの。その部下が優秀なものばかりであるとは限りませぬからな、とどこか懐かしそうに語っていた。
騎乗したアーヘルゼッヘ達は、街道を途中でそれた。道のない草原を行く。よく知っている者がいるらしく、草に見えない隠れた岩や、枯れた溝を上手に避けて行く。どこまでも同じ景色が広がっているのではないかとアーヘルゼッヘが思い始めたころだった。唐突に、草原が、平面から斜面に変わりはじめて、潮騒が耳に付きだした。かと思うと、眼前に夜空と海が広がっていた。
海の上に群青色の空がどこまでも広がっている。丸いまっ白い大きな月が、海に顔を沈めかけ、海上に航跡のような白い光を投げかけていた。草原が途切れた。むき出しの土に代わった。蹄の音が耳をつく。馬の荒い息使いと、鐙のがちゃがちゃ言う音がやけに大きく聞こえてくる。
崖に沿うように道が生まれ、一人二人と馬を下りると、岩を背に手綱を引いて歩きだす。アーヘルゼッヘも馬を下りた。パソンだけが騎乗のまま、馬の世話に飛んできた若い男がパソンの手綱を手に取った。誰ひとり声を上げず、足もとの石が転がる音を聞きつつ、崖を下る。
「下の漁師に話をつけてございます」
どこからともなく現れた痩せた男が、アーヘルゼッヘの前を行くゼ大臣補佐の正面へ駆け上がってきてささやいた。広場を片づけている間に先行した者らしい。
「親族が東部に嫁いでいます。まず、大事ないかと」
とささやくと、ゼ大臣補佐がすかさず答える。
「船がいたむやもしれぬ。心付けは手厚くいたせ」
「はっ。喜ぶかと」
と頭を下げると、下げた姿勢のまま、崖の向こうへ姿を消した。
アーヘルゼッヘ達が崖の最後の勾配を下りると、茂みの間から古ぼけた石積みの小屋が見えた。馬を進めていくと、かやぶき屋根の全貌が見えてくる。小さな小屋だ。屋根に煙突があるだけで部屋の中は一杯ではないかと思う。窓は板戸で、押し上げられてつっかえ棒で止まっていた。明かりがない。真っ暗だ。馬を引いて回りこむと、扉があいていて、肩にショールを巻いた女が立っていた。
不安そうな面持ちで海を見ている。見ると、海辺に平底の船が三艘も岸に引き揚げられていて、ゼ大臣補佐の家人が見て回っていた。海辺の家は、この家だけで、小さな入江は、この家の庭のようにも見えた。見上げると絶壁で、空が青く切り取られて見える。
「申し訳ありません。船は必ず返します」
パソンがいつの間にか馬を下り、女性の前へ進み出ると、その手をとって掲げながらささやいた。女性はパソンを見て、目を見開いて、自分の手を慌てて隠そうと身じろいだ。しかし、パソンは強く手を握りしめたまま、
「礼を申します。本当にありがとうございます」
とさらに力強くささやいた。
「め、めっそうもございません」
と女性は言うと、手を振りほどこうとして、半泣きになる。
「姫巫女さま。手が汚れますだ。はなしてくだせえ」
「何を言っているのです」
と驚いたような声だった。
「そんな綺麗な手で、おらの手を握ったら汚れます」
「綺麗な手ではありませんか。しっかりとしていてふくよかで。わたくしは好きですわ」
と何のてらいもなく満足そうに自分の手の中の手を握りしめて言うと、女性はほおを赤らめた。
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