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《兄の焦燥》

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「いや、待って、待って、待って」

 マップに映し出された黒いアイコンは止まることなく、奥へ奥へと移動し続けている。距離が結構離れているが、段々こちらに近づいているようだ。

 ただでさえ虫が苦手で潔癖症で山だの海だのが大嫌いなお兄様が魔物が出るかもしれない森の中にタイミングよく来るなんてことある? もしかして、お兄様と同じ名前の別人? ネームドヴィランって救済対象ってことよね……?

 救済対象一覧のタブをタップし、表示された画面を見て、全身に衝撃が走った。兄をはじめ、名前とともにずらりと見覚えのある顔が表示されている。「セルジェ」「モネ」「フラム」「リコット」「アルバ」「アイビー」「クロコス」「フィデス」「アドニス」――。

「うわあああああ! なんで今まで忘れてたの、私! このゲーム、悪役全員私の推しだった……!! 推しが今この世に! 生きて存在してるってこと?!」

 前世を思い出してからいっぱいいっぱいですっかり頭から抜けていたけれど、そもそも私がこのゲームを手に取ったきっかけもパッケージに載っていた魔王様のヴィジュアルがあまりに好みだったからだ。

 とにかく私は魔王様に会うために淡々と王子達を攻略していたのだが、魔王編に入ってからがやばかった。日常編の悪役令嬢たちはビジュアルがこれまた好みだったもののそこまでキャラの掘り下げはなかったが、魔王編に入った途端、悪役の見せ場が増え、まんまと沼に落とされたのだ。

 にもかかわらず、このゲーム! まじで悪役に容赦がなく、ほぼ確実に悪は死ぬ。そう、当時の私は悪役がやられるたびに心を痛め、ハッピーエンド妄想二次創作に逃げ、ほのぼの展開に救いを求めていた――。道理でやりこんでいたゲームのわりに攻略対象たちに一ミリもときめかなかったはずである。

「っていうことはつまり……、お兄様や推し達。そして私も、頑張れば救われる道があるっていうこと?」

 ふよふよと私の目の前に漂っているばかりで、ウィンドウは答えてくれない――。
 けれど、がぜん気力がわいてきた。

(とにかく、今はお兄様と合流しよう!)

 お兄様のアイコンの位置をマップで確認して、歩いていく。奥に行けば行くほど鬱蒼とした木々が空を覆い隠していった。夜でもないのに真っ暗な森は不気味で、何か物陰から飛び出してきそうだ。案の定、時折現れては襲い掛かってくる低ランクの魔物を狩りつつ、足元に注意しながら進んでいく。

「お兄様、今どのへんだろう? もうそろそろ近くにいると思うんだけど……」

 何度目かの位置確認をしていたら、ミッションタブが明滅しはじめた。新着のミッションだろうか。早速タブをタップしてみる。

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「ネージュ・ド・イスベルグ」が死亡していないため、
《兄の強襲》が破棄されました。
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 続いて、「《兄の焦燥》が発生しました」とメッセージが続いた。

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《兄の焦燥》

妹を探し、兄は深い森の奥へと踏み込みました。

体力も魔力も枯渇し、満身創痍の彼に怪しい影が迫っています。
このままでは彼は抵抗むなしく、魔物に殺されてしまうでしょう。

制限時間内に兄と合流し、彼を守ってください。

                     「5:00」
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「……え?!」

 カチリと、すぐさま制限時間が「4:59」と減っていく。ウィンドウのミッションを消し、素早くマップに切り替えて走り出した。ぐずぐずしている時間はない。木の根につまずいてよろめきながらも、歩みを止めず、ひたすらお兄様を目指す。

「お兄様ー!! どこですかー!」

 叫んで、耳を澄ます。すると、微かな風切り音が聞こえてきた。あっちだ!

「お兄様! ここにいらした、の――」
「ネージュ?! ああ、無事、だったのか。よかっ、た」

 三白眼を見開き、「ははっ」と力が抜けたような顔でほほ笑むお兄様の口元には血がにじんでいる。トレードマークの丸眼鏡もすっかり割れてしまっていて、衣服だってボロボロだ。破けたズボンの隙間から赤黒く光る何かが見えた。……血だ。

「ぐるるるる……」

「な、なぜこの森に、Aランクの魔物が――」

 弱弱しい小さな竜巻が、黒犬の魔物――ヘルハウンド――をけん制しているが、あまり堪えている様子はない。赤い目は獰猛にぎらつき、今にもとびかかってきそうだ。しかも、授業では危険な魔物だが見た目は通常の犬とさほど変わらないと教わったのに大人二人分ほどの背丈に体毛が針山のように禍々しく尖っていた。

「ここは危険、だ。逃げなさい」

 そこまで言って、お兄様はへにゃりと眉を下げた。

「ほん、とうは、兄さまが送ってやりたかったけれど、無理そう、なんだ。
すまない、が、一人で帰れるな?」
「やめてお兄様――」

 ――ガサガサ。

 息絶えた冒険者の死肉を魔物が食らうことがあるらしい。お兄様を狙っているのだろうか、小型の魔獣達が茂みから期待したような目でこちらを見つめていた。

 魔物討伐など、騎士だの冒険者だのの役目で公爵令嬢が魔物と対峙することなどそうそうない。かくいう私も、魔物と対峙したのは弱い魔物を適量お膳立てされたほぼ遠足といっていいような演習訓練だけだ。

 高ランクの魔物に遭ったら、とにかく逃げろと教わっていた。実力不足の者がたとえ攻撃しても、高ランクの魔物の皮膚は鋼のように固く頑丈で、傷一つつけられないからと。

 低ランクの魔物には十分、自分の魔術が通用することは知っていたけれど、これは――。
 果たして、私の魔術が通用するのだろうか。

 頬をばしりと叩いて気合を入れると、竦む足を無理やり動かし、お兄様の前に躍り出た。
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