【改訂版】薄氷を踏むが如く~歪んだ三角~

かたらぎヨシノリ

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歪んだ三角

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『薄氷(うすらい)を踏むが如く』
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登場人物紹介

荻原美波。……おぎわらみなみ。34歳。私。スランプ中の作家。原稿取りに追われている。平凡で痩せぎす、卑屈で自分の殻に閉じ籠りがち。生活力がないが祖父からもらった屋敷がある。

白木武市。……しらきたけいち。21歳。健康的な青年。原稿取りの為に屋敷に押し掛けて住み込む。

黒河孝之。……くろかわたかゆき。29歳。整った顔の男。前編集担当。美波を強姦してから担当を降りた。


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【薄氷】……うすらい
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《日常から非日常の境目》
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 初夏の日射しは昼前でも強い。じわじわと顔から吹き出す汗が俯けばぽたりと床に落ちていくのに夏の到来を私はなんとなく感じていた。……まあ、今日も暑い暑い。
 それにしてもここ最近の東京の日射しはエグさを増している。あまりの蒸し暑さに辟易したために軽井沢あたりに毎年避暑しているらしい大学の友人のことを思い出すが、生憎この暑さのせいか顔も名前もぼやけてしまっている。行けない軽井沢よりもまず、氷だ。氷が欲しい。アイスでもいいが、今は喉がひどく渇いていた。
 私の住んでいる屋敷は大きいが古く、空調の効かない場所の方が多い。祖父からもらった屋敷なので昔からこういうものだと思っていたが、作家という仕事柄やはりそろそろ設備投資を真面目に考えないといけないのだろう。その最たる廊下の窓から見える中庭に、青年の姿があるのに気づいて、ふと顔を上げる。
 青年はいつものように狭い庭の手入れをし、家の掃除をし、私の脱ぎ散らした服を拾い、洗濯し、食事を作り、働いてくれている。自堕落な私の身の回りの世話をずっと青年に任せてきているが、それで不都合は全くない。あとは私が作家としての本業を全うさえすればいい。その事がなんとも言えず不健全極みなかった。私は生活力の低い私を恥じているが、それで青年が私を責めたことは一度としてない。私が出来ないことを埋めるように彼は動く。……その助けが彼の目的の為だとわかっているのに。

 青年との不毛な身体の関係を一体いつの頃から持ったのか思い出すには時間がいる。

 確か、青年が原稿取りの為にこちらに通うようになってからなので、ああ、きっと私と彼が出会ってすぐの頃だ。……挙げ句、私の原稿は一行足りとも進んでおらず青年は夜毎私に関係を迫ってくるという体たらくなのだった。

『先生の原稿をいただけるまで編集部に戻ってくるなと言われて来ました。白木武市といいます』

 大層な荷物を背負って戸を叩いた歳若い青年に面食らって、作家の端くれでありながらスランプで数年引き込もっていた私は青年を家に招き入れてしまった。生きてきた人生の中でいつだって押しに弱い押しに弱いと散々言われてきた私は、このときもそうだった。要は押しきられた、ともいう。

『身の回りのお世話はお任せください。先生は原稿に向かって筆を走らせるだけで大丈夫です』
『ははは。君ね、それ本気で言ってるとしたら随分と作家を知らないな?』
『はい。先生』
『作家という生き物は無駄なことの隙間に思い付くようにペンを取るのだ。時と場所を選ばず。紙の前にペンを持って座っているだけで原稿が上がるならばだね、僕はとっくに壮大な物語を数冊書き上げているというわけだよ?』
『おや、それでは先生……』
『生憎だが渡せる原稿はないよ。今日は泊めるが、明日朝一番でお帰りなさい』
『いえ。原稿をいただけるまでは帰れません』

 折れない青年と何度か押し問答をした挙げ句、結局私が折れて本当にそういうことになった。納得がいかないまま、不満を垂れ、編集部に苦情を入れようと久し振りに外と連絡を取った。

『…………ええ。それで、一体いつまで…………ああ、本気ですか。いや、迷惑と言えば迷惑ですが、ええ、ええ、そうでしょうとも。こちらもスランプから脱け出せればね、そりゃ願ったり叶ったりですが、彼の身内はさぞや心配して…………はあ、は……ああ、それは……なるほど。では、当分彼を帰さざる状況であってもそちらには支障はない、と……はあ』

 電話の向こうで豪気な編集長が半年でも、一年でもどうぞ、と言っている。まさか。そんなにかかりはしません。いや、先生。そういって我々はね二年待った。美波先生の原稿をね。待っているんですよ。印税で食いつないでいるとはいえ、そろそろ新作のね、一本は出ないと先生も難しいのではと心配しておるというわけで。我々は待ちますよ。先生の本は売れますから。いや、原稿さえいただければこちらできちんと売りますからね。ね。はっはっは。

『はあ』

 ため息とも、相づちとも取れる声が漏れた。受話器を置いた私の姿を背後から青年はじっと見詰めており、その視線に耐えかねて、ついと横を向く。

『……失礼ながら、あの、中堅で鳴かず飛ばずの先生方は結構いるんだそうです。なかなか印税で暮らしが立ちいかずに筆を折る、そういう先生も』
『……ああ、そう』
『先生の本は売れますよ。出せば売れます。あの本、俺も一作目を読ませてもらいましたけど、とても面白かったです』
『────続編は無理だと、あれは、続きはないのだと、きちんと編集長には伝えてあるはずだが』
『ええ。ええ、そうでしょうとも。ですから、書き下ろしの原稿がほしいのです。あれの続編ではなく。新しく先生が編んだ文章を』
『君は、文章を書いたことがあるかい』
『いいえ。もっぱら読むだけです。読むのが好きで編集長に雇ってもらったので。取り柄はそれだけです』
『ああ。道理で君の言動は消費のそれなんだな。まるで草を食うヤギだ。草などどこにでも生えるし、活字は無限にあふれでてくる湯水のように思っているな?それは違う。出ないものは出ないし、ないものはない!さっさとお引き取り願おう!』
『……では先生はこの二年、枯渇した井戸を一人で掘っていたというのですか?その細い腕で?』

 理不尽な激昂に怯む様子もなく、首を傾げる青年に思わず私は面食らった。
 私のスランプを一言で見抜いた青年に恐れを抱いたのはこの時だ。
 あれからずっと私はこの青年の慧眼を恐れ、そしてそれに気付いた彼に詰め寄られて、なしくずしにこの関係を受け入れることになった。あの夜に、私は、彼のものになってしまった。

「…………暑いなぁ」

 庭いじりをする青年の姿を目で追っていると、こちらに気づいた青年が私に目を留め、笑った。互いに混じり合うような気持ちになるが不思議と嫌な感じはしなかった。まるでこの世界に私と青年しかいないかのような錯覚。既視感。白昼夢。いや、おかしい。こんなのは全くもっておかしい。不自然で、不健全だ。いびつな、悪夢のようだ……そうだ、こんなものが正常なはずがない────。

 ぽたり、と床に滴が落ちる。
 黒い染みが広がって、やがて何もなかったかのように消えていった。


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《夜這い》
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『先生』

 最初は夢かと思った。よもや男同士でそのような行為に至るとは普通の男には考えが及ばない。……普通の男には。
 ただ、私の目の前で青年が服を脱ぎ、その若い肉体を晒したのを熱に浮かされたようにぼーっと見ていた。
 提案なのですが、と静かな声が部屋に響いた。

『たとえば、俺を題材にするとかはどうです?』
『……題材?』

 いい加減に服を着なさい、と顔を背ける私に青年は真面目な顔で一歩近寄った。

『先生、俺を活字で表現して見せてください』

 挑戦的な言葉に、私は思わず呻いた。

 こういうことはやらない服を着て今すぐこの家から出ていきなさい君は作家を全く理解できていないそれどころか何一つとして私のことなど知ろうともしていないじゃないか。

 捲し立てるように言葉を並べても、私は何一つ、青年に傷をつけることなどできなかった。

『……先生は何をそんなに怖がっているんですか』

 琥珀を煮詰めた深い黒蜜色の瞳に真っ直ぐに捕らわれ、私は何も言い返せなかった。青年は何事も恐れていなかった。すべて折り込み済みでここにきたのだ。私の次の原稿を取るために。……それだけのために。

 私はもう恐れで胸が詰まっているのをどうにか青年に悟られないようにするので必死だった。わざと声を荒げ、無駄に大袈裟に抵抗し、君には塵ほども興味がない、と心にもないことを叫ぶよりなかった。
 彼は作家という生き物をつゆほども理解しておらず、その職の売れない一部の私ような作家先生と呼ばれるものが嘘つきのクズであろうことすらわかっていなかった。

『今日日の処女でもそんなに怖がりはしませんよ』

 猫のように音もなくやわらかににじりより、青年は私の腕を取ると、後ろ手にひねりあげ、私が上げた悲鳴を軽く笑い、耳許に口を近づけ、挙げ句かわいそうに、と囁いた。

 ────かわいそうに。

 頭の中でぐるぐるとその声が響いた。
 捕食者は捕らえた獲物をけして逃しはしない。
 首に牙が食い込んだ気がした。

『……ひっ、』

 よりにもよって私は脱ぎ着のしやすさから寝間着に襦袢を好んでいた。襟のあわせ目にそって、乾いた青年の指先が滑り込む。肌の上を他人の熱がゆっくりと這うおぞましさに私はぞっとし、泡を食い、ざっと血の気が引いていく音を聞いた。

『止めなさい……!』

 止める声が震え、掠れた。私は恐れていた。あの日のような過ちが再び繰り返されることを。

『……なんだ。こういう経験はあるみたいですね』

 何の経験だと、と問い返すのが恐ろしかった。年下の男に組しかれることがか、と言えば墓穴を掘るのだとわかっていながらそれでも叫ばずにはいられなかった。恐怖にひきつったこの顔で私が出来ることといえば可能な限り低い声で喚くことだけだった。

『やめろ……っ、と言っているのが……聞こえないのか!』

 こんなことは望んでいない、青年と私自身に言い聞かせるように吐き捨て、頑なに体をよじり逃げを打つ。青年の暴力はあまりにも必要最低限だったが、それでも私を捩じ伏せ支配し抵抗することを諦めさせる程度には有効だった。この家には私と青年の二人しかおらず、泣きわめいても助けなどこないことを誰よりも私が知っていたのだから。

『腕は折りません。先生の……大事な商売道具ですから』

 私の抉れた腹を撫で回しながら青年が言う。肉が薄いですね。きちんと食べていないのではないですか。私は息も絶え絶えに、己の日々の不健康と体力の無さを呪いながら、ふ、と体の力を抜くよりなかった。

 …………一瞬にすべてをかけよう。

 私が抵抗する気力を失ったと思った青年が腕の拘束をようやく緩めた瞬間、私はここだとばかりに渾身の力で彼の腹を蹴った。ヴ、とくぐもった青年の呻き声を頭上で聞き、床を這うように体を離した。部屋から転がるように廊下に出たものの、突き当たりの電話が遠い。受話器に伸ばした手を、すんでのところで背後から伸びてきた二本の腕に捕まった。それでも私が暴れると青年は掠れた声ではっきりと告げた。

『そうそう、せんせ。電話線は抜いておきました』

 見ると確かに線が引き抜かれている。
 私の知らぬうちに電話器はただのおもちゃに成り果てていたのだ。いったい、いつから───。
 私が放心してしまうと青年は容易く私を肩に担ぎ上げ、もと来た部屋へと連れ込み、寝台の上に私をぽいっと投げ出した。私はもうこれ以上の抵抗を放棄し、青年が果実の皮を剥くように私の寝間着にしている襦袢をするりと床に落としてしまうのを呆然と見ていた。

 ───そうだ。ここには私と青年しか、いない。

 貧相で不健康な私の体と比べれば若い肉体は瑞々しく薄い皮膚の下に隠された筋肉がきちんとついているのがわかる。男児たるもの斯くありなん、というところか。触って楽しいのは青年のような身体だろう。そう思うとひどく惨めだった。
 縮こまって裸体を隠そうと足掻く私の両腕を取り、寝台に張りつけてしまうと青年は無遠慮に私の体を視て、ああ……やはり細いな、と呟いた。率直な言葉に彼の善良さを見いだすが、そもそも良い人間がこういう行為に及ぶだろうか、と考え始める。いやいやいや。流されるにも程がある。

『……もういいだろう、止めなさい』
『先生こそ無駄に抵抗するのは止したほうがいいですよ』
『脅しか』
『どうとでも』

 このままだと暴行罪で君はブタ箱いきだ、考え直せ、と私の上擦る声など青年はまるで聞いていなかった。彼の興味はすでに私の貧相で情けない肉体にあり、私の言葉には何の意味もなかった。
 私は文章を読む気のない人間の前に開かれた稀少本のようだった。
 価値のわからない人間の前ではどんな扱いをされようともどうすることもできない。汚れた指でページを捲られ、飲み物や食べかすをこぼされ、はしっこを破かれて申し訳程度にテープで継ぎはぎされてしまうのだ。書き込みのメモや、犯人の名前に丸をされるかもしれない。犯される私の名前にはきっと赤丸がつけられているのだろう。
 項垂れた私を青年は傷ついた子どもをあやすようにかき抱き、背に腕を回し、大丈夫ですよ、と囁いた。何がだ。何一つとして大丈夫なものか。私の苛立ちを察したのか青年は脱ぎ散らした服の山から帯を取り、それで私の眼を覆ってしまう。唖然としていると次には体をひっくり返され、両腕をベルトのようなもので縛り上げられてしまった。

『君は、何を……!』
『見えないほうがいいかなって』
『……ん、んァ?!』

 背後で何やら動きがあるが全くわからないので良し悪しがつかない。

『……ああ、あ、や…いやだ…なにを…………?』

 視界を塞がれたままだと腹や性器を触られる感覚が生々しい。恐怖と共に、じわじわと覚えのある熱が私の息を乱した。

『作家は想像力で読者を気持ちよくさせるでしょう。ああ、よかった。先生はきっとこういうのが好きだと思ってました』

 見えない状況が余計に感覚を研ぎ澄ませるのだろうか。緩く起ち上がった陰茎を握りこまれ、青年の手のひらでぎゅっと擦られていく。

『う、う……! やめろ、やめ、あ……っ、こわい……』

 次第にぬちゃぬちゃと濡れた淫靡な音が下腹部から聞こえるようになり、羞恥に目が熱くなる。聞きたくない、と頭を振る。しごかれて、勃起するだけでなく、青年の手の中ですべての熱を吐精するまでその動きはやむことなく続けられた。

『……あ────……あ……っ、ひ、ァ……ウゥ────!』

 やがて言葉とは裏腹に肉体はじわじわと悦楽に屈し、私は抗えぬまま追い詰められ眩むばかりの空白を視た。詰めた息を荒く継いで粗相をした老人のように世のすべてを恨み、呪詛を吐くより他にない。気持ち悪い。気持ち悪い。早く終われ。終われ。終わってくれ。

『ぎ、ぃ……!』

 濡れた鈴口に軽く爪を立てられるような仕草で剥かれた表皮が外気に触れる。達したばかりの陰茎は敏感でそんな些細な刺激でも敏感に反応を返してしまう。ぬちぬちと濡れた音が私の羞恥を煽っていく。

『ああ、先生。また勃起ってきましたね……』

 青年の声音が降ってくる。見えない彼の嬉しそうな表情が手にとるようで、己の想像力の豊かさに吐き気がした。

 ─────……お前は気持ち良いのか、ここが。

 目蓋の裏でチカチカとあの日の悪夢が翳る。ねっとりとこびりついたあの甘ったるい声が聞こえる。キィンと耳鳴りがして、青年の声は遠く追いやられていく。ただ、下肢を甘い疼きが撫でる度に口から零れ出る己の艶音をどこか遠く、他人事のように聞いていた。

 ……私の悪夢について語るとするならば、前任の編集担当者がまさにそれだった。

 あの頃の私は駆け出しの作家で、三十歳を過ぎてたまたま運よく出した本が小さな賞を取り、人の口にのぼって書店の売れ行きが好調だったのだ。
 スランプなど知らぬままに色んなプロットを思い付いては担当と次の本について語り合うのが楽しい盛りだったと思う。

 ─────暴れてはもっと痛いことになるぞ?

 当時の担当の男もまた、顔の整った体躯の良い男だった。名は忘れた。忘れたはずだ。もう二度と口にすることがないように祈って生きてきたのだから、そうであってほしい。

 本が小さな賞をもらったことに浮かれていた私は軽率に男の仕掛けた罠に掛かった。祝杯をあげようと言われ、二つ返事で若い男を独り身の家にあげることがどれほど危険なことか、あの頃の私は知らなかったのだ。

 心地よく酔いが回った頃、顔を殴られ、首を絞められ、泣いて赦しを乞い、抵抗しないこれは合意の上だと固く約束して漸く私は男の暴力から解放された。とても痛くて苦しくて何がなんだか理解できないまま、誓わされた。
 男は私の体を撫で回し、摘まみ、舐め、噛んでは私の上げる悲鳴を時間をかけて楽しんだ。私の慎ましやかな雄の包皮をめくり、外気に晒された先端をべろりと舐めあげ、啄むように吸い上げた時の信じられない感覚に私は女のようにただ、乾いた嗚咽を漏らすしかなかったのだ。


「先生、先生……」

 私の体を弄り回していた青年の心配そうな顔が見えた。いつの間にか目隠しも腕の拘束も解かれ、私は彼の腕のなかでぐったりとしていた。四肢は気だるい疲労で力が入らず今さら逃げる気力も沸かなかった。嗅ぎなれた精液の臭いに私は眉をしかめる。

「……誰に抱かれているつもりだったんですか」

 彼の問いに答えず、顔を伏せる。それが青年を煽る行為だとわかっていて、なお答えからは逃げたかった。
 尻に熱いものが押し当てられて、ギクリと身を強張らせる。私の抵抗は空しいものだと思い知らされ、どっと血の気が引いた。

「いや、だ、いれ……るな!」
「じゃあどうしろと」
「……せめて、慣らしてくれ、い……痛いのは……よせ……」
「慣らす?……具体的にはどうするんです。指示してください」
「……指、を」
「指を?」
「舐めて、濡らしてから……後ろ……を解して、くれ……」

 青年はその通りに自分の指を舐めて濡らし、私の足を広げてから指を二本添えて固く閉じた後腔にズブリと侵入させた。手加減のなさに泣きが入る。

「や───……!!!あ……あ……っ、二本は…っ…ちが、」
「…………増やせ?こんなにキツイのに先生はわがままですね………」

 抜いてくれ、という抗議に青年は素知らぬ振りをして一気に第二間接まで入れてくる。あまりの内圧の強さに苦し紛れに違う、違うと繰り返すことしか出来なかった。
 しかし、肉の内に異物が入り、ゆっくりと動き、撫で回し、内側から肉壁を柔らかく揉むような仕草で愛撫されると、痛みとは違う甘い疼きがまた沸き起こってくるのを感じて私はぶるりと身震いする。

「う…………ん、ん……っ!あ、あ、あ────……」
「慣れてきましたか?」
「ンぐ、やだ、違う、……う、うー……っ!ア、ア、ン……!や、いや……ァ!」

 ぐり、と奥まで指を飲み込まされ、私はア、と高い声をあげる。苦しさの奥に言い知れぬ痺れがあるのを自覚せざるをえなかった。それをこの体は知っている。一度覚えた感覚を揺り動かす青年の指を私の肉壁がきゅ、と媚びるように食んだ。

「好きなんですか、ここが」
「アア……っ! ……ひ、ァ……、ン……ンぅ……く、ちが……やだ、やだァァァァァ!」

 指の腹で内側の壁を擦られる度に私ははしたなく叫び、喉を晒した。屹立した私の陰茎は下腹に反り返り、とろとろと涎を足らしている。触れられればすぐにでも極めるだろう。私はこの体がこうして痴態をひとの目にさらすのをずっと前から恐れていた。あと僅かの刺激ほしさに私は私自身に手を伸ばす。
 二度、三度、陰茎を強く擦り、あと少しというところで青年が私の手を掴んで止めた。物足りない刺激欲しさに腰が淫らに揺れ、尻の指を抜かれて私は思わずすがるように青年を見た。……どうしてちゃんと触ってくれないのか、と。

「……先生」

 彼は既に成熟した雄の顔をしていた。硬く反った雄の象徴が想像したものよりも大きく、私はすぐに狼狽し、シーツの上をずりあがった。足首を捕まれ、引きずり下ろされながら私はなんども懇願して止めなさいと頼んだ。私の懇願はとうとう青年に受け入れられなかった。

「慣らしたので、挿入れます」
「止め、や、ああ……ぃあだ……っ……うぅぐ────……!」

 亀頭の太い先端をぐりっと含まされて一息つき、あとは容赦なく青年が狭い肉筒を押し進む。強引に押しいって好きなところで落ち着いた凌辱者を私は苦痛と恥辱に震えながらなんとか耐えた。

「は、あ……あぁ、ひ、ン……抜いて……抜いて……っ、痛い……」
「痛い?」
「ぎィ、あ───あ────……、やめ……ぇ……はァ……あ……ンア゛ァ゛!」

 凶器を肉鞘が納めてしまうと、あとはもうなし崩しになる。青年が腰を突き上げる激しさに私は泣いてすがって許してくれ、もう終わりにして、と叫ぶよりなかった。

「……終わり?ははっ、終わりなんてないですよ。先生。これから僕たちの関係が始まっていくんですから」

 目も眩むような最悪な宣言を耳にして、私は掠れた悲鳴を上げ、恐怖ともたらされる悦楽に耐えきれずに意識を手放した。


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《情事のあと、悪夢の続き》
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「俺を追い出したければ先生の原稿をください。でなければ無理です」

 昨夜の荒事に微熱を出して寝台の住人になった私の額に濡れたタオルをおき、氷嚢を乗せて出ていく青年に私は恨みを込めた視線だけを向けた。声を出すことさえ億劫だ。台所のどこかに仕舞い込んでいた水差しまで用意されていて、痒いところに手が届く気配りは素直にありがたい、と思った。……のは一瞬で、こうなった原因は青年にあるのだと我に返る。そうするとやはり怒りがふつふつと込み上げてくる。感謝などどうして私がしなければならないのか。

 こうなれば意地でも一本書き下ろして、早急に彼を追い出さねばならない。

 そう仕向ける策であれば青年の思惑は十分に私に効いていた。誤算は私の肉体があまりにも脆弱だった点だろう。一回り年下の男の欲情に私はついていくのが出来ない。行為の最中に体力が尽きて意識を失うままに朝を迎えることが過去の経験からして多かった。

「若い女を抱けばよいものを……」
「先生だから抱いたんですよ」
「……はッ!?」
「そんな顔をしないでください。ほら、解熱剤です」

 独り言に返事があったことに驚いた私など気にもしないで戻ってきた青年が私の布団をめくった。────は?

「足を立てて」

 なぜ、と理解できていない私に青年はやわらかく笑う。人畜無害の顔をして行うことは情け容赦ないのを私は昨日の情事からもう知っている。

「じ、ぶんで…飲める…」
「これはね、お尻にいれるお薬なんですよ、先生」

 ザッと顔色を無くした私に喜色の混じった吐息がかかる。太股をなぜる大きな手のひらが、さぁおいで、と私が折れるのを待っている。ぐぅ、と内腿に力を入れれば青年の狡猾な笑みがますます鋭さを帯びて見えた。……底意地が悪いのでは?

「……自分で、足を立ててください」

 後孔がよく見えるようにです。囁きとは裏腹に有無を許さぬ語尾の強さに私はゆっくりと従うほかなかった。膝を立て、膝裏に彼の手がかかる。他人に股を割り開く羞恥と熱で頭がくらくらした。早くことが終われ、と目を閉じた私は無防備な赤子のようだった。胸につくまで足を押し上げられると、外気を感じて孔が窄まる。指の腹でぐるりと悪戯に夜の無体でふっくらと腫れぼったいそこを撫でられれば、さすがの私も声を上げずにはいられなかった。

「入れるならさっさと入れてくれないか……!」

 熱のせいで潤む視界に青年の怪しげな笑みが滲む。

「わかりました」

 つぷん、と躊躇なく座薬の粒が入り、それを押し込むように青年の指がぐぐっと私の中に侵入する。昨日の凌辱で柔らかくなった菊門はわずかな抵抗しかしなかった。

「……ッ、あ、ア……ア……ひっ…!?」

 弄り回すようにくちゅくちゅ音を立てながら指を動かされて私の体が釣り上げられた魚のように跳ねる。覚えさせられた快楽は私の意思とは関係なく、昨日の記憶をすぐに思い出そうとしている。悔しさと淫らな熱に目頭がカッと熱く燃える。

「いやだ、い、あーっ……あゥ……!」
「気持ちいいでしょう?ここと……ここが、先生は感じるんですよね……」
「あ、ウ────……!う、あ……あ、やめて、そこ……っ、触るな……ひっ!」
「はは、先生は嘘つきですね」
「……ん、ン……っ、抜いてくれ……もう、もう、出……」
「イッていいですよ」

 言われるまでもなく私は彼の指を狭い肉壁できゅうきゅう締め付けながらはしたなくも果てた。放心したように抵抗できない私の体を彼は自由にし、私はまた彼の雄に何もかもを蹂躙された。
 私は熱の見せる悪夢だと、思い込むことにして何度目かの暗い悦楽に飲み込まれていく。

「夜までに熱が下がらなければ医者を呼びましょうね」

 彼の恐ろしい言葉をどこか夢うつつに聞きながら────。


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《口論と無気力》
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 熱が下がった後も原稿を書く気持ちには一向になれず、私は書斎で白紙の原稿用紙に溺れていた。昨今では手書き原稿など渋い顔で受け取られるだけだが、私は紙に書き出すのを好んでいた。こういうときは酷く憂鬱で、ペンを握る気力すらないのだ。気分が乗らない作家ほど使い道がないものはいないだろう。タワシ以下だ。
 青年は甲斐甲斐しく私の身の回りのあらゆることを有言実行していた。

「紙にまず、名前を書いてはどうですか」

 いつまでも埋まらない紙を一瞥し、青年がポツリと呟く。

「名前?」
「先生の原稿ですから、最初に先生の名前を」
「…………君、君は本当に素人なのだな。原稿の一番始めの行には題名を書くんだ。それから作家の名。そしてとうとう本文の書き出し、と決まって…………」
「では俺の名前からですね」
「…………は?」
「白木武市、です」

 その時私はいかに自分が間抜けな声を出せるのかはじめて知った。そして、美しい青年の顔をまじまじと見て、心からこいつは馬鹿の権現かと思ったのだった。

「だって俺のことを書いてくださるのでしょう?なら、題名は俺の名前だ」
「─────そんな単純なものではダメだろう……」
「どうしてです?」

 ────どうしてです、だと?

 逆に驚いて私は言葉を失った。どうして?
 私は彼を書くつもりはなかった。書くべきものがもう私にはなく、書かねばこの青年を追い出せない現実がただただ焦燥させるのだった。焦りが怒りを招き、怒りを飼い慣らせない私は疲弊し消耗し疲れはてすべてに絶望していたのかもしれない。ただ、ひどく私は疲れていた。それだけは事実だった。

「…………やめてくれ……」

 私は消えたくなった。今、ここから。この瞬間に。青年の目の前から煙が空気に馴染んでスイと溶けるように。あるいは買われた本が本棚から抜かれていくように。
 私は忘れたものであってほしかった。あの本さえ書かなければこんなことにはならなかったのだ。私は、私は、どうしてこんなことになったのだろう。

「君は作家を字を産む機械だとでも思っているのか?!」

 私は、もう、なにも、なにも生みだせない。どうしてそれがわからないのか。何度も言った。何度も。何度も。何度も。もう書けない。書くものがない。言葉が尽きてしまった。なにもない。空っぽです、と。言った。伝えて訴えたのに。……何故なのか。わけがわからない。もう、何を言っても無駄なのだろうか。

「…………やめてくれ、もう……僕をゆるしてくれ─────」

 それでも彼は私に優しく繰り返すのだ。

「────原稿さえいただければ俺はすぐにでもあなたの前から去ります。先生、きっとそうなります。きっと……」

 この悪魔の言葉に私はもっと追い詰められていく。

「大丈夫です。先生……」

 私は何一つ、彼の言葉を信じることができない。
 
「────ね、せんせ?」

 耳朶を甘く噛むようにそっと触れる彼の息に、首を振った。嫌だ、もう、何もかも許してくれ、と。
 それでも青年は私を真っ直ぐに追い詰める。手を伸ばし、指を絡め、耳元で甘く私の名を呼び、腕の中にぎゅっと閉じ込めてしまう。

「君のそういう言い方、がっ、僕は好かな、いんだ、あ……う……ッ」
「はは、でも……興奮するでしょう?……ほら、せんせ……もうこんなになって────かわいい……」
「止め…………ッ、ン、ン……くっ!」

 人の良さそうな顔の青年が私を言葉と仕草でなぶっていく。出会った頃はもっと幼く、真っ直ぐで、若木のような青年だったのに、今では私の起ち上がった乳首を摘まみ、軽く捩じり、私が高く尖った声を上げると笑って意地悪く手を離すようにまでなってしまった。
 痛い、と言えば、嘘、先生はこういうのが好きでしょう、と軽い口振りでかえってくる。
 好きなものか。……好きなものか。
 それでもこの体は素直に反応してしまう。
 青年が与えてくれるものをこの身体は喜んで受け入れてしまう。私の意思を取り残したまま、この身体はそういう風になってしまった。

「ね、せんせ?」

 ────好きなものか!

 私は意固地になって、青年をギッと睨み付ける。青年は穏やかに笑って頬に口づけを落とした。
 造形の美しい配置。しっかりとした眉。はっきりとした目鼻立ちは人好きのするものだろう。いびつなものなど何一つとしてない。
 私の不健康に青白い肌とは違う、日の当たる世界で生きている人の肌から匂いたつ生命力。
 青年の無骨で長い指先がこの肌の上を撫でまわすとき、私はいつも劣等感に襲われてしまう。

「…………あ、アァ、あ──────!」

 青年の指先が私を翻弄し、触れていくすべてが甘く熱い疼きを呼び起こしていく。ちかちか。眼の裏で火花がちらちら散る。
 体の奥、芯のところがひどく熱い。燃えていく。
 燃えて、燃えて、……あとはどうなるのだろう。
 約束の通りにすべてが終わったとき、せめて何も残さず消えてくれ────と私はいつも心の中で祈っている。
 この熱も、膿んだようなじくじくとした痛みも、何もかも。消えてなくなれ。なくなれ。とけていけ。

 薄氷を踏み荒らして、いつか、何もかもが音をたてて壊れていけばいい。 


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【天秤は傾(かし)ぐ】
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《浴室の押し問答》
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 遠くまで買い出しに外に行きます、と言って昼間に出掛けた青年が戻ったのが夕刻に近い時間だった。
 久しぶりの一人の時間を私は窓際のソファーで過ごしていた。暮れていく空を窓の端からぼんやりと眺めてはうつらうつらと微睡んで、静かな時間に浸るばかりだった。人の気配が戻ってくるとまた私は自分の身体が強ばるのを感じた。他者への緊張が疲弊と倦怠感を生み、なけなしの体力が擦りきれていく。
 私は疲れをそぎ落とす為に服を脱ぎ、替えを抱いて風呂場に向かった。いかに生活力の低い人間だと自負していようが風呂に湯を張る程度のことはさすがの私でも出来る。
 廊下の先でこちらに向かってくる足音があった。青年だろうとたかをくくり、私は警戒もせずにいた。この不毛な関係に悪い意味で慣れ始めていたのだ。

「戻ったのか、もっと遅くても別に───」

 よかった、と言えぬまま私は目の前の男を見上げ、呆然とし、抱えた着替えを取り落としてしまった。

「……!?」
「おやおやこれは────熱烈な歓迎だな?」

 見知った顔の男だと認識した時点で吐き気がした。胃が、せりあがる。喉の奥でグッとそれを飲み、絶対に屈するものかと足に力を込めた。
 その男の顔を私はもう思い出したくもなかった。どうしてか今目の前にその男がいる事実に私の頭は思考停止していて、ようやく動いたのが貧弱な身体のほうだった。

「美波、急に走るな。転ぶぞ」

 足をもつれさせつつも私は風呂場に飛び込み、ドアを内側から締めようとした。だが男の腕が私の手首を掴むほうがはやかった。男の身体が肩が顔が見えたとき、私は乾いた悲鳴をあげるしか出来なかった。悲鳴さえ、本当は喉に張りついていたのだが。

「……いつになく死にそうな顔だ」

 そうさせているのは誰だ、とも言い返せず、私は無駄に抵抗をすればそれなりの暴力が返ってくるのを思い出していた。

「どうして、お前が……っ」
「前担当の縁で会わせろと白木に頼んだのさ。あいつは俺たちの関係をまだ知らないはずだ」
「……しらき?」
「白木武市。お前の原稿取りの名前だろ?……住み込みの」

 相変わらず人の名前を覚えるのが苦手なんだな、と男が苦笑する。そうだ、私は人の顔と名前を一致させるのが得意ではない。それでも私に最初の痛みを与えた男の顔くらいはまだ忘れられずにいた。
 前の担当編集で、私を力任せに組み敷いた、男の顔くらいは。……まだ。

「なぁ、あいつに何回抱かれたんだ?」

 耳元で男が囁く声に私は震えてしまって、わからない、と繰り返すしかなかった。

「……そういう話はやめてくれ……」
「あいつは若いし、すぐにはお前に飽きないだろうな……」
「……っ、あ、やだ、僕に、触るな!」
「美波ィ」

 石鹸で滑りのよくなった肌の上を武骨な手が撫で回すのさえ、今の私には拷問のようだった。

「お前の最初の男は誰だったか覚えてるか?」

 お前だったらどうだというのだ。言い返す勇気もなく、強張った身体は男の暴力に屈してしまう。不快なのか、違うのか。ぞわぞわと這い上がる熱を認めるには私はおそらく弱すぎた。

「…………っ、ア……!」

 ────覚えている。これを。
 忘れたいと思っても、傷になってずっと膿みつづけている。
 身を焦がすばかりの熱に侵されたあの夜を。

「やだ……いやだ!!!」

 剥がれてくれないかさぶたのような淫靡な熱が、不愉快で私は暴れた。私の抵抗さえものともせず、男は暗い笑みを浮かべたまま手首を捻りあげ、わずかに固くなった貧相な胸の頂を口に含んだ。

「は、ぅ……──────」

 強く吸われ舌先で弄ばれ、あげくに歯をたてられては、もう首を振るくらいの拒絶しかできない。

「……なぁ何回、ヤったんだ?」
「知らない……!」
「嘘が下手だな」

 腰から尻を撫でられて、ぞわっと沸き上がる不快感に泣きそうになるのをこらえ、男を睨み付ける。

「もう、僕に触るな…………っ」

 くらっと視界がぶれて、下に血が落ちるような感覚があった。先程から下肢にうまく力が入らないのは自分の体調がおかしいのだとそこでようやく自覚した。自覚してからくるくると目が回りはじめ、私は男にすがることでようやく立っている状態だった。

「……なぁ、おい今日は何を食べた?」
「…………何も」
「お前、また空きっ腹で風呂に入ろうとしたのか!」

 馬鹿か!怒鳴られてびくっと身を竦める。青年がいなかったので今日はずっと部屋でゴロゴロしていた。そういえば朝から何も胃にいれていない。その上で残っていたわずかな体力も男との問答で消耗してしまったらしい。
 私にシャワーのお湯をかけ簡単に石鹸を落とすと、そのままタオルごと抱き抱えて男は私を寝室へと運んだ。

「水を持ってくる。……絶対にそこを動くな」

 タオルとシーツの上で肌を上下させる私には逃げる意欲もないので、男の言葉にただただ頷いた。男は荒々しく足音をたてて部屋を出ていく。冷房は青年がつけっぱなしにしていったのが幸いした。心地よく空調が効いていて涼しい。

「飲め」

 私はぼんやりと男の差し出すグラスを見た。氷が入っているせいかヒヤリとした空気が近づく。それでも起き上がる気力がなく、グラスと男を見つめていると痺れを切らした男が私を腕の中に引き寄せてしまう。ぐらつく頭がひどく重たくて、私は男の胸にぐったりと頭を押し付けた。

「美波!」

 口にグラスをあてられるが、なかなかうまく飲めない。

「……う、ン……っ」

 次に口に押し当てられたのが男の唇であることに気づいたのは口の中に水を流し込まれてからだった。口移しで水を飲まされ、訳もわからず飲み込んだ。それを二度三度繰り返した頃にようやく私は拒絶を思いだし、男の胸を叩いた。とたんに口づけが深くなる。

「うー……!」

 そのまま押し倒され、随分と長い口づけの終わりを私はひたすらに祈った。

「……ッ、く……ぅ」

 口腔の陵辱が深くなる。私の抗議は聞き入れられない。あの夜もそうだ。力で捩じ伏せられ、支配され、犯される。私の意志などお構いなしに。そして、私は最終的に私自身にも裏切られてしまう。

「孝之……もう、やめ───」

 もう二度と口にするまいと誓ったはずの男の名を私はいつしか呼んでいる。忘れたいと思っても、忘れさせてくれない男の名を。

「もう一度俺を呼んでくれ」

 男の表情が凝る。私は恐れに震え、またあの地獄に足を取られたことだけを思い知った。


 砕いた氷が音をたててグラスの中で溶けはじめた。
 私の手足をタオルで簡単に縛り自由を奪った男が、私の足を肩に担ぎ最奥を指の腹でくるくると執拗に撫でている。

「……ぃ、ッ……ア゛ァ゛、あ、あ……!!」

 溶けはじめた氷をつまんで私の中にぐいと押し込む男の遠慮の無さに私は否応なくあの夜を思い出す。私が男に屈したあの夜を。あの無骨な手が、力でもって私を打ち据え、支配するだろうことを。

「身体の中でたまった熱を冷まさないと、だから、ちょっと我慢な?」
「……冷た、い……」
「んー」
「や、あぁ……抜……アア、あ、あ────」

 奥へと濡れた氷を押し込む男の指先もきっと冷えているだろうに、体温で溶けて零れていく水が尻から溢れて内腿を伝う不快さに私は狼狽していた。

「抜いて、抜い、て、くれ……っ!」

 なけなしの懇願はいつだってすげなく無視される。それでも、嫌なものは嫌なのだ。この身体がどれだけ反応をしようと、私の心はいつだってこれを嫌悪している。

「い、は…………ア……!あ、あ、う、」

 皮膚の内側でざわめく感覚。
 だらしなく開く口の端から唾液がこぼれる。
 男の指先で後孔がひくつく浅ましさを私は酷く恥じている。……なのに、どうしてだろう。

「俺が教えてやったお前のイイとこ、ちゃぁんとここで覚えててくれたんだな……?」

 嬉しいよ、と興奮で掠れた男の声が耳朶をねぶる。内腿を震わせて、私は這い上がってくるその感覚からなんとか逃げ出そうと無駄に試みたが、ことごとく失敗に終わった。


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【恋文とも呼ばない】
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《通り雨、のちに豪雨》
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 部屋の外で誰かが言い争う声が聞こえて、私は潜っていたシーツの中に頭を潜り込ませた。騒ぐなら他所でやってくれ。もう一度、過ぎ去ろうとする微睡みを手繰ろうとしたが、それは出来なかった。
 喧騒も怒号も私にはひどく恐ろしい。音や言葉の過剰な刺激は今の私を滅多刺しにするナイフのような存在だった。だから語気の強いあの男が私は得意ではない。どちらかといえば、青年の穏やかで熱の落ち着いた声音のほうが、幾分か心地よいと思う。……どちらにしても私を支配する男たちであることには何も変わらないのだが。ああ、胃が痛い。体が重い。
 文机代わりの足の低いテーブルの上に水差しと果物の小皿が置いてあるのを確認し、私はもぞもぞと手を伸ばした。缶詰めの桃だろう、食べやすいように一口に切ってあるそれを詰まんで飲み込む。まだ冷たいそれは少し前にここに置かれたのだとわかる。……青年の仕事だろうな。
 桃を平らげ、水を飲んだら今度こそ風呂に入る元気が出たような気がしたので、なんとか身体を起こしてみた。
 着物を引っ掻けるように袖だけを通して、部屋をでる。どうせ脱ぐのだ。帯などいらないに決まっている。何度も脱ぎ着をするのが億劫だった。そんな理由だけで私は和装を好んでいた。
 廊下に出ると取っ組み合い、ひとつの固まりになっている男と青年がいたが、もう関わりたくない気持ちの方が勝った。

「────退いてくれないか。邪魔なんだ……」

 二人とも私より随分と背も高く、身体がしっかりしているせいか体積としてはとても無駄に幅を取る。

「そんな格好でふらふらとどこにいくつもりですか?」
「……風呂に入るよ」
「お前!風呂でぶっ倒れたのにまだそんなことを!」
「ちゃんと桃は食べたし、水も飲んだ。……体力があるうちに汗を流したいんだ……退いてくれ」

 二人の間を押し退けると意外にもあっさりと引いてくれた。素足でぺたぺたと歩いて風呂場へと向かう。うるさい二人は何を思ったのかわからないが、私の後を追わなかった。

…………

「それで、もう僕の担当でもないのに黒河はどうしてここにいるんだ?」

 男は苦笑いし、精悍な顔をぎゅっと引き締めて、すまん説明不足だったな、と呟いた。
 書斎の来客用のソファーに落ち着く男と青年と私の三人でいるのだが、今のこの状況がいまいち理解できていない。

「昨日も言ったが……白木とお前────美波先生の様子を伺いにきたんだ。主に白木の仕事っぷりを見てこいと編集長に言われてな。……で、進捗はどうなっている」
「どうにもなっていない」
「だろうな」
「どういうことです?」
「────こういうことだよ」

 男の手が私の腕を取った。
 とくん、と私の胸が鳴る。あ、と声が出たのか、それとも喉に張りついたままだったのか。とにかく、私は何かを言うつもりで口を開きかけた。拒絶か制止の言葉、だった、ような────。

「…………う、ン……っ」

 触れあうような生易しい口づけなどこの男がするはずがないことを私は知っている。奪うような、噛みつくような、それでいて、酷く気持ちのよいキスをする。深く深く、求められる。何かを探るように、深く。

「────一つ、忘れ物を取りに来たのもある」

 嘯く男に私は目を見開いて、反射で男の手を振り払った。

「…………忘れ物?違うだろう、お前は────置いていったんだ。全部捨てたからもうないんだよ。残念だったな!」

 ここにはもう何もない。あるわけがない。お前のものなんて残ってるはずがない。無駄足だ。早く諦めてどこかに消えてくれないか。
 言いたいことはなかなか口から出てこない。そうだった。私の言葉なんか文章でないかぎり何の意味もないのに。

「せんせ、その男とはどんな関係なんですか」
「君に関係ない男だ。気にしなくていい」
「言えばいいじゃないか、美波。俺のことをさ」
「…………何て言うつもりだ」
「恥ずかしいことじゃない。お前の初めての男だと────」
「死ね、くそ野郎!!!!!!!」

 私の罵倒に隣で目を白黒させる青年と目の前で腹を抱えて爆笑する男。どんな地獄絵図だろうか。いたたまれずに大きく溜め息をつく。

「……素直に、俺のせいで書けなくなったと言えばいいだろうが」
「────……それは自惚れにも程があるだろう……」
「ああ確かに自惚れてる。お前、俺のことが好きだろう?この顔も、この声も……な?」
「…………馬鹿を言え。そんなわけあるか。もう帰ってくれ。お前に構ってる暇はないんだ」
「一文字も書けてない癖に?」
「────……っ!?」
「そいつが手こずってるからケツ叩きに来たんだって言えば信じるのかお前」
「……………………編集長、か」
「長編じゃなくていい。取り敢えず短編一本書け。雑誌に載せる。評判よけりゃ連載から何本かまとめれば本になるだろ。…………わかるな?」

 以前の男のやり方と何も変わらないのが懐かしい、と思った。同時にこの男が私をぐちゃぐちゃに引っ掻き回したせいで、とも。

「美波先生、来週までに一文でも書けなきゃまた抱くぞ」
「ッ!」
「文句あるのか?」

 文句だと?あるに決まっているだろうが!
 脅すような台詞に私は男を睨み付けた。男の言葉が冗談ではないのだということくらいわかっている。わかりすぎているから私は面白くない。

「わかった。彼のことを書こうじゃないか」

 私は向き合う二人のうち、青年を真っ直ぐに見据えた。

「ただし、まずは習作で。少しずつ輪郭を取らせてくれ」

 納得していないのが彼の表情に出ている。

「あとは僕が執筆中は身体に手を出さないでほしい」
「……先生!?」
「わかってほしいんだが、君たちと僕は体力差があるだろう?……本当に困ってるんだ。抱かれた後がつらくて、その、書く気力すら湧かないんだ。手加減出来ないのなら手を出さないでほしい。……僕の言うこと間違ってる?」
「…………いいえ」
「わかればよろしい」

 さて、と私は次に男と向き合うべく居ずまいを正した。

「孝之」
「ああ?」
「これは君のだ。………君の好きにしろ」

 私は書斎の机の引き出しから二年前に渡し損ねた原稿を取り出して、男に手渡す。あの夜に担当の男に読んでもらおうと用意していたものだ。誰よりも最初に読んで欲しかった。それは叶わずに今に至るのだが……でもその気持ちが変わらないのが滑稽で、恥ずかしかった。
 男の顔がもう見れず、私はそのまま青年を連れて書斎を出ていく。取り残された男がどんな反応をしたとしてもそれはもう手遅れだった。もう知るか。きっと、あれは、もう、世に出ることはないだろうから。

「……先生、先生!!! 待ってください! あの原稿があれば────俺をここに置く必要はなかったですよね!?」
「いいや。……あれは君に渡すことは出来ないものだった。……二度と、人の目には触れないものだ。きっと本にすらならない、ただの紙の束だよ。あいつと僕にしか意味のないものだ」
「────それは……恋文のようなものではないですか」
「…………ははっ!!!!なんだい、それは?」

 青年の言葉選びがあまりにもおかしくて思わず足を止める。

「恋文とは、恋しい人に送るものだよ」

 少なくとも私と男の間にはそんな恋という爽やかで甘いものはなかった。名状しがたい何かはあった。泥のような汚ならしいもの。べっとりとへばりついて離れないもの。恋というにはあまりにも、おぞましい快楽と憎悪と苦痛。

「あれは告発文さ」

 あるいは私が死ぬ前に書き残した遺書なのかもしれないが────。


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 廊下で珍しく電話が鳴っているのをしばらく放置していた。私は元々めんどくさがりで、他人と繋がることが得意ではない。手紙のやり取りならまだしも、電話はいつだって苦手だった。それでも電話が鳴っては切れ、切れては鳴るのが五回目にもなるといい加減に無視もできずに仕方なく出ることにする。私に連絡を取りたい物好きは編集長だけだと知っている。あの人はこんな私を見捨てずに付き合ってくれる唯一の人ではあるが、それは私が彼の興味の対象に留まっているというだけのことでいつか飽きられたら捨てるのだろうというのも何となくわかっている。そのいつかがそろそろ訪れてもおかしくはない。

「はいおぎわらですが」

 ああどうもどうもお世話になっております。先生。美波先生。願いするのが遅くなったんですが原稿は次こそデータでくださいよ。その方がうちも楽なんですよねぇ。なんかこだわりがあるんですか?メーカーとかインクとかペンとか。大御所先生でもどんどんパソコンで書いてもらっててですねぇ。まぁ。いいんですけど。こっちで打ち込めば。いいんですけど。手間とかありますよそりゃ。そういうもんですけどね。あ、誤字脱字チェックはちゃんと紙ゲラでやりますよ。画面だと抜けがあるんでね。どうしても目が滑っちゃうんで。ああー、でもアナログでもデータでもそういうもんでしょ?そういうもんでしょうよ?だから人と人とのやり取りなんでほんとお願いします。ええ。こちらこそですよ。ええ。はい。はい、どーもよろしくです。

「べつにそんなこだわりないですすいませんそっちできちんとしごとしてくださいええはいわかりましたもうめいわくをかけませんありがとうございますそれでは」

 線と線と。繋がった向こうの人と人と。顔が分からないままの言葉と言葉と。
 好きじゃない、と思う。好きじゃない。こんなもの。仕事にもならない。

 ────君の文字、すごくいいな。あ、話ももちろん面白いよ。これ……いいね。俺は好きだな。

 そうやって笑った男の顔がまだ消えてくれないから私はどこにもいけなくなった。

 目を閉じると、遠くで雨音がする。耳の中に曇天がある。音がこもっている。小さく踞って過ぎ去るのを待つ。通り雨は嫌いだ。激しい雨音に責め立てられる気がして呼吸が浅くなる。どうせすぐに通り過ぎるくせに、何もかも洗い流して隠したかったもの全てむき出しにして目の前に晒されるみたいで嫌だ。

 人の強い感情に晒されるのが昔から苦手だった。

 他人の怒りは特に顕著で、親や教師、学校の先輩に怒られることを私は特に苦手とした。次に私に向けられる好意、興味の目が怖くていつもびくびくした子どもだったように記憶している。本に逃げるようになったのは文章からは向けられる視線を感じないからだ。整頓された文字の羅列は美しく、静かであり、それでいて感情表現が豊かだ。いつでも読み解かれるのを待っている本の物語は私のペースを乱さない。私はゆったりと主人公たちの感情に向き合うことができた。
 人間というものはナマモノである。
 流れ行く川のようなものだとも思う。
 私が立ち止まって息を整えているうちに彼らは行き過ぎてしまう。
 だが本はそこにある。いつまでも止まっている。だからこそ私は本に携わることで救われているのだろう。


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「本降りになる前にお前は帰ったらどうだ」

 窓の外、薄曇りの空を見上げて私が言うと、ああ雨か、と男は詰まらなそうに鼻を鳴らすだけだった。
 外回りついでに寄ったという男はしれっと私の書斎で来客用のソファーに落ち着きつつ青年が淹れてくれたコーヒーなんぞを飲んでいる。青年はこの男の空気感が苦手らしく、さっさと書斎から逃げ出してしまった。

「お前、編集部に戻らないのか」
「あそこにいたって仕事をするだけだろう。息抜きがないと早死にしそうだ」
「仕事をしたくなくて僕のとこに寄ってるの? 相変わらずくそだな、君は。早く死んだらいいのに」
「わはは、ひどいこと言うなよ。……お優しい美波先生なら雨宿りくらいはさせてくれるだろう?」
「……勝手にすればいい」

 穏やかじゃない胸中をさらけ出すのも本意じゃないので、私は話を切り上げて読んでいた本に目を落とした。今話題の本はそこそこに面白く、無為な時間を食い潰してくれるのでちょうど良かった。
 私の中には空洞があって、そこに降り注ぐからからとした文章が所在なく積み重なっている。言うなればゴミ集積所になっているわけだ。正しく整然とした文章をお手本のように習って、私はこれらを片付けなければならない。私が売れない作家であることよりも熱心な読書家であるのはそういう意味合いが強いのだった。

「……積ん読、大分減ってるな。へぇ、大したもんじゃないか」
「毎月書店に並ぶ新刊の数を知ってるか、お前は。毎日一冊読破したところで全く追い付かないんだ。読むのが追い付かないからね。困ったことに書く暇がないよ」
「うまい言い訳だな、先生」
「褒めるな褒めるな」

 気安い会話ならばいくらでも出来る。昔も今も。暴力と性と剥き出しの感情さえお互いに出さなければいいだけの話だ。私も男もいい歳の大人なのだからいい加減あの夜の傷を舐めあうのは不毛だとわかっている。このまま羊の皮を被っていれば大丈夫だ────。

「……雨で何か思い出さないか、美波」

 男が不意に立ち上がって私を見る。いや、私の後ろの窓に視線が向けられている。窓の外。降り始めた雨。濡れていく庭。水溜まりに跳ねる雨音。曇天。ガラスを叩く風と水の気配。

「いいや、何も」

 本のページを繰る指先が所在なく文字をなぞる。整頓された文字の羅列は随分と前にその意味を失ってがさがさとした違和感を私に与えている。干からびていく。何も。何もかも。意味を成さないで朽ちていく。ぼろぼろと溢れて落ちて、取り零す。ゴミになって積み重なっていく。

「────ただの通り雨だといいが」
「大丈夫だろう。いくら古い屋敷とはいえ去年の豪雨でも潰れなかったから」
「風呂に水を張っといた方がいいか?停電になるといつ復旧するかもわからん。……あいつはどこだ?」
「多分台所だ」

 青年の姿は見えなくとも不安はない。私なんかより余程頼りがいがあるぞと笑えば、男は何とも言えない表情をしていた。雨は、と何か言いたげにしていたが私はそれに答えようとはしないで、うん、と手元の本に視線を落とすだけだった。雨に落ち着かないのは男の方なのだが、男はちらちらと私の様子をうかがっている。

「孝之」
「……!」
「大丈夫。通り雨だ」
「────そうか……そうだな。すまん。取り乱した」
「昔とは逆だな?」
「ああ」
「…………雨、強くなってきたようだ」

 身の内の劣情は洪水のようにぐるぐると回っている。荒れ狂うならば数年おきにしてほしい。そうでなければついていけない。私はそれほど若くはないし、これからはもっと枯れていくのだろうから。なにより今が、一番若い。これ以上取り返しのつかない過ちを繰り返すのは、怖かった。

「…………孝、之」

 すがるように口にするような言葉にしてしまうのが、正しくはないのだ。
 私は救いを求めていない。答えさえいらない。……正解がどこにあるというのだろうか。

「……わかっている────」

 私は男を呼ぶ。男はそれに応える。それだけのことだった。
 恐ろしいのは私だ。自覚した劣情を飼い慣らせず、泣きそうになって、すがり付いている。学生時代でさえこんな恥知らずではなかったのに。
 男の腕の中でどちらともなく唇を重ね合わせる。あの夜を思い出す。どのように言い訳を重ねようと理由をこじつけようとどんなに否定して違うと泣きわめいて足掻こうと、これは────合意でしかなかった。


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【誰かがそれを愛とよんだ】
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「不器用な人ですね、先生は」

 でも俺は最初から知ってましたよ、と武市がいつもの人のいい顔で私に色紙の束を差し出すものだからそれをついつい受け取ってしまう。青年の私に対する評価がよく分からない。曖昧に言葉を濁した。不器用。そうか、面白いな、とただ思う。器用に生きてこれたならこんなことにはなってなかっただろう。……あと何枚サインを書けばいいんだったか。

「これで終わりなので急がなくても大丈夫です」
「ああそ。そうか、ならちょっと休憩させてくれ」
「紅茶淹れましょうか。レモンかミルク……」
「ミルクに砂糖いれて、甘めで」
「お疲れですか」
「ずっとそうだからね今日はやだよやめてよしないよ?」
「……ふふふ」
「うわ、こわいなぁ……若いね……僕もうすぐ35なんだよ……しんどい……」

 ここにいてはダメだよ。わかってるの、武市くん。
 何度目だろう。君とはもう終わりだよと告げても告げても青年は私の言葉を聞き流している。相も変わらず生活能力の無い私の身の回りは青年のおかげで快適だった。
 ようやく書き上げた原稿は約束通りに本になって売れた。重版出来だった。なかなかに売れたので書店に置くサイン色紙がいるのだと青年が言う。なので仕方なく私は自分の名前を人生で一番の頻度で書いている。書きなぐりながら、私の字を好きだと言った男のことを思い出してみたが、あいつはあいつで多忙を極めていると青年が教えてくれた。ふうん。そうなの。仕事したくない男がね。へぇ。

「連絡を取ればいいじゃないですか」
「……だれと」
「それを俺に聞きますか」

 先生はひどい人ですね。そこが好きですけど。好きだから余計にこっちが勝手に傷つくんですけど。
 へぇ。そうなんだ。
 別に謝る気はしない。謝ったところできっと無視されるに違いない。私が青年を拒もうが受け入れようが結局は私の思い通りになったことがないので、この青年についてはもう諦めている。いつか刺されるな、という予感はあって、そうなったら死ぬんだろうなとも。だってもう酷いほど青年に犯されてきたのだ。……思い知っている。

 ────あいつに何回抱かれた?

 数えきれないくらいだよ、孝之。ざまあみろ。お前が私を手離すからだ。
 そう言えばよかったのか。過去の男の問いに私は答える。

「…………不毛だな」

 私と青年と男の関係は一体何なんだろう。まだわからない。続くはずがない、もう終わりだと思ったら、なんだか新刊がぽっと出た。ならば、このまま続くんだろうか。よくわからない。

「美波さん」

 ねっとりとした熱のある声にはっとして顔を上げる。
 煮詰めた蜜色の瞳に私を映して、青年がじっとこちらを見ている。居心地は悪くない。待ちの姿勢である青年に関しての私の評価は好印象なのだ。出会ってからそうだった。距離を保ち、私の出方を待ってくれる青年を私は嫌いにはなれなかった。
 私には無いもので構成された青年は確かに私の興味の対象だった。無いもの。欲しいもの。満たされないもの。飢えて、飢えて、それでいて、きっと手に入れることは出来なかったもの。真っ直ぐな眼差しと好意。受け入れるというよりも、刺さるのだ。刺さって、抜けなくて、肉から引き抜いた途端にきっと血を見る。穏やかじゃない。自然災害のようなものだ。運が悪い。だからこそ、諦めるしかない。

 通り雨に降られることをいつまでも嘆いてばかりもいられない。
 

………………………………


 私は、白い原稿用紙を左手の平でそっと撫でた。


 【歪んだ三角】


 か細い尖った文字で、うまれた文章がようやく産声をあげた。
 私の空白にぱらつく雨粒みたいに落ちてくる文字を拾い上げながら、紙の上迷わず書き留めていく。今度こそ、私の中の雨が上がることを確信しながら────。


……………………

  終わり
……………………

────────────────
…………………………

【閑話・執着の起点】

…………………………

 ────詰まるところ、男は彼の新作をずっとずっと心待ちにしている一人の読者だった。


 書斎に残された男────黒河孝之はソファーからずっと立ち上がれないまま、一心不乱に紙の束を読み耽っていた。これは先程書いた本人より最後通牒のように手渡された原稿だ。男はすっかり冷めきって不味くなったコーヒーにさえ口をつけるのも忘れて、紙に記された文章を追っている。
 数年ぶりに見る原稿の筆致は右肩上がりの尖った、それでいて落ち着いたものだ。筆が乗れば多少乱れはするはずだが、整った呼吸の息継ぎ一つ一つが美しいリズムを取っている。男はこれが好きだった。好ましい。心地好い。読み込んでいるうちにつまづく時は懐から取り出した赤ペンをいれて、どう整えればいいのかを考えて書き込んでいく。

 ────外では雨が音を立てて降っている。責めるように。強く、強く、降り注ぐ。

 雨だ。
 雨がいつも降っている。今も、昔も。変わらずに、ずっと。

 男と彼は雨に囚われている。出会った頃から。彼の想いを知った今に至るまで。

………………………… 
《ある作家の担当についた編集の回想》
…………………………

 あんたはどうして紙に字を落とすんだと初めの打ち合わせで尋ねたとき、どうしても機械が苦手なのだと彼────荻原美波先生は不貞腐れて言った。彼の住む屋敷は古く、所々住みやすく改修されたりもしているが未だに昭和の匂いが漂っている代物だった。ここは祖父にあたる人物の生の名残りなんだと彼は愚痴をこぼした。つまり、この屋敷は主人ごと死んでて古き良き時代に取り零されてるのだ。どだい男だってこの屋敷よりはマンションの一室の方が住むには快適だと思ってる。
 ああー、と納得したのは彼との連絡手段が固定電話と手紙でしかなかったと思い当たったからに他ならない。今時メールもネットもパソコンもやらないというアナログ人間は国宝級だろう。古墳並みかもしれない。編集長は彼が何かしらアナログに拘っているのだと信じているようだが、本人はどうもそうではないらしい。今度の原稿料でパソコンを買え、と続ける。

「次はデータで書けよ。その方が修正も楽だろう?二万くらいのやっすい奴でいいんだよ。ノーパソ」
「わかってないなー、担当さん。あのね。降ってる雨を空に返せって言ってるもんだよ、それは無理でしょうが」
「は」
「傲慢だねぇ。若いからねぇ」
「先生の締め切りは伸びないのでこっちが紙原稿から打ち込み直す時間を考えるともっと締め切りが前倒しになるけどいいのか?」
「それはそっちの問題でしょう!」
「おまけにネットの繋がらない環境なので原稿のやり取りさえ数日かかるのでもっと締め切りが前倒しになるけど、いいのか?」
「君が締め切り前に家に泊まり込めばいい。客間があるし、別に問題はないし」
「…………せめてネット回線を引いてくれりゃ仕事持ち込めそうなんだがなぁ……」
「手続きそっちに任せていいならサインくらいはするけど」
「そりゃいいな。どうせなら契約は光回線にしろ。ギリギリでも編集長にデータが届けば許されるはずだ」
「原稿はそっちが打ち込んでくれよ? 僕は紙にしか世界を起こす気がしないから」
「…………なんだ、随分と紙の原稿に拘りがあるんだな。先生」
「平面に向き合うのって楽しいんだよ」
「わからんな」
「ははは。君は作家じゃないからね。どちらかというと読むのが好きそう」

 語るのもね。
 実にもならない軽口に乗ってくる彼こそ喋るのが好きなのではと言えば、違うよ、と笑われる。違う。そうじゃなくて。あのねぇ、君とだからこうして話せるよ。あとは無理。編集長相手でもこうはならないな。

「うん、君が僕の担当でよかった」

 よろしく頼むね。目尻を下げてあははと屈託なく笑う彼に男は目を奪われた。何を考えているのか掴み所がない人だ、と思った。いや、何も考えていない気もした。

 …………その思考回路どうなってるんだ。

 作家はだいたい頭がおかしい。無いものを作って生み出せるなんて男には出来ない。今まで出会ってきた作家先生たちはそれぞれにおかしい工程で何かしらおかしいものを世に発表してくれていた。それを否定はしないが、理解にも至らないのも確かで。

「んなこと言ってると本気で泊まり込みで押し掛けるぞ?」

 いいよいいよどうぞ。
 へらりと受け流す彼は何もわかっていない。わかっていない振りなのか男にもわからない。だからこそ、知りたいと思ったらもう足を踏み外していた。
 このまま泥濘に足をとられて、いつか戻れなくなるのだろう。
 それもいいな、と思うくらいには引き下がれない場所に男は立っている。

……………………

 ドブにこびりついた汚泥の酷い臭い。それがどこからするのか、男にはもうわかっていた。男自身から漂っているものだ。腐っている。救いようがないな、と口許を歪ませた。繕ったところからどんどんボロが出ていく。ほつれて、ほどけて、醜い中身がでろりとこぼれ落ちる。
 救いようがない。
 執着。尊敬。焦燥。崇拝。独占。支配。好意。好意。好意。
 見目が良いばかりに上手いこと腹黒さも隠してきた男にとって、こんなにも自身が暴かれそうになるのは未経験だった。

「黒河ー」

 編集部のデスクでデータに打ち込んだ原稿をチェックしている男に丸々とした編集長が声をかける。

「何ですか編集長」
「荻原先生と連絡つかないんだけど何か聞いてる?」
「……いえ、こっちも手一杯なんで締め切り前に顔出すつもりではいたんですが。この後直帰で先生のとこ寄ってみます」
「頼むね。何もないといいけど締め切り近いんだっけ?ケツ叩いてきてよ。……あの先生もう少し露出してくれるといいんだけどなぁ。雑誌に顔出しもなかなかしないじゃん。パーティーもたまにだし。そのうち死にそうだなーって心配してるの。な。わかるだろ。ああいう先生って書きつづけて貰わないと忘れられちゃうからなー」
「いや、それはないでしょう。忘れるとか」
「続編の話どうよ」
「……口説いてはいますけど……ま、無理でしょうね。本人があれで完結しているんでの一点張り」
「だよねー。続編あればうちの編集部全力でいくんだけどさ」

 構いすぎても弱っていく雛鳥みたいじゃん、あの先生。あんまり詰めるとかわいそうだもんな。ほどほどにお付き合いして末永く原稿もらえればいいよね、うちは。

「はは。あの先生は手間がかかりますもんね。わかりますよ。原稿出来てるとこまで貰ってくるんで」

 つるっとおべっかが口をついたので、うるせぇよ豚があのひとのことなんてわかってもいねぇのに原稿原稿ってせかしやがって、とは言わないですんだ。危なかった。編集長と喧嘩をするつもりはない。上司と部下だ。いつだって波風が立たないほうがいい。こういう生き方を変えるつもりはない。
 デスクワークを一通り片付けて、後輩にあとを任せる。少し早めに編集部を出ていく男の足取りはいつもより輕いように見えた。

────────────────
────────────────

【閑話・狂い焦がれる】

…………………………

 ああ、先生の内蔵が見たいな、と思ったのだ。

…………………………

 死んだばかりの魚をまな板に置いて、包丁を取った。包丁の背で鱗を軽く削ぎ落とす。二人分の刺身にするには量があるな、半分は漬けにして明日は軽めに茶漬けでもいい。あの人は焼いたり煮たりよりは軽く湯引きした魚の方を好むので、手にはいったブリはよくしゃぶしゃぶにしてテーブルに上げるようになった。少しずつだがあの人の好みを知っていく、それが何より幸福だと思う。好意を返されることは期待していないのだ。ただ、生きていること。生きてくれることだけを望んでいた。人として。作家として。その為にこの身を尽くすことに何の躊躇いもなかった。
 魚の腹を割いて内蔵をかき出す。血を洗い、氷水で身を締める。
 下処理をきちんとしないとどうしても美味しく食べるために支障が出る。手間がかかるけれど、そうする価値があるのでここを惜しむことはしたくない。
 生きることに対しての姿勢は前向きな方だと自負している。外見からして家庭的な男とは見えないと言われることが多いが、こっちにしてみればそんなこと知ったことではない。家事は一通りこなせるし、生き物に手間を掛けるのは好きな方だ。
 そういう性質の人間だったので、憧れた作家が二年ほど新作を出さず音信不通だったために生きてるのか死んでるのか分からなくていてもたってもいられずなけなしの伝を辿ってここ────荻原美波の屋敷に無理やり押し掛けたのが一年ほど前になる。

 魚を捌きながらあの人の体を想像してみたところで恐らく敬愛するあの人には人として何かが足りないだろう、と青年────白木武市は考えていた。それにあの人はあまりにも生活能力が不足している。今までどうやって生きてこれたのだろうか。出会う前のことをあの人は言ってくれないし、知ろうとしてもいい顔はしない。詮索してほしくはないのだろう。そうであっても、やはりあの人について知りたいという気持ちは押さえきれていない。
 あの人────作家である荻原美波は天涯孤独というわけでもないはずだ。祖父はもういないとは聞いているが、両親や兄弟の話が驚くほど出ない。あの人の興味はあの人の中にあるのだろうが。
 他者に興味が持てないのか、あるいは傷を弄っていることに気付いていないのか。

「……」

 わからない。わかりたい。知らない。知りたい。中身を。どんなふうになっているのか。思考。声。言葉。仕草。鼓動。臭い。いるもの。いらないもの。きれいなもの。きたないもの。体温。体液。苦痛。快楽。
 紙の上で語られるあの人と、触れる生身のあの人は別物でありながら同じで、違っていて、よく分からない。求めれば応えるようで、次に目が覚めた時にはもう距離がある。手にしたものが不確かなものだと嫌でもわかってしまう。奪った熱は一時だけのものだ。
 あの人はこの手に余る。
 自分のものにはならない。
 あの人をいくら抱いても、あの狭くて柔らかいすぼまりの中に精をいくら吐き出しても、止まることもなく排泄され、俺とあの人は混ざらない。他者の交わりでしかない情交。情すらあるかどうかすら疑わしい。
 皮膚の上を撫でる度に、その下の肉を想う。どくどくと張り巡らした血管の、柔らかさと、熱と、もっともっと奥深く。血も肉も骨も選り分けて、もっと深いところに隠されたものが欲しくて触りたくてたまらない。

 ────その激情をいつもの飄々とした顔の下に隠したまま、青年はもくもくと食事の支度に没頭した。


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