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54.セノ卿は動かなかった
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不思議なことに、剣を突き付けられているわけでもなければ、構えて脅されているわけでもないのに、セノ卿は動かなかった。動く隙がなかったようだ。ゼ大臣補佐の投げた剣のたわみが音を奏で、外から一斉に歩哨達が飛び込んできた。先ほどは血の海を見ても眉ひとつ動かさなかった男達が、入口近くにしゃがみこんで動けずにいるセノ卿を見ると動揺していた。
その動揺をいさめようとゼ大臣補佐がわずかに家人に意識を向けた。その瞬間。セノ卿は天幕の端をまくり上げて外へ転がり出た。そこから、慌てて後を追う家人をしり目に近くの樹に縛られていた馬の手綱を一つはずし手に取ると、残った馬の手綱を切って馬の尻を鞘でたたいて暴れて逃げだすのと同時に、馬と共に街道を抜け、草原乗中へ走り去った。
ゼ大臣補佐が、天幕から出てあたりを眺めた。馬を慌てて捕まえて、セノ卿を追いかけようとしている家人に向かって、
「やめよ。地下水路を使われれば、どうせ分からなくなる。帝都に行けば否でもあえよう」
「しかし、やつは、アムをやったのではありませんか!」
「アムは、その身を賭して、セノの本性を暴いたのじゃ。時間を無駄にするやつがあるか!」
と声を上げると、そばに立っているアーヘルゼッヘにくるりと向き合った。
「帝都が静まり返っていると言うのは本当でございますか?」
アーヘルゼッヘは一瞬不安になった。自分の見た帝都は本当だろうか、と言う思いと、自分に力が戻ったと勘違いしているだけではないか、と言う思いが湧き上がってきたからだ。が、しかし、風が背後から髪を逆巻きにするように吹き上がった。
振り向くと闇夜に暗く帝都が浮かび上がって見えた。静まり返った細く暗い通りを、きらびやかな赤地に黒と紺の筋の上着の男達が足音を殺して走り抜ける。音を聞いてはびくりとしたように立ち止まり、気配を殺し、再び先へ走りだす。
「本当です。静まり返った町中を、赤地に黒と紺の筋の入った上着を着ている男達が、周囲を気にして走っています」
「赤に黒と紺の筋」
とゼ大臣補佐がつぶやくと、セノ卿の追跡から戻ってきていた若者が、
「トレト家の者じゃないですか。アムの家の者達です」
と最後の部分は、アーヘルゼッヘへの説明だった。
「どうやって、騒ぎを収めたのかが分からぬな」
と言って、アーヘルゼッヘを見た。もしや、その部分を見ているのでは、と言う問いかけだった。アーヘルゼッヘが目を伏せて左右に首を振ると、
「何、あなたのおかげで、我らは彼らの上をいける」
と笑った。そして、
「帝都へ行くぞ。中央へ入る」
と言った。周囲の男達が驚いた顔をする。
「しかし、この時刻では」
「海を回ればよい。崖下の桟橋から個人宅に入るなら、文句を言えるものは誰もいまい」
「夜の海にでるのですか」
二の足を踏むような声だ。風がなくても、夜の海は距離が測れず、行き難い。それを、崖の陰で岸も見えない暗がりを岸壁までつけようというのだから。海の町に住む男たちらしく、危険を感じたようだった。しかし、ゼ大臣補佐は、
「この場は、セノ卿に知られているぞ。しかも、彼が動向を外へ漏らしていたと我らが気づいたと気づかれている。テンネの動きが出る前に帝都に戻らねば、誰も戻れなくなる」
と最後の部分は苦い声だった。もう、戻れなくなった者が一人出ている。自分が目の前にいながら、止め損ねた、と言う思いがあった。
アーヘルゼッヘは不思議な気持ちで、ゼ大臣補佐の悔いの気持ちを感じていた。あの血の海を見ている時にはかけらもなかった動揺が、目の前からいなくなって初めて湧き上がってくる。アーヘルゼッヘは人間の心が読めると思っていた。しかし、本当の心と言うのは、人間は心の奥底に持ってなかなか表に出さない物なのかもしれない、と思った。
ゼ大臣補佐の後悔は、アーヘルゼッヘをやるせない気持ちにさせる。懐からナイフを出し、姫巫女の陰でセノ卿へ備えた瞬間をゼ大臣補佐は見ていた。姫巫女が、アムのナイフに気づき、気づいたせいでセノ卿も反応し、全てが一瞬のうちに終わってしまっていた。
ゼ大臣補佐は、天幕が片づけられ、まかないとしてついてきた雇われ者達に、ここまでで十分だと帰りの路銀を渡し、荷物を与え、街道を戻るように促しながら、何度も何度もその瞬間を心の中で繰り返していた。
そう言えば、とアーヘルゼッヘは思う。あの若者は、この広場に来て、歩哨に立つ家人の顔を見るだけでゼ大臣補佐の天幕が分かったのだ。歩哨の雰囲気から探ったのではなかった。顔を知っていたからこそ、顔を探ったのだ。みな、仲の良い仲間だったのかもしれない。そして、セノ卿のことは前々から知っていたのかもしれない。だから、仲間が倒れていても、彼らは表情を動かさずに仲間の死体を運んだのだ。
あれは、ゼ大臣補佐と同じように心が動かないほど驚いていたからではないだろうか。もしかしたら、幕の外で全てを聞いていたのかもしれない。外にいた自分を悔やんでいたのかもしれない。
広場はすっかり片づけられて、荷物を積んだ荷車は、ゼ大臣補佐の家の者達に見送られながら、街道を戻って行った。もう数時間もすれば夜が明ける。少し早い出立になる。帝都を見れずに帰るので、彼らはがっかりしているかもしれない。それとも、不安を感じて帝都に行かずに済む自分たちの幸運を喜んでいるのかもしれない。
アーヘルゼッヘは、心の蓋をしっかり握った。隣に立つ、ゼ大臣補佐の後悔をこれ以上覗いていたくはなかった。あまりに痛々しく、そして、あまりにぶしつけな事をしているような気がして、心の蓋はいつしか固い塊になった。
ゼ大臣補佐は、隣に人の心を読みつくす者が立っていると言うのに、素知らぬ顔で辛さも悲しさもそのままに、アーヘルゼッヘと分け合いながら、全ての指示をし続けていたのだった。
その思いが、アーヘルゼッヘには重かった。固い重しの下に隠れて、やっと息を吐きだした。すると、ゼ大臣補佐が笑った。まるで全てを見透かされているようで、人間にこそ秘めた力があるのではないかと疑ってしまいたくなるほどだった。
その動揺をいさめようとゼ大臣補佐がわずかに家人に意識を向けた。その瞬間。セノ卿は天幕の端をまくり上げて外へ転がり出た。そこから、慌てて後を追う家人をしり目に近くの樹に縛られていた馬の手綱を一つはずし手に取ると、残った馬の手綱を切って馬の尻を鞘でたたいて暴れて逃げだすのと同時に、馬と共に街道を抜け、草原乗中へ走り去った。
ゼ大臣補佐が、天幕から出てあたりを眺めた。馬を慌てて捕まえて、セノ卿を追いかけようとしている家人に向かって、
「やめよ。地下水路を使われれば、どうせ分からなくなる。帝都に行けば否でもあえよう」
「しかし、やつは、アムをやったのではありませんか!」
「アムは、その身を賭して、セノの本性を暴いたのじゃ。時間を無駄にするやつがあるか!」
と声を上げると、そばに立っているアーヘルゼッヘにくるりと向き合った。
「帝都が静まり返っていると言うのは本当でございますか?」
アーヘルゼッヘは一瞬不安になった。自分の見た帝都は本当だろうか、と言う思いと、自分に力が戻ったと勘違いしているだけではないか、と言う思いが湧き上がってきたからだ。が、しかし、風が背後から髪を逆巻きにするように吹き上がった。
振り向くと闇夜に暗く帝都が浮かび上がって見えた。静まり返った細く暗い通りを、きらびやかな赤地に黒と紺の筋の上着の男達が足音を殺して走り抜ける。音を聞いてはびくりとしたように立ち止まり、気配を殺し、再び先へ走りだす。
「本当です。静まり返った町中を、赤地に黒と紺の筋の入った上着を着ている男達が、周囲を気にして走っています」
「赤に黒と紺の筋」
とゼ大臣補佐がつぶやくと、セノ卿の追跡から戻ってきていた若者が、
「トレト家の者じゃないですか。アムの家の者達です」
と最後の部分は、アーヘルゼッヘへの説明だった。
「どうやって、騒ぎを収めたのかが分からぬな」
と言って、アーヘルゼッヘを見た。もしや、その部分を見ているのでは、と言う問いかけだった。アーヘルゼッヘが目を伏せて左右に首を振ると、
「何、あなたのおかげで、我らは彼らの上をいける」
と笑った。そして、
「帝都へ行くぞ。中央へ入る」
と言った。周囲の男達が驚いた顔をする。
「しかし、この時刻では」
「海を回ればよい。崖下の桟橋から個人宅に入るなら、文句を言えるものは誰もいまい」
「夜の海にでるのですか」
二の足を踏むような声だ。風がなくても、夜の海は距離が測れず、行き難い。それを、崖の陰で岸も見えない暗がりを岸壁までつけようというのだから。海の町に住む男たちらしく、危険を感じたようだった。しかし、ゼ大臣補佐は、
「この場は、セノ卿に知られているぞ。しかも、彼が動向を外へ漏らしていたと我らが気づいたと気づかれている。テンネの動きが出る前に帝都に戻らねば、誰も戻れなくなる」
と最後の部分は苦い声だった。もう、戻れなくなった者が一人出ている。自分が目の前にいながら、止め損ねた、と言う思いがあった。
アーヘルゼッヘは不思議な気持ちで、ゼ大臣補佐の悔いの気持ちを感じていた。あの血の海を見ている時にはかけらもなかった動揺が、目の前からいなくなって初めて湧き上がってくる。アーヘルゼッヘは人間の心が読めると思っていた。しかし、本当の心と言うのは、人間は心の奥底に持ってなかなか表に出さない物なのかもしれない、と思った。
ゼ大臣補佐の後悔は、アーヘルゼッヘをやるせない気持ちにさせる。懐からナイフを出し、姫巫女の陰でセノ卿へ備えた瞬間をゼ大臣補佐は見ていた。姫巫女が、アムのナイフに気づき、気づいたせいでセノ卿も反応し、全てが一瞬のうちに終わってしまっていた。
ゼ大臣補佐は、天幕が片づけられ、まかないとしてついてきた雇われ者達に、ここまでで十分だと帰りの路銀を渡し、荷物を与え、街道を戻るように促しながら、何度も何度もその瞬間を心の中で繰り返していた。
そう言えば、とアーヘルゼッヘは思う。あの若者は、この広場に来て、歩哨に立つ家人の顔を見るだけでゼ大臣補佐の天幕が分かったのだ。歩哨の雰囲気から探ったのではなかった。顔を知っていたからこそ、顔を探ったのだ。みな、仲の良い仲間だったのかもしれない。そして、セノ卿のことは前々から知っていたのかもしれない。だから、仲間が倒れていても、彼らは表情を動かさずに仲間の死体を運んだのだ。
あれは、ゼ大臣補佐と同じように心が動かないほど驚いていたからではないだろうか。もしかしたら、幕の外で全てを聞いていたのかもしれない。外にいた自分を悔やんでいたのかもしれない。
広場はすっかり片づけられて、荷物を積んだ荷車は、ゼ大臣補佐の家の者達に見送られながら、街道を戻って行った。もう数時間もすれば夜が明ける。少し早い出立になる。帝都を見れずに帰るので、彼らはがっかりしているかもしれない。それとも、不安を感じて帝都に行かずに済む自分たちの幸運を喜んでいるのかもしれない。
アーヘルゼッヘは、心の蓋をしっかり握った。隣に立つ、ゼ大臣補佐の後悔をこれ以上覗いていたくはなかった。あまりに痛々しく、そして、あまりにぶしつけな事をしているような気がして、心の蓋はいつしか固い塊になった。
ゼ大臣補佐は、隣に人の心を読みつくす者が立っていると言うのに、素知らぬ顔で辛さも悲しさもそのままに、アーヘルゼッヘと分け合いながら、全ての指示をし続けていたのだった。
その思いが、アーヘルゼッヘには重かった。固い重しの下に隠れて、やっと息を吐きだした。すると、ゼ大臣補佐が笑った。まるで全てを見透かされているようで、人間にこそ秘めた力があるのではないかと疑ってしまいたくなるほどだった。
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