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齟齬
予定より早く山の麓に到着したユリウスは、明日の朝に別荘を訪ねることにして、今夜は麓の宿に泊まっていたのだという。
宿で近隣に出没する強盗団の噂を聞き、もしやと思って様子を見にきたのだと、駆けつけた警邏隊に話していた。
事情聴取中も彼はイルヴァを膝に乗せていたし、彼らの話が終わった今も両腕で抱えたまま下ろそうとしない。
用意されたホットワインをちびちびと啜っているイルヴァの顔を覗き込んで、彼は言った。
「こんなところには貴女を置いておけない。別の場所を用意したから、移ってくれるな?」
「ユリウスさまが、用意してくれたの?」
「ああ。俺の屋敷の一つだ。貴女のために整えさせてある」
「そこにも、ユリウスさまは、来てくださる?」
それだけが、気がかりだった。
自分の住処なんてどうだっていいけれど、ユリウスは別荘の周りの風景を気に入っていたようだから、場所を変えたら会いに来てくれなくなるかもしれない。それとも反対に、彼の屋敷に移れば、もっと頻繁に会ってくれるだろうか。
イルヴァが尋ねると、彼は力強く頷いてくれた。
「もちろん。毎日だって通う。連れて行っていいな? 今日にでも引っ越せる手筈になっている」
「……うん、連れて行って。ここは、こわいの」
今はユリウスがついていてくれるけれど、彼が帰れば、イルヴァはまた独り取り残されるのだ。見知らぬ強盗に押し入られて襲われた、恐ろしい記憶が残るこの別荘に。
ここは怖いからユリウス様についていきたい、とイルヴァが子どものように頑是なく繰り返すと、彼はほっと息を吐いた。
「そうか。では、早速――」
「あのっ、申し訳ございません! どうかお許しを!」
そこに割って入ったのは、管理人の老夫婦だった。
二人とも床に額を擦りつけて詫びている。老婆には目立った怪我は無さそうだが、老爺の頰や瞼は大きく腫れ上がっていて物を見るのも大変そうだ。強盗に殴りつけられたのだろう。
「私らも、あの賊めらに脅されて! それで、仕方なく、イルヴァ様の部屋の鍵を……っ、本当に申し訳ございません!」
なるほど、強盗団が鍵を手にしたせいで、イルヴァの部屋の扉はいとも容易く破られたのだ。
全く気にしないと言えば嘘になるけれど、彼ら自身の命も危険に晒された上での選択を非難しようとは思わなかった。
「あなたたちも大変だったでしょうから、」
「申し訳ございません、エーベルゴード閣下!」
ところが、イルヴァを見捨てたことについて許しを乞うた彼らは、謝罪を受け入れる姿勢を見せたイルヴァには構わず、ユリウスに向かって頭を下げていた。
また、ユリウスもそのことに驚いていないようだ。
「イルヴァ様に賊を近づけたことは、本当に申し訳ないとっ!」
「――くどい。お前たちは解雇すると言っただろう。後は警邏隊と話をしてくれ」
「ですがっ!」
「俺が斬り捨てないうちに去れ」
この冷ややかな目をした男は、本当にユリウスなのだろうか。
必死に許しを乞う老爺たちを冷たく突き放して追い出して、一瞥すらしないのに、イルヴァには蕩けるような笑みを向けてくる。
いつもイルヴァを守ってくれる優しい彼のことを『怖い』と感じてしまって、不安を払おうと頭を振った拍子に、イルヴァはもう一つの不可解な点に気づいてしまった。
「あれ……?」
「話の途中だったな。屋敷には厳重に鍵のかかる部屋を作ってあるんだ。今日と同じことが起きないように、イルヴァにはその部屋で過ごしてもらおうと、」
「……どうして、ユリウス様が管理人さんを辞めさせるの?」
「ん? 彼らは貴女を傷つけることに加担したんだから、その報いを受けるのは当然のことだろう?」
「そうじゃなくてっ!」
さっぱり思い当たっていない様子のユリウスに、イルヴァは声を荒らげた。
だって、冷静になって考えてみれば、おかしいではないか。
「彼らは、ラインフェルト家に雇われた管理人でしょう? それなのに、どうしてあなたが、エーベルゴード家のユリウス様が、彼らを辞めさせることができるの!?」
ユリウスの解雇の判断が道徳的に正しいか、処分として妥当だったかなんて話はしていない。
そもそも本来ユリウスには、その判断をする権限すら無いはずだ。
それなのに、おかしい。イルヴァが与り知らないところで、何かが起きている。
背中にじわりと冷や汗が浮いた。
「イルヴァは賢いな。本当に、マティアスにはもったいない」
ユリウスは随分と久しぶりに、彼の親友の名前を口にした。
もはや忘れかけた『マティアス』の名前を聞いても動揺しなくなったイルヴァを見て、彼は満足そうに微笑む。
「貴女が傷つくと思って言わなかったが、ラインフェルト家はとっくに貴女への援助を打ち切っている」
「いつ……?」
「貴女がここに住み始めてどれくらいの時期だったか、半年は経っていなかったと思うが、ぱたりと援助が途絶えた。あいつらは貴女が飢えて死のうが、生きるに困って身を売ることになろうが、構わないと判断したんだ」
長くとも、たった半年。たったそれだけの期間でイルヴァは見捨てられた。義父母はイルヴァに対して仮初の慈悲を与えることすら拒んだ。
それほど強く義父母から憎まれていたのだと聞いても、不思議と驚きは無かった。
だが、そうだとしたら、見捨てられてから今まで、イルヴァはどうやって暮らしてきたのだろう。ユリウスが手土産として持参する分は別にして、日々の食事も燃料も金もきちんと用意されていたのに。
「まさか……」
「だから、それからは俺があの管理人たちにも給料を払って、イルヴァが生活に困らないように物を買って送らせた。雇い主である俺を怒らせたのだから、あの態度にもなるだろう。他に気になることは無いな? 早くここを出よう、」
「――お返しします!」
イルヴァは動揺に裏返った声で叫んだ。今日まで信じていたユリウスとの友情は、彼の一方的な献身によって成り立っていたのだと悟ったから。
何が『彼が拒まないなら依存してもいい』だ。たとえほんの少しだとしてもイルヴァからユリウスに返せる物があるなら、そういう言い方もできるかもしれない。
だが、イルヴァは彼に何かを返すどころか、害を与えてばかりじゃないか。
「ごめんなさい。わたくしは何も知らなくて、あなたにご迷惑をおかけしていたなんて」
「イルヴァ? どうした、そんな言い方はしないでくれ。いつもみたいに接してほしい」
「あなたがご慈悲で生活を支えてくれたなんて、知らなくて。わたくし、あなたと対等な友達になれたみたいに思って。なんて身の程知らずな」
「イルヴァ!」
ユリウスは癇癪を起こした聞かん坊を宥めるように、膝から下りようとするイルヴァを捕まえて、身体を揺すった。
「どうしたんだ。俺たちは友達だろう? 俺が金を払ったからって、それを理由に貴女をどうこうする気は無い。本当だ、信じてくれ」
「わたくしは『羽振りの良さそうな若い貴族の男に身体を売って、貢がせてる』んですって」
「は?」
「あの男たちが言っていたの。あなたが騎士道精神でわたくしに施したって、周りはそう見ないのよ。わたくしがあなたから施しを受けて……あなたに貢がせているのは、事実だもの」
皆はユリウスが見返りを求めずイルヴァを助けてくれた高潔な男であることを知らないから。貢ぐには貢ぐなりの理由があるだろうと――イルヴァが対価として彼に身体を許したと思われるのは、むしろ当然のことだろう。
乾いた笑い声を上げるイルヴァを、ユリウスは微動だにせず見つめていた。
「生活のことなら、わたくしだけなら修道院に入ればどうにかなるでしょう? 管理人さんのことは残念だけれど、雇い主のあなたの判断なら、わたくしが口を挟むわけにもいきません」
そこまで言って、イルヴァは奥歯を噛み締めた。
彼をイルヴァの悪評に巻き込まないためには、別れなければならない。別れの言葉を毅然と告げて、きちんと送り出さなければ、彼の後ろ髪を引いてしまう。……でも、彼と別れたくないと身勝手な心が泣き叫ぶ。
「わたくしには、もう、あなたの助けは必要ありません」
「っ、待ってくれ!」
「あなたは、これ以上妙な噂が立たないように、良いひとを、立派な女性をお嫁さんにもらってください。わたくしなんかに関わっても、良いことなんて何も無いのだから」
――可哀想な女に構う暇があるなら、家庭を築いて妻子を愛するのに時間と愛情を割けばいい。それなら、誰に憚ることもない。
そう言い放った時、イルヴァの胸はじくりと痛んだ。
これが正しい忠言だと分かっているのに、ユリウスが妻子を愛する姿を見たくないと思う自分がいる。その分の愛情をいつまでも自分にだけ注いでほしいと願う自分がいる。
「……っ、今まで、ありがとうございました」
こんなふうに『友達』の幸せも願えない女は、ユリウスの前から去った方がいいのだ。早く醜い欲望を捨てられるように、修道女になって神に祈ろう。
そう考えて立ち上がったイルヴァの肩には手が掛けられて、身体を長椅子へと放られた。
仰向けに転がされて呆然と天井を見ていると、彼が上から覆い被さってくる。
「イルヴァ、さすがにそれは薄情じゃないか」
「っ、離して!」
「貴女が俺と来てくれるなら、俺はずっと『友達』のままで構わなかった。貴女に無理強いする気なんて無かった。本当だ。……だが、俺が何の下心も無く、単なる慈悲で貴女の世話をしていたと思うのか?」
「そうでしょう?」
「違うよ、イルヴァ。俺は、貴女さえ望んでくれるなら、いつだって貴女の恋人に、貴女の夫になりたいと思っていた。貴女に初めて触れることができた日は夜も眠れなかったし、貴女の香りが移った襟巻きをもらった後は、仕事の間も貴女のことを考えていた。貴女を、愛しているからだ」
そんなこと、知らない。
彼がずっと前からイルヴァを女として見ていたなんて、性欲を抱いていたなんて、知らなかった。
「……ともだちだ、って、言ってくれたのに」
思わず口をついて出た言葉は、随分寂しそうに聞こえて。
それを聞いたユリウスはしばし硬直してから、ぐらぐらと沸いた激情を堪えるように低い声で言った。
「……ずっと、このまま。一生、友達のままでいれば、貴女は俺の傍にいてくれますか」
「無理だと言ったでしょう。世間はわたくしたちを愛人同士としか見ないもの」
「それの何が悪い!」
ユリウスは吠えた。大声にイルヴァが怯むのを見ても、常のように語調を和らげたり謝ったりしてくれなかった。
まるで、彼にとってどうしても譲れないことだとでも言うように。
「俺はっ、貴女に下心を持っている。それが事実なんだから、勘繰られるのも仕方が無い。好きに噂させておけばいい!」
他人が流布する噂に対して、自分が有利になる弁解もせず、嘘もつかないことは、どれほど困難なことだろう。
どれほど強い人ならば、その道を選べるのだろう。
弱いイルヴァには、とてもできない。
「世間がどう言おうが、俺たちが分かっていればいい。俺は、そう思っている。だが、貴女にとっては違う。貴女が俺に向ける友情では、俺と一緒に過ごす理由として不足だった。貴女は他人に後ろ指を指されるくらいなら、俺を捨てると仰る。貴女は、俺との友情よりも、世間体を選ぶのですね」
さすが『友達』だけあって、イルヴァのことをよく理解しているなと感心さえしてしまった。
小心者のイルヴァには『愛人同士だと噂されようが、実際は友達だから問題ないだろう』という開き直りはできない。世間に仲を疑われるくらいなら、不名誉な噂で彼の評判を傷つけるくらいなら、彼との関係そのものを無くしてしまう方を選ぶ。それを、彼が望まないとしても。
黙り込むイルヴァに、問いかけへの答えを悟ったのだろう。ユリウスはぐしゃりと顔を歪めたが、すぐに表情の抜け落ちた顔で冷ややかに告げた。
「ならば、貴女を抱きます。噂通り、俺の愛人になればいい。正真正銘やましい関係になってしまえば、否定しようもない噂など気にしなくて済むでしょう」
「や、」
やめて、と制止の声を上げる前に唇を塞がれた。
ばたつかせた手足もまとめて抱き込まれて、身動きの取れない女になされた身勝手な口づけだ。
そのはずなのに、嫌悪感はちっとも湧いてこなくて、彼の温度と高鳴る心臓の鼓動ばかりが印象に残った。
宿で近隣に出没する強盗団の噂を聞き、もしやと思って様子を見にきたのだと、駆けつけた警邏隊に話していた。
事情聴取中も彼はイルヴァを膝に乗せていたし、彼らの話が終わった今も両腕で抱えたまま下ろそうとしない。
用意されたホットワインをちびちびと啜っているイルヴァの顔を覗き込んで、彼は言った。
「こんなところには貴女を置いておけない。別の場所を用意したから、移ってくれるな?」
「ユリウスさまが、用意してくれたの?」
「ああ。俺の屋敷の一つだ。貴女のために整えさせてある」
「そこにも、ユリウスさまは、来てくださる?」
それだけが、気がかりだった。
自分の住処なんてどうだっていいけれど、ユリウスは別荘の周りの風景を気に入っていたようだから、場所を変えたら会いに来てくれなくなるかもしれない。それとも反対に、彼の屋敷に移れば、もっと頻繁に会ってくれるだろうか。
イルヴァが尋ねると、彼は力強く頷いてくれた。
「もちろん。毎日だって通う。連れて行っていいな? 今日にでも引っ越せる手筈になっている」
「……うん、連れて行って。ここは、こわいの」
今はユリウスがついていてくれるけれど、彼が帰れば、イルヴァはまた独り取り残されるのだ。見知らぬ強盗に押し入られて襲われた、恐ろしい記憶が残るこの別荘に。
ここは怖いからユリウス様についていきたい、とイルヴァが子どものように頑是なく繰り返すと、彼はほっと息を吐いた。
「そうか。では、早速――」
「あのっ、申し訳ございません! どうかお許しを!」
そこに割って入ったのは、管理人の老夫婦だった。
二人とも床に額を擦りつけて詫びている。老婆には目立った怪我は無さそうだが、老爺の頰や瞼は大きく腫れ上がっていて物を見るのも大変そうだ。強盗に殴りつけられたのだろう。
「私らも、あの賊めらに脅されて! それで、仕方なく、イルヴァ様の部屋の鍵を……っ、本当に申し訳ございません!」
なるほど、強盗団が鍵を手にしたせいで、イルヴァの部屋の扉はいとも容易く破られたのだ。
全く気にしないと言えば嘘になるけれど、彼ら自身の命も危険に晒された上での選択を非難しようとは思わなかった。
「あなたたちも大変だったでしょうから、」
「申し訳ございません、エーベルゴード閣下!」
ところが、イルヴァを見捨てたことについて許しを乞うた彼らは、謝罪を受け入れる姿勢を見せたイルヴァには構わず、ユリウスに向かって頭を下げていた。
また、ユリウスもそのことに驚いていないようだ。
「イルヴァ様に賊を近づけたことは、本当に申し訳ないとっ!」
「――くどい。お前たちは解雇すると言っただろう。後は警邏隊と話をしてくれ」
「ですがっ!」
「俺が斬り捨てないうちに去れ」
この冷ややかな目をした男は、本当にユリウスなのだろうか。
必死に許しを乞う老爺たちを冷たく突き放して追い出して、一瞥すらしないのに、イルヴァには蕩けるような笑みを向けてくる。
いつもイルヴァを守ってくれる優しい彼のことを『怖い』と感じてしまって、不安を払おうと頭を振った拍子に、イルヴァはもう一つの不可解な点に気づいてしまった。
「あれ……?」
「話の途中だったな。屋敷には厳重に鍵のかかる部屋を作ってあるんだ。今日と同じことが起きないように、イルヴァにはその部屋で過ごしてもらおうと、」
「……どうして、ユリウス様が管理人さんを辞めさせるの?」
「ん? 彼らは貴女を傷つけることに加担したんだから、その報いを受けるのは当然のことだろう?」
「そうじゃなくてっ!」
さっぱり思い当たっていない様子のユリウスに、イルヴァは声を荒らげた。
だって、冷静になって考えてみれば、おかしいではないか。
「彼らは、ラインフェルト家に雇われた管理人でしょう? それなのに、どうしてあなたが、エーベルゴード家のユリウス様が、彼らを辞めさせることができるの!?」
ユリウスの解雇の判断が道徳的に正しいか、処分として妥当だったかなんて話はしていない。
そもそも本来ユリウスには、その判断をする権限すら無いはずだ。
それなのに、おかしい。イルヴァが与り知らないところで、何かが起きている。
背中にじわりと冷や汗が浮いた。
「イルヴァは賢いな。本当に、マティアスにはもったいない」
ユリウスは随分と久しぶりに、彼の親友の名前を口にした。
もはや忘れかけた『マティアス』の名前を聞いても動揺しなくなったイルヴァを見て、彼は満足そうに微笑む。
「貴女が傷つくと思って言わなかったが、ラインフェルト家はとっくに貴女への援助を打ち切っている」
「いつ……?」
「貴女がここに住み始めてどれくらいの時期だったか、半年は経っていなかったと思うが、ぱたりと援助が途絶えた。あいつらは貴女が飢えて死のうが、生きるに困って身を売ることになろうが、構わないと判断したんだ」
長くとも、たった半年。たったそれだけの期間でイルヴァは見捨てられた。義父母はイルヴァに対して仮初の慈悲を与えることすら拒んだ。
それほど強く義父母から憎まれていたのだと聞いても、不思議と驚きは無かった。
だが、そうだとしたら、見捨てられてから今まで、イルヴァはどうやって暮らしてきたのだろう。ユリウスが手土産として持参する分は別にして、日々の食事も燃料も金もきちんと用意されていたのに。
「まさか……」
「だから、それからは俺があの管理人たちにも給料を払って、イルヴァが生活に困らないように物を買って送らせた。雇い主である俺を怒らせたのだから、あの態度にもなるだろう。他に気になることは無いな? 早くここを出よう、」
「――お返しします!」
イルヴァは動揺に裏返った声で叫んだ。今日まで信じていたユリウスとの友情は、彼の一方的な献身によって成り立っていたのだと悟ったから。
何が『彼が拒まないなら依存してもいい』だ。たとえほんの少しだとしてもイルヴァからユリウスに返せる物があるなら、そういう言い方もできるかもしれない。
だが、イルヴァは彼に何かを返すどころか、害を与えてばかりじゃないか。
「ごめんなさい。わたくしは何も知らなくて、あなたにご迷惑をおかけしていたなんて」
「イルヴァ? どうした、そんな言い方はしないでくれ。いつもみたいに接してほしい」
「あなたがご慈悲で生活を支えてくれたなんて、知らなくて。わたくし、あなたと対等な友達になれたみたいに思って。なんて身の程知らずな」
「イルヴァ!」
ユリウスは癇癪を起こした聞かん坊を宥めるように、膝から下りようとするイルヴァを捕まえて、身体を揺すった。
「どうしたんだ。俺たちは友達だろう? 俺が金を払ったからって、それを理由に貴女をどうこうする気は無い。本当だ、信じてくれ」
「わたくしは『羽振りの良さそうな若い貴族の男に身体を売って、貢がせてる』んですって」
「は?」
「あの男たちが言っていたの。あなたが騎士道精神でわたくしに施したって、周りはそう見ないのよ。わたくしがあなたから施しを受けて……あなたに貢がせているのは、事実だもの」
皆はユリウスが見返りを求めずイルヴァを助けてくれた高潔な男であることを知らないから。貢ぐには貢ぐなりの理由があるだろうと――イルヴァが対価として彼に身体を許したと思われるのは、むしろ当然のことだろう。
乾いた笑い声を上げるイルヴァを、ユリウスは微動だにせず見つめていた。
「生活のことなら、わたくしだけなら修道院に入ればどうにかなるでしょう? 管理人さんのことは残念だけれど、雇い主のあなたの判断なら、わたくしが口を挟むわけにもいきません」
そこまで言って、イルヴァは奥歯を噛み締めた。
彼をイルヴァの悪評に巻き込まないためには、別れなければならない。別れの言葉を毅然と告げて、きちんと送り出さなければ、彼の後ろ髪を引いてしまう。……でも、彼と別れたくないと身勝手な心が泣き叫ぶ。
「わたくしには、もう、あなたの助けは必要ありません」
「っ、待ってくれ!」
「あなたは、これ以上妙な噂が立たないように、良いひとを、立派な女性をお嫁さんにもらってください。わたくしなんかに関わっても、良いことなんて何も無いのだから」
――可哀想な女に構う暇があるなら、家庭を築いて妻子を愛するのに時間と愛情を割けばいい。それなら、誰に憚ることもない。
そう言い放った時、イルヴァの胸はじくりと痛んだ。
これが正しい忠言だと分かっているのに、ユリウスが妻子を愛する姿を見たくないと思う自分がいる。その分の愛情をいつまでも自分にだけ注いでほしいと願う自分がいる。
「……っ、今まで、ありがとうございました」
こんなふうに『友達』の幸せも願えない女は、ユリウスの前から去った方がいいのだ。早く醜い欲望を捨てられるように、修道女になって神に祈ろう。
そう考えて立ち上がったイルヴァの肩には手が掛けられて、身体を長椅子へと放られた。
仰向けに転がされて呆然と天井を見ていると、彼が上から覆い被さってくる。
「イルヴァ、さすがにそれは薄情じゃないか」
「っ、離して!」
「貴女が俺と来てくれるなら、俺はずっと『友達』のままで構わなかった。貴女に無理強いする気なんて無かった。本当だ。……だが、俺が何の下心も無く、単なる慈悲で貴女の世話をしていたと思うのか?」
「そうでしょう?」
「違うよ、イルヴァ。俺は、貴女さえ望んでくれるなら、いつだって貴女の恋人に、貴女の夫になりたいと思っていた。貴女に初めて触れることができた日は夜も眠れなかったし、貴女の香りが移った襟巻きをもらった後は、仕事の間も貴女のことを考えていた。貴女を、愛しているからだ」
そんなこと、知らない。
彼がずっと前からイルヴァを女として見ていたなんて、性欲を抱いていたなんて、知らなかった。
「……ともだちだ、って、言ってくれたのに」
思わず口をついて出た言葉は、随分寂しそうに聞こえて。
それを聞いたユリウスはしばし硬直してから、ぐらぐらと沸いた激情を堪えるように低い声で言った。
「……ずっと、このまま。一生、友達のままでいれば、貴女は俺の傍にいてくれますか」
「無理だと言ったでしょう。世間はわたくしたちを愛人同士としか見ないもの」
「それの何が悪い!」
ユリウスは吠えた。大声にイルヴァが怯むのを見ても、常のように語調を和らげたり謝ったりしてくれなかった。
まるで、彼にとってどうしても譲れないことだとでも言うように。
「俺はっ、貴女に下心を持っている。それが事実なんだから、勘繰られるのも仕方が無い。好きに噂させておけばいい!」
他人が流布する噂に対して、自分が有利になる弁解もせず、嘘もつかないことは、どれほど困難なことだろう。
どれほど強い人ならば、その道を選べるのだろう。
弱いイルヴァには、とてもできない。
「世間がどう言おうが、俺たちが分かっていればいい。俺は、そう思っている。だが、貴女にとっては違う。貴女が俺に向ける友情では、俺と一緒に過ごす理由として不足だった。貴女は他人に後ろ指を指されるくらいなら、俺を捨てると仰る。貴女は、俺との友情よりも、世間体を選ぶのですね」
さすが『友達』だけあって、イルヴァのことをよく理解しているなと感心さえしてしまった。
小心者のイルヴァには『愛人同士だと噂されようが、実際は友達だから問題ないだろう』という開き直りはできない。世間に仲を疑われるくらいなら、不名誉な噂で彼の評判を傷つけるくらいなら、彼との関係そのものを無くしてしまう方を選ぶ。それを、彼が望まないとしても。
黙り込むイルヴァに、問いかけへの答えを悟ったのだろう。ユリウスはぐしゃりと顔を歪めたが、すぐに表情の抜け落ちた顔で冷ややかに告げた。
「ならば、貴女を抱きます。噂通り、俺の愛人になればいい。正真正銘やましい関係になってしまえば、否定しようもない噂など気にしなくて済むでしょう」
「や、」
やめて、と制止の声を上げる前に唇を塞がれた。
ばたつかせた手足もまとめて抱き込まれて、身動きの取れない女になされた身勝手な口づけだ。
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