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呼ばれてもいない春の訪問者
春は、往々にして、思いがけぬ過ちを赦す季節である。
あるいは、赦すふりをして、あとになって静かにその代償を取り立てる季節と言ってもよい。冬の名残を引きずる風の中に、どこか浮き立つような気配が紛れ込み、人の理性をわずかに緩める。そのわずかな綻びこそが、しばしば運命を大きく転回させるのである。
その年の春、王都は、まさにそうした微かな狂気に満ちていた。
公爵令嬢ソフィーは、その中心に立つにはあまりにも無自覚で、あまりにも純粋で、そして——あまりにも危険な存在であった。
ソフィーは、いわゆる「天然」であった。
だが、その語が軽々しく用いられる昨今の意味とは異なる。彼女は、意図して可憐さを装うことも、計算して人心を操ることもない。むしろ逆である。彼女は、人の心の機微に対して鈍感であるがゆえに、無垢な刃のように、ためらいなく他者の核心へと踏み込む。
そして、その踏み込みは、悪意なきゆえに防ぎがたい。
彼女が発する言葉は、しばしば真実であり、しかしそれゆえに残酷であった。彼女の微笑みは曇りなく、だからこそ逃げ場を与えない。
人は、敵意には備えることができる。だが、無垢には備えようがない。
ソフィーは、そのことを知らなかった。
王太子との婚約は、彼女にとって当然の帰結であった。
公爵家の娘として生まれ、申し分のない教育を受け、容姿にも恵まれた彼女が、王家と縁を結ぶことは、政治的にも自然な選択であった。
だが、彼女自身にとって、その婚約は「約束」というよりも、「遠くにある灯」のようなものだった。
そこにあることは知っている。だが、手を伸ばして触れることは少ない。
近頃、王太子は忙しかった。
政務、軍事、外交——若き後継者に課せられた責務は重く、彼がソフィーと顔を合わせる機会は次第に減っていた。
ソフィーは、それを「寂しい」と感じていた。
しかし、その寂しさの表現の仕方を、彼女は知らなかった。
ある日の午後、彼女はふと耳にした。
「小さな集まりがあるらしい」
それは、侍女たちの何気ない噂話であった。具体的な招待状もなければ、正式な名称もない。ただ、限られた者だけが知る、ささやかな集い。
ソフィーの心に、ひとつの考えが浮かんだ。
——サプライズで行ってみよう。
その発想は、無邪気であり、同時に危うかった。
彼女にとって、訪問とは歓迎されるべきものであり、喜ばれるべきものだった。なぜなら、彼女は常にそう扱われてきたからだ。
「突然の訪問は失礼にあたるかもしれない」という常識は、彼女の思考の外にあった。
むしろ、「きっと喜んでくださる」という確信があった。
春の空気が、その確信を後押しした。
会場となっていた館は、王都の外れにあった。
華やかさを抑えた外観。だが、近づくにつれて、内側に潜む熱のようなものが、微かに感じられた。
灯りが漏れている。
音がする。
笑い声——いや、それは、どこか崩れた響きだった。
ソフィーは、胸を弾ませながら階段を上がった。
そのとき、彼女は耳にした。
「——帝国からの品だ」
「これで……もう……」
断片的な会話。意味はわからない。ただ、そこには、彼女の知る社交とは異なる気配があった。
それでも彼女は躊躇しなかった。
むしろ、期待が高まった。
——きっと、特別なパーティーなのだわ。
扉は、軽く押すだけで開いた。
「サプラーイズ!」
その声は、明るく、よく通り、そして場の空気を一瞬にして凍りつかせた。
そこにあったのは、彼女の想像とはまったく異なる光景だった。
男たちは、乱れていた。
衣服は整っておらず、姿勢も崩れ、目は焦点を失っている。女たちもまた同様で、笑い声はどこか空虚で、身体の動きはぎこちなく、制御を欠いていた。
香の匂いが濃すぎる。
空気が重い。
そして、どこか異様に甘い。
ソフィーは、首をかしげた。
「……あの、皆さま?」
返事はない。
ただ、誰かが笑った。
意味のない笑いだった。
その瞬間、彼女は理解した。
——これは、おかしい。
しかし、その理解は、彼女の行動を止めるものではなかった。
むしろ、彼女の中の「正しさ」が、強く働いた。
「なんということでしょう!」
その声は、先ほどよりもさらに大きく、さらに明瞭であった。
「なんということでしょう!」
彼女は繰り返した。
そして、ためらいなく、扉の外へと向かい、廊下に向かって叫んだ。
「誰か! 人を呼んでください!」
その瞬間、すべてが動き出した。
後の記録によれば、それは帝国による巧妙な工作であった。
若き貴族たちを、薬物によって理性を奪い、さらに低位の女性たちを用いて関係を結ばせ、その証拠を握る。
支配のための罠。
未来の権力者たちを、静かに、しかし確実に縛り上げる計画。
それは、ほぼ成功しかけていた。
——ただ一人の例外を除いて。
ソフィーは、その中心に立っていた。
状況の重大さを完全には理解していないまま、しかし「これはよくない」という直感だけで動いた結果、すべてを暴き出した。
兵が来る。
役人が来る。
記録が取られる。
関係者は拘束される。
王都は揺れた。
王太子も、その中に含まれていた。
彼は、完全に堕ちていたわけではない。だが、関与していたことは否定できなかった。
責任は問われた。
そして、決定は下された。
継承権の剥奪。
前線への派遣。
それは、名誉ある処罰であり、同時に事実上の追放であった。
代わって浮上したのが、第二王子であった。
彼は以前から、ソフィーに対して好意を抱いていた。
その感情は、決して表に出されることはなかったが、静かに、確実に存在していた。
今回の一件により、彼は評価を高め、王は決断した。
——婚約の変更。
ソフィーは、新たな王太子妃となることが決まった。
王は、彼女に深く感謝した。
「国を救ったのだ」
その言葉は、誇張ではなかった。
もし、あのまま計画が進行していれば、この国の未来は、見えない鎖に繋がれていただろう。
だが、ソフィーは、微笑まなかった。
春の風が、庭を渡る。
花は咲いていた。
すべては、いつも通りに見える。
だが、彼女の中には、ひとつの小さな変化があった。
「……勝手に行くのは、よくないのね」
それは、あまりにもささやかな学びであった。
だが、彼女にとっては、大きな一歩であった。
第二王子は、優しく微笑む。
「あなたのおかげです」
ソフィーは、少しだけ首をかしげる。
「そうなのかしら」
彼女には、まだよくわからない。
だが、ひとつだけ、確かなことがあった。
あの日、彼女は呼ばれていなかった。
それでも行った。
そして、すべてが変わった。
春とは、そういう季節である。
呼ばれていない場所へと、人を導く。
そして、そこで起こる出来事によって、世界の形をわずかに変える。
ソフィーは、そのことを、まだ言葉にはできなかった。
ただ、心のどこかに、静かに刻んだ。
——次は、少しだけ、気をつけよう。
それが、彼女なりの成長であった。
そして、その成長が、再びどのような騒動を招くのか。
それは、まだ誰も知らない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
春は、また巡るのだ。
あるいは、赦すふりをして、あとになって静かにその代償を取り立てる季節と言ってもよい。冬の名残を引きずる風の中に、どこか浮き立つような気配が紛れ込み、人の理性をわずかに緩める。そのわずかな綻びこそが、しばしば運命を大きく転回させるのである。
その年の春、王都は、まさにそうした微かな狂気に満ちていた。
公爵令嬢ソフィーは、その中心に立つにはあまりにも無自覚で、あまりにも純粋で、そして——あまりにも危険な存在であった。
ソフィーは、いわゆる「天然」であった。
だが、その語が軽々しく用いられる昨今の意味とは異なる。彼女は、意図して可憐さを装うことも、計算して人心を操ることもない。むしろ逆である。彼女は、人の心の機微に対して鈍感であるがゆえに、無垢な刃のように、ためらいなく他者の核心へと踏み込む。
そして、その踏み込みは、悪意なきゆえに防ぎがたい。
彼女が発する言葉は、しばしば真実であり、しかしそれゆえに残酷であった。彼女の微笑みは曇りなく、だからこそ逃げ場を与えない。
人は、敵意には備えることができる。だが、無垢には備えようがない。
ソフィーは、そのことを知らなかった。
王太子との婚約は、彼女にとって当然の帰結であった。
公爵家の娘として生まれ、申し分のない教育を受け、容姿にも恵まれた彼女が、王家と縁を結ぶことは、政治的にも自然な選択であった。
だが、彼女自身にとって、その婚約は「約束」というよりも、「遠くにある灯」のようなものだった。
そこにあることは知っている。だが、手を伸ばして触れることは少ない。
近頃、王太子は忙しかった。
政務、軍事、外交——若き後継者に課せられた責務は重く、彼がソフィーと顔を合わせる機会は次第に減っていた。
ソフィーは、それを「寂しい」と感じていた。
しかし、その寂しさの表現の仕方を、彼女は知らなかった。
ある日の午後、彼女はふと耳にした。
「小さな集まりがあるらしい」
それは、侍女たちの何気ない噂話であった。具体的な招待状もなければ、正式な名称もない。ただ、限られた者だけが知る、ささやかな集い。
ソフィーの心に、ひとつの考えが浮かんだ。
——サプライズで行ってみよう。
その発想は、無邪気であり、同時に危うかった。
彼女にとって、訪問とは歓迎されるべきものであり、喜ばれるべきものだった。なぜなら、彼女は常にそう扱われてきたからだ。
「突然の訪問は失礼にあたるかもしれない」という常識は、彼女の思考の外にあった。
むしろ、「きっと喜んでくださる」という確信があった。
春の空気が、その確信を後押しした。
会場となっていた館は、王都の外れにあった。
華やかさを抑えた外観。だが、近づくにつれて、内側に潜む熱のようなものが、微かに感じられた。
灯りが漏れている。
音がする。
笑い声——いや、それは、どこか崩れた響きだった。
ソフィーは、胸を弾ませながら階段を上がった。
そのとき、彼女は耳にした。
「——帝国からの品だ」
「これで……もう……」
断片的な会話。意味はわからない。ただ、そこには、彼女の知る社交とは異なる気配があった。
それでも彼女は躊躇しなかった。
むしろ、期待が高まった。
——きっと、特別なパーティーなのだわ。
扉は、軽く押すだけで開いた。
「サプラーイズ!」
その声は、明るく、よく通り、そして場の空気を一瞬にして凍りつかせた。
そこにあったのは、彼女の想像とはまったく異なる光景だった。
男たちは、乱れていた。
衣服は整っておらず、姿勢も崩れ、目は焦点を失っている。女たちもまた同様で、笑い声はどこか空虚で、身体の動きはぎこちなく、制御を欠いていた。
香の匂いが濃すぎる。
空気が重い。
そして、どこか異様に甘い。
ソフィーは、首をかしげた。
「……あの、皆さま?」
返事はない。
ただ、誰かが笑った。
意味のない笑いだった。
その瞬間、彼女は理解した。
——これは、おかしい。
しかし、その理解は、彼女の行動を止めるものではなかった。
むしろ、彼女の中の「正しさ」が、強く働いた。
「なんということでしょう!」
その声は、先ほどよりもさらに大きく、さらに明瞭であった。
「なんということでしょう!」
彼女は繰り返した。
そして、ためらいなく、扉の外へと向かい、廊下に向かって叫んだ。
「誰か! 人を呼んでください!」
その瞬間、すべてが動き出した。
後の記録によれば、それは帝国による巧妙な工作であった。
若き貴族たちを、薬物によって理性を奪い、さらに低位の女性たちを用いて関係を結ばせ、その証拠を握る。
支配のための罠。
未来の権力者たちを、静かに、しかし確実に縛り上げる計画。
それは、ほぼ成功しかけていた。
——ただ一人の例外を除いて。
ソフィーは、その中心に立っていた。
状況の重大さを完全には理解していないまま、しかし「これはよくない」という直感だけで動いた結果、すべてを暴き出した。
兵が来る。
役人が来る。
記録が取られる。
関係者は拘束される。
王都は揺れた。
王太子も、その中に含まれていた。
彼は、完全に堕ちていたわけではない。だが、関与していたことは否定できなかった。
責任は問われた。
そして、決定は下された。
継承権の剥奪。
前線への派遣。
それは、名誉ある処罰であり、同時に事実上の追放であった。
代わって浮上したのが、第二王子であった。
彼は以前から、ソフィーに対して好意を抱いていた。
その感情は、決して表に出されることはなかったが、静かに、確実に存在していた。
今回の一件により、彼は評価を高め、王は決断した。
——婚約の変更。
ソフィーは、新たな王太子妃となることが決まった。
王は、彼女に深く感謝した。
「国を救ったのだ」
その言葉は、誇張ではなかった。
もし、あのまま計画が進行していれば、この国の未来は、見えない鎖に繋がれていただろう。
だが、ソフィーは、微笑まなかった。
春の風が、庭を渡る。
花は咲いていた。
すべては、いつも通りに見える。
だが、彼女の中には、ひとつの小さな変化があった。
「……勝手に行くのは、よくないのね」
それは、あまりにもささやかな学びであった。
だが、彼女にとっては、大きな一歩であった。
第二王子は、優しく微笑む。
「あなたのおかげです」
ソフィーは、少しだけ首をかしげる。
「そうなのかしら」
彼女には、まだよくわからない。
だが、ひとつだけ、確かなことがあった。
あの日、彼女は呼ばれていなかった。
それでも行った。
そして、すべてが変わった。
春とは、そういう季節である。
呼ばれていない場所へと、人を導く。
そして、そこで起こる出来事によって、世界の形をわずかに変える。
ソフィーは、そのことを、まだ言葉にはできなかった。
ただ、心のどこかに、静かに刻んだ。
——次は、少しだけ、気をつけよう。
それが、彼女なりの成長であった。
そして、その成長が、再びどのような騒動を招くのか。
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