高嶺の花が堕ちるまで

美海

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 ルゼ・アレット・アルテナは、アルテナ侯爵の一人娘として生を受けた。
 長く子に恵まれなかった侯爵夫妻の唯一の子。子を待ち望んでいた両親はルゼに甘く、目に入れても痛くないくらいに溺愛した。
 彼女を『お姫様』のように扱うのは両親だけではなかった。
 建国以来の名家の生まれや侯爵夫妻の嫡子として浴びる溺愛を置いても、ルゼは『特別』だったから。

 ルゼは、並外れて美しかったのだ。

 小さな顔に配置されたパーツのうち、目だけは少々大きすぎるし吊り上がっていて、きつい印象を与えかねない。だが、ルゼがその若草色の瞳をいきいきと煌めかせれば、瞳は猫のような可愛げと嗜虐性を備えて人の目を奪う。
 紅を引かずとも紅い唇はふっくらと肉感的で、少女が拗ねてツンと尖らせたときですら、そのわがままを可愛らしいものに見せた。
 赤みの強い赤銅色の髪には緩く癖がかかっており、長く伸ばした髪はルゼの顔や身体に沿って華やかさを添えた。

 大輪の華のような美しい少女を周囲の男たちが放っておくはずもなく、彼らはルゼをちやほやとほめそやした。
 ルゼは婿をとって侯爵家を継ぐ。彼女と結婚すれば美貌の妻と名家の継嗣の地位が得られるのだ。令嬢の性格がいくら悪かろうと大した問題ではない。――打算的な思惑のもとで、ルゼの性格は矯正されることもなく、すくすくとわがままに育っていった。
 いつしかルゼが『アルテナ侯爵家の薔薇』と呼ばれるようになったのは、その美しさを讃える主旨だが、棘のある性格を揶揄する意図も含まれていたのだろう。

 ルゼの両親である侯爵夫妻が流行病で急死し、叔父が侯爵位を継ぐと、わがまま令嬢の不品行は著しくなった。
 今やルゼは『侯爵家の家付き娘』ではないのに、女王然として取り巻きを引きつれて日毎に違う男と親しみ高価なものを貢がせるルゼのことを、冷ややかな目で見る者もいた。嘲笑とともに『わがままを許さない新侯爵への当てつけだろう』と意図を測る者もいた。
 他人に何を言われても、ルゼの態度は変わらなかった。
 ルゼが数々の浮名を流した後、現侯爵である叔父は、祖父ほども年の離れた老公爵との縁談をまとめた。その縁談については『姪の不品行を見かねた叔父が灸を据えた』とも『夫の遺産を湯水のように使うための令嬢の策略だ』とも、まことしやかにささやかれていた。

 そんな折に、革命は起こった。

 名家の誇り高きアルテナ侯爵家は、庶民から編成された革命軍に恭する道を選ばなかった。そうかといって革命軍と互角に戦える兵力も戦の経験も無い。
 あっけなくアルテナの領主館は革命軍に攻め落とされて、ルゼも含めた侯爵家の面々は捕虜として監獄塔に送られた。これまでに民に対して犯した罪を裁かれることになったのだ。

「でも、わたくしは生かされた。わたくしが美しいから」

 ルゼは、『新居』の自室で、鏡の中の自分を見て呟いた。
 滑らかな白い肌にはしみの一つも無く、猫のような瞳の輝きも以前と変わらない。豊かな髪はさらに艶やかになった気さえする。
 それもこれも、先日嫁いだ『夫』によって、何ひとつ不自由のない豊かな暮らしを与えられているからだ。――ルゼが並外れて美しいおかげで。

『別に、君の男癖が悪かろうが浪費家だろうが、そんなのは『罪』じゃないんだよ。ただの『私生活がちょっとアレなひと』だ』

 ひとには恋愛の自由も小遣いの使途を決める自由もあるからね、とルゼに話したのは『護国卿』フレデリック・ハウトシュミット――革命後に建てられた新政府の代表者だった。

『それより君の叔父上がまずい。継ぐ前から侯爵家の財政が苦しかったのには同情するが、領民への課税で自分の借金を返すのは横領だし、国王や側近に賄賂を送るのは贈賄だ。現状では財産没収の上で修道院送りが妥当だけど、他にもやらかしがあれば処刑もあり得る。そうなるとルゼ嬢の処遇もややこしい』

 アルテナ侯爵家の取り潰しは確定しているが、一族の命まで奪うつもりはないのだという。ただ、生かしたせいでルゼやその子孫が新政府に反旗を翻すことを危惧しているらしい。
 しばらく眉間を揉んでいたハウトシュミットは、不意に『決めた!』と声を上げた。

『戒律の厳しい修道院への生涯幽閉か、僕が選んだ相手との結婚と子作り。どっちがいい?』

 僕としては後者がおすすめかな。できるかぎり金を持った男前を選ぶようにするからさ。
 片目をつぶった護国卿の提案に、ルゼは一も二もなく頷いた。

 護国卿は約束を守ってくれたらしい。
 ルゼの夫になったロルフ・フーベルマンは、革命時に大きな戦功を挙げたという軍人で、若く容姿も整っている。資産家ではないが借金や博打癖も無いから、妻ひとりの浪費で窮することはない。
 彼に無いのは身分だけだが、先日制定された新法により身分差別は禁じられた。だから彼には欠点が無いことに
 あえて法で戒めなければならないほど差別意識が色濃く残っていることこそが、ルゼをロルフに与える理由だ。これは、彼に足りないものをルゼの持つ高貴な血で補うための婚姻だった。
 並みの貴族令嬢なら卑しい馬丁の子の妻にされると聞けば、我が身の不幸を嘆いて泣き崩れ、修道院行きを選んだかもしれない。だからロルフは真っ先に『それでも結婚するか』と確かめたのだろう。

 でも――ルゼは、この結婚が嫌ではなかった。

「ルゼ様? どうかしましたか」
「いいえ……っ、すこし、考えごとをしていただけ」
「そうですか。痛かったり苦しかったら言ってくださいね。すぐに止めますから」
「んっ」

 夜半に寝台で夫の指に秘所を弄られながら、ルゼは目をぎゅっと瞑り、貴族令嬢らしく声を堪えた。

 屋敷に連れてこられてしばらく経った日の朝に、美味しい朝食を供されながら『三日後から夫婦の営みを行う』と言い渡された。

『性交回数が多いほど、つまり夜の頻度が高いほど孕みやすい。その方があなたは早く自由になれる。ただ、私に触れられたくないという気持ちも汲みます。その場合は護国卿にせっつかれない程度に低い頻度にしましょう。どちらがいいですか?』
『え……っ?』
『嫌なことを毎日するけど早く終わるのと、ひと月に一度だけど何年も拘束されるのと』

 嫌なこと、というのは性交のことだろうか。
 つい先日出会ったばかりの相手とするのは抵抗があるだろうと、ルゼを気遣ってくれたのだろう。その気持ちはありがたい。
 でも、なんというか――。

『……その間くらいがいいわ。一週間に一度くらい』
『分かりました。では、今週からよろしくお願いします』

 もう行きますね、と慌ただしく仕事に向かうロルフの後ろ姿を見送りながら、ルゼは思った。

(『仕事』みたい)

 まるで、仕事の日程を決めるような言い方だったのだ。
 ルゼは働いたことが無いから詳しくは知らないけれど、少なくとも想像上の『夫婦の会話』からはかけ離れている気がした。
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